2020.08.26西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<21>功山寺の誓い

2020年8月26日(水)

 

 今年は、梅雨がやたらと長くて、夏の始まりが随分と遅くなりましたが、やっと今になって、猛烈に暑くなりました。

 でも、すっかり日は短くなっていて、あと1ヶ月もしたら、お彼岸なんですね。

 

 僕は、今度のお彼岸の4連休に「四柱推命講座・初級編Zoom版」を開催する事にしました。

 Zoomというのは本当に便利で、世界中のどこからでも、スマホか、パソコンを持っていたら、その場所で受講ができます。

    4日の内1日だけ どうしても日程が合わない程度なら、お問い合わせください♪

 

 そして、10月から「四柱推命講座・中級編Zoom版」と、「四柱推命講座・中級編~平日コース~」も、開催する事にしました。

 

 今回は、立て続けに講座を決定してしまいました。

 来年の12月31日という、自分で宣言したタイムリミットまでに、誓った目標を完徹すべく、これからの一年余り、極力、時間の無駄がないように生きるつもりです(^^)

 

 さて、今回の西日本旅行記は、山口県下関市にある、功山寺に行ってきた時のお話です。

 

 功山寺といえば、高杉晋作によって、明治維新の先駆けと言われた「功山寺挙兵」が決起された、その場所…

 

 もしも、功山寺挙兵が起こらなくて、長州藩が俗論派に牛耳られていたままだったら、確実に、明治維新は何年かは遅れていただろうと、言われています。

 

 高杉晋作の墓所である東行庵を巡った後、昼食に美味しい貝汁とお刺身を食べて、水木杏香先生が運転する車で、海沿いの国道2号線を、さらに西へと向かいました。

 

 

 そして、高杉晋作・回天義挙の挙兵の地と言われる功山寺へと到着…

 

 ちなみに、回天とは「天をめぐらす」という意で「時勢を一転させる事」を言い、義挙とは「正義の為に起こす行動」の事を言います。

 

 

 功山寺のあるその場所は、ひっそりとした、とても静かな場所でした。

 

 中に入ると、立て札があって、功山寺の由緒が書かれていました。

 

 功山寺(長府川端町)

 

 曹洞宗。嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇(どうう = 殿堂)の荒廃を見た。

 

 その後、慶長七年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に改宗した。二代藩主光弘が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。(以下略)

 

 何と、このお寺は最初から、曹洞宗だった訳でもなく、功山寺と呼ばれていた訳でも、なかったのですね。

 

 

 功山寺の静かな参道を、水木先生と一緒に登って行きました。

 

 今から、150年ほど前、高杉晋作に率いられた、血の気があふれる攘夷志士が、ここにたむろしていたとは、とても思えません。

 

 この時代の長州藩は、正義派が次々と駆逐(くちく)され、完全に俗論派に牛耳られてしまっていました。

 それは、まさしく、禁門の変の反動と言っても、良いかも知れません。

 

 禁門の変とは、長州藩の過激派の来島又兵衛(きじま またべえ)などの軍勢が、京都御所の天皇に長州藩の無実を訴えようと、退去命令が出ているにもかかわらず、それに逆らって突進し、結果的に、西郷隆盛率いる薩摩藩や会津藩などによって、殲滅(せんめつ)されられてしまった事件です。

 

 この時、高杉晋作や、桂小五郎、周布政之助(すふ まさのすけ)なんかは、過激派に慎重な姿勢を取るように懸命に抑えていたのですが、抑えきれませんでした。

 

 この禁門の変により、久坂玄瑞(くさか げんずい)や入江九一など、多くの長州藩士の命が奪われました。

 これ以来、長州藩では「薩賊会奸(さつぞくあいかん)」と言って、薩摩藩や会津藩を毛嫌いするようになった…

 

 そして、長州藩は朝敵となり、長州藩はこれ以降、俗論派の椋梨藤太(むくなし とうた)などに牛耳られていく事となります。

 

 ちなみに「正義派(=急進派)」とか「俗論派(=恭順派・保守派)」というのは、高杉晋作が使い始めた呼称です。

 

 たいがい、維新もののドラマや映画なんかでは、俗論派や、その首魁の椋梨藤太は、凡庸で愚昧な敵役にされてしまうのですが、それですと、ちょっと可愛そうな気もしますね(^^;;

 

 正義派(の一部の過激派)が起こした禁門の変は、まるで後先を考えない、長州藩を自滅させた愚行と言わざるを得ませんし、この時期、過激な事をしないで、おとなしく幕府に従って、藩を存続させようという考え方は、むしろ自然な流れです。

 

 俗論派が藩を牛耳るようになると、井上聞多(のちの馨)も、藩の存続を脅かす危険分子と見られ、数人の暴徒に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまいます。

 

 この時、聞多の母の適切な処置や、医師・所郁太郎(ところ いくたろう)による約50針におよぶ、畳糸を使った縫合によって、からくも井上聞多は、一命をとりとめるのですが、その話はまた、この何回か後のブログに譲る事にしましょう。

 

 そして、井上聞多が襲われた翌日には、過激派の暴発を食い止めらなかった事に責任を感じていた、晋作の良き上司であった周布政之助が、切腹をして、命を絶ってしまいます。

 

 久坂玄瑞らを禁門の変で失い、その上、周布政之助も井上聞多もいなくなってしまった長州藩の上層部は、完全に俗論派に、乗っ取られてしまいました。

 

 長州藩の藩主である、毛利敬親(たかちか)父子も、俗論派に従いました。

 藩論はすっかり、俗論派に傾いていましたし、この時は、これ以外に方法がなかったのです。

 

 ちなみにこの時、桂小五郎は、京都の三条河原で、物乞いに変装し、身を隠していました。

 そして、高杉晋作も、俗論派によって藩の要職を罷免され、命の危険を感じた晋作は、萩を脱出しました。

 

 

 いくつかの階段と緩やかな坂を上って行った所に、功山寺の山門があります。

 この山門は、安永2年(1773)に建立… 山門の屋根は、見事な瓦ぶきとなっています。

 

 ゆるやかな階段を、ゆっくりと上がっていきました。

 

 

 山門の入り口の柱の両側には、”沸頂山璽現少林五業端 龍池水活漲蓇渓一滈波” と、金色の文字がかたどられています。

 

 いよいよ、功山寺の中へ入ります。

 

 萩から脱出した高杉晋作は、まずは、山口に行き、俗論派の暴徒に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多の病床を見舞った後、海を渡り、福岡の博多へと逃れました。

 

 福岡の潜伏先で、晋作をかくまったのは、野村望東尼(のむら ぼうとうに)です。

 野村望東尼は、勤王の志を持つ尼僧であり、この時には58歳で、晋作とは年が33歳も離れているのですが、その後もずっと晋作に寄り添い、高杉晋作が結核で床に臥せると、愛妾おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)と共に、その最期を看取っています。

 

 高杉晋作も、桂小五郎も、周布政之助も、井上聞多もいない長州藩の正義派は、だんだんと意気消沈していきました。

 

 今となっては、藩主の毛利敬親・定広親子が、俗論派を信任しているのですから、誰もどうする事もできません。

 

 そして、朝敵となった長州藩に対し、幕府と雄藩の連合軍による、長州征伐が始まりました。これが第一次長州征伐です。

 

 藩内の俗論派は、幕府に対する恭順を示す為に、禁門の変を推進した、正義派の三家老・福原元僴(ふくはら もとたけ)、益田親施(ますだ ちかのぶ)、国司親相(くにし ちかすけ)を切腹させて、その首を、幕府連合軍の総大将である尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ よしかつ)に差し出しました。

 

 幕府連合軍だって、本音を言えば、自分達の兵を減らしてまでして、長州藩と戦いたい訳ではありません。

 

 総大将の徳川慶勝は、その首が本当に長州藩正義派の三家老であるかどうかを確認すると、参謀の西郷隆盛と相談し、山口城の屋根瓦を何枚か外させ、城を破却させたという体にし、毛利敬親・定広親子の謝罪文を受け取ると、さっさと軍勢を引き上げていきました。

 

 これによって、取り合えず、第一次長州征伐は回避されました。

 

 

 これが、国宝にも指定されている、功山寺の仏殿です。

 

 こうした中、高杉晋作によって創設された奇兵隊は、どうしていたかと言えば、赤禰武人(あかね たけと)という人物が、総督に就任していて、赤禰は、正義派である自分達と、藩を牛耳っている俗論派とが、うまく折り合いをつけて、共存する道を探っていました。

 

 明治時代に著された多くの歴史書では、たいがい赤禰武人は、正義派を裏切って俗論派の元に走った裏切り者という扱いになっていて、最後は弁明すらも許されず、正義派に処刑されてしまうのですが、この扱いは、あまりにも可哀想な気がします。

 

 赤禰武人は、高杉晋作からは相当に嫌われていましたが、まがりなりとも松下村塾の塾生ですし、江戸幕府を批判したかどで、安政の大獄で捕らえられたり、晋作の英国公使館焼き討ちにも加わったりと、尊王攘夷の志士としての実績は、かなりあった人です。

 

 ちなみに、赤禰武人が俗論派の藩政府と交渉を重ねている間、奇兵隊の指揮は、副官である山縣狂介(有朋)が握っていました。

 

 山縣狂介は他の正義派の諸隊とも話し合い、俗論派が勢いを増している現状に対抗する為に、まずは全諸隊を山口に集結させ、さらに、功山寺がある長府の地へと向かう事を決めました。

 

 そして、隊を動かす道筋で、八月十八日の政変で朝廷を追い出されて、長州藩に落ちのびてきた三条実美(さんじょう さねとみ)ら五卿(ごきょう)と高田御殿で会談し、その結果、五卿達は、諸隊の集まる長府へ、一緒に同行する事になりました。

 

 三条実美ら五卿は、この功山寺の部屋で、かくまわれる事となるのです。

 

 

 この像こそが、高杉晋作回天義挙銅像…

 

 高杉晋作はこの功山寺で、わずかな手勢で挙兵をし、それが最終的には長州藩の運命、ひいては日本の運命さえも、変えてしまう事になります。

 

 高杉晋作が博多に潜伏している間、山縣狂介らを中心とする諸隊の幹部は、俗論派との交渉が決裂した時に備え、長州藩の各地に派遣されている俗論派の代官を、暗殺する計画を建てていました。

 

 一方の俗論派は、藩主である毛利敬親父子に、正義派の諸隊が暴動を起こさないように説得させたり、隊士達の家族に圧力を掛けたりして、その士気を下げ、自然消滅するような形を目指していました。

 事実これによって、隊士達の士気はどんどん下がり、離脱者は増えていきました。

 

 そんな時、潜伏先の博多から、高杉晋作が長州藩に帰還し、長府の諸隊の元にやってきたのです!!

 

 諸隊は大歓迎して、晋作を受け入れました。

 

 高杉晋作は「暗殺という姑息(こそく)な手段は、取るべきではない」と、諸隊による代官の暗殺計画に反対し、「隊士の士気が下がって離脱者が増える前に、今こそすぐに、諸隊が一致して挙兵すべきである」と、即時の挙兵を主張しました。

 

 高杉晋作の帰還を、心から喜んだ隊士達でしたが、「急にそんな事を言われたって…」という雰囲気になり、代官の暗殺計画の方は、取り止めになりましたが、即時挙兵は、実現しませんでした。

 

 さらにこの後、奇兵隊の総督である赤禰武人が、俗論派との交渉をとりつけて復隊し、「隊をそのまま存続させる事と、隊士を全員、長州藩の藩士に取り立てるという約束を取り付けたので、藩政府に恭順するように…」と説くと、隊士達は、一気に恭順モードとなってしまいました。

 

 即時挙兵を説いているのに、全く動こうともしない諸隊を見て、業を煮やした高杉晋作は、赤穂浪士が討ち入りをした日である12月14日を、挙兵の決行日と決め、功山寺で挙兵する事を宣言しました。

 

 すると、隊の幹部はこぞって、高杉晋作の挙兵に反対し、無謀な事を取りやめるように、説得してきました。

 

 いら立った晋作は「みんなは赤禰武人に、だまされている。オレは毛利家三百年来の家臣の家柄だ。あんな百姓出身の赤禰と一緒にされては困る」と叫びました。

 

 普通、こんな事を言ったりしない晋作ですが、よほどに、いら立ちを抑えきれなかったのでしょう。

 隊士のほとんどは、農民や商人や下級武士など、身分の低い生まれであり、残念ながら、この晋作の説得に心を動かされて、一緒に挙兵をしようとする隊士は、いませんでした。

 

 それに、実際の所、全ての隊の隊士の数を合わせても、800名ほどしかいません。

 

 晋作が言うように、諸隊が一体となって挙兵をして、長州藩の正規軍に挑んでも、数の上でまるで勝ち目がないのです。

 仮に、奇跡的に長州藩を掌握できたとしても、長州藩の内乱を鎮圧するという事で、幕府連合軍に攻めて来られたら、万に一つも、勝ち目なんてありません。

 

 その点、山縣狂介は、ものすごく冷静でした。

 

 そして、この時ばかりは晋作に従わず、「武装解除するその見返りとして、正義派の要求を聞き入れてもらいたい」という条件を提示し、藩政府と交渉しようとしました。

 

 高杉晋作が隊士達の心をつかむ事ができないまま、時間だけが過ぎ、いつしか挙兵の決行日の予定だった12月14日は終わってしまい、やっと挙兵の準備が整ったのは、翌日の12月15日の深夜…

 

 この日は、まれに見る大雪となり、功山寺に集結したのは、伊藤俊輔(博文)が率いる、力士隊30名、石川小五郎が率いる、遊撃隊50名弱、それに晋作に義理を感じて挙兵に参加した数名を合わせ、総勢84人でした。

 

 仮に、諸隊の隊士800人が全員合わさったとしても、勝ち目はないのです。

 それが、たったの84人しか集まっていないのですから、これでは全く、話にもなりません。

 

 高杉晋作は死を覚悟し、遺書をしたため、連れの者にそれを託しました。

 

 こんな無謀な挙兵を決行する晋作の心には、志を貫いて、自ら散っていった吉田松陰の生き様(2020/7/22 ブログ 「松下村塾の情景の中で」 参照)への思いがあった事は、確かでしょう。

 

 この時の晋作の心には、日頃、吉田松陰が口にしていた「生きている限り、大きな仕事ができると思うのなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面だと思ったら、いつでも死ぬべし」という言葉が、何度となくリフレインしていたに、違いありません。

 

 

 ここは、七卿潜居の間(しちきょうせんいのま)

 

 功山寺では、300円の拝観料で、書院の見学をする事ができます。

 

 書院の入り口で靴を脱いで、長い廊下を歩いて行くと、やがて、この「七卿潜居の間」に行きつきます。

 

 八月十七日の政変という、公武合体派によるクーデターにより、尊王攘夷派の公卿が都を追われた、いわゆる七卿落ち(しちきょうおち)によって、長州藩にかくまわれていた三条実美らは、奇兵隊などの諸隊が長府へ移動した時に同行して、この功山寺に入り、この部屋に潜伏していました。

 

 七卿とは、三条実美、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)の七人の公卿(くぎょう)の事です。

 

 この時には、錦小路頼徳は病死し、澤宣嘉は、但馬の生野の変に、総大将として参加していたので、この部屋にはいません。

 

 だから、七卿潜居の間というのは、正しくなくて、五卿潜居の間ですね(笑)

 

 そして、後に坂本龍馬と協力し、薩長同盟を成し遂げる事となる、脱藩浪士の中岡慎太郎が、五卿の世話をしていました。

 

 

 この部屋こそが、都落ちした三条実美ら五卿が住まっていた部屋です。

 

 それは、今から150年ほど前の出来事…

 

 功山寺で挙兵をした高杉晋作は、数名の兵を引き連れ、この書院へと赴き、公卿に面会を乞いました。

 中岡慎太郎がこれを取り次ぐと、三条実美がゆっくりと寝所から出てきて、高杉晋作の前に現れました。

 

 高杉晋作は、三条実美に、これから挙兵をする事を告げて、出陣の盃(さかずき)を賜りたいと求めると、三条実美は、晋作の盃に冷酒を注いで、これを与えました。

 

 高杉晋作は、その盃を一気に飲み干し、「これよりは、長州男児の腕前、お目に懸け申すべく」と叫んで、颯爽(さっそう)と立ち上がり、陣に着きました。

 

 どうやら、三条実美は、あまりにも無謀すぎる、晋作の挙兵を止めるつもりだったようなのですが、話がうまく切り出せず、そのまま行かせてしまった… という事らしいです。

 

 

 部屋の縁側からの庭の眺め…

 功山寺に潜伏していた五卿達は、いつもこの縁側から、この庭の景色を眺めていたのでしょう。

 

 たった84名の人数で決起した、高杉晋作の挙兵は、この後どうなったか…

 

 高杉決起の報を聞いた幕府連合軍の巡見使・長谷川敬から圧力を受けた、藩政府は、幕府に恭順の意を示すべく、藩の正規軍3,800名を鎮静軍として差し向けていました。

 

 高杉晋作の84名の決起軍は、雪明かりの夜更けの中、まずは下関へ向かって行軍し、未明に、馬関新地(ばかんしんち)の会所(かいしょ)を襲撃し、武器や弾薬を奪っていきました。

 その騒ぎを、馬関周辺の住民が聞きつけると、何と120人ほどの志願兵が馬関の会所に集まり、その人数は倍以上に膨れ上がったのです。

 

 そして、高杉晋作は、決死の別動隊18名を率いて、三田尻に赴き、長州藩の持ち物である軍艦3隻を奪って、また、下関に戻ってきました。

 

 一方の山縣狂介ですが、藩政府との交渉が不調に終わった事で、山縣狂介が率いる奇兵隊も、高杉晋作に続き、挙兵をしました。

 高杉晋作に協力したいという気持ちを持っていながらも、あまりにも無謀な挙兵なので、躊躇してしまった山縣狂介ですが、いてもたっても、いられなかったに違いありません。

 

 山縣狂介の挙兵により、正義派の兵力は、一気に膨れ上がる事となります。

 この奇兵隊が、絵堂(えどう)にいた藩の鎮静軍を奇襲し、鎮静軍は不意をつかれて慌て、なすすべもなく後退し、さらに、鎮静軍の別働隊の指揮官も戦死し、敗退してしまいました。

 

 山縣狂介の参戦を大いに喜んだ高杉晋作は、唄を作って、山縣に送りました。

 

 “わしとおまへは 焼山葛(やきやまかづら) うらはきれても 根はきれぬ”

 (わしとお前は、野焼きの後に残った葛(カズラ)の根のようなもんだな。多少意見は違っても、根っこは同じで、切る事はできないのだ)

 

 この諸隊の勝利は、近隣の住民の支持を得て、小郡(おごおり)の庄屋達からは、軍資金と食糧を提供され、人夫として1,000人以上の人員が集められました。

 

 晋作は、負傷して俗論派の監視下におかれていた井上聞多を奪還し、軍の指揮官に加えました。

 

 長州藩の支藩の長府藩主である毛利元周(もうり もとちか)は、この事態を重く見て、藩主の毛利敬親父子に、諸隊の追討命令を速やかに取り消し、正義派の建白書を受け入れ、国内の統一を図るよう提案し、敬親父子はこれを了承…

 

 ここに、正義派と俗論派の攻守が逆転し、俗論派の首魁である椋梨藤太は、命の危機を察して逃亡するも、石州で捉えられ、野山獄にて斬首されてしまいました。

 

 高杉晋作のたった84名の功山寺挙兵が、思いがけなく、長州藩の藩論を180度変えてしまい、これがやがて明治維新の原動力となっていくのです。

 

 とはいえ、この件で、幕府に恭順しないという選択をした長州藩は、これにより、日本中を敵に回したと言っても良いでしょう。

 

 

 功山寺の書院の廊下を歩いて行くと、その一角に、維新の志士などが書いた手紙が展示されていました。

 

 三吉慎蔵(みよし しんぞう)宛ての坂本龍馬の手紙、毛利匡満(もうり まさみつ)公母君の写経、さらに、来島又兵衛宛ての桂小五郎の書簡が、ここに展示されていました。

 

 高杉晋作の功山寺挙兵によって、藩論が正義派にひっくり返ってしまった長州藩に、再び、幕府連合の征長軍が迫ります。

 これがいわゆる、第二次長州征伐です。

 

 この絶体絶命のピンチに、どこからともなく、長州藩のピンチを救ってくれる助っ人が現れます。

 

 長州藩と薩摩藩を結びつけ、薩長同盟の締結を目指す、坂本竜馬と中岡慎太郎、そして、桂小五郎が見つけた逸材である、兵学の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)

 

 奇跡に奇跡が重なって、やがて長州藩は朝廷から最も信任される藩となり、この流れが、徳川慶喜の大政奉還へとつながり、やがて明治維新という日本の幕開けが始まりました。

 

 高杉晋作の、一命を賭した、この功山寺の誓いが、日本の国を変えてしまったと言っても、過言ではないでしょう。

 

 

 功山寺を出た時には、もう午後2時近くになっていました。

 後にして、水木先生と近くの喫茶店で、午後のおやつタイムを取る事にしました(^^)

 

 珈琲gatto (コーヒーガット)

 

 ソイ・ミルクラテに、アイスがついたフレンチトースト、それにパフェを注文する事にしました。

 

 どれも、とっても優しい味がしました。

 

 この後は、下関市立歴史博物館に向かいます。

 

 実は、東行庵の中の東行記念館で、この歴史博物館のチラシがあって、そこに、ものすごく興味をそそられる企画展の案内が載っていました。

 そのチラシを見た僕は思わず、水木先生に、この博物館にも行ってみたいと、観光プランに追加して頂いたのです。

 

 下関市立歴史博物館、どんな展示があるのか、とてもワクワクします!!

 

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