2020.07.22西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<18>松下村塾の情景の中で

2020年7月22日(水)

 

 7月も後半に突入して、梅雨明け前の蒸し暑い天気が続いています。

 

 ここ最近、ベネディーレで行う四柱推命講座「陰陽五行から見た、未来を良くするための四柱推命」の準備に、ずっと取り掛かっていたのですが、気がついたら、もう明後日が開催日…

 

 最初は、四柱推命を知らない人用に作っていたのですが、意外と受講生の方が多く申し込んで頂いている事を知り、急遽、実践鑑定のやり方などの内容も、講座に取り込む事にしました。

 

 という事で、今回の講座は「Zoomリアル配信受講」や「録画動画受講」も、ご用意しておりますので、皆さまのご参加、お待ち申し上げております(^^)

 

 さてさて、今日の西日本旅行記は、水木杏香先生から、山口で行ってみたい所を聞かれた時に、唯一、僕がリクエストした場所です。

 

 その場所とは、おそらく誰もがその名前は知っているであろう、ある名所…

 

 吉田松陰が29歳という、その短い生涯において、明治維新の原動力となった志士達を育て上げた場所である、松下村塾(しょうかそんじゅく)です。

 

 

 松下村塾は、高杉晋作の生誕地や、木戸孝允の旧宅がある、萩城の城下町から、ずっと東に行って、松本川を渡った所にあります。

 

 明治40年(1907年)、ここに吉田松陰をご祭神とした、松陰神社が建立されました。

 

 今では、松下村塾の辺り一帯が、この松陰神社の敷地となり、松下村塾は、その境内の中に含まれている形になっています。

 

 萩の城下町から、一旦、明倫館の駐車場に戻って、その後、水木先生の車で、松陰神社まで走りました。

 

 

 何とも、風情がある神社です。

 晩秋の日差しが、ポカポカと暖かくて、とても気持ち良いです。

 

 この石碑に彫られた「松陰神社」という字は、おそらく、吉田松陰の筆跡を参考にして、彫られたのではないかという気がしますね。

 

 まるで、維新前夜の幕末時代にタイムトリップしたような気持ちになりました。

 

 東京の世田谷にも、松陰神社があって、そこにもレプリカの松下村塾があるのですが、この萩の松下村塾は、正真正銘、実際の吉田松陰や高杉晋作や伊藤博文も通っていた、本物の松下村塾です。

 

 吉田松陰の一般的なイメージは、高潔で純真な志と、類いまれなる先見の明をもって、自ら松下村塾を立ち上げ、長州藩の維新の志士達を育てた生粋の指導者… という感じでしょうか。

 

 その思想は、江戸幕府の存続をも覆してしまうようなものであった為、危機感を感じた幕府の大老・井伊直弼により、安政の大獄にて捕らえられ、無実の罪で殺されてしまった、悲劇の思想家…

 

 驚くべき事に、吉田松陰の29年の生涯を追っていくと、このようなイメージとは、実際には、かなりかけ離れているという事に、気づかされます。

 

 もちろん、吉田松陰は相当な知識人であり「至誠(しせい)にして通じざるはなし」の精神で、まっすぐ純粋に生きてきた人である事だけは、確かですが…

 

 

 松下村塾は、神社の境内を入ってすぐの所に、ありました。

 

 よく、松下村塾というと、吉田松陰によって開かれた私塾… のように思われやすいのですが、実際には違います。

 

 この松下村塾を開いたのは、吉田松陰の叔父に当たる玉木文之進(たまき ぶんのしん)であり、最初は松陰も、その松下村塾の塾生だったのです。

 その当時の松下村塾は、この場所から400mほど東にある、玉木文之進の自宅の八畳一間の部屋でした。

 

 吉田松陰が、自分の実家である、杉家の敷地に作ったこの建物で、叔父の松下村塾の名を引き継いで、教鞭を取るようになったのは、そのずっと後の事で、その時、吉田松陰は、すでに27歳になっていました。

 

 松陰が安政の大獄で刑死するのは、29歳ですから、結局の所、吉田松陰が松下村塾で教えたのは、たった2年余りという事になります。

 

 

 ここが、松下村塾の入り口…

 早速、中に入ってみましょう。

 

 ちなみに、吉田松陰がこの松下村塾で教鞭を取るまでの間、一体、何をしていたかというと、それはそれは、波乱に満ちた歳月でした。

 

 元々、松陰は杉家の生まれであり、叔父の吉田大助の養子になる前は、杉寅之助と名乗っていました。

 

 松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家柄であり、松陰が5歳で養子に入るやいなや、その翌年、叔父の大助は亡くなってしまいます。

 その結果、松陰は6歳にして、山鹿流兵学師範・吉田家の家督を相続させらました。

 

 同じく松陰の叔父の玉木文之進によって、兵学師範にふさわしい人物となるようにと、厳しいスパルタ教育が、6歳の松陰に施されました。

 

 例えば、玉木文之進が兵法の講義をしている時、松陰の頬(ほほ)に蚊が止まって、払いのけようとすると、「学問の最中に、私心を優先するとは何事か」と言われて殴られる… というような、徹底ぶりでした。

 

 前に、明倫館の所のブログ(2020/6/9 ブログ 「萩・長州藩の学舎を訪ねて」 参照)で、すでに9歳の時には、藩校・明倫館で兵学師範をしていたと書きましたが、叔父の厳しいスパルタ教育によって、なるべくして、そうなったと言えます。

 

 その後、11歳の時に行った御前講義が非常に見事であった事から、長州藩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)から、目をかけられ、それ以降、敬親は、二年に1回は必ず、松陰の講義を受けました。

 

 毛利敬親は、「そうせい侯(部下にいつも「そうせい」とばっかり言っている暗君)」などと揶揄(やゆ)されたりもしますが、困窮していた長州藩を、実力のある者を抜擢して、幕末の雄藩(ゆうはん)にし、結果的に明治維新の原動力となった人材を、たくさん育て上げた人物です。

 吉田松陰も、その中の一人であると言えましょう。

 

 さて、吉田家の山鹿流兵学の師範をし、のちに、長沼流兵学をも身に着け、日本最強の兵学の双璧を収めた松陰でしたが、清国がアヘン戦争でイギリス軍に散々に打ち負かされたのを知ると、只ならぬ危機感を覚え、もはや、これまで学んできた中国兵学では役に立たないと、九州に赴(おもむ)いて、今度は、西洋の兵学を学ぼうとしました。

 

 その後、まずは、自分の見分を広げたいと、江戸に赴いて、当時、洋学の第一人者と言われていた、佐久間象山に師事しました。

 

 そして、度々ロシア船が、開国を求めてやってくるという東北地方の海岸沿いを、この国を守る為に、どうしたら良いかを考えながら、旅をしました。

 

 この時、一緒に東北に行くと約束した宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)との出発日の約束を守る為、長州藩の通行手形の発行を待たずに出発した事で、脱藩者扱いとなり、家禄を没収の上、浪人となってしまうのですが…

 

 

 この部屋こそが、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文や山縣有朋といった維新の志士達が育って行った場所です。

 

 床の間には、松陰の姿が描かれた掛け軸と、松陰の像があります。

 吉田松陰は、背は低く瘦せていて、あばた顔で鼻が高く、眼光がとても鋭かったそうです。

 

 松陰の教え方は、師が弟子に一方的に教えるのではなく、師と弟子がお互いに意見を交わしたり、勉学だけではなく、時には登山や水泳なども行うといった「生きた学問」だったと言われています。

 

 ピンと張りつめたような空気が、そこにありました。

 

 今でこそ、吉田松陰と言えば、明治維新を成し遂げた人材を育成した名伯楽(めいはくらく)といった扱いですが、当時、厳然と江戸幕府が存在するこの時代において、吉田松陰の考え方や取っている行動は、かなり異端なものでしたし、一歩間違えば、危ないテロリストと同等に扱われても、仕方なかったと思います。

 

 例えば、江戸幕府が朝廷に勅許を得ないで、勝手に日米修好通商条約を結んだ事に対して、非常に激怒し、江戸幕府の老中である間部詮勝(まなべ あきかつ)を待ち伏せて、条約の破棄をして、すぐさま外国船を打ち払うように迫り、それを受け入れなければ、その場で討ち取ろう… という計画を、弟子に提案したりしました。

 

 江戸幕府が勝手に、日本に不利な不平等条約をアメリカと結んだ不甲斐なさが、許せなかったのだと思います。

 

 あと、藩主の毛利敬親が京都で参勤交代する時に、その駕篭(かご)を止めて、毛利敬親を説得して、一緒に御所に上がり込み、天皇に謁見して、幕府の失政を糾弾(きゅうだん)するという計画も立てています。

 

 正直、かなり過激です(笑)

 

 というか、正直、周りが見えていない感がありますね。

 もしも、本当にこの策が実行されたら、争い嫌いの孝明天皇の怒りを買い、一発で長州藩は、朝敵になってしまったと思います。

 

 この師匠の考えに、松陰四天王の高杉晋作や久坂玄瑞、吉田稔麿(よしだ としまろ)などは、無謀だと言って、止めに入りました。

 

 さすがの桂小五郎も、これを聞いて、吉田松陰と距離を置くようになり、松陰の叔父である玉木文之進にひそかに会って、松陰を全ての門弟や友人と、絶交するようにしてほしいと、頼みこんでいました。

 当時の吉田松陰には、長州藩の血気盛んな若者を、暴走させかねない危うさがありましたから…

 

 吉田松陰という人は、長州藩の過激派以上に、過激な人なんです(笑)

 何と、ペリーが来航した時には、真面目にペリーの暗殺をも、計画していたほどです。

 

 もしも、本当にペリーが日本で殺されてしまったら、アメリカは間違いなく、日本に報復攻撃をしてくるでしょうから、日本はおそらく、アヘン戦争に負けた清国の二の舞になっていたと思います。

 

 この頃の日本人には、欧米列強の国力や軍事力が、日本のそれと、いかに大きな差の開きがあるかという事を、全くわかっていませんでした。

 それを本当に認識したのは、明治維新の後、政府の主要人物が参加した岩倉使節団以降の事です。

 

 だから、吉田松陰は、高潔で純真な志を持っていたのは確かですが、先見の明があったかどうかというと、はなはだ疑問の部分は残ります。

 

 それはさておき、吉田松陰は何を思ったのか、長州藩の上層部である周布政之助(すふ まさのすけ)にも、老中暗殺計画の事を書状を書いて、協力するように呼びかけます。

 

 仰天したのは、周布政之助です。

   津川雅彦さんが演じた周布政之助、格好よかった…

 

 周布政之助は、高杉晋作や桂小五郎とも非常に仲が良く、もちろん、れっきとした長州藩の正義派(尊王攘夷派)です。

 しかしながら、こんなとんでもない計画を放置する訳にも行かず、とりあえず吉田松陰を、士分の者を収容する上牢である野山獄に、幽閉する事にしました。

 

 これによって、吉田松陰による松下村塾は、わずか二年間で終わってしまいました…

 

 

 吉田松陰の松下村塾は、当初は、先ほどの八畳の部屋だけだったのですが、塾生がどんどん増えて、中に入りきらなくなり、新たに、この十畳半の部屋が増築されました。

 

 松下村塾の塾生名簿は、現存していませんが、合計で90名あまりの弟子がいたと、言われています。

 

 部屋の窓から、午後の日差しが入ってきていました。

 よく見ると、向こう側の壁に、松下村塾の出身者の肖像画が掛けられています。

 

 

 上段の5人と、中段の右側の2人は、僕も名前がわかるのですが、それ以外の方の写真は、さすがに誰だかわかりません(笑)

 

 ちなみに上段には、左から、松下村塾の双璧と言われた、久坂玄瑞に、高杉晋作、そして、吉田松陰、前原一誠(まえばら いっせい)、木戸孝允と写真が並んでいます。

 

 高杉晋作と久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と並び評された松下村塾の双璧であり、吉田松陰は、この二人を競わせる事で、さらに学問を深めさせようとしました。

 

 前原一誠も、この二人と常に行動を共にし、長州藩を俗論派から奪還して、明治維新に貢献し、維新後は兵部大輔に昇進、維新の十傑の一人に数えられるまでに至るも、結局は西郷隆盛と同じような運命をたどり、新政府の方針に不満を持って下野し、萩の乱で散りました。

 

 ちなみに、木戸孝允(桂小五郎)は、ここに写真は飾ってありますが、吉田松陰との交流は深かったものの、正確には、松下村塾の塾生ではありません。

 

 中段に掛けられている写真は、左から、山田顕義(やまだ あきよし)、品川弥二郎(しながわ やじろう)、野村靖(のむら やすし)、山縣有朋、伊藤博文と続きます。

 

 山田顕義は、最年少の14歳で松下村塾に入門した最後の門下生であり、高杉晋作に従って、功山寺挙兵などに参加、特に戊辰戦争での活躍が見事で、西郷隆盛に「用兵の天才」と称されたほどでした。

 

 岩倉使節団に参加して、フランスを訪れた時に触れた、ナポレオン法典に感銘を受け、軍事よりも法律が大切だと痛感し、以降、法律の研究を重ね、初代司法大臣になった人です。

 

 品川弥二郎も、高杉晋作や木戸孝允に従って活躍し、明治政府内においては、のちの内務大臣に任じられました。

 

 野村靖は、松陰四天王である入江九一(いりえ くいち)の弟で、兄と共に吉田松陰の指示に従い、老中・間部詮勝の暗殺計画を立て、失敗して投獄の憂き目を見るも、その後、非業の死を遂げた兄とは対照的に、明治の新政府内で、内務大臣や逓信大臣として活躍しました。

 

 その右隣の山縣有朋と伊藤博文は、言わずと知れた日本の総理大臣です。

 

 下段に掛けられている写真は、左から、境二郎、飯田吉次郎、河北義次郎(かわきた ぎじろう)

 

 境二郎は、明治維新後、長州藩の権大参事に任命された人物で、廃藩置県後は島根県の県令に、そして、この松下村塾の建物をずっと保存させようと、松下村塾の保存会を発足させ、塾舎の補修にあたった人物です。

 

 飯田吉次郎は、奇兵隊で活躍し、日本人が独力で作った最初のトンネルである、逢坂山トンネルを作った人です。

 

 また、河北義次郎も、禁門の変や第二次長州征伐で、長州藩の側に立って活躍した人で、明治維新以降は、佐賀の乱や西南戦争の鎮定に貢献し、のちに外交官となって、サンフランシスコ領事としても活躍しました。

 

 それにしても、この肖像の中に、残りの松陰四天王の2人である、吉田稔麿と入江九一がいないのが、残念です。

 まあ、この二人は、若くして亡くなったから、おそらく肖像画のようなものが存在しないのでしょう。

 

 吉田稔麿という人は、よほどに歴史好きの方でない限り、知らない方がほとんどだと思うのですが、実は、松下村塾の塾生の中で、最も優れた人物だったという噂もある、すごい人です。

 

 さっきの写真にあった品川弥二郎が、松下村塾で一番優れた人物として、吉田稔麿の名をあげていて、「もしも生きていたら、据え置きの総理大臣になれる」と断言していますし、初代総理大臣の伊藤博文さえも、「どうして自分などと比べる事ができようか、まさに、天下の奇才であった」と、吉田稔麿の事を語っています。

 

 吉田稔麿は、無駄口を利く事のない、眼光の鋭い男だったと言われていて、高杉晋作が騎兵隊を結成すると、それに倣い、屠勇隊(とゆうたい)を創設し、幕府の軍艦である朝陽丸(ちょうようまる)の占拠にも、成功しました。

 

 しかしながら、池田屋事件に遭遇し、新撰組と奮闘の末に討ち死にしてしまいます。

 23歳の若すぎる最期でした。

 新撰組局長の近藤勇は、「その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」と、吉田稔麿の事を語っています。

 

 入江九一は、おそらく吉田稔麿よりも、さらに知名度が低いと思うのですが、晩年期の吉田松陰から、最も愛された人なのではないかと思います。

 

 吉田松陰の「老中・間部詮勝の暗殺計画」と「毛利敬親を説得しての、天皇と謁見計画」という計画に、四天王の中で唯一、賛成して、弟の野村靖と共に、それを実行に移そうとしました。

 その為、吉田松陰から「久坂君達は、優秀だが度胸がない。しかし君だけは、国の為に死ねる男児である」と、高く評価されました。

 

 入江九一は、吉田松陰の刑死後も、師との約束を果たそうと、必死に間部詮勝の暗殺計画を果たそうとしました。

 

 久坂玄瑞と共に、蛤御門の変(禁門の変)で進撃して敗れ、敵に囲まれて自刃しようとするも、久坂玄瑞から「君だけは、何とか包囲網を突破して、藩公に京都に近づかないように、注進してほしい」と頼まれ、敵の包囲網から脱出を図るも、塀を超えた所で、越前兵の槍(やり)を顔面に受け、壮絶な最期を遂げました。

 

 

 ここは、「吉田松陰幽囚の旧宅」と呼ばれている、杉家の旧家です。

 

 22歳で、東北旅行に通行手形を待たずに出かけて、脱藩者扱いとなり、家禄を没収の上に浪人となった吉田松陰は、父の監視下での育(はぐくみ)という処遇になります。

 

 吉田松陰の能力を高く買っていた藩主の毛利敬親は、表向きは松陰を罰するも、その後、諸国遊学許可願を提出させて、もっと学ばせようとしました。

 

 そして、吉田松陰は再び、江戸の地に赴きました。

 その時、師の佐久間象山と一緒に目にしたのが、浦賀にやってきたペリーが乗った黒船だったのです。

 

 外国に行って、もっと見識を広げたいと思った吉田松陰は、佐久間象山と協力して、外国船で密航をする事を考えるようになります。

 

 ある日、漁民の小舟を盗んで、下田港に停泊していたアメリカの旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて、勝手に乗船しました。

 そして船員に、アメリカへ連れて行って欲しいと頼み込むも、拒否され、その間に小舟は流されてしまい、結局この件で、師の佐久間象山と一緒に、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に投獄されてしまいます。

 

 のちに長州藩に送られて、野山獄に幽囚される事になるのですが、その時、吉田松陰は、野山獄の囚人達の為に「孟子」とか「論語」の講義を行い、囚人達はそれを聞き入り、獄中の風紀が一気に良くなったと言います。

 

 その為、藩の上層部からも特別待遇を受け、病気療養という名目で、生家の杉家へ幽囚という処置になります。

 その時、吉田松陰が幽囚されていたのが、この吉田松陰幽囚の旧宅です。

 

 父の百合之助と、兄の梅太郎は、松陰に「この場所で、孟子の講義をやってみないか」と持ち掛け、松陰はそれを受ける事にします。

 それが、吉田松陰のこの松下村塾ができるきっかけでした。

 

 

 ゆっくりと松下村塾と吉田松陰幽囚の旧宅を見ながら、その先を歩いていくと、そこに、松陰神社がありました。

 

 幕末の思想家・吉田松陰に思いを馳せながら、しばし参拝しました。

 

 明治維新が成功すると、吉田松陰から学んだ長州の志士達は、師である吉田松陰を神格化していったんです。

 

 思いがけず、周布政之助によって、再度、野山獄に幽囚された吉田松陰だったのですが、しばらくの間は、自分の意見が受け入れられない状況に、やるかたない思いをしていたようです。

 

 獄中で吉田松陰は、弟子達に、何通かの手紙を送っています。

 

 「諸君達と私の違う所は、私は日本の為に行動を起こそうとしているのに、諸君達は、ただ手柄を立てるつもりでいるという事だ」

 

 「桂も、ひそかに図り事などをして、私の気持ちも折れそうだ」

 

 こんなナーバスな事を言って、一歩も引かない師匠に、さすがの弟子達も、困惑を隠せませんでした。

 四天王の吉田稔麿などは、松陰から送られてきた手紙を、そのまま差し戻したほどです。これは、師弟関係を解消してほしい、という意図を含んだ手段です。

 

 やがて、江戸幕府から長州藩に、吉田松陰の身柄を引き渡すようにという要請が来ました。

 いわゆるこれが、安政の大獄です。

 

 でも、幕府が吉田松陰を収監しようとした理由は、よく言われているように、「松下村塾で、若者達に尊王攘夷思想を説いているから…」という理由ではありません。

 

 この頃、京都で梅田雲浜(うめだ うんぴん)という儒学者が、攘夷運動を訴えて、幕政を激しく批判していたのですが、この時の吉田松陰には、梅田雲浜と一緒になって、幕府を中傷する文章を作成していたのではないか… という嫌疑をかけられていたのです。

 

 とはいえ、この容疑で有罪になったとしても、重くて遠島ぐらいで、死刑になる事は、まずありません。

 

 そもそも、「安政の大獄」という呼び名は明治以降につけられたもので、当時この事件は「飯泉喜内初筆一件(いいいずみきない しょひついっけん)」と呼ばれていて、飯泉喜内などが、主に井伊直弼のターゲットでした。

 吉田松陰は、たまたま梅田雲浜に関わっていたので、逮捕されたに過ぎず、関わっていないと判れば、すぐに長州に帰る事もできたのです。

 

 そんな事情で、吉田松陰は長州藩の30人の護送を伴って、江戸に赴きました。

 その時、長州藩は、松陰を特別待遇し、囚人用の食事ではなく、番人用の食事を出してくれた事に、松陰は感激しています。

 

 江戸に到着すると、評定所において、梅田雲浜との関係を問いただされたものの、すぐに、松陰の嫌疑は晴れたようでした。

 

 この時、普通にしていれば、すぐに長州に帰れたはずです。

 ところが、「至誠にして通じざるはなし」の信念を持った吉田松陰は、それができなかったのですね。

 

 評定所の番人に、今の幕府と日本の問題提起、それだけならともかく、老中・間部詮勝の暗殺計画や、藩主・毛利敬親公を巻き込んでの伏見要駕計画まで、自ら進んで話してしまいました。

 

 当時の江戸幕府にとっては、これらはどちらも、超Aクラスの重罪です。

 

 もちろん、現代の日本だったら、計画を立てただけで、死刑になるような事はありませんが、この時代、だいたい捕縛されている身でありながら、「日本の国を憂いて、老中を暗殺する計画を立てました」などと、役人に言おうものなら、最悪の結果になる事は目に見えています。

 普通の人だったら、そんな危険な事は、絶対にしないでしょう。

 

 ただちに、吉田松陰は、伝馬町の牢獄に入れられ、のちに、断首が宣告されました。

 

 吉田松陰は、その処刑の一日前「留魂録(るいこんろく)」を記し、弟子達に送りました。

 その手紙を要約すると、おおよそ次のような内容でした。

 

 私は江戸送りになる時に、孟子の言葉である「至誠にして動かざる者、未だこれ、あらざるなり」の一句を書き、手ぬぐいに縫いつけ、常に持っていた。これこそが、私の志を表すものだからである。

 もし、天に私の誠が通じれば、私の想いは幕府の役人にも伝わるであろうと、志を立てたのである。

 

 しかし、私の誠は幕府役人に伝わらず、今日に至った。

 これは私の徳がまだまだ薄く、天を動かす事ができなかったのであり、誰も責める事はできない。

 

 今日、死を覚悟しているのに、心が平安で穏やかなのは、私の心に、春夏秋冬の四季の循環が得られた実感があるからである。

 

 例えば、稲作で言うならば、春には種を蒔き、夏には苗を植え、秋にはそれを刈りとって収穫を喜び、冬には貯蔵する。

 

 私は今年で三十歳になるが、まだ一つの事も成す事ができずに死ぬのは、はたから見れば、花を咲かせず、実がならないまま、寂しく散ってしまうように見えるかも知れない。

 

 しかし、人間の寿命というのは定まりがなく、穀物とは違う。

 十歳にして死ぬ者は、十年の中に四季があり。二十歳にして死ぬ者は、二十年の中に四季がある。三十歳にして死ぬ者は、その三十年の中に四季がある。五十歳、百歳。それぞれに、その中に四季がある。

 

 十歳で死ぬのを短すぎるというのは、夏の蝉を、長い間生きている椿にしようというようなものである。

 百歳をもって長すぎるというのは、この椿を蝉のようにしようというようなものである。

 どちらも、天命に沿っている、とは言えまい。

 

 私は三十歳、四季はすでに備わっている。また、花も咲き、実も結んでいる。その実がよく熟しているかどうかは、私の知るべき所ではない。

 

 もし同志の中で、私の心を憐み、受け継いでくれる人がいるならば、種子は絶える事なく、永遠に誠の思いは、生き続けるのである。

 

 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

 (例えこの身が、武蔵野で朽ちようとも、この大和魂だけは、ここに残していく)

 

 安政六年十月二十七日、伝馬町牢屋敷にて、吉田松陰の二十九年の人生は、刑場の露と消えました。

 

 吉田松陰の処刑を執行した人物は、明治時代まで生き残っていて、吉田松陰の最期を、次のように語ったと言います。

 

 いよいよ首を切る刹那(せつな)の松陰の態度は、真にあっぱれなものであった。

 悠々(ゆうゆう)として歩を運んで来て、役人共に一揖(いちゆう)し、「御苦労様」と言って端坐(たんざ)した。

 その一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏(ばくり)も深く感動した。

 

 

 こちらは、松陰神社の隣りにある、末社の松門神社…

 

 これまでの松陰神社の社殿を移築して、松下村塾の塾生や、吉田松陰の門下生の四十二柱を御祭神として、昭和31年に創建されました。

 

 吉田松陰の人生は、たった二十九年の短いものでしたが、その精神は、この日本の原動力となって、永遠に生き続けました。

 

 例えば「幽囚録(ゆうしょうろく)」の中に「まずは軍備を図り、蝦夷(えぞ=北海道)を開拓して諸侯に領地を治めさせ、その間に乗じて、カムチャッカ半島やオホーツク海領域を奪い、琉球(りゅうきゅう=沖縄)に諭して、国内諸侯と同じように参勤させ、朝鮮半島に攻め入り、いにしえの盛時(せいじ)の如く、北は満州の地を、南は台湾、ルソン諸島を収め、進取の勢を漸示(ぜんじ)すべし」と記しています。

 

 この主張が正しいとか、間違っているとかは、ともかくとして(確かに現代において、これは通用しないと思います)、この吉田松陰の考えは、そのまま、松下村塾出身者の伊藤博文や山縣有朋などに引き継がれて、明治政府の政策となり、大日本帝国の時代へと、つながっていきました。

 

 吉田松陰という人物が、この世に存在していなければ、明治時代の国の政策方針は元より、もしかすると、今の現代の日本も、全く別のものになっていた可能性もあるでしょう。

 

 松下村塾の情景の中で…

 

 時間の制約を超えて、今もこの場所から、純粋に国を思う吉田松陰の凄まじいほどのエネルギーがわき出ているように、感じました。

 

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