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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<25>九州への徒歩の旅20.10.13

2020年10月13日(火)

 

 だんだんと、秋も深まってまいりました。

 皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 

 時は、移ろいゆくと言いますが、人生を振り返ってみれば、楽しかった事も、嬉しかった事も、悲しかった事も、苦しかった事も、全てが思い出になってしまう…

 

 最近は年のせいか、過ぎていく時間のスピードが半端なく速くて、この分だと、一生が終わるのも、あっという間かな… なんて、柄にもなく思ったりします。

 

 時が過ぎて行けば、少しずつ感情は静まっていくから、全ての出来事は、記憶の片隅に追いやられてしまいますが、それが素敵な思い出になるかどうかは、何となくですが、その時にどれだけ、自分に正直に生きられたかに、掛かっているような気がするんですね。

 

 どこか、自分にうしろめたい所や、無理をして我慢している所があると、やっぱりそれは素敵な思い出にならない…

 

 だから、全てにおいて、自然体で生きるのが、良いような気がします。

 人生、楽しんだ者が勝ちですから…

 

 もちろん、時には苦しい事だってあるでしょうけど、それも、楽しみながら乗りこえられたらいいな… って思っています。

 

 という事で、自然体のまま、山口の旅の旅行記の続きです。

   あいわらず一年前の内容で、十分うしろめたいです(^^;;

 

 水木杏香先生の提案で、急遽スケジュールの順番を入れ替えて、先に、赤間神宮へ参拝した後、また、水木先生の車で、さっきの源義経と平知盛(たいらの とももり)の像のあたりまで、戻ってきました。

 

 

 夜もふけて、空はもう、真っ暗になっています。

 駐車場に車を止めて、これからいよいよ、水木先生と旅の最後の目的地へと、向かいます。

 

 その場所とは、海の向こう側にある福岡県…

 

 何と、九州まで歩いて行こう、というプランなんです!!

 

 

 ここが、下関側の「関門トンネル人道」の入り口…

 

 関門トンネルという名前は、どこから来ているかというと、下関の「関」と、北九州市の門司(もじ)地区の「門」とが合体して「関門」となったのですね。

 

 言わずと知れた、本州と九州をつなぐ海底トンネルの事です。

 

 ちなみに、このトンネルの通行料金は、普通に歩いて通る分には、無料です。

(原付と自転車の人は、20円掛かります)

 

 

 まずは、このエレベーターに乗って、トンネルがある地下へと向かいます。

 

 福岡という県には、ものすごくなじみを感じているのですが、考えてみたら、僕はまだ一度も、行った事がありませんでした。

 

 以前、飛行機に乗って、「四柱推命完全マニュアル」の書店フェアを兼ねて、熊本県には行った事があるのですが、九州のそれ以外の県には、まだ、行った事がありません。

  (2014/1/25 パリブログ 「熊本旅紀行」 参照)

 

 それにしても、こんな風に海底トンネルを歩いて、福岡に行く事になろうとは、思ってもみませんでした。

 

 このプランを考えてくださった水木先生に、心から感謝しています。

 

 

 という事で、早速、福岡県の門司地区へ向かって、レッツゴーです(^^)

 

 トンネルの中は、雨が降る事もないですから、お天気が悪くても、傘を差さなくていいですし、本当に便利ですね。

 

 水木先生と、のんびりと九州に向かって歩いていたのですが、時折、ジョギングをしている人が、後ろから走って来て、僕たちを追い越して行きました。

 

 中には、汗だくになりながら、マラソンで何度も何度も、行ったり来たりしている人もいました。

 

 この辺りにお住まいの方だと思うのですが、本州と九州を、こんな風に1日に何回も往復できるなんて、本当うらやましいです。

 

 

 そうこうしている内に、ついに、山口県と福岡県の県境がやってきました。

 

 あの白いラインを越えれば、そこは九州の福岡県…

 

 いよいよ、その瞬間が刻一刻と近づいてきます。

 

 

 そして、ついに福岡に到着!!

 

 おめでとうございます。

 

 徒歩で、福岡へ無事に上陸する事ができました(^^)

 

 ちなみに、このトンネルの距離は780m… 徒歩での所要時間は、約10分です。

 

 

 壁に貼られていた掲示物をみると、なんと、ここは海面下58mの場所なんですね!!

 

 この関門トンネルが開通したのは、1958年…

 

 今からもう、60年以上も前の事になるんですね。

 

 こんな海の底にトンネルを掘ってしまうんですから、人間の叡智というのは、本当、底知れないです。

 

 そのまま、水木先生と歩いて、九州側のトンネル入り口の所まで、行きました。

 

 今回は、時間的に厳しくて、福岡県の地上に出る事は出来ませんでしたが、関門トンネルを突破したという証に、下関側、門司側それぞれに設置されている、半円のスタンプを押しました。

 

 

 この下半分の半円の下関市側のスタンプと、上半分の半円の北九州市の門司側のスタンプを、上手にギザギザを合わせて押すと、見事なまるい形のスタンプになります(^^)

 

 忘れられない素敵な思い出が、できました!!

 

 

 これで、水木先生との旅は終わり…

 

 水木先生に新山口の東横インまで、車で送って頂きながら、僕は物思いにふけりながら、車窓から下関の夜景を見ていました。

 

 感動にあふれた、本当に素敵な旅でした。

 

 この後、僕は山口の宇部空港から、明日の夜の便の飛行機で、東京に帰ります。

 

 水木先生とは、ここでお別れですが、僕が山口に滞在する時間は、あと24時間ほど残されています。

 

 せっかくですから、残されたこの時間で、気の向くままに、山口を一人旅したいと思います。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<24>黄昏の赤間神宮20.10.02

2020年10月2日(金)

 

 いつしか、10月を迎え、吹く風もすっかりと涼しくなりました。

 

 新型コロナの事で、右往左往しながら始まった2020年も残りあと3ヶ月…

 本当に、時が過ぎるのはあっという間ですね。

 

 10月21日、11月4日、18日、12月2日、16日の5日間、僕は立川の朝日カルチャーセンターで「タロット占い入門」を、やらせて頂く事になりました。

 

 タロット占いに、ご興味のある皆さま、よろしかったら、JR立川駅直結の朝日カルチャーセンターにて、お会いいたしましょう(^^)

 

 さて、この前のブログの続きですが、平安時代末期の源平最後の戦いの場でもあった、関門海峡の壇ノ浦古戦場で、しばしの時を過ごした後、水木杏香先生の車に乗って、赤間神宮へと向かいました。

 

 本来の水木先生のプランですと、壇ノ浦古戦場の次は、「関門トンネル人道」に入って福岡県まで歩いてみる… というスケジュールだったんです。

 壇ノ浦古戦場と、関門トンネル人道は、もう目と鼻の先ですから…

 

 

 そして、その後に赤間神宮に行き、時間があれば、ここから少し北上した所にある福徳稲荷神社にも参拝する… というプランだったのではないかと、思います。

 

 ところが、僕が「関ヶ原展」に行きたいと言って、無理やりそのスケジュールをねじ込んでしまった事で、関門海峡に来た時点で、もう夕方近くになってしまっていました。

 

 そこで、水木先生が急遽、順番を入れ替えて、神社の門が閉まってしまう前に、赤間神宮へ先に行く事になったという次第です。

   僕のせいで、水木先生のプランがぐちゃぐちゃになってしまいました…

 

 福徳稲荷神社に行くのは、また今度、山口に来た時ですね。

 

 

 駐車場に、車を止めて、少しだけ歩くと、大きな道路の信号を渡った所に、赤い綺麗な建物がありました。

 

 まるで、竜宮城のように見えるこの建物こそが、赤間神宮です。

 

 信号が青になるのを待って、横断歩道を渡り、早速、鳥居の下をくぐって行きました。

 

 

 黄昏(たそがれ)の空に、赤い建物が妙に映えて、何だか別世界にいざなわれるような感覚になります。

 

 ここが、壇ノ浦の合戦で、幼くして命を絶った、悲劇の天皇・安徳天皇を祀った神社…

 

 よくある事ですが、元々、この赤間神宮はお寺だったのです。

 安徳天皇が祀られる前から、阿弥陀寺(あみだじ)として、この場所に存在していました。

 阿弥陀寺は、かの「耳なし芳一」の舞台にもなったお寺です。

 

 そして、江戸時代までは、安徳天皇御影堂といい、この頃までずっと、安徳天皇は仏式により祀られていました。

 

 前にも書いたように、明治政府の神仏判然令によって、明治維新と同時に、それまでの日本の神社や仏閣のスタイルが、すっかり変わってしまったんですね。

 (2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)

 

 

 階段を上りきった所から、振り返って下を見てみると、さっきの下関海峡が見えました。

 

 少し前の僕は、こういう高い所から下を見ると、もう、足が震えて動けなくなってしまったのですが、いつの間にか、平気になっていました。

 

 空は少しずつ薄暗くなってきて、ちょっとだけ冷え込んで来ましたが、吹き抜ける風がとても気持ちいいです。

 

 

 安徳天皇が祭られている、赤間神宮の拝殿である「大安殿(たいあんでん)」に手を合わせました。

 

 「平家物語」の先帝入水の巻には、安徳天皇の最期が語られています。

 

 二位尼(にいのあま)は、わずか6歳の安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさして神璽(しんじ)を抱え、「波の下にも、素晴らしい都がございます。そこへ一緒に参りましょう」と、天皇を慰めながら、共に海に身を投じました。

 

  昔は、戦さに負けるという事は、死を意味していましたから、このような悲劇が、戦さの数だけ、日本全国にあったという事です。

 

 

 大安殿の向かって右側には、鎮守八番宮(ちんじゅはちまんぐう)がありました。

 正しくは、日本西門鎮守八幡宮と言います。

 

 ここは、壇ノ浦の合戦のさらに300年ほど前、貞観(じょうがん)の頃に建てられたお寺…

 

 行教和尚(ぎょうきょうおしょう)が、京都の石清水八幡宮にご分霊をした時、日本の西門の守り神として、下関のこの場所に、この鎮守八幡宮が建立されました。

 

 今度は、大安殿の左側に行ってみると…

 

 

 なんか、独特の空気感が漂っている場所がありました(^^;;

 この場所こそが「芳一堂(ほういちどう)」…

 

 ご存じ、耳なし芳一が祀られているお堂です。

 

 これは、世にも不思議な話…

 

 昔々、阿弥陀寺に、芳一という盲目の琵琶法師の僧侶がおりました。

 平家物語を語らせたら、この上なく素晴らしく、特に壇ノ浦の合戦の鬼気迫るその語りと琵琶の音は、人々の大評判でした。

 

 ある晩、その芳一の前に、どこからやって来たとも知れない、一人の武士が現れました。

 

 武士は、芳一に、自分達がいる屋敷に来て、琵琶を弾いて欲しいと頼みます。

 

 そして、芳一は武士に手を引かれるように、その屋敷に入り、七まがり八まがりの廊下をめぐって大広間に通されました。その部屋には、武士や女官達が居住まいを正して座っていました。

 

 「戦に負けた侍(さむらい)の悲しい物語を頼む」

 

 そう言われた芳一は、そこにいる武士や女官たちの為に、心を込めて平家物語を弾き語りました。

 

 その演奏は大変に素晴らしく、武士や女官たちは、みな涙を流し、嗚咽(おえつ)しながら、聞きいっていました。

 

 「実に満足した。又明日もあさっても、七日七夜頼みたい。ただし、この事は誰にも言ってはいけない」

 

 芳一はかたく約束をして、阿弥陀寺の自分の部屋に帰りました。

 

 次の日も、また次の日も、芳一の元に、その武士が現れ、芳一は屋敷へと出かけていきました。

 

 毎日、どこかへ出かけていく芳一に、阿弥陀寺の僧たちは、どこに行くのかと尋ねますが、芳一は、約束を守って、決して口を開こうとしません。

 

 不審に思った僧たちは、そっと芳一の後をつけると、芳一はある墓の前に、導かれるように歩いて行きました。

 そして、無数の鬼火に囲まれながら、芳一は鬼気迫る顔で、琵琶の演奏をしているのでした。

 

 僧たちは、そこで見て来た事の一部始終を、阿弥陀寺の和尚に話しました。

 

 和尚は「これはいかん。平家の亡霊が恨みをもって、墓のあたりをさまよっているのだ。このままだと、芳一はとりつかれて殺されてしまう」と言い、どうしたものかと思案しました。

 そして和尚は、芳一の体中に経文を書く事にしました。

 

 和尚は、芳一の頭から顔から足の先まで、経文を書き終えると、芳一に「今夜は決して何があっても、声を出したり、動いて音を立ててはいけない」と、言い聞かせました。

 

 いつものように、芳一を迎えに武士がやってきますが、今夜は、芳一がどこにも見つかりません。

 

 芳一に、呼びかけてみましたが、芳一は和尚から「声を出してはいけない」と言われているので、じっと黙ったままです。

 

 「どういう事だ。今宵(こよい)は、姿もなければ、呼びかけてみても、返事もない」

 

 武士が周りを見渡すと、闇夜の中に、二つの耳だけがくっきりと浮かんで見えました。

 

 「しかたない。ここに迎えにいったという証に、せめて、あの耳だけでも、持ち帰るとするか」

 

 和尚が帰宅して、芳一の所に行ってみると、そこには、耳を取られた血だらけの芳一が、気を失っていました。

 

 「しまった。耳にだけ、経文を書くのを忘れてしまった」

 

 和尚は、芳一に耳に経文を書き忘れた事を詫び、手厚く芳一を看病しました。

 

 やがて、耳の傷も癒えると、やっと芳一も元気になりました。

 そして、その後、芳一の琵琶の音と語りは、ますます磨き(みがき)がかかり、琵琶法師としての名声は、いっそう高まっていったのです。

 

 誰もが一度は、聞いた事のあるであろう「耳なし芳一」という昔話です。

 そして、この芳一がいた阿弥陀寺とは、まさに、この赤間神宮の事です。

 

 この後、水木先生と一緒に、芳一堂の前にある平家塚(へいけづか)に行きました。

 

 平家の落武者のいくつもの墓がそこにあり、黄昏時の塚は、異様な雰囲気に漂っていて、僕はなんか怖くなって、すぐにその場を離れました。

 

 その後、水木先生から、向こう側の階段を上った所に、紅石(べにし)稲荷神社という神社があるという事を聞いたのですが、その参道というか、階段の雰囲気がどうも苦手で、「やっぱり、ここはやめて、次の目的地に行きましょう」と、水木先生に提案しました。

 

 本当、僕は臆病ですね。

 でも、やっぱり神社というのは、黄昏時よりも朝行く方が、すがすがしいな… と、改めて感じました。

 

 

 赤間神宮の中から見た「水天門」…

 門の向こう側の空が、暮れかかっています。

 

 水木先生の話では、毎年5月2日~4日に「先帝祭」というお祭りがあって、この水天門の所に、巨大な赤い橋が掛けられるのだそうです。

 

 ここでいう先帝とは、安徳天皇の事…

 この祭りの見所は、たくさんあるのですが、中でも「安徳帝正装参拝(あんとくていせいそうさんぱい)」と「上臈道中(じょうろうどうちゅう)」が、すごいらしいです。

 

 「安徳帝正装参拝」は、特別に掛けられた巨大な赤い橋の上で、平清盛の四男で壇ノ浦の合戦の総大将である、平知盛(とももり)を先頭に、平清盛の長男・平重盛(しげもり)、平清盛の弟である平経盛(つねもり)と続いて入場、そしてその後に、主役の安徳天皇が入場し、平清盛の妻である二位の尼・平時子、そして、安徳天皇の母の建礼門院(けんれいもんいん)・平徳子(とくこ)と、続きます。

 

 一方の「上臈道中」の方は、橋の上で、華やかな衣装をまとった女官が舞を舞います。

 

 上臈とは、地位の高い女官… 転じて、身分の高い遊女の事…

 

 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の後を追って、海に身を投げた女官の中には、不本意ながらも一命をとりとめ、その後、遊女として生き延びた女性もいました。

 その元女官の女性たちが、安徳天皇の命日に、御廟所に参拝したのが「上臈参拝」の起源である、とされています。

 

 今年は、この新型コロナの騒ぎで中止となってしまいましたが、お祭りは毎年、盛大に繰り広げられるそうです。

 

 

 赤間神宮を後にして、振り返ってみると、ライトアップされて映る赤間神宮が、とても美しく見えました。

 

 下関の旅もいよいよ、クライマックス…

 

 これからいよいよ、水木先生との最後の旅の目的地へと向かいます。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<23>関門海峡の思い出20.09.23

2020年9月25日(金)

 

 気がつけば、随分と外も涼しくなって、朝夕は上着を着ないと、少し肌寒いくらいです。

 暑い暑いと思っている内に、お彼岸も過ぎて、いつしか、もう秋なのですね。

 

 秋と言えば、芸術の秋…

 

 9月27日(日)~30日(水)の4日間、僕の書の師匠である、野尻泰煌先生が発足させた藝文会が主催する「第31回 泰永書展」が開催されます。

 

 東京の池袋駅から歩いてすぐの「東京藝術劇場」が会場で、入場無料ですので、ぜひ、よろしかったら、お越しになってみてください。

 もちろん、浅野太志(雅号:豊峰蓬莱)も、参加しております。

 

 さてさて、いつものように、去年の11月の出雲・山口の旅の続きのお話…

    もう、あきれて、そこを突っ込む気もしない(笑)

 

 功山寺のすぐそばにある下関市立歴史博物館で、圧巻の「関ヶ原展」を見終わった後、いよいよ、水木杏香先生との最後の旅の目的地である、関門海峡へと向かう事になりました。

 

 

 水木先生が運転する赤い車に乗って、海の方へ向かって、まっすぐの道を南へつき進んでいきます。

 

 ふと、車窓の外から潮風が感じて、窓の外を見てみると…

 

 

 目の前に、ものすごく大きな橋が架かっているのが見えました。

 この橋こそ、関門海峡に掛かっている関門橋(かんもんきょう)…

 

 今いるこの場所が、本州の最西端だと思うと、何とも不思議な気持ちになります。

 

 車を駐車場に止め、水木先生に案内されて、海の方へと歩いて行きました。

 

 

 11月だというのに、この日は小春日和で、夕暮れ時なのに割と暖かいです。

 

 海風が本当に気持ち良い…

 

 僕が住んでいる東京のど真ん中では、絶対に見る事は出来ない、まるで大自然の中に吸い込まれるような雄大な景色です。

 ここに連れてきてくださった水木先生に、心から感謝です。

 

 関門橋の方へ向かって、しばらく歩いて行きました。

 

 

 この橋の向こう側は、福岡県北九州市の門司(もじ)

 

 福岡って、ソフィさんが住んでいる場所だな… とか、携帯サイトでお世話になったコムドアーズがある場所だな… とか、未だにまだ、足を踏み入れた事がない福岡に、思いを巡らせました。

 

 高杉晋作の時代には、山口県(長州藩)と、目の前の福岡県の門司(小倉藩)は、敵同士の関係にあったんです。

 

 余談ですが、福岡県で一番大きな藩である初代藩主が黒田長政の福岡藩は、幕末の時代は、家老の加藤司書(かとう ししょ)や月形洗蔵(つきがた せんぞう)などの筑前勤王党が活躍して、正義派の高杉晋作を、強力にサポートしていました。

 

 ところが、乙丑の獄(いっちゅうのごく)によって、加藤や月形など多くの勤王志士が処刑され、福岡で高杉晋作をかくまっていた尼僧で歌人の野村望東尼(のむら ぼうとうに)も、この時に、姫島に流刑となっています。

    のちに高杉晋作が、小船で姫島に行って、野村望東尼を救出する

 

 高杉晋作の功山寺挙兵(2020/8/26 ブログ 「功山寺の誓い」 参照)によって、長州藩の藩論が「正義派」に戻ると、第2次長州征伐が始まり、岸の向こうの小倉藩も幕府側として、長州藩と戦う事となりました。

 

 そして、高杉晋作は軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」に乗って、福岡県側に上陸し、幕府軍を敗走させ、小倉藩の門司地区を占領しました。

 

 丁度その頃、長州征伐へ向かう途上だった、十四代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れて、20歳の若さで逝去…

 幕府軍は、これによって次々と撤兵していき、小倉藩の藩兵も、自ら小倉城に火を放って、逃走してしまいました。

 

 その頃、晋作から「火吹きダルマ」とあだ名をつけられていた、兵法の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州藩の石州口方面を守り、全く無駄のない合理的な戦術で幕府軍をことごとく敗走させる事に成功し、この第2次長州征伐は、完全な長州藩の勝利となりました。

 

 

 関門海峡沿いの道路を、波の音を聞きながら、ゆっくりと歩いて行きました。

 

 高杉晋作は、この小倉藩との戦争の最中、持病の結核が重くなった事で、海軍総督の任を解かれ、この下関の地で静養するも、そのわずか半年後に、27歳の若さで息を引きとります。

 

 その時、晋作のそばにいたのは、愛妾(あいしょう)おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の他に、正妻である雅子夫人に、晋作の一人息子の東一、晋作の父と母、そして、無二の同志・山縣狂介(有朋)と、野村望東尼でした。

 

 “面白き 事もなき世を 面白く”

 

 この句は、高杉晋作が詠んだ上の句です。

 それに、近くにいた野村望東尼が、 “すみなすものは 心なりけり” と、下の句を付け加えました。

 

 この「面白き…」の句は、以前までは、高杉晋作の辞世の句と言われていましたが、最近の研究では、死の前年には、すでにこの句が詠まれていた事が分かっています。

 

 僕はこの山口旅行を通じて、正直言って、今まであまり関心がなかった高杉晋作という一人の人物が、とても身近に感じられるようになりました。

 

 

 海岸沿いに、2つの大きな像がありました。

 

 こちら側の像が、源義経の像であり、向こう側の像が、平清盛の四男・平知盛(たいらのとももり)の像…

 建立されたのは2004年なので、比較的新しい像ですね。

 

 この場所が「壇ノ浦古戦場」である事を、水木先生が教えてくれました。

 

 壇ノ浦の合戦… 高杉晋作の時代よりも、関ヶ原の戦いよりも、遥かに古い平安時代末期の戦い…

 この戦いこそが、源平の最後の合戦であり、これによって、平氏は滅亡する事になります。

 

 武士としては初めて、朝廷の臣下の最高位である太政大臣に任じられ、日本で初めての武家政権を樹立したのが、かの平清盛です。

 「平家にあらずんば、人にあらず」という言葉は、清盛の義弟・平時忠(たいらのときただ)が言った言葉ですが、まさに平安時代後期は、平氏の権力は絶大であり、栄華を誇っていました。

 

 しかしながら、平氏のこの独裁体制は、やがて周りの反発を生み出していき、源氏によって平家打倒が叫ばれる中、平清盛も熱病で苦しみながら、この世を去っていきました。

 

 そして、源頼朝、頼朝の弟である範頼(のりより)や義経、木曾義仲(きそ よしなか)らの源氏勢力によって、平氏はどんどん追い込まれていき、逃げのびた平氏が最後にたどり着いた場所が、この本州最西端の地・壇ノ浦という訳です。

 

 海の向こうは九州ですが、頼朝の上の弟である源範頼が、先回りして九州に陣取っているので、もう、向こう側には逃げられません。

 

 そして、頼朝の下の弟である源義経が、平氏打倒の兵を挙げて、壇ノ浦に攻め込んできたのでした。

 

 卯の刻(朝の6時頃)に両軍が対峙し、戦闘が始まると、最初こそは、平氏は海軍に強い事もあって、かなり有利な戦いを展開し、義経の軍を苦しめていたんです。

 この下関海峡の潮の流れが、平氏に優位に作用していたのも、大きいです。

 

 ところが、この潮の流れが逆転したんですね。

 よく「人生の潮目が変わる」などと言いますが、これによって、この戦いの攻守が逆転し、ついに、平氏の命運もついえてしまいます。

 

 

 この船の錨(いかり)を持っている像は、平知盛の像です。

 コンピューターゲームの無双キャラみたいに、これを武器にして、義経と戦おうとしている訳ではありません(笑)

 

 この壇ノ浦の合戦で、平氏の総大将だった知盛は、戦いの敗色が濃厚になると、自軍の最期を悟り、「平家の命運はこれまでだ。敵に見られたくないようなものは、全て海の中に捨てるように」と、味方に指示を出しました。

 

 そして、船に乗っている女官に「これから、皆さんは、物珍しい関東武士の姿をお目に掛かる事になりますぞ(関東武士に体をもてあそばれて、辱めを受ける事になりますぞ)」と言って、暗に自決を促しました。

 

 それによって、平清盛の妻で、知盛の母である二位尼(にいのあま)は、わずか6才の安徳天皇を抱いて、入水自殺をしました。

 

 戦いの成り行きの全てを見届けた平知盛は、「見ておくべきものは全て見た。後は、自決するだけだ」と言って、重い錨を自分の体に巻き付けて、体が水の中から浮かび上がらないようにし、海の中へと消えていきました。

 

 何とも、悲しい話です。

 

 鎌倉にいた源頼朝は、書状に書かれた義経からの戦場の結果報告を読むと、しばらくの間、身動き一つしないで、じっと黙ったままでした。

 

 元々、源頼朝は、上の弟である範頼に「平家を追討するにあたっては、くれぐれも安徳天皇を無事に京都へお返しするように…」と言い含めていたのですが、下の弟である義経が、後白河上皇を通じて、後から戦闘に参加し、結果的に安徳天皇も、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)も、海に沈んでしまったのですから、何とも言えない気分だったと思います。

 

 源頼朝と源義経の兄弟が不仲になってしまった原因は、他にもいろいろとあるのですが、この壇ノ浦の戦いの結果が、二人の仲に大きな楔(くさび)を打ち込む事になったのは、間違いありません。

 

 

 関門橋の下を、いくつもの大きな貨物船が、ボーッという音を立てながら、通り抜けて行きます。

 心地よい潮風に吹かれながら、僕はしばらくの間、この関門海峡の岸に、たたずんでいました。

 

 あれから一年くらいたった今でも、目を閉じれば、あの関門海峡の景色と波音が浮かんできますね。

 

 水木先生が「日が暮れてしまう前に、次は、この近くにある赤間神宮に行ってみましょう」と、おっしゃいました。

 赤間神宮は、この近くにあって、この壇ノ浦の合戦で亡くなった安徳天皇が祭られている神社…

 

 近くとはいえ、徒歩だと15分ぐらいは掛かってしまいますし、僕が博物館見学に時間を掛け過ぎてしまった事で、時間がおしている事もあり、水木先生の車で、赤間神宮へと向かう事になりました。

 

 間もなく、水木先生との この山口の旅も終わり…

 

 黄昏が近づいて、少しずつ暮れゆく空を見ると、少しだけ、さみしい気分になりました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<22>それぞれの関ヶ原20.09.13

2020年9月13日(日)

 

 あっという間に、もう9月の半ば…

 今回は、かなりブログの更新が遅れてしまいました。

 

 この半月あまり、いろいろな事が身の回りに起こって、追い掛け回されるように、忙しく過ごしていました。

 

 気がつけば、もう後2ヶ月足らずで、出雲と山口に旅行した時から、一年が経ってしまうのですね。

     う~ん、このブログって一体…

 

 さてさて、水木杏香先生に、功山寺へ案内して頂き、その後、近くにあった喫茶店・珈琲gatto (コーヒーガット) で、少し休憩をして、いよいよ例の下関市立歴史博物館に向かいました。

 

 

 下関歴史博物館は、功山寺から歩いて2分ぐらい…

 本当に、目と鼻の先にありました。

 

 高杉晋作の墓所・東行庵の中にある東行記念館で、この歴史博物館のすごく興味をそそられる企画展のチラシを見つけてしまい、急遽、水木先生にお願いして、この下関市立歴史博物館に行くのを、旅のスケジュールの予定に、追加して頂いたのです。

 

 そのチラシとは…

 

 

 「関ケ原 天下分け目と毛利氏の戦い」の特別企画展…

 

 まあ、戦国時代の歴史に興味がない人にとっては、「ふ~ん、あっそう…」という感じでしょうね(笑)

 

 でも、この関ケ原展は、すごくレアなんですよ。

 たいがいの関ヶ原の合戦関係の展覧会というのは、東軍の代表である徳川家康と、西軍の代表である石田三成に主眼を置いて、語られます。

 

 でも、この企画展の主役は、家康でもなく、三成でもなく、毛利家であるといった所が、珍しいんです。

 

 おそらく、このような関ヶ原の展覧会は、山口に行かなければ、見られないと思います。

 

 ちなみに、西軍の総大将は石田三成だと思われる人もいるかも知れませんが、それは正しくありません。

 

 もちろん、実質的には西軍を統率しようとしていたのは、石田三成ですけど、一応、形としては、毛利輝元が西軍の総大将だったのです。

 

 石田三成は、朋友である大谷吉継から「お主は人望がないから、総大将は毛利輝元か宇喜多秀家を立てて、陰に徹せよ」という、手厳しい助言を受けて、毛利輝元に、総大将を頼んだのですね。

(2014/1/5パリブログ 「カッコよく恩に応えたい」 参照)

 

 だから、本当の西軍の総大将は、まぎれもなく、毛利家であり、どんな行きさつで負けてしまったかは、僕が8年前に書いたパリブログに、かいつまんで書いておりますので、そちらをご覧頂けると、嬉しいです。

(2012/11/8パリブログ 「周りの人に流されない」 参照)

 

 それにしても、この企画展の副題が「長府(ちょうふ)藩初代藩主 毛利秀元生誕440年記念特別展」となっているのが、面白いです。

 

 関ヶ原の戦いで、毛利家の代表として参戦しながら、吉川広家や、毛利家の家老・福原広俊(ふくばら ひろとし)に騙されて、一歩も兵を動かせなかった毛利秀元からしてみれば、自分の生誕記念に、人生の汚点である関ヶ原の特集なんかされても、嬉しくも何ともないと思うのですが…

 

 

 この下関市立歴史博物館は、4年前の2016年11月18日に、リニューアルオープンしたのですが、それまでは「長府博物館」と呼ばれていたのです。

 

 長府藩というのは、長州藩の支藩であって、その長府藩初代藩主が、さっきの毛利秀元です。

 

 早速、中に入ってみると、元々は長府ゆかりの博物館だけあって、毛利秀元の事が、大々的に紹介されていました。

 

博物館の中に入って、すぐの所の壁に「毛利秀元の文武 ―眼差し元就に少しも異ならず―」と、大きな文字で書かれたプレートがあります。

 

 毛利秀元は、毛利元就の四男である、穂井田元清(ほいだ もときよ)の次男として、生まれたのですが、毛利家の血を絶やさないようにと、叔父である小早川隆景によって、当時、嫡男のいなかった毛利輝元の養子に入れられました。

(2012/11/7パリブログ 「団結する事で、困難が乗り越えられる」 参照)

 

 でも、その後、毛利輝元に実子が生まれると(のちの、毛利秀就)、秀元は、宗家の後を継ぐ事を辞退します。

 

 その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、秀元は戦功が多く、秀吉からも認められて17万石を与えられ、毛利家の別家を創設する事を、許されました。

 

 関ヶ原の戦いでは、色々とあって、毛利家は120万石から、たった36万石に減封されてしまいますが、この時、秀元は、毛利領内において、長府の地に支藩と作る事を許され、支藩長府藩の藩主となっています。

 

 そして、天下が徳川に傾くと、秀元は、徳川家康の養女である浄明院(じょうみょういん)を正室に迎え入れ、三代将軍家光の御伽衆(おとぎしゅう)としても、活躍しました。

 

 毛利秀元は、お人良しで周囲に流されやすい輝元とは違い、非常に有能で、頭の良い戦国武将です。

 

 

 博物館の入り口付近には、関ヶ原で西軍についた大名達の旗がいっぱいありました。

 

 ちなみに、東軍の大名の旗は、一本もありませんでした。

  まあ、ここは西国・毛利の地ですから…

 

 エントランスで、観覧料を確かめると、今回の関ヶ原の観覧だけなら500円で、博物館の常設展も、一緒に拝観する場合は、700円でした。

 

 水木先生と相談して、せっかく維新の街の歴史博物館に来たのですから、常設展も一緒に見る事にしました。

 

 まずは、常設展を先に見てみました。

 

 

 なんと、高杉晋作が連合国4ヶ国との和平交渉(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の時に、かぶっていた網笠です。

 

 所々、穴が開いて、ボロボロですね(^^;;

 

 でも、これを、今から150年前に、高杉晋作がかぶっていたのかと思うと、何とも感慨深いです。

 

 特別企画展である「関ヶ原 天下分け目と毛利氏の戦い」の展示物は、撮影禁止となっていましたが、こちらの常設展の方は、ありがたい事に、写真撮影OKでした。

 

 

 これ、下関戦争の時に、実際に使われていた大砲です。

 

 下関戦争の発端は、久坂玄瑞(くさか げんずい)が率いていた光明寺党が、外国船に発砲した一発です。

 それで、その翌年、4ヶ国連合艦隊が報復に攻めてきて、長州砲台は壊滅し、占領されてしまいます。

 

 実はこの大砲、下関戦争の戦利品として、フランス軍によって、パリに持ち帰られてしまったんです。

 

 その13年後、パリに留学していた西園寺公望(さいおんじ きんもち)が、パリのアンヴァリッドに入った時に、偶然この大砲を発見…

 

 その後、昭和に入ってから、外務省がフランス政府に「あの大砲を返して欲しい」と、返還請求をしていましたが、「そういう前例を作れば、世界各国から得た戦利品を、全て返さなくてはいけない事になってしまう」と、フランス政府に渋られ、中々返還してもらえませんでした。

 

 この大砲が、はるばるパリから戻ってきたのは、なんと昭和59年…

 

 という事は、120年もの間、この大砲はパリに滞在していたのですね。

  3週間で終わった僕のパリ滞在が、やたら短く感じられる…

 

 大砲さん、パリへの長旅、お疲れ様でした(^^)

 

 いよいよ、これから、目的の関ヶ原展のコーナーに入ります。

 

 撮影禁止なので、写真でお見せできないのが残念なのですが、そこには、本当に膨大な資料がありました。

 

 東軍の武将の資料は、あまりないのかと思っていましたが、そうではありませんでした。

 

 徳川家康の木像とか、家康の感状、そして、井伊直政・本多忠勝 連署起請文(きしょうもん)なんかも、ありました。

 

 有名な「内府ちがいの条々(じょうじょう)」も、ありましたね。

 これは、家康を弾劾すべく、13項目の条項が書かれた書状です。

 

 よく、内府ちがいの条々は、石田三成によって、発せられたように言われますが、実際には三成の署名はありません。

 この時、三成はすでに、武断派七将による襲撃事件によって失脚し、五奉行を退いているので、そんな権限はなく、内府ちがいの条々の署名は増田長盛、長束正家、前田玄以の3人の奉行となっています。

   ちなみに、残りの1人の五奉行・浅野長政は、この時、失脚している上に、家康方についています。

 

 当然ですが、この書状には、毛利輝元の署名はありません。

 だから、吉川広家も「輝元は勝手に、西軍の総大将に担ぎ上げられているだけだから、所領を安堵してほしい」と家康に頼んたのですね。

 

 毛利家の外交僧・安国寺恵瓊の像もありました。

 安国寺恵瓊は、豊臣秀吉がまだ信長の家臣だった頃に会い、やがて秀吉が天下を取るであろうと見抜いた人です。

 さすがに、家康の天下までは見抜けず、関ヶ原で西軍が負けると、乱の首謀者として、京都の六条河原にて散っていきましたが…

 

 この特別展は、毛利秀元や毛利輝元の書状の展示物が、非常に多かったのが、印象的でした。

 

 長府ゆかりの毛利秀元が、何となくですが、この特別展の主役になっているように、感じました。

 確かに、この企画展の副題が「毛利秀元生誕440年記念特別展」ですから、無理もありません。

 

 そして、当然ながら、ここには吉川広家の書状も、展示されていました。

 この吉川広家と徳川家康との手紙のやり取りこそが、東軍に勝利をもたらしたと言っても、良いでしょう。

(2014/11/2パリブログ 「手紙に込められた真心」 参照)

 

 毛利輝元や秀元にとって、吉川広家は東軍と通じていた裏切り者という事になります。

 

 しかしながら、もしも吉川広家が、西軍の総大将になってしまった毛利輝元の事を、家康に何度も詫びて、家康から自分に与えられるはずだった周防と長門を、毛利家に差し出さなかったなら、毛利家という大名は、この時に、消滅していた事も事実です。

 そういった意味において、吉川広家は、毛利家の救世主とも言えます。

 

 結果的に、毛利家の領土は、吉川広家がもらうはずだった周防と長門の36万石になってしまいましたが、その中で、吉川家に任されたのは、岩国3万石の所領でした。

 

 毛利家には、毛利秀就(輝元の実子)の宗家である長州藩の他に、毛利秀元の長府藩、そして、徳山藩、清末藩という支藩がありましたが、吉川広家の岩国領は、毛利家の直轄地という扱いであり、支藩としての届け出もされていませんでした。

 

 つまり、吉川広家は毛利家の一家来であって、岩国領の統治をやらせてやっているだけ… みたいな扱いだったんですね。

 

 元々、吉川家は国持ち大名であり、広家の父・吉川元春は、毛利元就の次男で、毛利家当主である輝元の叔父あって、毛利家を支えた功績は大きいのですし、本来、この36万石だって、家康が広家に拝領させるつもりの土地だったのですから、この扱いはあんまりだと思うのですが(笑)

 

 まあ、毛利家宗家からすれば、もしも吉川広家が内通していなくて、関ヶ原の南宮山に陣取っていた3万3千の軍が、そのまま東軍の家康の陣に突っ込んでいたら、確実に勝てたのに… という思いがありますから、いたし方ない部分は、あるとは思います。

 

 徳川将軍家も、この事をよくわかっていて、吉川広家の岩国領には、特別に直接将軍と謁見する権利が認められていて、さらには、岩国は藩にもなっていないのに、吉川家は江戸屋敷を持つという、大名クラスの特別待遇となっていました。

 

 

 関ヶ原展のパンフレットに載っていた、関ヶ原の合戦の屏風絵…

 

 これは元々、井伊直政の居城である彦根城にあったものだそうです。

 ひときわ、画面右側の赤色の軍団が目立ちますが、これが「井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)」です。

 

 あの関ヶ原の合戦において、東軍と内通して、毛利家宗家から嫌われ者になってしまった吉川広家、関ヶ原では広家の陣にさえぎられて何一つ活躍できなかったものの、陰からずっと毛利家を支えた毛利秀元、そして、東軍からの手紙が届くやいなや、さっさと大坂城から退去してしまった、西軍総大将の毛利輝元…

 

 関ヶ原の時は、まるでバラバラだった3人の子孫達ですが、この260年後の、幕府連合軍による長州征伐の時には、一致団結して、それぞれの立場を生かして、毛利家を守りました。

 

 吉川家の立場は、毛利家においては、隅に追いやられていましたが、将軍家と仲がいい吉川家は、幕府お抱えの毛利家のお目付け役のような存在でもあり、第一次長州征伐の時も、幕府軍と折衝をしたのは、吉川広家の子孫である吉川経幹(つねまさ)でした。

 

 江戸幕府大目付の永井尚志(なおゆき)は、毛利宗家の子孫である藩主・毛利敬親(たかちか)と世継の定広を、後ろ手にして、罪人として幕府軍に引き渡す事を、吉川経幹に条件として、つきつけると、吉川経幹は顔面蒼白となって「この上は、長州藩と支藩全軍で徹底抗戦する」と主張…

 それを見かねた幕府連合軍の参謀・西郷隆盛は、永井尚志に条件を再考する事を主張し、結果的に、藩主父子は謝罪文書を提出するだけで、良い事になりました。

 

 また、永井尚志から「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と聞かれた時も、吉川経幹はあっさりと「死にました」と答え、維新の原動力となる二人を、うまく匿う(かくまう)事に成功しました。

 

 第一次長州征伐の後、俗論派が台頭するようになると、藩主の毛利敬親父子は、俗論派の支持に回り、藩論はすっかり江戸幕府恭順になってしまいましたが、高杉晋作が功山寺挙兵をして、藩内が騒然とすると、毛利秀元の子孫である、支藩長府藩藩主・毛利元周(もとちか)は、藩主の毛利父子に、直ちに諸隊の追討命令を取り消して、正義派の建白書を受け入れるように提案し、敬親父子はこれを了承…

 その結果、俗論派の首魁・椋梨藤太(むくなし とうた)は地位を追われ、高杉晋作のクーデターは成功し、長州藩に正義派が返り咲き、これが明治維新の大きな原動力となっていきました。

 

 歴史は繰り返す… と言いますが、不思議なものです。

 

 関ヶ原の時は、徳川方の東軍にあっさりと敗れた、西軍の毛利家が、260年後は、勝者と敗者が入れ替わって、毛利家の長州藩が、結果的に江戸の徳川幕府を倒す事になるのですから…

 

 下関市立歴史博物館の展示資料は、非常に貴重で、滅多にお目に掛かれない展示品ばかりで、時間を忘れて、一つ一つの資料を食い入るように見てしまいました。

 

 気がついたら、かなりの時間が過ぎていたのですが、その間、水木先生は何もおっしゃらず、ずっと待っていてくださいました。

 

 博物館の外に出ると、いつしか、夕方近くなっていました。

 

 水木先生は、今日観光するスケジュールを、色々と調整してくださり、これから最後の目的地へと向かいます。

 

 その場所は、山口県の最西端である関門海峡…

 

 全く初めて行く、本州の西の果て…

 そこには一体、何があるのか、ワクワクして心臓が飛び出しそうです!!

 

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