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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<23>関門海峡の思い出20.09.23

2020年9月25日(金)

 

 気がつけば、随分と外も涼しくなって、朝夕は上着を着ないと、少し肌寒いくらいです。

 暑い暑いと思っている内に、お彼岸も過ぎて、いつしか、もう秋なのですね。

 

 秋と言えば、芸術の秋…

 

 9月27日(日)~30日(水)の4日間、僕の書の師匠である、野尻泰煌先生が発足させた藝文会が主催する「第31回 泰永書展」が開催されます。

 

 東京の池袋駅から歩いてすぐの「東京藝術劇場」が会場で、入場無料ですので、ぜひ、よろしかったら、お越しになってみてください。

 もちろん、浅野太志(雅号:豊峰蓬莱)も、参加しております。

 

 さてさて、いつものように、去年の11月の出雲・山口の旅の続きのお話…

    もう、あきれて、そこを突っ込む気もしない(笑)

 

 功山寺のすぐそばにある下関市立歴史博物館で、圧巻の「関ヶ原展」を見終わった後、いよいよ、水木杏香先生との最後の旅の目的地である、関門海峡へと向かう事になりました。

 

 

 水木先生が運転する赤い車に乗って、海の方へ向かって、まっすぐの道を南へつき進んでいきます。

 

 ふと、車窓の外から潮風が感じて、窓の外を見てみると…

 

 

 目の前に、ものすごく大きな橋が架かっているのが見えました。

 この橋こそ、関門海峡に掛かっている関門橋(かんもんきょう)…

 

 今いるこの場所が、本州の最西端だと思うと、何とも不思議な気持ちになります。

 

 車を駐車場に止め、水木先生に案内されて、海の方へと歩いて行きました。

 

 

 11月だというのに、この日は小春日和で、夕暮れ時なのに割と暖かいです。

 

 海風が本当に気持ち良い…

 

 僕が住んでいる東京のど真ん中では、絶対に見る事はできない、まるで大自然の中に吸い込まれるような雄大な景色です。

 ここに連れてきてくださった水木先生に、心から感謝です。

 

 関門橋の方へ向かって、しばらく歩いて行きました。

 

 

 この橋の向こう側は、福岡県北九州市の門司(もじ)

 

 福岡って、ソフィさんが住んでいる場所だな… とか、携帯サイトでお世話になったコムドアーズがある場所だな… とか、未だにまだ、足を踏み入れた事がない福岡に、思いを巡らせました。

 

 高杉晋作の時代には、山口県(長州藩)と、目の前の福岡県の門司(小倉藩)は、敵同士の関係にあったんです。

 

 余談ですが、福岡県で一番大きな藩である初代藩主が黒田長政の福岡藩は、幕末の時代は、家老の加藤司書(かとう ししょ)や月形洗蔵(つきがた せんぞう)などの筑前勤王党が活躍して、正義派の高杉晋作を、強力にサポートしていました。

 

 ところが、乙丑の獄(いっちゅうのごく)によって、加藤や月形など多くの勤王志士が処刑され、福岡で高杉晋作をかくまっていた尼僧で歌人の野村望東尼(のむら ぼうとうに)も、この時に、姫島に流刑となっています。

    のちに高杉晋作が、小船で姫島に行って、野村望東尼を救出する

 

 高杉晋作の功山寺挙兵(2020/8/26 ブログ 「功山寺の誓い」 参照)によって、長州藩の藩論が「正義派」に戻ると、第2次長州征伐が始まり、岸の向こうの小倉藩も幕府側として、長州藩と戦う事となりました。

 

 そして、高杉晋作は軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」に乗って、福岡県側に上陸し、幕府軍を敗走させ、小倉藩の門司地区を占領しました。

 

 丁度その頃、長州征伐へ向かう途上だった、十四代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れて、20歳の若さで逝去…

 幕府軍は、これによって次々と撤兵していき、小倉藩の藩兵も、自ら小倉城に火を放って、逃走してしまいました。

 

 その頃、晋作から「火吹きダルマ」とあだ名をつけられていた、兵法の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州藩の石州口方面を守り、全く無駄のない合理的な戦術で幕府軍をことごとく敗走させる事に成功し、この第2次長州征伐は、完全な長州藩の勝利となりました。

 

 

 関門海峡沿いの道路を、波の音を聞きながら、ゆっくりと歩いて行きました。

 

 高杉晋作は、この小倉藩との戦争の最中、持病の結核が重くなった事で、海軍総督の任を解かれ、この下関の地で静養するも、そのわずか半年後に、27歳の若さで息を引きとります。

 

 その時、晋作のそばにいたのは、愛妾(あいしょう)おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の他に、正妻である雅子夫人に、晋作の一人息子の東一、晋作の父と母、そして、無二の同志・山縣狂介(有朋)と、野村望東尼でした。

 

 “面白き 事もなき世を 面白く”

 

 この句は、高杉晋作が詠んだ上の句です。

 それに、近くにいた野村望東尼が、 “すみなすものは 心なりけり” と、下の句を付け加えました。

 

 この「面白き…」の句は、以前までは、高杉晋作の辞世の句と言われていましたが、最近の研究では、死の前年には、すでにこの句が詠まれていた事が分かっています。

 

 僕はこの山口旅行を通じて、正直言って、今まであまり関心がなかった高杉晋作という一人の人物が、とても身近に感じられるようになりました。

 

 

 海岸沿いに、2つの大きな像がありました。

 

 こちら側の像が、源義経の像であり、向こう側の像が、平清盛の四男・平知盛(たいらのとももり)の像…

 建立されたのは2004年なので、比較的新しい像ですね。

 

 この場所が「壇ノ浦古戦場」である事を、水木先生が教えてくれました。

 

 壇ノ浦の合戦… 高杉晋作の時代よりも、関ヶ原の戦いよりも、遥かに古い平安時代末期の戦い…

 この戦いこそが、源平の最後の合戦であり、これによって、平氏は滅亡する事になります。

 

 武士としては初めて、朝廷の臣下の最高位である太政大臣に任じられ、日本で初めての武家政権を樹立したのが、かの平清盛です。

 「平家にあらずんば、人にあらず」という言葉は、清盛の義弟・平時忠(たいらのときただ)が言った言葉ですが、まさに平安時代後期は、平氏の権力は絶大であり、栄華を誇っていました。

 

 しかしながら、平氏のこの独裁体制は、やがて周りの反発を生み出していき、源氏によって平家打倒が叫ばれる中、平清盛も熱病で苦しみながら、この世を去っていきました。

 

 そして、源頼朝、頼朝の弟である範頼(のりより)や義経、木曾義仲(きそ よしなか)らの源氏勢力によって、平氏はどんどん追い込まれていき、逃げのびた平氏が最後にたどり着いた場所が、この本州最西端の地・壇ノ浦という訳です。

 

 海の向こうは九州ですが、頼朝の上の弟である源範頼が、先回りして九州に陣取っているので、もう、向こう側には逃げられません。

 

 そして、頼朝の下の弟である源義経が、平氏打倒の兵を挙げて、壇ノ浦に攻め込んできたのでした。

 

 卯の刻(朝の6時頃)に両軍が対峙し、戦闘が始まると、最初こそは、平氏は海軍に強い事もあって、かなり有利な戦いを展開し、義経の軍を苦しめていたんです。

 この下関海峡の潮の流れが、平氏に優位に作用していたのも、大きいです。

 

 ところが、この潮の流れが逆転したんですね。

 よく「人生の潮目が変わる」などと言いますが、これによって、この戦いの攻守が逆転し、ついに、平氏の命運もついえてしまいます。

 

 

 この船の錨(いかり)を持っている像は、平知盛の像です。

 コンピューターゲームの無双キャラみたいに、これを武器にして、義経と戦おうとしている訳ではありません(笑)

 

 この壇ノ浦の合戦で、平氏の総大将だった知盛は、戦いの敗色が濃厚になると、自軍の最期を悟り、「平家の命運はこれまでだ。敵に見られたくないようなものは、全て海の中に捨てるように」と、味方に指示を出しました。

 

 そして、船に乗っている女官に「これから、皆さんは、物珍しい関東武士の姿をお目に掛かる事になりますぞ(関東武士に体をもてあそばれて、辱めを受ける事になりますぞ)」と言って、暗に自決を促しました。

 

 それによって、平清盛の妻で、知盛の母である二位尼(にいのあま)は、わずか6才の安徳天皇を抱いて、入水自殺をしました。

 

 戦いの成り行きの全てを見届けた平知盛は、「見ておくべきものは全て見た。後は、自決するだけだ」と言って、重い錨を自分の体に巻き付けて、体が水の中から浮かび上がらないようにし、海の中へと消えていきました。

 

 何とも、悲しい話です。

 

 鎌倉にいた源頼朝は、書状に書かれた義経からの戦場の結果報告を読むと、しばらくの間、身動き一つしないで、じっと黙ったままでした。

 

 元々、源頼朝は、上の弟である範頼に「平家を追討するにあたっては、くれぐれも安徳天皇を無事に京都へお返しするように…」と言い含めていたのですが、下の弟である義経が、後白河上皇を通じて、後から戦闘に参加し、結果的に安徳天皇も、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)も、海に沈んでしまったのですから、何とも言えない気分だったと思います。

 

 源頼朝と源義経の兄弟が不仲になってしまった原因は、他にもいろいろとあるのですが、この壇ノ浦の戦いの結果が、二人の仲に大きな楔(くさび)を打ち込む事になったのは、間違いありません。

 

 

 関門橋の下を、いくつもの大きな貨物船が、ボーッという音を立てながら、通り抜けて行きます。

 心地よい潮風に吹かれながら、僕はしばらくの間、この関門海峡の岸に、たたずんでいました。

 

 あれから一年くらいたった今でも、目を閉じれば、あの関門海峡の景色と波音が浮かんできますね。

 

 水木先生が「日が暮れてしまう前に、次は、この近くにある赤間神宮に行ってみましょう」と、おっしゃいました。

 赤間神宮は、この近くにあって、この壇ノ浦の合戦で亡くなった安徳天皇が祭られている神社…

 

 近くとはいえ、徒歩だと15分ぐらいは掛かってしまいますし、僕が博物館見学に時間を掛け過ぎてしまった事で、時間がおしている事もあり、水木先生の車で、赤間神宮へと向かう事になりました。

 

 間もなく、水木先生との この山口の旅も終わり…

 

 黄昏が近づいて、少しずつ暮れゆく空を見ると、少しだけ、さみしい気分になりました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<22>それぞれの関ヶ原20.09.13

2020年9月13日(日)

 

 あっという間に、もう9月の半ば…

 今回は、かなりブログの更新が遅れてしまいました。

 

 この半月あまり、いろいろな事が身の回りに起こって、追い掛け回されるように、忙しく過ごしていました。

 

 気がつけば、もう後2ヶ月足らずで、出雲と山口に旅行した時から、一年が経ってしまうのですね。

     う~ん、このブログって一体…

 

 さてさて、水木杏香先生に、功山寺へ案内して頂き、その後、近くにあった喫茶店・珈琲gatto (コーヒーガット) で、少し休憩をして、いよいよ例の下関市立歴史博物館に向かいました。

 

 

 下関歴史博物館は、功山寺から歩いて2分ぐらい…

 本当に、目と鼻の先にありました。

 

 高杉晋作の墓所・東行庵の中にある東行記念館で、この歴史博物館のすごく興味をそそられる企画展のチラシを見つけてしまい、急遽、水木先生にお願いして、この下関市立歴史博物館に行くのを、旅のスケジュールの予定に、追加して頂いたのです。

 

 そのチラシとは…

 

 

 「関ケ原 天下分け目と毛利氏の戦い」の特別企画展…

 

 まあ、戦国時代の歴史に興味がない人にとっては、「ふ~ん、あっそう…」という感じでしょうね(笑)

 

 でも、この関ケ原展は、すごくレアなんですよ。

 たいがいの関ヶ原の合戦関係の展覧会というのは、東軍の代表である徳川家康と、西軍の代表である石田三成に主眼を置いて、語られます。

 

 でも、この企画展の主役は、家康でもなく、三成でもなく、毛利家であるといった所が、珍しいんです。

 

 おそらく、このような関ヶ原の展覧会は、山口に行かなければ、見られないと思います。

 

 ちなみに、西軍の総大将は石田三成だと思われる人もいるかも知れませんが、それは正しくありません。

 

 もちろん、実質的には西軍を統率しようとしていたのは、石田三成ですけど、一応、形としては、毛利輝元が西軍の総大将だったのです。

 

 石田三成は、朋友である大谷吉継から「お主は人望がないから、総大将は毛利輝元か宇喜多秀家を立てて、陰に徹せよ」という、手厳しい助言を受けて、毛利輝元に、総大将を頼んだのですね。

(2014/1/5パリブログ 「カッコよく恩に応えたい」 参照)

 

 だから、本当の西軍の総大将は、まぎれもなく、毛利家であり、どんな行きさつで負けてしまったかは、僕が8年前に書いたパリブログに、かいつまんで書いておりますので、そちらをご覧頂けると、嬉しいです。

(2012/11/8パリブログ 「周りの人に流されない」 参照)

 

 それにしても、この企画展の副題が「長府(ちょうふ)藩初代藩主 毛利秀元生誕440年記念特別展」となっているのが、面白いです。

 

 関ヶ原の戦いで、毛利家の代表として参戦しながら、吉川広家や、毛利家の家老・福原広俊(ふくばら ひろとし)に騙されて、一歩も兵を動かせなかった毛利秀元からしてみれば、自分の生誕記念に、人生の汚点である関ヶ原の特集なんかされても、嬉しくも何ともないと思うのですが…

 

 

 この下関市立歴史博物館は、4年前の2016年11月18日に、リニューアルオープンしたのですが、それまでは「長府博物館」と呼ばれていたのです。

 

 長府藩というのは、長州藩の支藩であって、その長府藩初代藩主が、さっきの毛利秀元です。

 

 早速、中に入ってみると、元々は長府ゆかりの博物館だけあって、毛利秀元の事が、大々的に紹介されていました。

 

博物館の中に入って、すぐの所の壁に「毛利秀元の文武 ―眼差し元就に少しも異ならず―」と、大きな文字で書かれたプレートがあります。

 

 毛利秀元は、毛利元就の四男である、穂井田元清(ほいだ もときよ)の次男として、生まれたのですが、毛利家の血を絶やさないようにと、叔父である小早川隆景によって、当時、嫡男のいなかった毛利輝元の養子に入れられました。

(2012/11/7パリブログ 「団結する事で、困難が乗り越えられる」 参照)

 

 でも、その後、毛利輝元に実子が生まれると(のちの、毛利秀就)、秀元は、宗家の後を継ぐ事を辞退します。

 

 その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、秀元は戦功が多く、秀吉からも認められて17万石を与えられ、毛利家の別家を創設する事を、許されました。

 

 関ヶ原の戦いでは、色々とあって、毛利家は120万石から、たった36万石に減封されてしまいますが、この時、秀元は、毛利領内において、長府の地に支藩と作る事を許され、支藩長府藩の藩主となっています。

 

 そして、天下が徳川に傾くと、秀元は、徳川家康の養女である浄明院(じょうみょういん)を正室に迎え入れ、三代将軍家光の御伽衆(おとぎしゅう)としても、活躍しました。

 

 毛利秀元は、お人良しで周囲に流されやすい輝元とは違い、非常に有能で、頭の良い戦国武将です。

 

 

 博物館の入り口付近には、関ヶ原で西軍についた大名達の旗がいっぱいありました。

 

 ちなみに、東軍の大名の旗は、一本もありませんでした。

  まあ、ここは西国・毛利の地ですから…

 

 エントランスで、観覧料を確かめると、今回の関ヶ原の観覧だけなら500円で、博物館の常設展も、一緒に拝観する場合は、700円でした。

 

 水木先生と相談して、せっかく維新の街の歴史博物館に来たのですから、常設展も一緒に見る事にしました。

 

 まずは、常設展を先に見てみました。

 

 

 なんと、高杉晋作が連合国4ヶ国との和平交渉(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の時に、かぶっていた網笠です。

 

 所々、穴が開いて、ボロボロですね(^^;;

 

 でも、これを、今から150年前に、高杉晋作がかぶっていたのかと思うと、何とも感慨深いです。

 

 特別企画展である「関ヶ原 天下分け目と毛利氏の戦い」の展示物は、撮影禁止となっていましたが、こちらの常設展の方は、ありがたい事に、写真撮影OKでした。

 

 

 これ、下関戦争の時に、実際に使われていた大砲です。

 

 下関戦争の発端は、久坂玄瑞(くさか げんずい)が率いていた光明寺党が、外国船に発砲した一発です。

 それで、その翌年、4ヶ国連合艦隊が報復に攻めてきて、長州砲台は壊滅し、占領されてしまいます。

 

 実はこの大砲、下関戦争の戦利品として、フランス軍によって、パリに持ち帰られてしまったんです。

 

 その13年後、パリに留学していた西園寺公望(さいおんじ きんもち)が、パリのアンヴァリッドに入った時に、偶然この大砲を発見…

 

 その後、昭和に入ってから、外務省がフランス政府に「あの大砲を返して欲しい」と、返還請求をしていましたが、「そういう前例を作れば、世界各国から得た戦利品を、全て返さなくてはいけない事になってしまう」と、フランス政府に渋られ、中々返還してもらえませんでした。

 

 この大砲が、はるばるパリから戻ってきたのは、なんと昭和59年…

 

 という事は、120年もの間、この大砲はパリに滞在していたのですね。

  3週間で終わった僕のパリ滞在が、やたら短く感じられる…

 

 大砲さん、パリへの長旅、お疲れ様でした(^^)

 

 いよいよ、これから、目的の関ヶ原展のコーナーに入ります。

 

 撮影禁止なので、写真でお見せできないのが残念なのですが、そこには、本当に膨大な資料がありました。

 

 東軍の武将の資料は、あまりないのかと思っていましたが、そうではありませんでした。

 

 徳川家康の木像とか、家康の感状、そして、井伊直政・本多忠勝 連署起請文(きしょうもん)なんかも、ありました。

 

 有名な「内府ちがいの条々(じょうじょう)」も、ありましたね。

 これは、家康を弾劾すべく、13項目の条項が書かれた書状です。

 

 よく、内府ちがいの条々は、石田三成によって、発せられたように言われますが、実際には三成の署名はありません。

 この時、三成はすでに、武断派七将による襲撃事件によって失脚し、五奉行を退いているので、そんな権限はなく、内府ちがいの条々の署名は増田長盛、長束正家、前田玄以の3人の奉行となっています。

   ちなみに、残りの1人の五奉行・浅野長政は、この時、失脚している上に、家康方についています。

 

 当然ですが、この書状には、毛利輝元の署名はありません。

 だから、吉川広家も「輝元は勝手に、西軍の総大将に担ぎ上げられているだけだから、所領を安堵してほしい」と家康に頼んたのですね。

 

 毛利家の外交僧・安国寺恵瓊の像もありました。

 安国寺恵瓊は、豊臣秀吉がまだ信長の家臣だった頃に会い、やがて秀吉が天下を取るであろうと見抜いた人です。

 さすがに、家康の天下までは見抜けず、関ヶ原で西軍が負けると、乱の首謀者として、京都の六条河原にて散っていきましたが…

 

 この特別展は、毛利秀元や毛利輝元の書状の展示物が、非常に多かったのが、印象的でした。

 

 長府ゆかりの毛利秀元が、何となくですが、この特別展の主役になっているように、感じました。

 確かに、この企画展の副題が「毛利秀元生誕440年記念特別展」ですから、無理もありません。

 

 そして、当然ながら、ここには吉川広家の書状も、展示されていました。

 この吉川広家と徳川家康との手紙のやり取りこそが、東軍に勝利をもたらしたと言っても、良いでしょう。

(2014/11/2パリブログ 「手紙に込められた真心」 参照)

 

 毛利輝元や秀元にとって、吉川広家は東軍と通じていた裏切り者という事になります。

 

 しかしながら、もしも吉川広家が、西軍の総大将になってしまった毛利輝元の事を、家康に何度も詫びて、家康から自分に与えられるはずだった周防と長門を、毛利家に差し出さなかったなら、毛利家という大名は、この時に、消滅していた事も事実です。

 そういった意味において、吉川広家は、毛利家の救世主とも言えます。

 

 結果的に、毛利家の領土は、吉川広家がもらうはずだった周防と長門の36万石になってしまいましたが、その中で、吉川家に任されたのは、岩国3万石の所領でした。

 

 毛利家には、毛利秀就(輝元の実子)の宗家である長州藩の他に、毛利秀元の長府藩、そして、徳山藩、清末藩という支藩がありましたが、吉川広家の岩国領は、毛利家の直轄地という扱いであり、支藩としての届け出もされていませんでした。

 

 つまり、吉川広家は毛利家の一家来であって、岩国領の統治をやらせてやっているだけ… みたいな扱いだったんですね。

 

 元々、吉川家は国持ち大名であり、広家の父・吉川元春は、毛利元就の次男で、毛利家当主である輝元の叔父あって、毛利家を支えた功績は大きいのですし、本来、この36万石だって、家康が広家に拝領させるつもりの土地だったのですから、この扱いはあんまりだと思うのですが(笑)

 

 まあ、毛利家宗家からすれば、もしも吉川広家が内通していなくて、関ヶ原の南宮山に陣取っていた3万3千の軍が、そのまま東軍の家康の陣に突っ込んでいたら、確実に勝てたのに… という思いがありますから、いたし方ない部分は、あるとは思います。

 

 徳川将軍家も、この事をよくわかっていて、吉川広家の岩国領には、特別に直接将軍と謁見する権利が認められていて、さらには、岩国は藩にもなっていないのに、吉川家は江戸屋敷を持つという、大名クラスの特別待遇となっていました。

 

 

 関ヶ原展のパンフレットに載っていた、関ヶ原の合戦の屏風絵…

 

 これは元々、井伊直政の居城である彦根城にあったものだそうです。

 ひときわ、画面右側の赤色の軍団が目立ちますが、これが「井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)」です。

 

 あの関ヶ原の合戦において、東軍と内通して、毛利家宗家から嫌われ者になってしまった吉川広家、関ヶ原では広家の陣にさえぎられて何一つ活躍できなかったものの、陰からずっと毛利家を支えた毛利秀元、そして、東軍からの手紙が届くやいなや、さっさと大坂城から退去してしまった、西軍総大将の毛利輝元…

 

 関ヶ原の時は、まるでバラバラだった3人の子孫達ですが、この260年後の、幕府連合軍による長州征伐の時には、一致団結して、それぞれの立場を生かして、毛利家を守りました。

 

 吉川家の立場は、毛利家においては、隅に追いやられていましたが、将軍家と仲がいい吉川家は、幕府お抱えの毛利家のお目付け役のような存在でもあり、第一次長州征伐の時も、幕府軍と折衝をしたのは、吉川広家の子孫である吉川経幹(つねまさ)でした。

 

 江戸幕府大目付の永井尚志(なおゆき)は、毛利宗家の子孫である藩主・毛利敬親(たかちか)と世継の定広を、後ろ手にして、罪人として幕府軍に引き渡す事を、吉川経幹に条件として、つきつけると、吉川経幹は顔面蒼白となって「この上は、長州藩と支藩全軍で徹底抗戦する」と主張…

 それを見かねた幕府連合軍の参謀・西郷隆盛は、永井尚志に条件を再考する事を主張し、結果的に、藩主父子は謝罪文書を提出するだけで、良い事になりました。

 

 また、永井尚志から「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と聞かれた時も、吉川経幹はあっさりと「死にました」と答え、維新の原動力となる二人を、うまく匿う(かくまう)事に成功しました。

 

 第一次長州征伐の後、俗論派が台頭するようになると、藩主の毛利敬親父子は、俗論派の支持に回り、藩論はすっかり江戸幕府恭順になってしまいましたが、高杉晋作が功山寺挙兵をして、藩内が騒然とすると、毛利秀元の子孫である、支藩長府藩藩主・毛利元周(もとちか)は、藩主の毛利父子に、直ちに諸隊の追討命令を取り消して、正義派の建白書を受け入れるように提案し、敬親父子はこれを了承…

 その結果、俗論派の首魁・椋梨藤太(むくなし とうた)は地位を追われ、高杉晋作のクーデターは成功し、長州藩に正義派が返り咲き、これが明治維新の大きな原動力となっていきました。

 

 歴史は繰り返す… と言いますが、不思議なものです。

 

 関ヶ原の時は、徳川方の東軍にあっさりと敗れた、西軍の毛利家が、260年後は、勝者と敗者が入れ替わって、毛利家の長州藩が、結果的に江戸の徳川幕府を倒す事になるのですから…

 

 下関市立歴史博物館の展示資料は、非常に貴重で、滅多にお目に掛かれない展示品ばかりで、時間を忘れて、一つ一つの資料を食い入るように見てしまいました。

 

 気がついたら、かなりの時間が過ぎていたのですが、その間、水木先生は何もおっしゃらず、ずっと待っていてくださいました。

 

 博物館の外に出ると、いつしか、夕方近くなっていました。

 

 水木先生は、今日観光するスケジュールを、色々と調整してくださり、これから最後の目的地へと向かいます。

 

 その場所は、山口県の最西端である関門海峡…

 

 全く初めて行く、本州の西の果て…

 そこには一体、何があるのか、ワクワクして心臓が飛び出しそうです!!

 

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