幸せも不幸も、自分の心で作り出す18.01.25
2018年1月25日(木)
今日は、パワーアップ女子会・番外編2018-転生記念日~の準備に、一日明け暮れていました。
セミナーの出し物に関する事で、いろいろと取材をしようと、新宿NSビルの「サロン・デュ・ショコラ」を見てきたり、新宿をあちこち動き回っていました。
これは日々思う事なのですが…
僕も含めてみんな誰でもそうだと思うのですが、日々のコンディションは微妙に違うし、何をやってもついているという日もあれば、中には、やる事なす事全てが空回りで、ムシャクシャするような日もあると思います。
「今日はムシャクシャするなあ… 」と思っていると、どういう訳か、電車の乗り継ぎの間が悪かったり、信号を渡ろうとする度に、決まって赤信号になったり… と、本当にタイミングが悪い事が続くものです。
こういう日は、本来だったらすんなりいくような事も、忘れ物をしたり、うっかり道に迷ったりとかで、うまくいかなかったりと、とにかく散々な結果になります。
それにしても、こういう日は、タイミングの悪い偶然が立て続けに起こるから、本当に不思議です。
でも、ここで少し立ち止まって、ネガティブな感情にどっぷり浸かっている自分を、遠くから冷静に見つめてみると、案外、そのタイミングの悪い偶然というのは、単なる思い込みに過ぎないという事がわかります。
調子が悪い時には、たまたま電車の乗り継ぎが悪かったり、歩いていて赤信号に出くわしたりすると、「なんで、こんなにツイてないんだ…」 と嘆くのですが、仮にこういう時に、電車がすんなり来たりしても、あんまり気にとまらなかったりします。
ツイてない日というのは、まるで心がアトピーに罹ったみたいに、ちょっとした事が起こっただけでも、ものすごく過敏になったり、いつもなら腹を立てるような事の無い些細な事にも、どういう訳か腹を立ててしまいます。
こういう時は、体中から不機嫌オーラが出ているので、思わぬ所で、人とトラブルになる事もあるでしょう。
こうなってくると、もう「単なる気のせい」などという問題ではなく、本当に最悪の一日になってしまいます。
ちなみに、コンディションの良い日は、本当に何をやってもツイているのかというと、冷静に考えると、そんな事はありません。
調子の良い日だって、電車の乗り合わせが悪い時もあるし、信号を渡ろうとした途端に、タイミング悪く、赤信号になる事もあるのですが、そんな事は気にもならないので、意識に残る事もなく、忘れさられてしまいます。
こういう日には、どんな些細な事でも、ちょっとラッキーな事が起こると、すごく嬉しくなるし、心から感謝の気持ちがわいてきます。
そういう時は、体中から幸せオーラが出ているので、明るい人たちが集まってきて、自然と良くしてもらえたり、素敵な異性から声を掛けられるといった事があったとしても、不思議ではありません。
結局の所、幸せも不幸も、自分の心で作り出しているに過ぎないという事がわかります。
まれに、ただコンディションが良いという理由ではなく、何か大きなものに守られているように、何もかもがタイミングが合うという日も、人生の中にはあったりしますが…
(2013/2/26 パリ・ブログ 「あの日起こった奇跡」 参照)
コンディションが悪くて、何をやってもタイミングが悪いという時、冷静に自分を顧みると、自らドツボにハマるような行動を取っているという事があります。
どう考えても、一番時間が無駄になりそうな要領の悪い方法を試してみたり、普通ならまずしないような、失敗しそうな危なっかしい行動をとってみたりとか、わざと自分が不幸になりそうな事を好んでやりがちです。
これは、自分の中に存在している破壊願望なのかも知れません。
そんな時でも、冷静に自分に立ち返って、自分の事を見つめなおすと、そのコンディションが悪い状態から抜け出す事ができます。
こういう時には、焦ったり、負けを取り戻そうとしない事ですね。
ツイていない事が続いても、冷静になって、わざと呼吸をゆっくりしながら、落ち着いて行動してみる…
そして、忘れかけていた感謝の気持ちを呼び覚まして、ニッコリと微笑む事ができた時には、すでに悪いコンディションから脱する事ができているはずです。
運気が低迷期であっても、低迷しない方法18.01.19
2018年1月19日(金)
ついに、このブログも、まるで「やさしい風のように」の時のように、週1ペースとなってしまいました(笑)
とはいえ、2月3日までは、毎日更新の「占い暦」と並行して更新していますから、どうか、その辺りは大目に見てやってください。
このブログは更新できていませんが、ここの所毎日、まるで追われるように忙しく過ごしています。
確かに忙しいけれど、毎日がものすごく充実しています。
僕もこれまでの人生、今のように運気の流れが好調な時期もあれば、何をやってもうまくいかないような低迷期というのもありました。
僕自身は、「低迷期」とか「衰運期」とかいう言葉は、好きではないのですが、それでも、確かに人生には、たくさんの事を学ぶ為に「物事を熟成させていくような時期」というのは、あるでしょう。
その時期は、「絶対に何をやってもダメ…」 というような意味で存在するのではなく、自分の足りない所を補う為に、いろんな事を学んでいく為に存在していると、考えるべきです。
だから、過去のブログで何度も言っていますが、巷の占い師がよくすすめるように、そういう時期に「家にこもって、何もしないでじっとしている」という選択をするのは、最悪なんですね。
(2012/12/12 パリ・ブログ 「究極の速攻開運術」 参照)
もちろん、わざわざ自分の調子の悪い時に、人生の大勝負を掛ける必要はありませんが…
では、こういう時期には、絶対に運は開かないかと言ったら、そんな訳はありません。
実は、低迷期に運を開く、とっておきの方法があるんです。
それは、自分と相性の良い、運気が絶好調の人を見つけて、その人のピッタリとくっついてしまうという方法です。
その時は、その運気の強い人の選択に、基本的には、身を任せるようにした方がいいですね。
前回のブログ(生年月日時の運命よりも上位にあるもの)で、生年月日時以上に優先されるべき運命の要素があるという事を述べましたが、住んでいる地域によって、運命が変わってしまうように、自分と運命を共にしている人によっても、運気は変わってきてしまいます。
もしも、自分の運気がどんなに良い状態であっても、ものすごく運気が低迷している社長さんの所で働いていたなら、当然ながら、その影響を受ける事になります。
もちろん、運気の法則の中には、「運気の良い人は自然と運気の良い人と結びつきやすく、運気の悪い人は自然と運気の悪い人と結びつきやすい」という法則はあるのですが、運気が今一つの人でも、自分を謙虚にして、相手に譲るという事を心掛ける事によって、運気の良い人にぴったりと寄り添う事ができます。
歴史上の人物で言えば、徳川家康の中年期の頃の生き方がそうだったと思うんですね。
四柱推命上で見ても、家康の中年期の運気は今一つの時なのですが、家康はその時期、旭日昇天の勢いの豊臣秀吉にピッタリとくっついていました。
だから、秀吉の運気のあおりを受けて、豊臣政権時代も常にナンバー2であり続ける事ができたし、その時に、秀吉の政策や、内政や政治的手腕をしっかりと吸収して、見事に全部自分のものにしています。
あの低迷期の時代に、もしも家康が隠居などをほのめかして、家にこもってじっとしていたのなら、その後の家康の天下は、無かったと言って良いでしょう。
諸大名が居並ぶ中で、秀吉の前で床に頭をこすりつけたり、秀吉の命令で、先祖代々の地である三河や苦心して手に入れた遠江・駿河・甲斐・信濃を手放して、当時は片田舎だった関八州に移ったりと、確かに苦労はありましたが、その秀吉の命令を聞いたのが、やっぱり良かったと思うんですね。
これとは対照的に、織田信長の次男である織田信雄は、秀吉の命令に背いて、先祖代々の尾張の地を手放す事を拒んだ為、改易されて流罪になっています。
ちなみに、自分の運気が今一つの時というのは、どうしても感謝の気持ちが不足しがちになるものですが、そういう人は、やっぱり運命通りに、運気が今一つのままで終わってしまいます。
感謝の気持ちを忘れる事無く、運気が強いて、立派な生き方をしている人に、寄り添うようにピッタリとくっついていたなら、例え自分が低迷期であっても、間違いなく、運というのは開いていくものです。
生年月日時の運命よりも上位にあるもの18.01.12
2018年1月12日(金)
ここの所、本当に寒い毎日が続いています。
新年から5日目までは、勢いよく毎日更新したこのブログですが、この寒さで風邪でひいて、思い切り体調を崩してしまい、たった5日間にて、連日更新記録は断念しました(笑)
今度のブログは、内容を充実させる事を優先させて、更新については、気楽にやろうと思います。
それにしても、体調を崩してみて、本当にしみじみと健康のありがたみというものを感じました。
いくら、目の前にチャンスがあっても、もしも、体が思うように動かなかったなら、どうにもなりません。
四柱推命の八字では、年柱の六十干支(60)×月柱干支(12)×日柱干支(60)×子の刻を2つ考慮する時柱干支(13)で、561,000通りに運命を分ける事ができます。
ちなみに、「鉄板神数」という占い(おみくじに近い)を用いれば、1刻をさらに15分ごとに8つに分けるので、60×12×60×(12×8)となって、運命の分け方は、4,147,200通りに跳ね上がります。
よく、生年月日と生まれた時間が、同じだったら、運命も本当に同じになるのかという質問を受ける事があります。
「それは当然の事です」とか「生年月日と出生時間さえわかれば、本当は寿命だって、わかるんです」とか、堂々と言ってしまう占い師さんも、中にはいらっしゃるようですが、それはちょっと早計過ぎます。
「もしも運命が同じにならなかったら、四柱推命のような生年月日と生まれた時間で占うような命理の占いは、当たらないという事になってしまう… 実際、この占いは当たっているのだから、生年月日時と運命というものは連動しているに決まっている…」 そういう論理を根拠にしているのだろうとは想像はつくのですが、これでは、占いアンチから揚げ足を取られても、文句は言えません。
1日に生まれてくる子供の数は、世界中に約382,000人、日本だけだと約2,900人となり、四柱推命なら、同一の八字は世界中で3万人、日本だけなら290人いる事になります。
当然ながら、これらの人が、全て同じ運命になるなんて事は、どう考えたってありえません。
(もちろん、それでも運気のバイオリズムだけは、酷似するのですが…)
ここで忘れてはいけない事は、人の運命には、「生年月日時以上に優先されるべき要素がある」という事でしょう。
当たり前の話ですが、生まれた国が違ったら、いくら生年月日時が同じであっても、導かれる運命は全く別のものになります。
もしも、内戦の最中のアフガニスタンに生まれたなら、生まれながらに、常に命の危機にさらされる事になります。
我々は、日本という国に生まれて、ついつい自分達の環境が非常に恵まれている事を忘れてしまいますが、生まれた国が違ったならば、毎日の食事も、満足に口に出来なかった可能性もあります。
世界の開発途上国では、1分間に17人という子供が、栄養失調によって、亡くなっているというのが現実ですから…
ここの所、ずっと寒い日が続いていて、冬が苦手な僕には、本当に辛いのですが、アラスカやロシアの北部や、グリーンランドなんかは、おそらく1年中こんな感じでしょう。
これとは逆に、アフリカの赤道直下なんかですと、この逆で、1年じゅう猛烈に暑くて、常に食糧不足です。
常に、炎天下の日差しにさらされていたなら、人間は誰だって、暑さでバテて、無気力な状態になるものです。
開発途上国は、こういった暑すぎる地域に密集しているのに対して、先進国というのは、比較的気候が落ち着いた地域に広がっているというのも、うなずけます。
住んでいる地域の運気(その国の運気や、その地域の運気)というのが、生年月日時の運命以上に、優先的に影響を与える事だけは、間違いなさそうです。
もちろん、中には、住んでいる場所を離れる事によって、自力で場所の運気の影響による呪縛から抜け出す人もいます。
でも、ほとんどの人は、そう簡単にはいかないでしょう。
逆に、どんなに生年月日時のバイオリズムが良くても、もしも、運気の落ちた場所に足を踏み入れてしまえば、巻き添えをくうという事もあるという訳です。
他にも、人の運気には、生年月日時では説明のつかない、家系の先祖や、その人の生まれながらに持っている徳というもの影響もあるでしょう。
そして、それらの影響を間違いなく受けているという事を知った上で、生年月日時の占いを見ていく必要があります。
もちろん、運命というものは、絶対にこうなると決まっている訳ではありません。
与えられている運命をより良く変えるのが、五行哲学である四柱推命の本来の目的であり、四柱推命は、その為のツールであるという事を、決して忘れないようにしたいものです。
信仰と宗教の違いと、占いとの関係18.01.05
2018年1月5日(金)
新年も今日で5日目…
三が日は、明治神宮とサロン ド シルフィーユの産土神社である中野氷川神社、そして今日は、自宅の産土神社である鷺宮八幡神社と、ここの所、ずっと神社巡りをしています。
神社に行って、何か願い事をしているという訳ではありません。
では、何で神社参拝に行くかと言ったら、神様に、新年のご挨拶をしようという気持ちからでしょうか…
神社に行くのは、昔から好きですね。
何となく、すがすがしい気持ちになれるから…
別に僕は、何かの宗教をやっている訳ではありません。 かと言って、無神論者という訳でもなく、自分の中で信仰というものは持っています。
宗教と信仰との違いは、すごくわかりにくいし、どちらの言葉にも、たくさんの定義があるので混乱しますが、少なくとも、信仰イコール宗教ではありません。
場合によっては、宗教的なニュアンスで「信仰」という言葉を使う事もありますし、「宗教」と言っても、仏教・神道・キリスト教といった、比較的日本で一般的に受け入れられている宗教から、はたまたカルト宗教のようなものまで、幅広く存在するので、これらの言葉をきちんと説明するのはとても難しいのですが…
一応、ここでの定義としては、「信仰」とは、「神なるもの」(この言葉を「天」でも、「仏」でも、「宇宙」でも「太極」でも「全体意識」でも、好きなものに置きかえて構いません)を信頼する気持ちであり、「宗教」とは、その信仰を、ある程度形骸化したようなものというようなニュアンスで、使い分けていければと思います。
だから、宗教を信仰の一つのスタイルと呼んでも、別段間違いではないと思うのですが、信仰とは宗教の事だと思われてしまうと、それは、的外れと言わざるを得ません。
信仰というものは、決してそんな特殊なものではなく、多くの人が意識するしないにかかわらず、自然と心の中に持っているものですから…
とはいえ、信仰はもちろんですが、僕は、宗教というものだって、別段、必ずしも悪いものだとは思ってはいません。
まあ、オウム真理教のように、明らかに反社会的なものや、相手の人の迷惑を考えないで、勧誘をしてくるような宗教に関しては、話は別ですし、何でも教祖様の言いなりになって、教祖様の教えがなければ、何も行動できないような人になってしまったのなら、それはそれでいろいろと問題ではありますが…
信仰とか宗教というのは、パソコンで例えるなら、ウィルスソフトのようなものではないか、という気がするんですね。
ウィルスソフトとは、外部から、コンピューターウィルスが侵入した時に、そのウィルスを発見して隔離するソフトです。
確かに、ウィルスソフトがパソコンにインストールされると、コンピューターが重くなって、若干動きが遅くなります。
遅くなる度合いは、そのウィルスソフトの性能によって、異なりますが…
その代わり、ウィルスソフトは、外部から侵入するコンピューターウィルスによって、パソコン内部が破壊されるというリスクを、格段に抑えてくれます。
まあ、今時のコンピューターの9割以上は、だいたい最初からウィルスソフトがインストールされていますね。
信仰や宗教もこれと同じで、例えそういったものを持っていなくったって、普段の生活では何ら問題はないのですが、人生上の大きな挫折や壁に直面した時に、心が信仰を持ち合わせていないと、世界に対する不信感のあまり、自暴自棄になって、自から悪の道に足を踏み入れてしまうようなリスクがあります。
もしも、そうなってしまったのなら、いつしかその人は、この世界に害を及ぼす存在ともなるでしょう。
もちろん、宗教をやっていた所で、それが信仰のレベルまで達していなかったなら、大して変わりないと思いますが…
ちなみに、パソコンに新しいウィルスソフトをインストールする時には、それまで使っていたウィルスソフトをアンインストールしてから行わないと、ソフトがコンピューター内で競合して、システムが不安定になります。
宗教もこれと同じで、新しい宗教を始めたなら、前にやっていた宗教は一旦クリアにしておかないと、教義や教理の折り合いがつかなくて、精神が不安定になります。
でも、宗教のような教理教義に囚われるような事もなく、自分なりの信仰という形で、大きなものとのつながりを感じられている分には、こういった事は起こりません。
時に、宗教は、世界中の争いの火種となる事があります。
やれ「うちの神様が本物だ」とか「お前の所の神様は偽物だ」とか「そうではなくて、神様より仏様の方が偉いんだ」とか「イエスを信じない人は、全員地獄に落ちます」とか、宗教の狭い教理教義にがんじがらめになっている人というのは、とにかく自分の信じているものが一番正しいと思いこんで、他人の宗教を批判したり排除する事に、躍起となっています。
だから、世界中に宗教戦争が絶えないんですね。
八百万の神様も、仏様も、キリスト教の中の主も、宇宙意識も、太極も、人によって、その呼び方が違うだけで、実の所、同じものを言っているに過ぎないという事に気づけるのが、本来の信仰だと思う…
人によって考え方が違うのは当たり前なんですから、それを超えた所で、お互いの事を尊重する事ができる人が、本物だと思うんですね。
もちろん、信仰というものを全く持たないというのも、一つの選択肢だと思います。
ただ、そういった心の拠り所を否定して、神も仏もこの世には存在しない… という考え方でいる事は、一つ間違えば、個人主義に陥りやすいリスクがありますし、もしも、世界中の人が個人主義にというものに陥ってしまったのなら、間違いなく世界は崩壊します。
(2012/9/9 パリ・ブログ 「権利を主張しすぎると幸せが逃げる」 参照)
それに、大きなものとのつながりを感じる事ができないと、心がどんどん枯れていきますから、パワーが続きません。
心にそういった拠り所がない人は(仮に何かの宗教をやっていたとしても、それがただのお陰信仰で終わっていれば、同じ事ですが…)、大きな意識と切り離されているから、いつも、不安に怯えているような状態になりやすいです。
まだ、自分の我力だけで人生を切り開いていける内は、良いのですが、そんな時でも、知らずに知らずに「全て自分の力でここまで来たんだ」というような、傲慢な気持ちに陥ってしまいやすくなりますし、そうなってしまうと、運から見放されて、頑張れば頑張るほどに空回りするような事にも、なりかねません。
本当に一流の成功者というのは、宗教に入っているかどうかは別として、何らかの形で、信仰心というものを持っています。
そこには、「決して、人は自分の力だけでは生きられないんだ…」 とか、「天から生かして頂いているんだ…」 と考える謙虚さがあったりします。
占い師も、そういった意味で、宗教は別にどっちでもよいのですが(逆に、宗教に勧誘してくる占い師は、もう最悪です…)、信仰というものは、どちらかというと、あった方が良いような気がするんですね。
そういう占い師というのは、常に謙虚ですし、大きなものとのつながりを心で感じている分、鑑定もよく当たります。
特に、卜占を行う占い師には、こういった要素は、必要不可欠のような気がします。
そして、何よりも、より高みのある見地から、占いの結果を判断して、お客様にそれを伝える事が、できるような気がするんですね。