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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<30>旅の終わり20.12.30

2020年12月30日(水)

 

 いよいよ2020年も、明日の12月31日を残すのみ…

 一年というのは、本当にあっという間ですね。

 

 2021年も、どうか皆様にとって、素晴らしい一年になりますように…

 

 僕の四柱推命講座の中級編の受講生でもある、くるみさんが、今年に引き続き、来年2021年がどんな年になるかを占ってくださいました。

 

 全体編と十干編の記事があるのですが、前回同様、僕も監修させて頂いております。

 皆さま、ぜひ、ご覧になってみてください(^^)

 

 四柱推命で読む2021年の運気(全体編)

 https://suimei-note.com/archives/16883

 

 四柱推命で読む2021年の運気(十干編)

 https://suimei-note.com/archives/16886

 

 僕にとって、来年は、仕事のやり方そのものを、ガラリと変えていく一年にしていくつもりです。

 

 今の全部一人でやるやり方ですと、やはり仕事を回しきれませんし、「来年の内に達成する」とみんなの前で誓った目標が、目の前の仕事に追われて、成し遂げられない恐れもありますから…

 

 だから来年は、四柱推命講座のやり方や仕事の運営を、ある程度まで人に任せて、僕はできる限り、執筆活動に専念しようと思っています。

 

 実は一昨日、こんなコロナ騒ぎの中ではありましたが、この出雲・山口の旅で知り合った素敵な仲間と共に、箱根三社に参拝して来たんです。

 

 これからしばらくは、神社参拝に遠出するような時間も取れないでしょうから、改めて、箱根の神様の前で、自分の誓いを立ててきました。

 

 ここ最近、目標に追われ続けて、煮詰まっていたのですが、久しぶりに神社に行ったら、目の前の霧が晴れて、視界が開けた気がしました。

 

 これから先は、自分の時間もきっちり管理していかなければならないし、今までの甘い仕事のやり方では、通用しなくなってくる…

 

 でも、占いとか精神世界に関する仕事では、結果を出す事だけに、あまりにも心が囚われてしまうと、大切な事を見失ってしまいかねない…

 

 だから、これから仕事をある程度人に任せるようになって、多少、現実的な収支計算もしていかなければいけないような立場になっても、決して、利益主義だけに走って、大切なものを見失ってしまわないようにしようと、改めて誓いました。

 

 仕事の結果も、お金も名誉も、あの世に持って行ける代物ではありませんから、そんな事に心が奪われてしまったら、精神世界を扱っている人間としては、失格です。

 それに、そういう事に囚われない心の持ち方をしていた方が、結果的に、この世の成功だって、長続きするはずです。

 

 とはいえ、人間は弱いものですから、僕だって、いつしか物質世界に溺れて、本当に大切な事を忘れてしまう可能性がないとはいえません。

 もしも、僕がそんな風になってしまったなら、どうかその時は、気づかせてくださいね。

 

 という事で、30回にわたる「西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~」も、今日が最終話…

 

 長い旅が終わり、いよいよ東京へと帰らなければいけない時がやってきたようです。

 

 種田山頭火の句に思いを馳せながら、僕は、大きなスーツケースをゴロゴロと押して、新山口駅北口にある、山口宇部空港行きのバス停へと向かいました。

 

 バス停でバスを待っている人の列の最後尾に並び、バスの到着時刻まで、しばしの間、時を待ちます。

 

 

 山口宇部空港は、新山口駅から南西方向に、直線距離で約21kmの所にあります。

 バスの乗車時間は、約30分…

 

 そして山口宇部空港から、羽田空港行きの飛行機「SFJ016便」に搭乗し、約1時間半で東京へ着く予定です。

 

 空港行きのバスを待っている人は、ほとんどが仕事帰りのサラリーマンやOLで、家族連れの方はいませんでした。

 

 待つ事10分ほど…

 目的のバスが、やってきたようです。

 

 大きな緑のスーツケースを、バスの底部の荷台に入れ、僕は窓際の席に座りました。

 

 バスが動き出すと、新山口駅の風景がどんどん遠のいていくのが見えます。

 

 これで、山口の旅も終わり…

 

 広々とした山口宇部道路を、バスはスムーズに走り抜けていきます。

 

 瞑色(めいしょく)が漂った空は、さらにコバルトブルーに暮れていき、山口宇部空港に到着した時には、すっかり真っ暗になっていました。

 

 

 何だか、寒いです。

 

 考えてみれば、もう11月半ば(この日は、2019年11月14日)ですから、夜は寒くて当然ですね。

 

 少しだけ震えながら、山口宇部空港のビルの中へと向かいました。

 

 出雲大社の神在月大祭の時、コートをホテルまで取りに行ったのは、やはり正解だったかも知れない…

 

 つい2~3日前の出雲での思い出が、ずいぶん前の事のように感じられます。

 

 自動ドアから空港ビルの中に入ると、そこは暖房が効いていて、何となく、ホッとしました。

 

 

 自動ドアを入った所にあるこのフグの人形、とても癒されます(^^)

 そう言えば、フグも山口県の名産の一つなのですね。

 

 今回は結局、山口名産のフグには、触れずじまいでした。

 まだまだ、山口は知らない事だらけです。

 またいつか、この場所に、必ず来たいです。

 

 この山口をずっと旅していて、何というか、土地からふつふつと湧き出るようなパワーのようなものを、肌で感じていたんです。

 

 例えば、山口県が輩出した総理大臣経験者というのは、9人もいます。

 47ある都道府県の内の25の自治体が、総理大臣の輩出がゼロである事を考えると、この数は、異常に多い事が分かります。

 

 まあ、明治政府自体が、薩摩藩と長州藩の勤王志士を中心に成立していますから、長州閥がある山口県に、総理大臣が多いのは、当然のようにも思えますが、一方の薩摩閥がある鹿児島県では、総理大臣の輩出は3人だけです。

 

 それに明らかに長州閥を背景に総理大臣になった、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅の4名を除いたとしても、それと関係ない所で、5名も総理大臣を輩出している計算になります。

 

 有名な所では、在任期間歴代1位になった前首相の安倍晋三さんや、非核三原則を打ち出し、アメリカからの沖縄返還を成し遂げた、日本で唯一のノーベル平和賞受賞者でもある佐藤栄作さんなんかが、山口県の出身者です。

 

 もちろん、山口県が輩出した著名人は、総理大臣に限った事ではありません。

 

 どういう訳か、政治家が圧倒的に多いのは事実ですが、実業家や文化人なども、多く輩出しています。

 

 例えば、ユニクロの会長兼社長の柳井正さんは、父が山口県小郡市で紳士服小売業から立ち上げた小郡商事株式会社を引き継いで、急速に拡大させ、ユニクロにしました。

 

 映画「男はつらいよ」で有名な山田洋次監督も、幼少期のかなり長い期間、山口県宇部市で過ごしています。

 こんな風に例をあげていったら、キリがありませんね。

 

 かなり余裕を持って、空港に到着してしまったので、搭乗予定の20:10発の飛行機のフライトまでに、2時間以上の時間があります。

 

 飛行機の搭乗手続きを一通り済ませ、スーツケースの荷物検査を済ませて預けた後、夕食を取れる場所はないかと、空港ビル内を探索しました。

 

 そして、空港ビルの2Fにある和風レストラン「あす花亭」を見つけました。

 

 この夕食が、この旅の最後の食事になりそうです。

 

 「あす花亭」は、ものすごく混んでいて、ほぼ満席状態だったのですが、奇跡的に2人掛けの席が空いて、そこに案内して頂けました。

 

 それでも、お店の人手が足りない事もあって、料理の注文を取りに来るまでに、かなりの時間、待つ事になりました。

 僕の携帯が鳴ったのは、ちょうど、そんなタイミングです。

 

 昨日の夜まで、ずっと僕の旅につき合ってくださっていた、五気調整術の水木杏香先生からの電話でした。

 

「今日の予定の仕事が、ようやく終わったので、もしも、まだ山口空港にいらっしゃるようでしたら、渡したいおみやげがあるのですが…」

 

 水木先生に、今、空港ビルの2Fにある和風レストランにいる事を告げました。

 

 タイミングよく、水木先生との電話が終わった頃、お店の人が注文を取りに来てくれたので、僕は、かつ丼セットを注文しました。

 

 それから、すぐに、水木先生が、そのレストランにいらしてくださいました。

 まだ、かつ丼セットが運ばれてくる前だったので、席でしばしの間、水木先生と語らい合いました。

 

 山口県の偉業を残した著名人の話をしていると、水木先生は、むしろ、山口県の女性の活躍に注目してほしいと、おっしゃいます。

 

 そして、詩人の金子みすゞや、女流作家の宇野千代さん、そして、メイ牛山さんなどの名前をあげられました。

 

 金子みすゞと言えば、言わずと知れた日本の女流詩人…

 

 金子みすゞの人生は、たった26歳の短いものでした。

 

 決して、幸せと言えるような人生ではなく、放蕩のし放題だった夫と別れる際に、娘の親権で争う事となり、娘の幸せを想い、娘を自分の母に預ける事を懇願する遺書を残して、自殺をしました。

 

 金子みすゞの詩は大正12年(1923年)に雑誌に掲載され、話題になっているのですが、その後、夫から詩の投稿を禁じられた事もあり、金子みすゞの詩は、しばらくの間、人々に忘れられたままの状態でした。

 

 その60年後の昭和59年(1984年)に、金子みすゞの遺稿集が発売される事になり、時代を超えて、金子みすゞの詩は、またたく間に多くの人に読まれる事になりました。

 

 つゆ

 

 だれにもいわずにおきましょう。

 朝のお庭のすみっこで、

 花がほろりとないたこと。

 

 もしもうわさがひろがって

 はちのお耳へ入ったら、

 

 わるいことでもしたように、

 みつをかえしにゆくでしょう。

 

 

 金子みすゞの詩は、やわらかい愛情に包まれていて、読んでいるだけで優しい気持ちになれるから、不思議です。

 

 まだ、あまり金子みすゞを知らない方は、ぜひ一度、金子みすゞのたくさんの詩に、触れてみてください。

 

 

 宇野千代さんの事をご存じの方は、結構多いのではないかと思います。

 

 随筆家や小説家としての活躍だけではなく、着物のデザイナーをやったり、雑誌の編集をやったりと、多彩な才能を発揮した女性です。

 

 とりわけ、多くの著名人との恋愛遍歴や、その波乱の生涯から得た、宇野千代さんの生きた言葉は、恋に悩む男女に、たくさんの元気を与えてくれます。

 

 宇野千代さんの恋愛の名言を、少しだけ載せておきますね。

 

 ・恋をしなさい。好きと言えないなんてケチな根性よ。

 

 ・男と女のことは、所詮オスとメス、動物のことですよ。それを昇華してすばらしい愛にするのは、ごく稀な選ばれた人にしか訪れない。

 

 ・追いかけてはいけない。追いかけないのが恋愛の武士道である。

 

 

 宇野千代さんは、最初の夫と離婚した後、小説家の尾崎士郎と再婚するも離婚、その後、画家の東郷青児と同棲するも別れ、その後、作家の北原武夫と再々婚するも、またしても離婚…

 

 尾崎士郎も、東郷青児も、北原武夫も、当時の名だたる著名人ですが、宇野千代さんとつき合い始めた頃は、全く無名で、仕事も全然うまくいっていなかったんです。

 

ところが、宇野千代さんと一緒に過ごすようになって、またたく間に、超売れっ子の作家や画家になってしまいました。

 

 宇野千代さんというのは、男性の運を引き上げる何かを持っていたに違いありません。

 

 1990年には文化功労者となり、1996年に98歳の長寿を全うし、波乱万丈で実りある、その生涯を閉じました。

 

 

 メイ牛山さんは、山口県防府市に生まれた美容家であり、長年ハリウッド化粧品の会長を務めた、著名なカリスマ美容師です。

 

 日本で初めて、酵素の働きを化粧品に取り入れた方で、これは化粧品業界で画期的な出来事でした。

 

 そして、日本の風土に合わせた「四季の美容法」、体や皮膚の汚れだけでなく、心の汚れも排泄する事で美しくなるという「三大排泄美容」などを提唱しました。

 

 つまり、それまでの、塗りたくって外見を飾るお化粧から、内面を豊かにして活性化するお化粧に変えてしまった人とも言えましょう。

 

 また、メイ牛山さんこそが、東京の六本木ヒルズを共同開発して、ヒルズブームを起こした火つけ人でもあります。

 

 2007年、96歳の長寿で、惜しまれながら亡くなりました。

 

 

 水木杏香先生は、僕に渡したいものがあるとおっしゃり、宇部市にある「やなぎだ化粧品」が開発した温活グッズ「事始玉(ことだま)」をくださいました。

 

 

 僕は、一年たった今でも、この事始玉を愛用しているのですが、電子レンジでチンする事で、何度もホットカイロとして役に立つのです。

 

 何より、レンジでチンするたびに、ハーブの素敵な香りがするのが良いです。

 

 色は、緑・赤・オレンジ・白・青の五種類があって、詳しくは、水木先生のブログにも紹介されていますが、それぞれが五行の木・火・土・金・水に対応しています。

 

 さらに、付属の説明書には、この事始玉を使ってツボを刺激する方法が、効能別に述べられているんです。

 

 僕が頂いたのは、白の事始玉でした。

 

 僕が緑色をこよなく愛しているのは、当然、水木先生も知っているのですが、それよりも、僕に2020年と2021年を、四柱推命上の従旺格として力強く生きて、目標を達成させられるようにと、金の五行を強める白を選んでくれたのですね。

 

 水木先生の優しい心遣いに、胸がじんわりとしました。

 

 一通り話し終えた頃、僕が注文した「かつ丼セット」が出てきて、慌ただしくその場で、水木先生とお別れをしました。

 

 水木先生、素敵な旅の思い出を、本当にありがとうございました。

 

 時計を見ると、飛行機の搭乗の時間まで、そんなに残されていないようです。

 

 急いで、かつ丼をかけこみ、お支払いをして、搭乗口の方へと向かいました。

 

 

 おみやげ売り場に、なんと、meijiカールが売っていました。

 

 「だからどうした」と言われそうですが、関東に住む人間にとって、こうしてカールが販売されているのを見るのは、ものすごく新鮮なのです。

 

 カールは僕の大好物だったのですが、2017年、中部地方より東では、経営上の理由から、残念な事に、販売が中止されてしまったんですね。

 

 これは、たくさん買いだめしておかなくては(笑)

   特にチーズ味…

 

 長い廊下を歩いて、羽田空港へ向かう「SFJ016便」の飛行機の中へ乗りこみました。

 

 6日前から始まった約一週間の長旅も、これで終わり…

 

 KさんとYさんに助けられて、かろうじて、米子空港へ向かう飛行機に乗りこんた記憶が懐かしいです。

 

 

 いよいよ、離陸の時がやってきたようです。

 

 明日から、またいつもの生活が始まる…

 

 これまで以上に、体中にパワーがみなぎっているのを感じました。

 

 西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~ おしまい

 

 皆さま、いつもこのブログをいつも温かく見守ってくださり、本当にありがとうございます。

 

 来年末までに成し遂げなければならないプロジェクトの目途が立つまで、しばらくの間、このブログの更新を中止させて頂きます。

 

 皆さまどうか、2021年良いお年をお迎えください!!

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<29>長旅の帰途と「山頭火」談義20.12.14

2020年12月14日(月)

 

 いよいよ、今年もあと半月あまりで終わり…

 本当に、一年というのは、あっという間に過ぎていきます。

 

 だんだん冷え込みが強くなってきますから、皆さまお体だけは気をつけて、暖かくしてお過ごしくださいね。

 

 この西日本旅行記も、いよいよ次回の30話を以って終了…

 

 来年末までに何とかすると宣言した例のプロジェクトが、本当にまずい事になって来ているので、次回の30話を書いたら、目途が立つまで、このブログを休止するつもりです。

 

 こんな僕のつたないブログを、いつも見に来てくださる皆さまに、心からお礼を言いたいです。

 

 本当に本当に、ありがとうございます!!

 

 さてさて、長かった出雲・山口の旅も、これで終わり…

 

 この日(2019年11月14日)、東京の羽田空港に着陸する20:10発の飛行機に搭乗する為に、山口宇部空港へと向かうべく、湯田温泉駅からJR山口線で、新山口駅まで戻りました。

 

 

 夕暮れ時を迎え、空が幾分暗くなっています。

 

 いつものこの時間なら、もっと空は暗くなっているはずなのに… と、改めて、ここが山口の地だという事に気づきました。

 

 兵庫県明石市を基準にすると、山口県山口市の地方時差は「-14分」、東京都23区の地方時差は「+19分」…

 つまり、山口は東京と比べると、日の入りの時間が33分も遅いのですね。

 

 ちょっぴり、山口がうらやましくなりました(^^)

 

 この新山口のバスターミナルから発車する「空港バス」に乗って、30分ほどで、山口宇部空港に到着します。

 

 

 いよいよ東京に帰るのか… と思うと、名残惜しい気持ちでいっぱいになりました。

 

 17:40発の宇部空港行のバスの出発時間まで、まだ少し時間があるようなので、新山口の駅前を少しぶらついてみる事にしました。

 

 新山口駅の新幹線口の方を歩くと、網代笠(あじろがさ)を持った、壮年の男の像がありました。

 

 

 この雲水姿をした男こそが、山口県が生み出した俳人・種田山頭火(たねだ さんとうか)

 

 山頭火は「漂泊(ひょうはく)の俳人」などと評されて、現在でも、一部の人には、絶大なる人気があります。

 

 何気に僕は、この山頭火の事を、良く知っています。

 この人の師匠が、荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)という名前であるという事も…

 

 この種田山頭火を知るきっかけになったのは、今から4年前に開催した四柱推命講座でした。

 その講座には、今、来年末までにやり遂げる予定のプロジェクトにおいて、すごくお世話になっているKさんが、受講生として参加していらっしゃったのです。

 

 いつも、四柱推命講座・初級編の第1講座では、恒例の「真似してはいけない四柱推命一日講座」というのをやるのですが、その講座の中で「納音(なっちん)」というものを、一通り説明します。

 

 この納音というのは、全部で30種類あって、海中金(かいちゅうきん)、爐中火(ろちゅうか)、大林木(たいりんぼく)、路傍土(ろぼうど)、釼鋒金(じんぼうきん)山頭火、潤下水(じゅんげすい)、城頭土(じょうとうど)、白鑞金(はくろうきん)、楊柳木(ようりゅうぼく)、井泉水、屋上土(おくじょうど)、霹靂火(へきれきか)、松柏木(しょうはくぼく)、長流水(ちょうりゅうすい)、沙中金(さちゅうきん)、山下火(さんげか)、平地木(へいちぼく)、壁上土(へきじょうど)、金箔金(きんぱくきん)、覆燈火(ふくとうか)、天河水(てんがすい)、大駅土(たいえきど)、釵釧金(さいせんきん)、桑柘木(そうしゃくもく)、大溪水(だいけいすい)、沙中土(さちゅうど)、天上火(てんじょうか)、柘榴木(ざくろぼく)、大海水(たいかいすい)とあり、年でいうなら2年ごとに、次の納音に移り変わっていきます。

 

 よく、算命学なんかで「納音の関係」とか言いますけど、そのネーミング元の納音というのも、これの事です。

   一つの干支から数えて30番目にくる干支は、システム上、必ず同じ納音五行になりますから…

 

 つまり、連続した六十干支2つずつに対して、1つの納音が割り当てられているのですね。

 

 流派によって、潤下水が澗下水(かんかすい)となっていたり、井泉水が泉中水(せんちゅうすい)となっていたりしますが、意味は変わりありません。

 

 例えば、今年の干支の 庚子 と、来年の干支の 辛丑 には「壁上土」という納音が、割り当てられているという具合です。

 

 丙午は「天河水」で水ですし、壬子は「桑柘木」で木ですし、干支の五行と全く脈絡のない納音五行が当てはめられているので、何やら隠された深い意味があるのでは… などと考えたくなりますが、実はただ、十干と十二支に数字を割り当てて、足し算をして、その数字に五行を当てはめているだけです。

 

 昔ながらの古風な四柱推命では、この納音というものを使って、健康運がどうとか、寿命が長いとか短いとか、断じたりしました。

   このブログ、一応は占い師ブログなんだから、たまには占いの話もしないとですね(^^;;

 

 さてさて、4年前の四柱推命講座・初級編 第1講座の当日、近くのコンビニで「山頭火」という名前のカップラーメンを見つけたんです。

 これは、納音の講座の話題にピッタリだと思い、それを買って、その日の講座に臨みました。

 

 それで、納音の説明の前振りとして、買ってきたカップラーメンを見せて「この山頭火というラーメン屋さんは、全国チェーンになっているのですが、もしかすると、この納音の事を知っていて、それで名前を思いついたのかも知れません」という話をしました。

 

 すると、その当時、受講生だったKさんが「そのラーメン屋さんは多分、種田山頭火から名前をとったのですよ」と、教えてくれました。

 

 納音の一つを、勝手に自分の俳号にしてしまう、この種田山頭火という人は、一体、何者なのだろう…

 

 その時から、僕は、この俳人に興味がわいて、いろいろと調べ始めました。

   2021年1月~「初級編 Zoom版 第2期」、3月~「初級編 第18期」を開催します(ちゃっかり、講座の宣伝…)

 

 ちなみに種田山頭火が、30もある納音から、山頭火を選んだのは、別に生まれ年の干支や生まれ日の干支が、山頭火だったからではないようです。

 

 それは、ただ単に「さんとうか」という音の響きが良かったからとの事…

 

 どうやら、占いに造詣(ぞうけい)が深い俳人という訳では、なさそうですね(笑)

 

 種田山頭火の師匠は、萩原井泉水というのですが、この人は本当に、生まれた年干支が「井泉水」だったから、それを俳号にしたようです。

 でも、種田山頭火の場合は、師匠をまねて、納音を俳号にしてはいますが、あまり細かい事まで考えて「山頭火」を選んだ訳ではないようです。

 

 「山頭火」を、納音占いで見てみました(^^)

 

 山頭火 … 魅了されるほど激しく燃え上がる火で、ひときわ目立つ存在です。火葬場の火とも言われ、理想とプライドは高いものの、実用性は乏しい火と言われます。自我が強く、時折、怒りを爆発させる傾向にあるので、人間関係に苦慮する傾向を伴います。手に職を持つと、成功しやすいでしょう。

   納音占いを「安倍晴明占い」と呼ぶ人がいますが、納音と安倍晴明は、何のゆかりも関係もありません(笑)

 

 さっきの種田山頭火の像の台座には、山頭火が作った俳句が書かれていました。

 

 “まつたく雲がない 笠をぬぎ”

 

 これって、ちゃんと五七五になっているの? と疑問に思われた方もいらっしゃるかも知れません。

 

 こういう形式に囚われない俳句を「自由律俳句」というらしく、種田山頭火は、まさに自由律俳句・層雲派(そううんは)の代表的な俳人でした。

 

 この句は「雲が全くない、澄みきった秋空を見上げて感動し、思わず笠をぬいだ…」というような意味で、詠われています。

 どうりで、この山頭火の像は、網代笠をかぶる事なく、両手で持っているのですね。

 

 宇部空港行のバスの発車時間までの時間つぶしに、今度は、新山口駅の北口の辺りを散策してみました。

 

 

 駅の所に、種田山頭火の解説と、一つの見事な句が書かれていました。

 

 種田山頭火 Taneda,Santōka … (1882-1940)現・山口県防府市に生まれる。俳句に親しみ、43歳のときに出家してからは、各地を行乞(ぎょうこつ)しながら数多くの俳句を作りました。小郡(おごうり)には1932年に訪れ、其中庵(ごちゅうあん)を結庵(ゆいあん)し、1938年まで6年間暮らしました。現在の其中庵は、当時の記録を基に1992年に再現したものです。庭には山頭火が俳句に詠んだ草や木が植えられています。

 また、山口市小郡文化資料館には種田山頭火が書いた書や使用した道具が展示されています。

 

   “山あれば山を観る

 

   雨の日は雨を聴く

 

   春夏秋冬

 

   あしたもよろし

 

   ゆふべもよろし”

 

 この詩を読んだ時、何というか、種田山頭火が詠む雄大な大自然の世界観に吸い込まれて、身動きできないくらいに、心がゆさぶられました。

 

 思わず、ちっぽけな事であれこれ悩んでいた自分が、バカみたいに思えてくるような、気づきを与えてくれる句です。

 

 改めて、種田山頭火というのは、すごい俳人だと思います。

 

 そのまま歩いていると、新山口駅の北口にある柱の1つ1つに、山頭火の句が掲示されていました。

 

 “其中雪ふる一人として火を焚く”

(其中というのは、山頭火が結んだ庵… 雪の中、一人で火を焚いていたのでしょう)

 

 “春風の鉢の子一つ”

(鉢の子は、托鉢僧が持つお金を入れる為のお椀… 春風の中、鉢の子を持つ山頭火が浮かんできます)

 

 “うれしいこともかなしいことも草しげる”

(ちゃっかり、僕の前のブログのタイトルにお借りしてます^^)

 

 “音はしぐれか”

(朝、山頭火が厠に座っていた時、ぼとぼとと水の音がして、思わずつぶやいた言葉を句にしました…)

 

 種田山頭火の句の良さというのは、全く格好つけない所がいいんですね。

 不完全だから、完全だというか…

 

 四柱推命講座・初級編の第1講座の中で、納音の説明をする前振りとして、

 

 “まつすぐな道でさみしい”

 

 という有名な種田山頭火の句を、プロジェクターに映して僕が詠むと、毎回 “チーン…” という雰囲気になって、なぜか、笑いが起きるのですが(笑)

 

 何気にこの句は、意味が分かると、ものすごく心を揺さぶられるような句だと思うんです(^^)

 

 この句の中の「道」というのは、普通に歩いている道という意味だけではなく、おそらく、自分がこれから歩いて行く人生の道という意味も、重ね合わせているのだと思います。

 

 まっすぐで殺風景で、何にもないこの道を、オレ(山頭火)はこれからも、こうやって歩き続けていくんだよなあ… さみしいなあ… みたいな感覚でしょうか。

 

 おそらく、向かうあてなんて、何もないのだと思います。

 何か目標があって、それに邁進しているのなら、さみしくなんてないはずですから…

 

 孤独な人生を送ってきた山頭火が詠むからこそ、伝わって来る悲哀というか、でも、その向こう側には、何とも言えない広大な世界があったりして、それがまた、心をゆさぶります。

 

 種田山頭火の本名は、種田正一と言って、山口県の大地主である種田家の長男として生まれました。

 

 山頭火が10歳の時、母が父の芸者遊びなどを苦にして、井戸に身を投げて自殺をする所を、たまたま目撃してしまいます。

 

 この事件が、この後もずっと、山頭火の心に重くのしかかったんですね。

 

 頭はすごく良くて、学友らと文芸同人雑誌を発行して、俳句を作りながらも、学校は首席で卒業し、早稲田大学大学部の文学科に入学するも、神経衰弱を患って、退学してしまいます。

 

 その後、のちに師となる荻原井泉水が主催する「層雲」に俳句を投稿し、それが掲載されたのがきっかけになり、山頭火はやがて、層雲派の中で頭角を現すようになります。

 

 27歳で、山頭火は結婚して、男の子を授かっていますが、34歳の時に、父の酒造業の経営が立ち行かず破産し、そのまま父も、行方不明となってしまいます。

 

 仕方なく、友人を頼って熊本に行き、古本屋や額縁屋なんかを経営するも、うまく行かず、そんな矢先に弟が自殺し、それからというもの山頭火は、酒を浴びるように飲むようになりました。

 

 やがて、妻と離婚して上京するも、東京でも酒におぼれ、精神的にも不安定で、自殺未遂を図ったりしました。

 

 そんな自堕落な生活から抜け出そうと、寺男(てらおとこ)として、お寺に住み込む事を決意します。

 出家の道を目指すものの、その時、山頭火はすでに44歳であり、お寺の和尚から、年齢的に修行に耐えられないだろうからと、出家を断られてしまいました。

 

 その後、山頭火は寺を出て、全国行脚(あんぎゃ)の道を選び、雲水の格好で各地を行乞しながら、俳句を投稿し続けました。

 

 行脚の道の途中、山頭火は、健康不安から自殺未遂をした事もありましたし、死ぬまでずっと無一文で、いつもいつも托鉢(たくはつ)で得られるわずかなお布施だけが、唯一の収入源でした。

 

 そして、58歳の時、お酒の飲み過ぎからくる脳溢血で、何の前触れもなく、突然この世を去りました。

 

 山頭火は、晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒を絶えず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と、自分の人生の事を記しています。

 

 種田山頭火の句、好きなの一杯ありますね。

 

 “また一枚脱ぎ捨てる旅から旅”

 

 “濁れる水の流れつつ澄む”

 

 “どうしようもない私が歩いている”

 

 “酔うてこほろぎと寝ていたよ”

 

 この人は、何て素直なんだろう、と思わずにはいられません。

 

 確かに、そんなに立派な生き方をした訳ではないかも知れませんが、山頭火が残した句は今でも、そしてこれからも、人々の心を揺さぶり続ける事でしょう。

 

 さてさて、もうすぐそろそろ、山口宇部空港行のバスがやってきます。

 

 そして、この長かった旅もいよいよ終わり…

 

 最後の旅の余韻に、しっかりと浸ろうと思います。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<28>詩人の生涯と旅人の叙情20.11.24

2020年11月24日(火)

 

 秋もすっかり深まって、いよいよ冬が違づいているのを、ひしひしと感じます。

 早いもので、今年もあと40日足らずで、終わりなのですね。

 

 僕の枕元に、山口旅行の思い出の品として買った、一冊の詩集があるんです。

 

 それは「中也の詩(ちゅうやのうた)」という、30ページほどの詩集…

 

 

 一年前、湯田温泉にある、中原中也記念館の受付で、これを買いました。

 

 あの頃の僕は、正直、中原中也の事を、よく知りませんでした。

 学校の国語の教科書かなんかに、この人の詩が出ていたような気がするんですけど、うる覚えですし、よく覚えていません。

 

 中原中也の代表作というと、「サーカス」や「汚ごれつちまつた悲しみに……」といった所でしょうか。

 本当の事を言うと僕は、仮名づかいが古いせいか、小難しくて、よく理解できない詩だと、思っていました。

 今回、詩集を買って、改めて読んでみた感想も、やっぱりそんな感じでした。

 

 でも、毎晩、寝る前にペラペラ詩集をめくって、何度も何度も中也の詩に触れている内に、この中也の詩の良さが、自然に感じられるようになってきたんです。

 

 中原中也の孤独感や、もの悲しさが、幻想的な情景と共に、じわりじわりと心に響いて来るんですね。

 

 出雲・山口の旅から帰って、翌々日ぐらいに、たまたま新宿にある紀伊国屋書店に立ち寄ったら、なんと、お店の入り口が、中原中也の特設コーナーになっていたんです。

 

 それまでは恥ずかしながら、中原中也という人は、“湯田温泉がほこる地元の有名人”ぐらいの認識しかなかったので、正直、とても驚きました。

 

 そして、これ以来、この詩人の事を、とても身近に感じられるようになりました。

 

 後から知ったのですが、中原中也という人は、詩人のカリスマ的存在であり、ちなみに「中原中也賞」とは、優れた詩を書いた人に与えられる著名な賞です。

 

 中原中也という人は、帽子をかぶった少しあどけない顔の写真で、紹介される事が多いですね。

 

 

 この写真は、18歳で上京した時、銀座の写真館で撮影した写真だそうです。

 フランスの詩人・ランボーに憧れて、この帽子を、いつもかぶっていたらしいです。

 

 中原中也の人生は、たった30年という短い生涯でした。

 

 湯田温泉に到着した時、最初に湯田温泉の総合案内所に立ち寄ったのですが、そこでは、中原中也のトレードマークである帽子とコートが無料で貸し出されていて、それを自由に着て、撮影ができるようになっていました。

 

 どうやら、中原中也という人は、この帽子とコートを身にまといながら、バーに出入りして、酒を飲んで酔っ払い、そこに来たお客にいつも絡んで、喧嘩を吹っかけていたそうです。

 

 おかげで、そのバーは客足が遠ざかって、一年と持たずして、つぶれてしまったのだとか…

 

 本当、どうしょうもない人です(笑)

    よっぽど、寂しかったんでしょうけど(^^;;

 

 小説家の太宰治も、東京の東中野で、中原中也とお酒を飲んだ事があるそうですが、案の定、酒に酔った中也から、からまれたそうです。

 

 それからというもの、中也の事を「ナメクジみたいに、てらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と、拒絶しています。

 

 とはいえ、中也が若くして亡くなった時、太宰治は、その才能を大いに惜しんだと言います。

 

 中原中也記念館は、湯田温泉の総合案内所である「狐の足あと」と道を挟んだ、目の前にありました。

 

 

 中原中也記念館の前に、ぽつねんと立てられている、“中原中也誕生之地”と刻された1つの石碑…

 

 この場所は、中原中也の生誕の地でもあり、昔はここに中也が生まれ育った家が、建っていました。

 

 今から48年前の1972年、この場所にあった中原病院(中也の父は、医師だった)が、火災によって全焼し、唯一、この写真に写っている、石碑の後ろのカイヅカイブキの木だけが、被害を免れました。

 そして、その12年後、中原中也がここで生まれた事を記して、この石碑が立てられました。

 

 中原中也の生家跡であるこの場所に、中原中也記念館が建てられたのは、さらにその12年後の事です。

    偶然ですが、これらは全部、子年の出来事ですね…

 

 

 早速、記念館に入館してみる事にしました。

 

 入館料は、一般330円で、とてもリーズナブルです。(ちなみに、高校生以下は無料です…)

 

 中に入ると、中原中也の生い立ちの歴史や、たくさんの詩が季節ごとやテーマごとに並べられていました。

 

 広々とした洗練されたモダンな空間には、中也の直筆やたくさんの資料が展示されていて、パネルに貼り出された中也の詩を楽しめるという作りで、散策しているだけで、気持ちが豊かになります。

 

 ちなみに、この建物は、日本全国で選ばれた公共建築の“公共建築百選”にも、選ばれています。

 

 

 これは、中也が書いた直筆の詩…

 

 撮影禁止なので、パンフレットに載っていた写真から紹介させて頂いています。

 

 階段を2Fに上がっていくと、そこにはビデオ放映室があって、常時、中原中也の生涯が放映されていました。

 

 そのビデオを見て、僕が知ったのは、人の死という悲しみを何度も経験しながら、孤独と向き合って生きた、儚(はかな)い一人の詩人の人生でした。

 

 中也は、中原家の長男として生まれたのですが、子供の頃は、神童と呼ばれていたんです。

 おそらく必要以上に、親から期待されていたんじゃないかと思いますね。

 

 やがて、中也は、読書にふけり、詩作に興じるようになって、学校の勉強の方は、どんどんおろそかになっていきました。

 

 軍医でもあり、教育熱心な父が、そんな事を許す訳もなく、体罰を加えられたりもしましたが、親に隠れて、ますます文学の世界に没入していきました。

 そして、小さな頃から、酒を飲んだり、たばこを吸ったりするようになり、やがて、落ちこぼれの不良少年となっていきました。

 

 学校の成績は、トップから最下位にまで落ちて、落第が決定し、留年して同じ中学校にいるのも、みっともないので、山口から、京都の中学校に転校するに至ります。

 

 やがて、中也は東京へ上京を決意し、その後は、同人誌に寄稿をしたりして、精力的に文学者としての活躍を始めました。

 

 父が亡くなったのは、中也が21歳の時…

 往診先で病で倒れた父は、その病床で、中也の歌詞が載った活字の出版物を見て、涙を流し、それからしばらくして、息を引き取ったそうです。

 

 親というのは、どんな時だって、子供の心配をしているものなのかも知れません。

 きっと、中也の詩が活字になっているのを見て、安心したのではないでしょうか。

 今の時代は、活字なんて、パソコンで簡単に作れてしまいますが、この時代、歌詞が活字になるというのは、相当に名誉な事だったはずですから…

 

 中也が生まれた中原家は、この時代だからというのもあるのでしょうが、短命で亡くなっている子供が多く、中原中也はたった30年という短い人生の間に、弟や妹の死を何度も見てきたんです。

 

 中也の詩は、最初一読しただけでは、よくわからない詩が多いのですが(単に、僕が理解できないだけかも知れませんが…)、この「妹よ」という詩は、わかりやすく、何とも言えない切実さと悲しみが伝わってきます。

 

 妹よ

 

 夜、うつくしい魂は涕(な)いて、 ― 彼女こそ正当(あたりき)なのに ―

 夜、うつくしい魂は涕いて、もう死んだつていいよう……といふのであつた。

 

 湿つた野原の黒い土、短い草の上を夜風は吹いて、

 死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、うつくしい魂は涕くのであつた。

 

 夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに

 ― 祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……

 

 やがて、中也も26歳で結婚し、27歳の時に、文也(ふみや)という男の子を授かります。

 

 中也は一人息子を溺愛し、片時も離れず一緒に遊んでいますが、文也は小児結核に罹り、わずか2歳で夭折してしまいます。

 

 その時の中也は、息子の亡骸を抱きかかえて離さず、四十九日の間は、文也の位牌の前からずっと離れなかったそうです。

 

 この頃から、中也は精神を病むようになり、やがて自身も脳膜炎に罹り、わずか30年の生涯を閉じました。

 

 中也が息子の文也の事を想い、書いた詩があります。

 

 また来ん春……

 

 また来ん春と人は云ふ

 しかし私は辛いのだ

 春がきたつて何になろ

 あの子が返つて来るぢやない

 

 おもへば今年の五月には

 おまへを抱いて動物園

 象を見せても猫(にゃあ)といひ

 鳥を見せても猫(にゃあ)だつた

 

 最後に見せた鹿だけは

 角によつぽど惹かれてか

 何とも云はず 眺めてた

 

 ほんにおまへもあの時は

 此(こ)の世の光のたゞ中に

 立つて眺めてゐたつけか……

 

 中原中也の詩が感じさせる奥行や、作品の素晴らしさは、人生でのたくさんの別れとの引き換えにあるのではないかと、感じずにはいられません。

 

 

 2Fの企画展示室では、「ムットーニからくり文学館」という展示が、行われていました。

 

 ムットーニとは、武藤政彦さんという芸術家の別名であり、武藤さんは、からくり人形師として、名高い芸術家…

 

 そして、今回ここに展示されていたのは、著名な詩人(中原中也、宮沢賢治、ジュール・シュペルヴィエル、萩原朔太郎)の詩の朗読(機械が、録音されている武藤さんの声で語りかける)に合わせて動く、6つのからくり仕掛けの作品でした。

 

 その内の3つの作品は、中原中也の詩を元にした、からくり人形なのですが、それはそれは見事なものでした。

 (撮影禁止なので、写真はパンフレットから取りました)

 

アトラスの回想

 

 

 地獄の天使

 

 われ星に甘え、われ太陽に傲岸(ごうがん)ならん時、人々自らを死物と観念してあらんことを! われは御身等(おんみら)を呪ふ。

 心は腐れ、器物は穢(けが)れぬ。「夕暮」なき競走、油と虫となる理想! ― 言葉は既に無益なるのみ。われは世界の壊滅を願ふ!

 蜂の尾と、ラム酒とに、世界は分解されしなり。夢のうちなる遠近法、夏の夜風の小鎚(こづち)の重量、それ等は既(すで)になし。

 陣営の野に笑へる陽炎(かげろう)、空を匿(かく)して笑へる歯、― おゝ古代!―心は寧(むし)ろ笛にまで、堕落すべきなり。

 

 家族旅行と木箱(きばこ)との過剰は最早(もはや)、世界をして理知(りち)にて笑はしめ、感情にて判断せしむるなり。― われは世界の壊滅を願ふ!

 

 マグデブルグの半球(はんきゅう)よ、おゝレトルトよ! 汝等(なんじら)祝福されてあるべきなり、其(そ)の他はすべて分解しければ。

 

 マグデブルグの半球よ、おゝレトルトよ! われ星に甘え、われ太陽に傲岸ならん時、汝等ぞ、讃(たた)ふべきわが従者!

 

 このからくり仕掛け、パカっと丸い玉(真空を証明したマグデブルグの半球のイメージ)が割れて、中から天使が現れるんです。

 幻想的で見事な仕掛けに、中原中也の「地獄の天使」の小難しい詩が、しっくりと合っています。

 

ロスト

 

 

 失せし希望

 

 暗き空へと消え行きぬ  わが若き日を燃えし希望は。

 

 夏の夜の星の如くは今もなほ  遐(とお)きみ空に見え隠る、今もなほ。

 

 暗き空へと消えゆきぬ  わが若き日の夢は希望は。

 

 今はた此處(ここ)に打伏(うちふ)して  獸(けもの)の如くは、暗き思ひす。

 

 そが暗き思ひいつの日  晴れんとの知るよしなくて、

 

 溺(おぼ)れたる夜(よる)の海より  空の月、望むが如し。

 

 その浪(なみ)はあまりに深く  その月はあまりに清く、

 

 あはれわが若き日を燃えし希望の  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

 

 真ん中の男の人が、美しいBGMの音と共に、宙に浮かぶというか、昇天していくというか… 

 奇想天外の仕掛けに、びっくりです。

 

サーカス

 

 

 サーカス

 

 幾時代かがありまして

    茶色い戦争ありました

 

 幾時代かがありまして

    冬は疾風吹きました

 

 幾時代かがありまして

    今夜此処(ここ)での一と殷盛り(ひとさかり)

       今夜此処での一と殷盛り

 

 サーカス小屋は高い梁(はり)

    そこに一つのブランコだ

 見えるともないブランコだ

 

 頭倒(あたまさか)さに手を垂れて

    汚れ木綿(よごれもめん)の屋蓋(やね)のもと

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

 それの近くの白い灯(ひ)

    安値(やす)いリボンと息を吐き

 

 観客様はみな鰯(いわし)

    咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

    屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇(くらのくら)

    夜は劫々(こうこう)と更けまする

    落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

    ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

 ムットーニさんの5つある作品の中でも、極めつけ、このサーカスの仕掛けがすごかったです。

 出てくる観客の頭が、本当にイワシになっているし(笑)

 

 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」とムットーニさんが読み上げる声が、ずっと耳について、消えなくなってしまいました(^^;;

 

 さてさて、ムットーニさんの作品に魅了されている内に、かなりの時間が過ぎてしまったようです。

 

 いつしか、僕の中に、中原中也という詩人が、住み着いてしまったように感じました。

 

 記念館の出口で「中也の詩集」を買うと、ボーッとした面持ちで、湯田温泉の街を歩きました。

 

 今から、100年前、少年の中原中也がこの湯田温泉の町を、傷ついた心を抱えながら歩いていたのかと思うと、何ともいえない、ノスタルジックで物悲しい気持ちになります。

 

 “中原中也という詩人は、30年余りの短い時間で、人生という旅を終えて、別の世界に帰って行ったのかな…”

 そんな風に、思えてきました。

 

 “今、生きている人生だって、旅に過ぎないのかも知れない”

 ふと、そんな言葉が、心の中にわいてきました。

 

 シュールな気持ちで、空を見上げてみると、太陽がずいぶんと西に傾いているようです。

 いつの間にか、夕暮れだったんですね。

 

 この出雲・山口の旅の残された時間も、あとわずか…

 

 そろそろ、東京に向かって離陸する、今夜の飛行機に搭乗する為に、山口宇部空港へと、向かわなくてはなりません。

 

 まずは一旦、JR山口線で、新山口駅まで戻り、そこから宇部空港行きのバスに乗る予定です。

 

 残りわずかな時間ですが、最後の旅の思い出を作りたいと思います。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<27>日本酒と維新の志士達の軌跡20.11.09

2020年11月9日(月)

 

 11月を迎えて、外は、すっかりと寒くなりました。

 新型コロナの事で、騒がしく始まった2020年も、あと2ヶ月で終わり…

 

 今からちょうど一年前、この出雲と山口の旅行に旅立ったんです。

    ついに、1年のタイムタグが出来てしまった…

 

 実は今、あまりにも多くの仕事量を抱え過ぎていて、置かれている状況が、行き詰っています。

 この旅行記が30話まで終わったら、しばらくの間、このブログを休止して、今、一番やらなければいけない執筆活動に、しっかり腰を据えて取り組もうと思っています。

 

 それにしても、この7日間の旅行は、今思い出すと、本当にのんびりと時間を過ごしました。

 

 一年前の2019年という年は、本当に旅行三昧だったのですが、この出雲・山口旅行は、その締めくくりにふさわしい素晴らしい旅でした。

 

 まさか、その翌年、こんな疫病が流行して、マスクをしなければ、自由に動き回れないような事になってしまうとは、夢にも思いませんでした。

 

 湯田温泉に行った前日の夜、新山口の東横インの前で、水木杏香先生と別れた後、少し小腹が減ったので、ホテルの近くのコンビニに、お弁当を買いにいったんです。

 

 ふと、お弁当の横にある棚を見ると、ものすごく珍しい名前の日本酒がありました。

 

 

 奇兵隊 長州の酒「晋作」…

 

 今や僕は、東行庵で墓参りをするほどに、高杉晋作のファンになってしまったのですから、これを買わない手はないでしょう(笑)

 

 僕は、基本的に一人で晩酌とかは、絶対にしない人間ですが、このお酒のネーミングに負けました。

 

 この日の夜は、ホテルの部屋のベッドで寝そべりながら、病床にふした高杉晋作になったつもりで、コンビニ弁当と一緒に、この「晋作」を飲みました。

 

 飲み口がすっきりしていて、ものすごく飲みやすいお酒でしたね。

    自分ルールで、旅行中そこでしか手に入らないお酒を飲むのだけは、OKにしています…

 

 一人でお酒を飲んだその翌日は、湯田温泉で温泉三昧ですから、予算は掛かっていませんが、とても癒された贅沢な時間でした。

 

 亀の湯の温泉に、心行くまでゆったりと浸かった後、湯田温泉周辺を散策してみました。

 

 下の地図のように、おおよそ観光スポットは、湯田温泉駅から、少し北の方へ歩いたあたりに集結しています。

 

 

 その公共の観光案内所が「狐の足あと」という施設なのですが、中原中也(なかはら ちゅうや)記念館も、原田酒舗(はらだしゅほ)も、松田屋ホテルも、全部その辺りにあるんですね。

 

 あちこち回っている内に、「井上公園」という名前のそこそこの広さの公園を見つけました。

 

 なんと、この公園は、長州藩士として、いつも高杉晋作や伊藤俊輔(のちの博文)と一緒に行動していた井上聞多(のちの馨)の屋敷跡に整備されたとの事…

 つまり今から200年前、この場所は、明治の元勲・井上馨公のお屋敷だったのですね。

 

 

 井上馨の銅像が、堂々とそびえていました。

 

 明治維新の功労者でありながらも、どちらかというと、井上馨という人は、あまり良い印象を持たれない事が多いです。

 

 司馬遼太郎の「幕末」という短編集の中に「死んでも死なぬ」という題名の井上馨を主役にした短編があるのですが、その文末には「この男は維新前、袖解橋(そでときばし)で死ぬべきであったかも知れない。貪官汚吏(たんかんおり)の巨魁として悪名をのこした」と、こき下ろしています。

 

 財閥と密接に結びついて、私腹をこやしたりとか、秋田の尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)をせしめて、自分の物にしてしまった事で、江藤新平(えとう しんぺい)に追及されたりとか、とにかく黒いイメージで、とらえられる事が多い明治の政治家です。

 

 とはいえ、もしも明治政府の中に、経済の才覚を持った井上馨のような男がいなかったら、もしかすると、明治維新の後の日本が、欧米列強と互角に渡り合えるような事は、できなかったかも知れません。

 

 評論家の渡部昇一さんも、井上馨の事を「先見性があり、バランス感覚を持っていた優れた国家指導者」というように、評価しています。

 

 ちなみに、長州藩士時代の井上聞多(馨)・伊藤俊介(博文)というと、何となく、高杉晋作の「使いっぱしり」みたいなイメージで、井上聞多の年齢も、高杉晋作よりも年下で、伊藤俊介と同じぐらいの年なのかな… という印象を受けるのですが、実は違います。

 

 この3人の中では、井上聞多が最年長者で、高杉晋作よりも3つも年上なんです。

 

 

 井上馨の銅像のすぐ隣に、所郁太郎(ところ いくたろう)の顕彰碑がありました。

 

 この所郁太郎という人は、27歳の若さで亡くなった秀才の医者です。

 岐阜県の美濃赤坂で生まれ、緒方洪庵(おがた こうあん)に学んで、大坂適塾(てきじゅく)の塾頭に上りつめるほどの才能でした。

 

 ちなみに、顕彰碑の中の写真の銅像は、岐阜の美濃赤坂に立てられています。

 

 そして、この所郁太郎こそが、井上馨の命を救った大恩人でもあるのです。

 

 時は、幕府連合軍による第一次長州征伐の後の事…

 この第一次長州征伐によって、長州藩は俗論派が台頭し、藩論は、正義派と俗論派で真っ二つに割れてしまいました。

 

 この日の夜、正義派の代表で、高杉晋作の上司に当たる周布政之助(すふ まさのすけ)は、禁門の変の暴発を抑えられなかった事に責任を感じ、切腹をして果てました。

 

 同じ頃、長州藩の意思決定をする御前会議で、たった一人の正義派の代表として参加した井上聞多は「これまでの姿勢を貫き、幕府の長州征伐を受けて立つ」事を主張し、俗論派を言い負かして、藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の心をつかみ、藩論を徹底抗戦にする事に成功しました。

 

 ちなみにこの頃、高杉晋作は、下関砲台を占拠したイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合四ヶ国との講和談判に成功したものの、これが元で、攘夷派から命を狙われるようになり、危険を感じて、身を隠していました。

 (2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)

 

 御前会議を終えて、井上聞多が袖解橋(そでときばし)に差し掛かった時、俗論派の3人の刺客に襲われました。

 

 いきなり、後ろから足をつかまれると、前に押し倒されて、背中を斬られ、井上聞多が起き上がって反撃しようとすると、今度は3人がかりで斬りつけられました。

 

 たまたま、祇園の美人芸妓の君尾(きみお)からもらった鏡が、懐(ふところ)に入っていたお陰で、心臓だけは斬られなかったのが幸いでした。

 

 瀕死の状態で倒れているのを、近くに住む農夫に発見され、この井上公園がある場所に建っていた井上家に運ばれましたが、その時には、すでに虫の息でした。

 

 すぐに井上家に、二人の医者が呼ばれましたが、体中いたる所を斬られ、血が噴き出している状態で、なすすべがありません。

 聞多は最後の力で、そばにいる兄に、介錯をしてほしいと頼みます。

 

 見るに見かねた兄が、苦しんでいる弟を楽にしてやらねばと、刀を振り上げた時、そばにいた母が突然、血だらけの聞多を抱きかかえ、兄の介錯を思いとどまらせました。

 

 この時、所郁太郎は、長州藩に落ちのびていた三条実美に随行していましたが、事の次第を聞きつけて、三条実美の許しを得て、急遽、井上家に駆けつけました。

 

 そして、そこにいた二人の医師に手伝ってもらい、たまたま井上家に出入りしていた畳職人の畳針と糸を借りて、焼酎で傷所を洗滌し、小さい畳針で縫合し始めました。

 縫合は、約50針におよんだと言います。

 

 これにより、井上聞多は一命を取り留めました。

 その後も、母が献身的に聞多の看護をし、聞多の傷はみるみる良くなっていきました。

 

 この話は、戦前の国民学校の国語の教科書に「母の力」という題名で、おさめられていたそうなので、ご年配の方には、きっと、なじみのあるお話でしょう。

 

 それにしても、役割のある強運の人というのは、何があっても、こんな風に守られるものなのかも知れません。

 

 明治の元勲・井上馨は、この時代においては珍しく、79才の長寿を全うしました。

 

 さて、井上公園を後にして、まだまだ、今晩の飛行機のフライトまでには、時間がありそうです。

 

 この湯田温泉という場所を語る上で、絶対に欠かす事ができない、一人の著名な詩人がいます。

 

 もうしばらく、この湯田温泉の地を、散策してみたいと思います。

 

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