占い暦479 志は永遠に生き続ける

丁酉年 甲辰月 庚辰日 晴れ 「死神・正位置」

 

タロットの一枚引きをやってみたら、「死神・正位置」…

 

これまでも、このカードは何度か良くひいてます(笑)

 

「死神」のカードとか、「塔」のカードとか、僕は案外、あまり悪いイメージはないですね。

 

出たカードをよくメモっておいて、その後、何が起こるかを、よく検証するのですけど、僕の場合、あんまり悪い事が起こったケースが無いのです。

 

特に、塔の正位置の場合には、突拍子もなく良い事が起こったりするケースも多いです。

 

死神も、塔も、どちらのカードも、「何らかの形で、変化の必要性がある」というメッセージである事には変わりありません。

 

当然ながら、死神が出たからと言って、実際に死ぬという意味に捉えるような事は、極めてまれです(笑)

 

「命あっての物種」とか「命に過ぎたる宝なし」と言うように、人の命は本当に尊いものですし、人生は可能性のかたまりだから、何はともあれ、死んでしまっては意味がありません。

 

とはいえ、長生きをするという事が、人生で最も優先すべき事かと言ったら、そうとも言いきれないでしょう。

 

どちらにしても、人間は一度は死ななければならない訳ですから、一番大切なのは、その人の死を迎えるまでの生き様だと思います。

 

時に、自分の命よりも、自分の生き様のこだわりを優先して、死した後も、ずっと語り継がれながら、人々の心に生き続けた人もたくさんいます。

 

「車輪の下」という有名な小説の主人公もそうですけど、そういった生き様は、やっぱり人に感動を与えます。

 

言うまでもなく、「自ら死を選ぶ」という行為自体が立派な訳ではなく、命を掛けて、大切なものを守ろうとした事が立派なのであり、多くの人々の心を打つのだと思います。

 

そんな時、僕の脳裏にいつも浮かぶ戦国武者が、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という人なんです。

 

同じ、鳥居姓の人物に、徳川家康の幼少の頃からの腹心である鳥居元忠という人がいて、この人も、関ヶ原の合戦の直前に、石田三成ら西軍が押し寄せる伏見城を死守して玉砕する事により、主君の徳川家康に自らの命を賭したという名将ですが、鳥居強右衛門は、この鳥居元忠とは別人で、元忠よりも25年も前に亡くなった人です。

 

一応、徳川配下の人ですが、より詳しく言うと、徳川家康の配下である奥平信昌という武将に属していた、一人の足軽が、この鳥居強右衛門です。

 

主君の奥平信昌は、家康の一番上の娘である亀姫と結婚し、徳川家が天下を取った後には、美濃国の加納城を任される事になるのですが、当時は長篠城を守っていました。

 

かの有名な「長篠の合戦」の長篠城です。

 

この時に、その奥平家の足軽の一人に、鳥居強右衛門がいたんですね。

 

長篠城は自然の要塞に囲まれた、天下の堅城でしたが、武田信玄の息子である武田勝頼が、1万5千人の大軍勢で包囲して兵糧攻めを行ない、500人の奥平軍は食料に飢え、長篠城は風前の灯火でした。

 

織田・徳川軍に援軍を要請しようにも、1万5千人の武田軍に囲まれていては、その軍勢を突破する事は、ほとんどと言っていいほど不可能です。

 

そんな時に、この任務を自ら名乗り出たのが、この鳥居強右衛門でした。

 

当時、鳥居強右衛門36歳…

 

鳥居強右衛門は、見事、得意の水泳で、敵に気づかれないように城の堀から脱出し、一万五千の敵陣を見事に突破して、急いで駆け抜け、翌日には40km近くも離れている徳川家康の居城である三河の岡崎城に到着、家康とたまたま武田討伐の為にそこに来ていた織田信長に、長篠城の現状を報告して、織田・徳川連合軍5万の長篠城救援の約束を取りつけます。

 

ここまででも、あっぱれな手柄なのですが、さらに鳥居強右衛門の武勇伝は続きます。

 

織田信長が、「ご苦労であった。まずは飯でも食べて、我々と一緒に長篠に戻ればいい」と勧めるにもかかわらず、「食料に飢えて苦しんでいる城兵たちに、この事を一刻も早く伝えたい」と言って、信長や家康が止めるのも聞かず、また一人元来た道を引き返していくのです。

 

ところが、今度ばかりは、武田軍の1万5千の軍を突破できず、ついに捕まってしまいました。

 

捉えられた鳥居強右衛門から、事の次第を知った武田勝頼は、織田・徳川連合軍が到着する前に、何とか長篠城を落としてしまおうと、にわかに考えました。

 

 

そして、「徳川軍からの援軍は来ない」と、長篠城に向かってデマを叫ぶ事と引き換えに、恩賞と共に、武田軍の武将として取り立てるという条件で、鳥居強右衛門は近くの川の岸に引き出されました。

 

逆らえば当然、命はありません。

 

それに、元々、鳥居強右衛門は、徳川家傘下の弱小の奥平家のその足軽の一人に過ぎない訳ですから、これは超破格の大出世のチャンスです。

 

鳥居強右衛門はそれを承知し、城の前の川のほとりに連れてこられると、にわかに約束をなげうって、こう叫んだと言います。

 

「城内の衆、われは鳥居強右衛門なり。この身は、かく捕えられたが、ご安堵なされ。三日の内に、徳川・織田の御大将の軍が押し寄せてくるわ。今しばらく、城を堅固にされよ」

 

その後、怒った武田軍に、柱に大の字に磔にされ、刺し殺さされたという話が、現代にも伝えられています。

 

この後に、織田・徳川連合軍が長篠に押し寄せ、かの有名な長篠の合戦につながっていく訳ですが、その流れを作った人物こそ、このたった一人の足軽でした。

 

強右衛門のこの死に様は、奥平軍だけではなく、武田軍の中でも「あっぱれな忠義者」として、語り伝えられました。

 

この時に、武田軍の中にいた落合左平次という人は、フンドシ一丁で磔にされた鳥居強右衛門の絵を、生涯ずっと自分の旗印にしたと言い、その絵は今でも現存しています。

 

命は尽きても、鳥居強右衛門の仲間を思う志は、永遠に生き続けて、敵味方関係なく、ずっと語り草にされたとの事です。

 

この鳥居強右衛門とは対照的な生き方をした人に、武田二十四将の一人に数えられる事もある、小山田信茂という人がいます。

 

元々この人は、武田家の家臣として、大きな活躍をした人ですが、死に際が非常に良くなかったという事で、どちらかというと汚名の方が現代に残ってしまっています。

 

長篠の戦いの後の、天目山の戦いで、織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼を、一旦受け入れる決定をしながら、敗戦が濃厚とみるや途端に反旗を翻し、主君の武田勝頼に刃を向けた人物です。

 

後に織田軍に投降するも、織田信忠(信長の長男)にその主家ヘの不忠をとがめられ、一族もろとも処刑されてしまいます。

 

処刑されて命を失っただけではなく、この人の場合、これまでの生き様そのものが否定されてしまったんですね。

 

とはいえ、「世間からどう思われるか…」 などという事は、それほど重要な事ではないのかも知れません。

 

 

鳥居強右衛門も、小山田信茂も、処刑という、好ましくない人生の最期を遂げてしまった訳ですが、鳥居強右衛門は志をやり遂げて、本望の形で死んでいったのに対し、小山田信茂の方は、本当に浮かばれない無残な死に方になってしまったと思います。

 

自分がやった行いが良い事か悪い事かは、本当の自分自身の魂がよく知っていますし、例え肉体が無くなったとしても、心の世界はそれで終わりという訳にはいかないと思いますから、鳥居強右衛門と小山田信茂では、死んだ後に雲泥の差ができてしまうだろうと思うんです。

 

もちろん、これはとりあえず、死後の世界があると仮定してのお話ですが…

 

志は永遠に生き続ける…

 

死ぬまでの間、自分に悔いがない形で、精一杯人生を全うしていけたら、それだけで本望です。

 

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2017年4月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : futoshi