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全体が見えるようになったら、ありのままの自分を受け入れてみる18.12.19

2018年12月19日(水)

 

 今年も、あと10日余りで終わり…

 冬至も3日後にせまり、寒さがいよいよ厳しくなってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

 今年は日本全体で見ると、やたらと災害が多かった一年だった気がします。

 

 僕にとっても、本当にいろいろな事があった年でした。

 皆様にとっては、いかがだったでしょうか。

 

 「運命は、その人の物の考え方や性格が作り出したもの」などと、よく言いますが、まさに、本当の事だと思います。

 

 その時その時に自分が取る行動も、決断を迫られて岐路に立たされた時の選択も、無意識な内にする言動や、何気なく人に見せる表情でさえも、自分の考え方や性格が作り出した産物ですし、それらが、自分の運命を紡いでいく事になりますから…

 

 つまり、理屈の上では「自分のものの考え方や性格を変えれば、自分の運命は、どれだけでも変えられる」という事になります。

 

 とはいえ、誰もが、その自分の考え方のオリから抜け出せなくて、苦しんでいる訳ですし、やっぱり、性格なんて、そう簡単に変えられるものでもないから、結果的に「運命は、ある程度まで決まってしまっている」というのも、また真実です。

 

 今年に下した僕の決断も、結果的に招いた現実も、良きにしろ悪しきにしろ、僕の考え方や性格の延長線上のものでしかないし、これはきっと、誰の人生でも同じだと思います。

 

 中には、天災とか、避けられないような突発的事故によって、自分の考え方や性格とは無関係な所で変わってしまう未来もありますが、それは超レアケースです。

 また、仮にそういう事が起こったとしても、その後の運命の展開は、その人の考え方や性格によって、色濃く影響を受ける事になるでしょう。

 

 まあ、天からの役割とでもいうか、そういう特殊なものによる影響が、その人の性格や考え方の中に及んでいれば、そういった天災や事故から守られたりもしますが…

 

 運命というものは、占いで割り出せる命運も含めて、複雑な要素が絡まって出来ているものだと思うし、本来であれば、自分の努力で、どれだけでも良くする事ができるものです。

 

 僕が思うに、運気が一向に良くならない人の典型的なパターンは、往々にして「誰も見ていない所で、良からぬ事ばかり繰り返している人」ですね(笑)

 

 もちろん、よっぽどできた人でもない限り、人から見られている自分と、誰にも見られていない時の自分は、違っていて当たり前ですし、人に見られていない所でホッと一息つく事ができなければ、心が休まりません。

 

 だから、多少の事は構わないのですが、この生き方のスタイルの何が問題になってくるかというと、「人知れず、自分の事を省みて自分を向上させていこう…」というような発想に極めてたどり着きにくい所です。

 

 つまり、この生き方の延長線では、人の目は気になっていても、自分の物の考え方や性格は変わりようがないですから、ひいては、運命も変えられないという事になってしまいます。

 

 そうは言っても、これとは逆に、自分を省み過ぎて、「あんな事やっちゃいけない」「こんな事やっちゃいけない」と、自分を律し過ぎるのも、また苦しいものです。

 

 自分の運命を変えようと、無理やりに行動パターンを変えて、勢いだけで一時的にポジティブな行動を取ってみても、なかなか後が続きませんし、逆にその反動が来て、どっと疲れてしまう事もあるでしょう。

 

 そこで「そうか、やっぱり自分の考え方や性格から変えなくてはダメなんだ」と気づいて、「こんな事を考えちゃいけない」「あんな事を考えちゃいけない」と、四六時中、心の中で悶々とやっていても、一向にそこから抜けられないし、これでは窮屈で生きづらいです。

 

 僕も、若い頃はそんな事ばかりやって過ごしていましたが、何にも変わりませんでした。

 

 そんな時ふと、心の内側に籠って、自分の内面を見つめてみると、ポジティブでやる気に満ちたカッコいい自分もいれば、人に知られたら恥ずかしいような自分もいたりします。

 

 若い頃の僕は、「こんな恥ずかしい自分は、早く、心の中から追い出してしまわなくてはいけない」と、必死になって、その自分を否定しながら、ストイックな行動をしていた時期もありました。

 

 そのお陰で、本当、20代の僕の人生は、全く楽しくありませんでした(笑)

 

 それで、心の中に、人に知られたら恥ずかしい自分が顔を出すと、「こんな事を考えているのが、人に知られたらどうしよう」と不安になったり、そんな自分が嫌で劣等感にさいなまれながら、苦しんでいたものです。

 

 きっと、この頃の僕と同じように、心の中で悶々と苦しい思いをしている人も、たくさんいるのではないでしょうか。

 

 でも、こういうタイプの人は、自分の運命を変える事ができる素質を持った人と言えるでしょう。

 ただし、その苦しみにつぶされてしまわなければの話ですが…

 

 あの頃の自分を振り返って、今、思うのは「本当、器のちっちゃな人間だったな…」という事…

 

 とは言っても、そこに自己嫌悪とか劣等感なんかは一切なくて、「何とも懐かしい」というか、「自分ながらにいとおしい」というか、そんな感覚でしょうか(笑)

 

 あの頃は、器が小さくて、客観的に全体が見わたせなかったから、いつも自分の事で汲々としていて、本当に苦しかった…

 

 でも今、それなりに器が広がって、少なからず物事の全体像が見えてくると、そんな事は、それほど重要ではないという事に気づけるんですね。

 

 あの頃は「自分の心の中が、人に知られたらどうしよう」と怯えるほどに恥ずかしいと思っていた事さえ、今では人前で吐露する事さえも、できるようになっていたりします。

 

 面白い事に、それは他の人も感じていた事だったりして、飲み会の時にそんな話で盛り上がったりもします。

 

 あの頃の僕は、恥ずかしくてふしだらな自分を心の中で発見すると、それを否定したり、心の中から追い出そうとしていたのですが、本当に大切な事は、それをありのまま受け入れる事なのかも知れません。

 

 時には、臨機応変に、その自分の衝動に正直に行動するのも、悪い事ではありません。

 

 だからと言って、人を傷つけてしまうような事や、人に迷惑を掛けるような事は、極力慎むべきですが、そうでなければ、時にはふしだらな自分の欲求を満たす行動だって、人生には有効な事もあったりします。

 

 大切なのは、そういう小さな所でストイックを貫こうとする事ではなくて、自分の器を広げて、より全体が見えるようにしていくかという事だったりします。

 

 自分の器が小さいままの状態なら、そういう、ふしだらな自分の欲求のままに生きる事は、人生を台無しにしてしまいかねないのですが、自分の器が広がっていけば、それは相対的に、本当にどっちでもいい事になってしまう…

 

 昔の僕は、例えば「本気で自分の目標にたどり着きたいのなら、恋愛なんかにうつつをぬかすな」というような体育会系の言葉を、真剣に信じていたような所がありました。

 

 でも、肉体に負荷が掛かるアスリートでもない限り、自分の器を大きくしていけば、将来の目標と恋愛は、両立させる事だってできるはずです。

 

 もちろん、器が小さいままの状態の時は、恋愛にうつつを抜かしたりすれば、自分の目標は叶わないでしょう。

 低次元の恋愛の情欲に、ただ呑み込まれてしまうだけです。

 

 でも、器がある程度大きく広がっていけば、もう、そういうものに呑み込まれる心配もありません。

 

 僕は、今までずっと、心の中にいる情けなくてふしだらな自分を、さっさと追い出そう追い出そうとして頑張ってきたのですけど、気がつくと、やっぱり、そのて情けなくてふしだらな自分は、相変わらず心の中にいるんですね。

 

 でも、今はそれを恐れる事もありません。

 なぜなら、その衝動に完全に心が占領されてしまう事はないと、良くわかっているから…

 

 今ではもう、相変わらず心に存在する、そんな情けなくてふしだらな自分が、可愛くも思えたりします。

 

 年齢を得て、人生で起こりうる多少の事には、あまり振り回されなくなっても、心の中には今でも、幼い子供の自分がいます。

 

 全体が見えるようになったら、ありのままの自分を受け入れてみる…

 

 自分を受け入れられれば、人の事も受け入れられるようになるし、人様にアドバイスをして、幸せに導くような役割がしたいと思うのなら、少なくとも、自分が幸せになって、その人の事をしっかり受け止めた上でなければならない…

 

 最近、そんな風に思えるようになりました。

 

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