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悲しい時には悲しんだらいいし、苦しい時には苦しんだらいい18.09.24

2018年9月24日(祝)

 

 気がつけば、お中日も過ぎて、外もすっかり涼しくなりました。

 

 いよいよ、10月6日に迫ってきている朝日カルチャーセンター主催の「かんたんタロット占い 小アルカナ56枚を読み解く」の準備を、鑑定の合間を縫って、今、取り掛かろうとしている所です。

 

 ここ1ヶ月ぐらいの間に、僕の身の周りの状況がすごく変化しているのに、仕事は仕事で山積みになっていて、身動きが取れないまま、少し息切れしています。

 

 でも、これは僕だけの話ではなくて、みんな同じように、困難な状況の中でも、前に進む為に頑張っているのだから、弱音を吐いてはいられませんね。

 

 今までの人生、本当にいろいろな事がありました。

 

 誰の人生でも、嬉しい事も楽しい事もあるけれど、それと同じくらい、悲しい事や辛い事だって、あるものです。

 

 嬉しい時や楽しい時には、それを思う存分、楽しんで、人に迷惑を掛けない程度に、思い切り人生を謳歌したらいいと思います。

 

 でも、人生の醍醐味と言うのは、悲しい時や苦しい時にどうやって乗り越えられるか… という所に、やっぱりあるような気がするんですね。

 

 これに気づいてしまうと、少なくとも悲しみや苦しみに対する恐怖は、あまりなくなります。

 

 もちろん、山中鹿之助みたいに「我に、艱難辛苦を与えたまえ…」とまでは思いませんし、悲しい事や苦しい事は、できれば味わいたくはないのですが、それでも、目の前に来てしまったら、潔くそれを受け止めよう…

 

 僕も今では、それくらいには思えるようになりました。

 

 そんな人ばかり増えたら、占い師はお客様がうんと減って、僕も廃業してしまうかも知れませんが、人の心から不安がなくなって、みんなが幸せになるのであれば、それもいいかなあ… と思ったりもします。

 

 そうなったら、また、転職すればいいだけの話ですし…
  そうなったら今度は、占いの歴史やルーツを研究して本を書く作家さんになりたい(^^)

 

 人生から、悲しみや苦しみをなくす事は絶対にできないし、そもそも、なくそうとする事自体、意味のない事だと思うのですが、悲しみや苦しみに対する不安を取り除くという事ぐらいなら、何とか可能だと思うんですね。

 

 それに、悲しみや苦しみは、人生を豊かなものにしてくれます。

 

 苦しみや悲しみの中で過ごした時期というのは、貴重な学びの時期だと思うし、自分を高めていく為に、絶対に必要不可欠な時期である事は、間違いありません。

 

 「悲しみや苦しみの乗り越え方」みたいな本は、そこら辺りに出回ってますし、そこに書いてある事も、だいたい想像もつくのですが、悲しみや苦しみといったものは、時に、それを感じる事に意味があると思うんですね。

 

 僕も、今さっき「悲しみや苦しみは、人生を豊かなものにしてくれる…」などと書いちゃいましたけど、それは、結果的に後から気づける事であって、苦しみや悲しみの真っ只中にいる時に、そんな事を感じられる訳はありません。

 

 「今、すごく悲しいけど、これは人生を豊かにしてくれる事だから、悲しんじゃいけない。むしろ喜びとして受け止めるんだ…」なんて、頭をこねくり回しながら考える必要なんてないし、そんな事をする意味なんてないです。

 

 苦しい時は、苦しんだらいいと思うんです。「苦しみは、考え方の工夫で、苦しみではなくなる」とは、良く言いますけど、そんな事は一朝一夕にできる話ではありません。

 

 苦しみながら、重い荷物を運んでいる時に、「苦しいと思うから苦しいんだ… 試しに苦しくないと思ってみよう…」なんて、訳のわからない事を考えたら、集中力が途切れて、荷物を落としてしまいます(笑)

 

 もちろん、目の前に起こった出来事と言うのは、ある程度、受け止め方によってどうにでも変わってしまうのも事実です。

 だから、それほど重要でない事まで、悲しんだり、苦しんだりする必要は、全くありません。

 

 でも、例えば、一生モノの失恋をしたとか、肉親が亡くなったとか、体中が病気で痛いとか、もう「受け止め方でどうにかなる」というレベルを超えてしまったものに関しては、そんな事をしても意味がないと思うんですね。

 

 だから、よく宗教なんかで「悲しい時や苦しい時こそ、笑顔を心掛けましょう。そうしたら、本当に楽しくなってきます…」などというのが、たまにありますけど、これ、確かに人前(特に接客業)では、役に立つ事もあるかもしれませんが、誰もいない所で、こんな事をする必要なんて、全くありません。

 

 無理して作り笑いしたって、楽しくなる訳ありませんから…

 

 それに、自分にウソをついて、自分の感情にフタをしてしまったら、何が何だかわからなくなって、自分を見失ってしまいます。

 

 本当は悲しいのに、その悲しみに自分で気がつけないほどの不幸もありません。

 

 僕も若い頃、そんな生き方をしてきたのでよくわかるのですが、18才の時、自分の母親が死んだ時にも、何一つ悲しみが湧いてこなかったんです。

 

 今思い起こせば、あの頃は、自分の頭の中で理屈をこねくり回して、悲しみを感じられなくしていたのだ… という事に気がつけるのですが…

 

 でも、そんな事をわざわざしなくたって、人間の心というのは、限界を超えると、まるで電気のヒューズが飛ぶように、感情が鈍って何も感じなくなってしまうようにできてるんですね。

 

 ヒトラーのナチス・ドイツによって行われた、強制収容所内でのユダヤ人の虐待は、それはもう言葉で尽くせない凄惨を極めた壮絶なもので、あの所業は「人の常軌を逸した悪魔の所業」としか言いようがないのですが、それを身をもって体験したユダヤ人の精神科医V.E.フランクルが、こんな風に書いています。

 

 「初めて収容所に入れられた時は、ありとあらゆるおぞましい事に満ち満ちた大量の印象に対して、恐怖や憤懣、吐き気というような感情が起こるが、こうした感情はいつしか弱まっていって、心は殻をかぶり、情緒そのものが最小限になり、一日何とか生き延びる事だけに全力が注がれる事になる。そうやって、心は均衡を保とうとするのだ。その時には、人間の内面的な水準は、群生動物のそれにまで下がっている事に気づかされる…」(「それでも人生にイエスと言う」V.E.フランクル より要約)

 

 あまりにも受け入れがたい現実を目にした時、心が全てを感じ取ってしまったら、人は精神が崩壊してしまう… だから、無意識的にこういう事になるのだと思います。

 

 アクターズ・スクールの「メソッド演技」の練習の一つに、「過去のトラウマの記憶を思いおこして、未消化のまま過去に追いやられていた出来事に向かい合う」という作業があるのですが、人によっては、それによって精神が病んでしまう人もいます。

 

 エクササイズの後に、酒浸りになってしまったマリリン・モンローも、その一人だったと言います。

(2012/7/20パリブログ 「いざ、内面の旅へ」 参照)

 

 ですから、ただ安易に、自分の感情に、正面からで立ち向かっていったらいい、というものでもありません。

 

 でも、自分が過去に目をそらして、心のブラックボックスに鬱積してしまった感情の記憶が、何らかの恐れの気持ちになって、その人の運気を停滞させているような事は、意外とあると思います。

 

 人によって、受け入れられる感情の許容量が違いますから、その部分は、何とも言えないのですが、その人の人生の試練は、通常の場合なら、その人が乗り越えられる範囲でやってくるものです。

 

 悲しい時には悲しんだらいいし、苦しい時には苦しんだらいい…

 

 どっぷりと不幸な感情に浸ってしまうような事は、決して良い訳ではないし、時々、上手に、自分の気持ちを紛らわせる事は必要だけど、その本質の感情から目をそらす事はしない…

 

 そういう感情を経験するからこそ、人の痛みも分かるようになるし、より魅力的な自分に成長していく事もできるでしょう。

 

 やがて、その悲しみや苦しみが心の栄養となって、より素晴らしい人生が切り開かれているその日を信じて、ありのままの素直な自分で、乗り越えていけたらいい…

 

 最近の僕は、そんな風に思うようになりました。

 

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