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信仰と宗教の違いと、占いとの関係18.01.05

2018年1月5日(金)

 

 新年も今日で5日目…

 

 三が日は、明治神宮とサロン ド シルフィーユの産土神社である中野氷川神社、そして今日は、自宅の産土神社である鷺宮八幡神社と、ここの所、ずっと神社巡りをしています。

 

 神社に行って、何か願い事をしているという訳ではありません。

 では、何で神社参拝に行くかと言ったら、神様に、新年のご挨拶をしようという気持ちからでしょうか…

 

 神社に行くのは、昔から好きですね。

 何となく、すがすがしい気持ちになれるから…

 

 別に僕は、何かの宗教をやっている訳ではありません。 かと言って、無神論者という訳でもなく、自分の中で信仰というものは持っています。

 

 宗教と信仰との違いは、すごくわかりにくいし、どちらの言葉にも、たくさんの定義があるので混乱しますが、少なくとも、信仰イコール宗教ではありません。

 

 場合によっては、宗教的なニュアンスで「信仰」という言葉を使う事もありますし、「宗教」と言っても、仏教・神道・キリスト教といった、比較的日本で一般的に受け入れられている宗教から、はたまたカルト宗教のようなものまで、幅広く存在するので、これらの言葉をきちんと説明するのはとても難しいのですが…

 

 一応、ここでの定義としては、「信仰」とは、「神なるもの」(この言葉を「天」でも、「仏」でも、「宇宙」でも「太極」でも「全体意識」でも、好きなものに置きかえて構いません)を信頼する気持ちであり、「宗教」とは、その信仰を、ある程度形骸化したようなものというようなニュアンスで、使い分けていければと思います。

 

 だから、宗教を信仰の一つのスタイルと呼んでも、別段間違いではないと思うのですが、信仰とは宗教の事だと思われてしまうと、それは、的外れと言わざるを得ません。

 

 信仰というものは、決してそんな特殊なものではなく、多くの人が意識するしないにかかわらず、自然と心の中に持っているものですから…

 

 とはいえ、信仰はもちろんですが、僕は、宗教というものだって、別段、必ずしも悪いものだとは思ってはいません。

 

 まあ、オウム真理教のように、明らかに反社会的なものや、相手の人の迷惑を考えないで、勧誘をしてくるような宗教に関しては、話は別ですし、何でも教祖様の言いなりになって、教祖様の教えがなければ、何も行動できないような人になってしまったのなら、それはそれでいろいろと問題ではありますが…

 

 信仰とか宗教というのは、パソコンで例えるなら、ウィルスソフトのようなものではないか、という気がするんですね。

 

 ウィルスソフトとは、外部から、コンピューターウィルスが侵入した時に、そのウィルスを発見して隔離するソフトです。

 確かに、ウィルスソフトがパソコンにインストールされると、コンピューターが重くなって、若干動きが遅くなります。

 遅くなる度合いは、そのウィルスソフトの性能によって、異なりますが…

 

 その代わり、ウィルスソフトは、外部から侵入するコンピューターウィルスによって、パソコン内部が破壊されるというリスクを、格段に抑えてくれます。

 まあ、今時のコンピューターの9割以上は、だいたい最初からウィルスソフトがインストールされていますね。

 

 信仰や宗教もこれと同じで、例えそういったものを持っていなくったって、普段の生活では何ら問題はないのですが、人生上の大きな挫折や壁に直面した時に、心が信仰を持ち合わせていないと、世界に対する不信感のあまり、自暴自棄になって、自から悪の道に足を踏み入れてしまうようなリスクがあります。

 

 もしも、そうなってしまったのなら、いつしかその人は、この世界に害を及ぼす存在ともなるでしょう。

 

 もちろん、宗教をやっていた所で、それが信仰のレベルまで達していなかったなら、大して変わりないと思いますが…

 

 ちなみに、パソコンに新しいウィルスソフトをインストールする時には、それまで使っていたウィルスソフトをアンインストールしてから行わないと、ソフトがコンピューター内で競合して、システムが不安定になります。

 

 宗教もこれと同じで、新しい宗教を始めたなら、前にやっていた宗教は一旦クリアにしておかないと、教義や教理の折り合いがつかなくて、精神が不安定になります。

 

 でも、宗教のような教理教義に囚われるような事もなく、自分なりの信仰という形で、大きなものとのつながりを感じられている分には、こういった事は起こりません。

 

 時に、宗教は、世界中の争いの火種となる事があります。

 

 やれ「うちの神様が本物だ」とか「お前の所の神様は偽物だ」とか「そうではなくて、神様より仏様の方が偉いんだ」とか「イエスを信じない人は、全員地獄に落ちます」とか、宗教の狭い教理教義にがんじがらめになっている人というのは、とにかく自分の信じているものが一番正しいと思いこんで、他人の宗教を批判したり排除する事に、躍起となっています。

 

 だから、世界中に宗教戦争が絶えないんですね。

 

 八百万の神様も、仏様も、キリスト教の中の主も、宇宙意識も、太極も、人によって、その呼び方が違うだけで、実の所、同じものを言っているに過ぎないという事に気づけるのが、本来の信仰だと思う…

 

 人によって考え方が違うのは当たり前なんですから、それを超えた所で、お互いの事を尊重する事ができる人が、本物だと思うんですね。

 

 もちろん、信仰というものを全く持たないというのも、一つの選択肢だと思います。

 

 ただ、そういった心の拠り所を否定して、神も仏もこの世には存在しない… という考え方でいる事は、一つ間違えば、個人主義に陥りやすいリスクがありますし、もしも、世界中の人が個人主義にというものに陥ってしまったのなら、間違いなく世界は崩壊します。

(2012/9/9 パリ・ブログ 「権利を主張しすぎると幸せが逃げる」 参照)

 

 それに、大きなものとのつながりを感じる事ができないと、心がどんどん枯れていきますから、パワーが続きません。

 

 心にそういった拠り所がない人は(仮に何かの宗教をやっていたとしても、それがただのお陰信仰で終わっていれば、同じ事ですが…)、大きな意識と切り離されているから、いつも、不安に怯えているような状態になりやすいです。

 

 

 まだ、自分の我力だけで人生を切り開いていける内は、良いのですが、そんな時でも、知らずに知らずに「全て自分の力でここまで来たんだ」というような、傲慢な気持ちに陥ってしまいやすくなりますし、そうなってしまうと、運から見放されて、頑張れば頑張るほどに空回りするような事にも、なりかねません。

 

 本当に一流の成功者というのは、宗教に入っているかどうかは別として、何らかの形で、信仰心というものを持っています。

 

 そこには、「決して、人は自分の力だけでは生きられないんだ…」 とか、「天から生かして頂いているんだ…」 と考える謙虚さがあったりします。

 

 占い師も、そういった意味で、宗教は別にどっちでもよいのですが(逆に、宗教に勧誘してくる占い師は、もう最悪です…)、信仰というものは、どちらかというと、あった方が良いような気がするんですね。

 

 そういう占い師というのは、常に謙虚ですし、大きなものとのつながりを心で感じている分、鑑定もよく当たります。

 特に、卜占を行う占い師には、こういった要素は、必要不可欠のような気がします。

 

 そして、何よりも、より高みのある見地から、占いの結果を判断して、お客様にそれを伝える事が、できるような気がするんですね。

運気を上げる占い師18.01.04

2018年1月4日(木)

 

今日から、サロン ド シルフィーユも仕事始めになります。

とはいえ、大みそかから3が日まで、ホームページの事でずっといろいろパソコンをいじっていたので、あんまり休んだ気がしないのですが(笑)

 

年明けの一番最初は、いつも定期的に鑑定を受けてくださっている神戸の社長の電話鑑定からやらせて頂いて、その後、サロン ド シルフィーユでの今年初めての直接鑑定は、千葉の松戸に住んでいた時代から鑑定させて頂いているお客様のEさんでした。

 

Eさんは、前日に鑑定を申し込んでくださったのですが、久しぶりに鑑定を受けたいと思ったのは、ちょっと変わった、ある理由からでした。

 

実は、Eさん、今年の1月2日に、ある人に西洋占星術の鑑定を受けたというのですね。

 

その人は、別にプロの占い師という訳ではないのですが、いろいろ占いの研究をしているという方で、もう千人ぐらいのホロスコープのデータを見ているのだとか…

 

最初はEさんも、占いを見てもらうつもりはなかったのですが、ただで鑑定を見てくれるというし、話の腰を折るのも何なので、その人に鑑定を受ける事にしたそうです。

 

その人は、冒頭に「私は、ありのままの事実を全て正直に話します」と宣言して、Eさんのホロスコープを見て、こんな風に言ったそうです。

 

「ハッキリ申し上げて、あなたは結婚運は非常に悪いです。子供運もよくありません。あなたのお子さんは、あなたの事を嫌っているはずです」と…

 

う~ん、今時、そんなひどい事を言う占い師がいるんだ… と僕はしばらくあっけに取られてしまったのですが、思い直して、Eさんに「まあ、それでも、なんか一つぐらいは、良い事も言われたんじゃないですか」と聞くと、「いえ、何一つ良い事は言ってくれませんでしたし、どうしたら、悪い運が改善されるかも、全く教えてもらえませんでした」 との話…

 

なるほど、この人の世界観においては、Eさんは生まれながらに、結婚運も子供運も悪い事は決定づけられていて、どうやったって、その宿命から逃れる事ができない、という事なのでしょう。

 

「お正月から、あまりに落ち込んだので、浅野先生に元気をもらいに来ました」と、Eさんは、サロン ド シルフィーユに来るなり、笑顔で話してくれました。

 

それにしてもこの言われようはひどいです。


実際に四柱推命で見てみても、そこまで結婚運が悪い訳ではないし、子供運なんて、むしろ普通より良いぐらいなんですけど…

 

Eさんが、その人に「いつも四柱推命で見てくれる先生には、そんな事を言われた事が無いのですが…」と告げた所、「四柱推命より西洋占星術の方が当たるし、とにかく、あなたの結婚運と子供運は悪いんです」とダメ押しされたとか…

 

僕は西洋占星術については、浅学なので、あまり詳しく語る事はできませんし、ブログの中で、誰かをつるし上げる気も、毛頭ないのですが、こういう類いの鑑定を受けて、気分が落ち込んでいる方も多くいらっしゃると思うので、少しだけ、僕の思った所を書いておこうと思います。

 

まず思うに、「占い師というのは、占いを通じて人を幸せにする存在でなければいけない」 と思うんです。

まあ、この人はプロの占い師ではないので、強くは言えませんが…

 

もちろん、だからと言って、占い師は悪い事を告げてはいけないという訳ではないのですが、悪い事を告げるのなら、「どうしたら良いのか」という解決策を、必ずワンセットにすべきです。

もしも、それがわからないのだったら、最初からそんな事を告げるべきではありません。

 

なぜなら、悪い言霊は、本当に悪い未来を呼び込むから…

 

実際には、悪い運気でもないのに、「あなたの今年の運気は最悪です」と、誰かから言われて、その言葉のトゲがその人の心に刺さって抜けなくなってしまったのなら、本当に今年は最悪の年になってしまいます。

 

もちろん、だからと言って、景気の良い事ばっかり言えば良いという訳でもないのですが、少なくとも、悪い事を言いっぱなしにして、何の改善策を出さないよりは、こっちの方がマシです。

 

良い言霊は、その人を元気にさせる働きがありますから…

 

ただ、その時に気をつけなければいけないのは、その言葉によって、その人を自信過剰にさせて、自らの努力や、失敗しない為の細心の注意を怠らせてしまう可能性がある事です。

 

占い師から、運命の人との出会いの年を聞いたものの、それを聞いて安心しきってしまって、その一年ずっと家にこもっていたなら、自然と運命の出会いが消滅してしまうのは、自明の理です。

 

だからこそ、占い師は、本当に言葉に慎重さが求められます。

 

Eさんが占いをしてもらったのは、プロの占い師ではなく、お金を取らないアマチュアの方だから、まだ許せる部分もないではありませんが、それでも、こんな不幸な予言を聞かされた人は、気持ちも落ち込むし、一時的に運気も下がってしまうから、本当にいい迷惑です。

 

ここで一番大切な事は、「なぜ、その言葉を発するのか…」 という、占い師の気持ちの部分ですね。


本当に目の前のお客様の事を思っていて、「そうなって欲しくない」という気持ちから悪い事を告げるのなら、場合によっては、ありだと思います。

でも、ある程度の器量を持った占い師でなければ、かなり危険ですが…

 

ある程度の器量を持った占い師で、かつ本当にその人の為を思ってのアドバイスなら、悪い事を告げた後には、自然と解決策もペアになって出てくるし、悪い予言が当たらないように、あらん限りのその人の為のアドバイスが続くはずです。

 

そういう時というのは、占い師から悪い事を告げられたにもかかわらず、なぜかお客様は元気になる事もあります。(器量が不足する占い師がこれをやると、確実に、元気が奪われます…)

 

前に何度も繰り返し書いていますが、運命というのは、必ず変えられるものですし、もしも運命が変えられないのだったら、この世に生きている意味すらありません。

 

そして、器量のある占い師は、その人の運命を変える力を持っています。

その人の持っている価値観を変える事さえできれば、自然と運命だって変わりますから…

 

もちろん、人の運命を変える事ができるのは、占い師に限った事ではなく、立派な生き様をしていて、人からも尊敬されている人というのは、多かれ少なかれそういう力を持っていると言って良いでしょう。

 

こういう人をあげればキリがないのですが、例えば、故・平岩外四さんとか…

(2013/10/29 パリ・ブログ 「幸せになる量は器の大きさで決まる」 参照)

 

で、さっきの話に戻りますが、無責任に悪い事ばかり言って、その人を落ち込ませるような鑑定をする人というのは、相手の事をこれっぽっちも考えてないですね。

 

ただそこには、自分の自己満足しかなかったり、占いが当たる事だけにしか意識がなかったりで、思いやりのかけらもないです。

 

僕も、鑑定の中で、ちょっと危なっかしいな… と思った時には、お客様に厳しい事を告げる事もありますが、その時には、その悪い言葉が一人歩きして、お客様の運気をせき止める事が無いように、細心の注意を払います。

だいたいは、「その部分をきちんと気をつければ、大丈夫ですよ」と締めくくります。

 

人は無限の可能性を持っているものだと思うし、占い師が、その人の可能性をつぶす事になってしまっては、本末転倒です。

 

僕の周りには、占い師の仲間がいっぱいいます。

<ありがたい事に、今回Eさんが犠牲になってしまったような、人の運気を下げる占い師の友人は、一人たりともいません。

みんな、目の前のお客様の事を真剣に考えている、人の運気を上げる占い師さんばかりです。

 

そして、僕自身も、常にその部分だけは、何があっても揺らがないようにしたいと、常に肝に銘じています。

夢の話の続きと死後の世界について18.01.03

2018年1月3日(水)

 

お正月の三が日も、今日で終わり…

本当、早いものですね。

 

昨日の朝見た僕の初夢は、京都に行く夢だったのですけど、なんでいきなり「京都」何だろうって、しばらく考えてみたんです。

 

もしかしたら、これは「京都に行け」という、夢を通した天からの啓示なのかも知れないませんし(笑)

 

ですが、普通に考えて、日常の生活の中で、京都にちなむ何かに出会っていて、無意識の内に「京都」というキーワードが頭にインプットされていた可能性の方が高そうです。

 

しばらくの間、考えても何も思い出せなかったのですけど、ふと、仕事に疲れた時に、一週間に一度、気晴らしに見る「名探偵コナン」のエンディングで流れる倉木麻衣さんの「渡月橋」のアニメーションが影響しているな… と、気付きました。

 

今現在、僕が唯一見るテレビ番組(と言っても、日本テレビのホームページからインターネットの再放送で見ているのですが…)は、一週間に一度それのみですから、自然に記憶の中に色濃く蓄積されていったのかも知れません。

 

そう気がつくと、本当「しょうもな~(服部平次風に…)」という感じですが、ちょっとスッキリしました…

もちろん、だからと言って、この夢が天の啓示である可能性が亡くなった訳ではありませんが、もしも、本当に天の啓示だったなら、同じようなメッセージが、きっと後何回かは来てくれるはずですから、これ以上、京都に囚われないようにしようと思います。

 


昨日のブログでは、「夢の中の自分の性質は、現実の自分と変わらない…」 とは述べたのですが、夢の中では、現実世界だったら絶対に取らない行動を、平気で取ったりする事があります。
例えば、人をナイフで刺しちゃったりとか…

 

それで、そのまま夢の中のお尋ね者になっちゃったり、お巡りさんに追い掛け回されたりする羽目になる事もあります。

 

目覚めた時には、「自分は、人をナイフで刺すような野蛮な所を持っているのかも知れない」なんて、不安になるかも知れませんが、これは夢の中の出来事で、実際には、誰もナイフで刺されていませんから、問題ありません(^^)

 

夢の世界は、常に衝動が中心になって動いていますから、「人をナイフで刺したら、そのまま警察に捕まって、刑務所行きだからやめよう」というような理性も働きにくいので、まあ、そういう事にもなったりします。

 

あと、夢の中では、いつの間にか、自分がナイフで人を刺したシーンになってしまう事もありますが、そこにも、何かしらの意味があるのでしょう。

 

昨日のブログでも紹介しました、西谷泰人先生の「夢判断」によると、刃物で相手を刺したりとか、逆に自分が刺されたりとかは、大きな幸運が起こったり、出世や金運の他、願いが叶う大吉の夢です。

 

ちなみに、心理学者のカール・ユングは、夢を分析して、心理療法として活用していた事で有名ですが、ユングは、「その夢の中に表れているテーマに気づき、そのテーマが少しずつ進行していく様子を見守る事が大切だ」と説きました。

 

夢の中でナイフで人を刺したからと言って、決して、「自分が人をナイフで刺したい」という衝動であるとも限らず、自分の中にある何らかの不安の表れかも知れませんし、場合によっては、人から良く思われたいと思う衝動かも知れません。

 

毎晩見る夢の変化でわかる、自分の中の心のテーマが、少しずつ良い方向に進行していれば理想的だと、ユングの夢診断では考えるのですね。

 

ただ、やっぱり、夢の中の自分の性質には、間違いなく、現実の自分の思考回路が投影されています。

 

例えば、「浮気をする事は、良くない事だ」というこの世的な価値観を持っている人は、やっぱり、夢の中でも奥様以外の女性と恋愛はしないし(もちろん、夢の中で、自分は独身であるという設定になっていれば話は別ですが…)もしも、万が一にも夢の中で浮気をしてしまったなら、罪の意識でドキマギしながら、コソコソと夢の世界を逃げ回るでしょう。


でも、「浮気は男の甲斐性だ。何が悪い」という価値観を持っている人なら、ここぞとばかりに、夢の中のハーレムを楽しむはずです。
まあ、その内に、夢でないがしろにした奥様から、夢の中で刺されるかも知れませんが(笑)

 

夜眠っている時にどんなひどい夢を見たとしても、朝、目覚めたなら、ちゃんとこの現実の世界に戻ってこられますから、安心な訳ですが、いつしか我々の体は、寿命が来て、消えてなくなる日が来ます。

 

死後の世界というものが、どうなっているかについては、全く確かめようがないし、本当様々な考え方がありますが、僕は少なくとも、「心というものは幻で、脳が停止した瞬間に、人の意識が全てが消滅する」という考え方だけは、賛成できないです。

 

人の意識は、そもそもエネルギー体だと思うし、あんまりおどろおどろしい事は書きたくないのですが、霊魂の存在や影響というのは、はるか昔から、暗黙の内に認められています。

 

とはいえ、そういったものを過度に怖がる必要もないし、かといって逆に、そういった事ばかりに興味を持ち過ぎるのも、辞めた方がいいと思うのですが、やっぱりそういう存在は、間違いなくあるような気がします。

 

例えば、臓器移植をされたら、性格が変わったとか、生前その臓器を持っていた人の記憶が宿ったという話も、決して作り話ではないと思うし、あっても別に不思議ではないと思うんですね。

(2013/3/13 パリ・ブログ 「世の中には不思議な事がいっぱいある…」 参照)

 

体を持っている人間そのものだって、謎だらけなんですから、体を持たないエネルギーの存在があっても、全然不思議ではありません。

 

それで、もしかすると、死後の世界は、ずっと夢の世界で生きているんじゃないかな… なんて気もするんです。

 

死んで間もない頃は、「人をナイフで刺したらよくない」とか「浮気をしたらよくない」とか、みんなこの世の固定概念に縛られているでしょうけど、やがて、この世の記憶も消えていくでしょうから、そういう固定概念も無くなっていくでしょう。

まあ、想像ですが(笑)

 

ただ、そういうこの世の固定概念がなくなっても、自分の性質というものは、よっぽどの人ではない限り、死後も残っていると思うし、死んだ後にも、利己主義が元になっているような強い衝動を持っていると、いろいろと問題が残るような気がします。

 

なんだか、今日のブログは変テコな話になってしまいました。

 

この現実世界には、この世的な理想論は星の数ほどありますけれど、そのほとんどは、その通りに行かないのが現実ですし、それぞれが抱いている理想にこだわり過ぎる事によって、世界中に争いが絶えないのが、今の現状だと思います。

 

もちろん、だからといって、理想に向けての努力を放棄するのが良い訳ではありませんが、今している努力が、結果的に他者を排除したり、非難するだけのものになっていたのなら、それは、かなり危ういと言わざるをえないでしょう。

 

だからこそ、ただただ、この世に存在する全てのエネルギーである心が、それぞれに納得して、本当に安らかで、幸せに満ちたものになってくれたらいいな… などと思う、今日この頃です。

夢からのメッセージ18.01.02

2018年1月2日(火)

 

1月2日に見る夢は「初夢」と言って、初夢で縁起の良いものと言えば「一富士二鷹三なす」などと言いますが、あれは、僕が大好きな徳川家康の好きなものから来ていると言います。

 

徳川家康が天下を掌握した後の話、駿府城にいた家康の元に、三保の松原の近くで取れたという「折戸なす」が、献上されました。
その時に、「この初なすの値段はいくらか」と尋ねた家康が、あまりにもその値段が高いのに驚いて、「一富士、二鷹、三なすび」と言ったという説があります。

まあ、単なる言い伝えなので、実話である可能性はあまり高くなさそうですが…

 

僕も、今日の初夢を、しっかりと記憶に残しておこうと思い、メモを取ろうとしたのですが、書くものがないので、起きてすぐ、そばにいた妻に、どんな夢を見ていたかを詳細に話しました。
メモを取る事ができなくても、こうやって言葉に発するだけで、案外と記憶に残るものです。

 

今日の夢は、何かの占いの大きな仕事が入ってきて、その仕事をやり遂げる為に、どういう訳か京都に行くという夢…


どうしても、京都に行かなければ、仕事の内容で解明できない事があるとかで、「元を取れなくても、ちゃんと準備するんだ」とか言って、電車に乗って、京都のどこかの地に降りて、何かの話を聞いているんです。
しかも、どういう訳か、話している人達に悟られないように、こそこそと聞き耳を立てて、その話を聞いているという(笑)

何で京都なのかは、よく分かりません。

 

何だったんだろう、この夢は…と思い、とてもわかりやすい夢判断の本である西谷泰人先生の「願いをかなえる夢の見かた」を手にして、いろいろと調べてみたのですが、完全に全解明までには至りませんでした。

 

ちなみに、夢というものの研究の最も古い歴史としては、紀元前23世紀からあるという、古代バビロニア帝国にさかのぼる事が出来ます。
なんと、バビロニアには、夢の解釈のテキストがあったとか…

 

その後、時代は下って、中世の神学者であるトマス・アクィナスという人は、夢の原因には精神的原因、肉体的原因、外界の影響、神の啓示の4つがあると考えました。

 

でも、夢を心理学的に研究した有名人と言えば、なんといっても、ジークモント・フロイトとカール・ユングでしょう。

とはいえ、フロイトとユングでは、夢というものの捉え方はかなり異なっていて、フロイトという人は、何でもかんでも「性的抑圧」と結びつけて考えるので(これがフロイトの限界だと思う)その解釈は、かなり歪んだものになっています。

 

昔、村野大衡先生と、夢について語り合っていた事もあるのですが、夢って本当に不思議なものです。

(2014/1/22 パリ・ブログ 「夢の残像は現実になる…」 参照)

 

ただ、夢って、あの世からのメッセージでもあるんですが、かなり体からの影響を受けている事も確かです。

腕が痛いと、腕を縛られたりしているような夢を見るし、ある実験では、寝ている人の顔の上でハンカチをヒラヒラさせて、その人に夢の感想を聞いた所、無理やり、お面をつけられている夢を見たそうです。

 

ほとんどの夢は、自分の意とは全く関係なく、勝手に進行していくし、だいたい夢を見ているという事さえ、夢の中では忘れてしまっているものですけど、まれに、夢を見ながら明確に「これは夢だ」と気づく事があります。

これを、専門用語で「明晰夢」というらしいんですけど、「これは夢だ」と気づいた時には、もう、怖いものなしですから、夢の中でやりたい放題できるし、自分の願望を全部叶えられます。

まあ、目覚める直前ですから、せいぜい1分程度ですけど…

 

ちなみに、嫌な夢を見て目覚めた時には、これを応用して、その夢を意識しながらまた眠りにつく事で、その夢の内容を変えるだってできます。

もしも、夢の中で虐待を受けていたら、思いっきり相手に仕返しだってできます(笑)

 

それにしても、僕が思うのは、夢の中の自分の性格も、現実の自分とさほど変わらないですね。

多少わがままになっていたり、現実では考えられないような変テコな事を、平気でやったりはしますけど、基本的に自分の性質が出ているような気がします。

 

まあ、今生きているこの現実の世界だって、100年余りの夢に過ぎない訳ですし、悔いを残さないようにしっかりと、濃い内容にしていきたい思います。