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信仰と宗教の違いと、占いとの関係18.01.05

2018年1月5日(金)

 

新年も今日で5日目…

 

三が日は、明治神宮とサロン ド シルフィーユの産土神社である中野氷川神社、そして今日は、自宅の産土神社である鷺宮八幡神社と、ここの所、ずっと神社巡りをしています。

 

神社に行って、何か願い事をしているという訳ではありません。

では、何で神社参拝に行くかと言ったら、神様に、新年のご挨拶をしようという気持ちからでしょうか…

 

神社に行くのは、昔から好きですね。
何となく、すがすがしい気持ちになれるから…

 

別に僕は、何かの宗教をやっている訳ではありません。 かと言って、無神論者という訳でもなく、自分の中で信仰というものは持っています。

 

宗教と信仰との違いは、すごくわかりにくいし、どちらの言葉にも、たくさんの定義があるので混乱しますが、少なくとも、信仰イコール宗教ではありません。

 

場合によっては、宗教的なニュアンスで「信仰」という言葉を使う事もありますし、「宗教」と言っても、仏教・神道・キリスト教といった、比較的日本で一般的に受け入れられている宗教から、はたまたカルト宗教のようなものまで、幅広く存在するので、これらの言葉をきちんと説明するのはとても難しいのですが…

 

一応、ここでの定義としては、「信仰」とは、「神なるもの」(この言葉を「天」でも、「仏」でも、「宇宙」でも「太極」でも「全体意識」でも、好きなものに置きかえて構いません)を信頼する気持ちであり、「宗教」とは、その信仰を、ある程度形骸化したようなものというようなニュアンスで、使い分けていければと思います。

 

だから、宗教を信仰の一つのスタイルと呼んでも、別段間違いではないと思うのですが、信仰とは宗教の事だと思われてしまうと、それは、的外れと言わざるを得ません。

 

信仰というものは、決してそんな特殊なものではなく、多くの人が意識するしないにかかわらず、自然と心の中に持っているものですから…

 

とはいえ、信仰はもちろんですが、僕は、宗教というものだって、別段、必ずしも悪いものだとは思ってはいません。

 

まあ、オウム真理教のように、明らかに反社会的なものや、相手の人の迷惑を考えないで、勧誘をしてくるような宗教に関しては、話は別ですし、何でも教祖様の言いなりになって、教祖様の教えがなければ、何も行動できないような人になってしまったのなら、それはそれでいろいろと問題ではありますが…

 

信仰とか宗教というのは、パソコンで例えるなら、ウィルスソフトのようなものではないか、という気がするんですね。

 

ウィルスソフトとは、外部から、コンピューターウィルスが侵入した時に、そのウィルスを発見して隔離するソフトです。
確かに、ウィルスソフトがパソコンにインストールされると、コンピューターが重くなって、若干動きが遅くなります。
遅くなる度合いは、そのウィルスソフトの性能によって、異なりますが…

 

その代わり、ウィルスソフトは、外部から侵入するコンピューターウィルスによって、パソコン内部が破壊されるというリスクを、格段に抑えてくれます。
まあ、今時のコンピューターの9割以上は、だいたい最初からウィルスソフトがインストールされていますね。

 

信仰や宗教もこれと同じで、例えそういったものを持っていなくったって、普段の生活では何ら問題はないのですが、人生上の大きな挫折や壁に直面した時に、心が信仰を持ち合わせていないと、世界に対する不信感のあまり、自暴自棄になって、自から悪の道に足を踏み入れてしまうようなリスクがあります。

 

もしも、そうなってしまったのなら、いつしかその人は、この世界に害を及ぼす存在ともなるでしょう。

 

もちろん、宗教をやっていた所で、それが信仰のレベルまで達していなかったなら、大して変わりないと思いますが…

 

ちなみに、パソコンに新しいウィルスソフトをインストールする時には、それまで使っていたウィルスソフトをアンインストールしてから行わないと、ソフトがコンピューター内で競合して、システムが不安定になります。

 

宗教もこれと同じで、新しい宗教を始めたなら、前にやっていた宗教は一旦クリアにしておかないと、教義や教理の折り合いがつかなくて、精神が不安定になります。

 

でも、宗教のような教理教義に囚われるような事もなく、自分なりの信仰という形で、大きなものとのつながりを感じられている分には、こういった事は起こりません。

 

時に、宗教は、世界中の争いの火種となる事があります。

 

やれ「うちの神様が本物だ」とか「お前の所の神様は偽物だ」とか「そうではなくて、神様より仏様の方が偉いんだ」とか「イエスを信じない人は、全員地獄に落ちます」とか、宗教の狭い教理教義にがんじがらめになっている人というのは、とにかく自分の信じているものが一番正しいと思いこんで、他人の宗教を批判したり排除する事に、躍起となっています。

 

だから、世界中に宗教戦争が絶えないんですね。

 

八百万の神様も、仏様も、キリスト教の中の主も、宇宙意識も、太極も、人によって、その呼び方が違うだけで、実の所、同じものを言っているに過ぎないという事に気づけるのが、本来の信仰だと思う…

 

人によって考え方が違うのは当たり前なんですから、それを超えた所で、お互いの事を尊重する事ができる人が、本物だと思うんですね。

 

もちろん、信仰というものを全く持たないというのも、一つの選択肢だと思います。

 

ただ、そういった心の拠り所を否定して、神も仏もこの世には存在しない… という考え方でいる事は、一つ間違えば、個人主義に陥りやすいリスクがありますし、もしも、世界中の人が個人主義にというものに陥ってしまったのなら、間違いなく世界は崩壊します。

(2012/9/9 パリ・ブログ 「権利を主張しすぎると幸せが逃げる」 参照)

 

それに、大きなものとのつながりを感じる事ができないと、心がどんどん枯れていきますから、パワーが続きません。

 

心にそういった拠り所がない人は(仮に何かの宗教をやっていたとしても、それがただのお陰信仰で終わっていれば、同じ事ですが…)、大きな意識と切り離されているから、いつも、不安に怯えているような状態になりやすいです。

 

 

まだ、自分の我力だけで人生を切り開いていける内は、良いのですが、そんな時でも、知らずに知らずに「全て自分の力でここまで来たんだ」というような、傲慢な気持ちに陥ってしまいやすくなりますし、そうなってしまうと、運から見放されて、頑張れば頑張るほどに空回りするような事にも、なりかねません。

 

本当に一流の成功者というのは、宗教に入っているかどうかは別として、何らかの形で、信仰心というものを持っています。

 

そこには、「決して、人は自分の力だけでは生きられないんだ…」 とか、「天から生かして頂いているんだ…」 と考える謙虚さがあったりします。

 

占い師も、そういった意味で、宗教は別にどっちでもよいのですが(逆に、宗教に勧誘してくる占い師は、もう最悪です…)、信仰というものは、どちらかというと、あった方が良いような気がするんですね。

 

そういう占い師というのは、常に謙虚ですし、大きなものとのつながりを心で感じている分、鑑定もよく当たります。
特に、卜占を行う占い師には、こういった要素は、必要不可欠のような気がします。

 

そして、何よりも、より高みのある見地から、占いの結果を判断して、お客様にそれを伝える事が、できるような気がするんですね。