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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<15>維新の街の香り20.06.18

2020年6月18日(木)

 

 全国的に梅雨入りを迎えて、東京もここの所、曇り空が多くなっています。

 

 この度、お世話になっている伊泉龍一先生をご紹介をいただき、次回の大阪で開催する四柱推命講座・初級編の前日7月24日(祝)に、大阪・梅田の占いスクール・ベネディーレにて、「陰陽五行から見た、未来を良くするための四柱推命」を、開催させて頂く事になりました。

 

 ちなみに、ベネディーレの講座は、Zoom参加や録画受講もあるので、全国から参加できます。

 よろしかったら、ぜひ、ホームページにアクセスしてみてください(^^)

 

 さてさて、西日本旅行記は、まだまだ続きます。

 おそらくこの話、終わるまでに30話分ぐらいになってしまうのではないかと思います。

 そして、山口編の旅行記のクライマックスは、まさにこれからです。

 

 五気調整術協会の理事である、水木杏香先生の山口の地に行ったのは、元々、水木先生から、漢方や五行によって、体を健康にする処方箋を学ぶ、という目的がありました。

 

 そしてもちろん、この山口という明治維新の原動力となった地に、足を踏み入れて、一度、自分の体でそのパワーを確かめてみたい、という気持ちが強かったからでもあります。

 

 水木先生は、薬膳の処方や漢方の医療に精通されていて、それを五行と連動させて、実際に様々な効果や実績を出されていらっしゃるプロフェッショナルですから、この時、予定していた上級編講座の「健康運」の内容をブラッシュアップするには、この上なく力強い味方です。

 

 そんなこんなで、車の中では、漢方の蔵象論(ぞうしょうろん)のお話や、健康を保つにはどうしたらよいか… といった話を、ずっと水木先生からお聞きしていました。

 

 自分で言うのもなんですが、僕は本当に仕事人間で、こんな風に観光をしていても、いつも次の講座の内容の事や、書きたい本の事なんかが、ずっと頭をよぎっているんです。

 

 車の中で水木先生から、蔵象の肝・心・脾・肺・腎の五臓の極意と言っても良いようなお話を聞きながら、しっかりとメモと取っていました。

 

 旅の最初の目的地の「明倫学舎」の駐車場で車を止めて、その後は、ちょうどそこから北西の方向にある萩城の城下町を目指して、歩いていきました。

 

 

 緑があふれて、とっても清々しい、萩中央公園の脇の道を、水木先生と一緒に散歩しました。

 

 そして、その道の途中で、この地に生誕した偉人達のたくさんの像と、遭遇しました。

 

 

 最初に遭遇したのは、制帽をかぶり、馬にまたがった明治の元勲、山縣有朋公の銅像でした。

 

 言わずと知れた、この国の第3代および第9代内閣総理大臣になった人です。

 この人が、他の内閣総理大臣と違う所は、現役軍人であり続けながら、総理大臣になった所…

 

 明治天皇から「特に功労が大きい」という理由で、本人の希望を尊重して、特別に現役軍人であり続けながら、総理大臣となりました。

 

 若い頃は、吉田松陰の晩年期(晩年期といっても、吉田松陰28歳ですが…)の門下生であり、ずっと生涯を通じて「松陰先生門下生」と称し続けた人で、高杉晋作と深い親交があり、晋作亡き後の騎兵隊を率いています。

 

 西郷隆盛が下野した征韓論政変で煮え切らない態度を取ったので、桂小五郎(木戸孝允)と一時的に険悪な状態となった事もあるのですが、その能力から、後に許され、関係を修復しています。

 

 自由民権運動を封じ込めたり、日本の軍部の影響を大きくし、軍制改革や徴兵制を取り入れて、軍備拡張を推し進めていった人であり、そういった意味では、のちの日本が、軍国主義の道を突き進む下地を作った人とも言えるでしょう。

 

 だから、山縣有朋の評価は、今でも賛否両論ですね。

 

 でも、勝海舟にして「あれは、正直一辺倒の男だ」と言わしめるほどの、愚直なほどに、まっすぐな人物でした。

 

 

 この胸像は、佐々木義彦翁のもの…

 すみません。どんな方なのか、この時は全くわからなかったので、いろいろと調べてみました。

 

 戦前、戦後を通じ、日本の産業経済の発展に尽力し、学校や公会堂の施設整備や灌漑用水の整備などに多額の寄付をし、教育の充実や福祉に多大な貢献をした方です。

 いわば、この萩の救世主のような方ですね。

 

 さらに、そこから、萩中央公園に沿って、まっすぐ北に進んでいくと…

 

 

「久坂玄瑞進撃像」が、ありました。

 

 逆光になって、写真が真っ黒になってしまっていますが(^^;;

 

 円政寺にあった竹にも、吉田松陰四天王の一人として、久坂玄瑞の名がありましたが、まさに、松下村塾の松陰門下生の中で、高杉晋作と共に双璧と言われた人物で、幕末史に興味がある方なら、ご存じの方もいらっしゃると思います。

 

 でも、名前は良く聞くし、聞き覚えがあるけど、何をやった人かはよくわからない… という人も多いかも知れませんが(笑)

       まるで、ニッシンボーのCMみたいな…

 

 久坂玄瑞というのは、まだ十代の頃から、当時ペリーの黒船来訪で、朝廷の勅許も得ず、押し付けられて無条件開国をしてしまった幕府のふがいなさを憂い、この国の未来を慮っていた強烈な志士で、最初は吉田松陰とも、書簡で激論を交わしたような熱血漢です。

 

 吉田松陰からも一目置かれ、松陰は自分の一番下の妹と玄瑞との結婚の話をまとめ、玄瑞を義弟としました。

 

 後の奇兵隊の前身となる光明寺党を結成した人でもあり、当時の長州藩の藩主である毛利敬親に建白書を上提し、それまで、俗論派の長井雅楽(ながい うた)によって握られていた藩論を覆してしまった人です。

 そしてさらに、桂小五郎と協力して、長井雅楽を失脚に追い込みました。

 

 もしも、久坂玄瑞のこの働きがなかったら、長州藩は相変わらず、俗論派に牛耳られたままですので、明治維新につながる事もなかったでしょう。

 

 久坂玄瑞の最期は、京都の蛤御門(はまぐりごもん)の変でした。

 薩会同盟(さっかいどうめい/薩摩藩と会津藩の同盟)が成立し、八月十八日の政変が起こって、長州藩の排除が決定されると、長州藩の過激派は「武力をもって京都に進発し、天皇に長州の無実を訴える」と主張し、兵を率いて上洛し、戦闘が起こります。

 

 これが、蛤御門の変(禁門の変)です。

 

 最初、久坂玄瑞は桂小五郎と協力して、過激派をなだめて、行動を押しとどめていたんです。

 でも、それまで京都にいた島津久光とかが、国元に帰っていくと、急に心変わりし、過激派が主張する進発派にくみします。

 

 その後、朝廷からの退去命令が出た事で、兵を引き上げようとしたものの、来島又兵衛らの意見を押しとどめられず、そのまま戦闘に参加し、敗北して、仲間と刺し違え、自害して果てました。

 

 明治維新という偉業は、志半ばにして亡くなっていった、名もなきたくさんの志士達の犠牲の上に、成り立っていると言えましょう。

 

 

 いよいよ、世界遺産でもある「萩城城下町」の街並みに入りました。

 

 この道、右側は普通の住宅街なのですが、左側は、まるでタイムトリップしたかのような、昔の街並みが続いています。

 

 街が世界遺産に指定されてしまうと、そこに住んでいる住人の方も、勝手に家を改築したりする事が出来なくなってしまうそうです。

 それだけなら、まだしも、エアコンの室外機を人の目に触れる所に置く事も、できないのだとか…

 

 真夏にも、エアコンが自由に設置できないなんて、想像しただけでもキツいです。

 

 水木先生のお話を聞きながら、世界遺産に指定されるのも、楽じゃないんだなあ… なんて思いました。

 

 円政寺を拝観し、明治維新の三傑の一人である桂小五郎の旧宅に立ち寄って、そろそろお腹がすいてきたので、昼食をとる事にしました。

 

 

 世界遺産の街で、閑静なとても素敵な食堂を見つけました。

 

 お店の名前は「晦事」と書き、「コトコト」と読ませるようです。

 

 四柱推命をやっていて、晦という字を見ると、「晦火」とか「晦気殺」とか、色々と変なものが浮かんできます(笑)

 

 

 部屋のガラス戸越しに見える庭の景色が、何とも言えない趣(おもむき)があって、すごく素敵です。

 

 毎日の始まりの事を「晦事(ことこと)」と言うとの事で、それがお店のネーミングになりました。

 

 

 水木先生がお勧めしてくれた、チーズの入った「焼きカレー」を注文してみました。

 

 水木先生の話では、この焼きカレーの発祥の地は、山口県の隣りの県である福岡県なのだそうです。

 考えてみれば、この場所からすぐの所に、九州があるのですね!!

 

 チーズがまろやかにからまって、とても良い良い味を出しています。

 

 普通にご飯にかけて食べるカレーとは、ある意味、全く違う味わいですね。

 

 

 そして、萩の名物の一つといえば「夏みかん」なんです。

 その夏みかんから作った、しぼりたての美味しいジュースを頂きました!!

 

 夏みかんの甘い香りがたまらない…

 

 本当に美味しいジュースです。

 

 

 お店の方に、水木先生と一緒の写真を撮って頂きました。

 

 ちょっと、逆光になってしまって、写真うつりは悪いのですが、まるで時の流れが止まったかような、安らぎに包まれた雰囲気のお店でした。

 

 この萩の城下町のあたりは、ものすごい数の偉人や政治家、実業家も輩出しているんです。

 

 もしかすると、このあたりには、目に見えない巨大なエネルギーの渦のようなものがあるのかも知れない…

 

 街を歩いていて、どうしてもそんな風に感じてしまう自分がいました。

 

 そのエネルギーを体中に受けながら、この後、この城下町にある維新の志士の生家などをめぐっていきました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<14>鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面20.06.09

2020年6月9日(火)

 

 いよいよ、6月ですね。

 四国や南九州は、もう梅雨入りをしたようですが、本州の方は、いつもよりも少しだけ遅めになりそうだとの事…

 

 新型コロナウィルスも、ようやく下火になって、少しずつですが、日常の生活が戻りつつあります。

 

 そして、相変わらず、このブログは、半年のタイムラグを抱えたまま、だらだらと西日本旅行記を書いています(笑)

   もう、いい加減にしろ… って感じですね(^^;;

 

 五気調整術協会の理事である、水木杏香先生の車で、新山口にある東横インから、萩・明倫学舎へと向かい、幕末の長州藩の興味深い歴史資料をたっぷりと堪能した後、車は駐車場にとめたまま、萩の街を少し歩いてみる事になりました。

 

 ちょうど、萩・明倫学舎で、この地域の周辺マップをもらえたので、それで道を確認しつつ、水木先生に案内して頂きながら、世界遺産になっている萩城の城下町がある地域へと、向かいます。

 

 長州藩の志士の銅像があちこちにある、歴史情緒あふれる萩の街を西の方へと歩いて、ある一角を超えると、まるでタイムトリップしたかのような、昔の街並みが残っている路地に差し掛かりました。

 

 そして、そのまま気がつくと、「円政寺(えんせいじ)」という古いお寺の前に、吸い寄せられるようにたどり着きました。

 

 

 拝観料は、大人200円、中高生150円、小学生150円で、とてもリーズナブルです。

 

 水木先生の観光プランに最初から、円政寺に行こうという計画があった訳ではありませんが、二人で顔を見合わせて、ここに入ってみようという事になりました。

 

 真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)月輪山(かちりんざん)円政寺…

 

 最初、このお寺を見た時、すっかり神社だと思いました。

 

 だって、ここには、鳥居があるのです!!

 

 そして、その鳥居の所に、看板が立てかけられていて「高杉晋作 伊藤博文 両公幼年勉学之所」と、書いてありました。

 

 

 騎兵隊のスーパーヒーローと、明治の元勲の初代総理大臣が、幼年期に共に勉学をしたお寺とは、一体どんな所なのだろうと、期待に胸がふくらみました。

 

 受付で拝観料を払うと、円政寺のパンフレットと、分厚い大きな紙に、イラストつきで、きれいにカラー印刷された「萩城城下町絵図」(複製禁止)が頂けます。

 パンフレットには、円政寺の由緒などが、細かく書かれていました。

 

 円政寺は、元々山口市にあった、御室派の由緒あるお寺であり、その後、毛利輝元が関ヶ原の戦いで減封されて、萩を本拠地にして築城すると、円政寺は、萩市の現在お寺がある場所から500mぐらい北東の場所に、移されました。

 

 そして、さらに時代が下り、明治3年になって、現在のこの場所に移って来たという事らしいです。

 

 では、それ以前、つまり幼年時代の高杉晋作と伊藤博文がここで勉学していた幕末の頃、この場所はどうなっていたかというと、法光院(ほうこういん)という別のお寺だったようです。

 

 明治元年に出された明治政府の神仏判然令により、法光院は廃されて、代わりに御室派の円政寺が、ここに移ってきたという訳です。

    ちょっと、ややこしいですね…

 

 お寺の正面に鳥居があるというのは、現代では、めちゃくちゃ違和感がありますが、明治以前の時代においては、こういうのは、そんなに珍しい事ではありませんでした。

 

 その頃は、神仏習合と言って、神社もお寺も、あんまり区別がなかったんですね。

 

 この鳥居が、普通の鳥居と少し違っている部分を、水木先生が発見してくれました。

 

 

 なんか、鳥居の柱の先端が、丸い形になっています。

 

 こんな風に、柱の先端が丸い形になっている鳥居というのは、神仏習合のお寺、こと「明神系」と呼ばれるお寺には、よく見られる特徴なのだそうです。

 

 とはいえ、現代において、こういう形で、神社かお寺か区別がつかないような形のお寺が残っているのは、非常に珍しい事です。

 

 この手の物は、明治維新の時に、ほとんどが消えてしまっていますから…

 

 明治の初め、明治政府によって、それまで武家が中心だった世の中から、天皇を中心とする世の中にするという目的で、神仏分離という政策がありました。

 政府は、神道を国教として確立し、伊勢神宮をその神社の頂点として、社格を設けて全国の神社を整備していったんです。

 だから、皇室の祖先や皇室の忠臣を御祭神とする神社の多くは、明治時代の初頭に作られています。

 

 そしてさらに、明治元年3月の神仏判然令によって、それまでの神仏習合の形の神社やお寺は、その形態を変える事を、余儀なくされました。

 

 「神社かお寺かどっちだか良くわからない場所は、仏像とか梵鐘とか、そういうものを全部廃して、御祭神もちゃんと日本神道の神様の名前にして、きちんとした神社にしましょう。もしくは、お寺にするんだったら、お社とか鳥居とかは破棄して、ちゃんとお寺らしくしましょう」という訳です。

 

 代表的な例だと、京都の八坂神社なんかがそうで、あそこは元々は「祇園社」といって、御祭神も牛頭天王(ゴズテンノウ)という仏様だったのですが、この神仏判然令により、仏教っぽいものは全部取り払われて、御祭神も牛頭天王から素戔嗚(スサノオ)に、変えられてしまいました。

 とはいえ、祇園祭という京都の伝統的なお祭りは、今でもちゃんと残っていますが…

 

 このようにして、明治政府は、皇室神道というものを、特別なものにしていったのです。

 

 ちなみに、元々のこの円政寺があった場所は、今では、多越(たお)神社という、普通の神社になっているみたいです。

 

 

 円政寺の本堂で、しっかりと手を合わせました。

 

 後の初代内閣総理大臣であり、一昔前は千円札の肖像画だった伊藤博文は、この円政寺(この時は法光院)で、11歳の頃から約1年半の間、寺の雑用をしながら、読書や習字にいそしんでいました。

 

 しばらく境内を見ていると、円政寺のご住職の方が出てきてくださって、お寺のあちこちにある物を、丁寧に説明してくださいました。

 

 

 ここが、この円政寺の中で、一番の見所である「金毘羅社(こんぴらしゃ)」…

 

 この金毘羅社は、ここがまだ法光院だった頃からあった、れっきとした神社です。

 

 本来なら、神仏判然令によって、取り壊されてもおかしくない建物ですが、寺の嘆願により、廃社を免れました。

 

 円政寺は、れっきとした御室派の寺なので、御室派のお寺から嘆願されては、さすがの明治政府も手が出せなかったのですね。

 

 京都はんなり日記の仁和寺の記事でも、少しふれましたが、「御室」というのは、天皇の隠居所の事…

 (2019/11/28 ブログ 「龍安寺と仁和寺、京の古刹を巡って」 参照)

 

 御室派の総本山である仁和寺の最初の門跡(もんぜき)は、宇多天皇であり、この幕末の頃の仁和寺の門跡は、仁孝天皇の猶子・純仁親王(じゅんじんしんのう)でした。

 

 のちに、純仁親王は、明治天皇の勅命により還俗し、戊辰戦争の時には、官軍の総大将として、旧幕府軍を掃討しました。

 

 その戊辰戦争に掛かった莫大な費用の大部分を、純仁親王は、御室派の寺院から調達したと言われていますから、明治の新政府も、御室派のお寺には一目置くという訳です。

 

 お寺なのに、正面には鳥居があるし、明らかに神仏判然令に反するにもかかわらず、天皇ゆかりの寺とあっては、そのお社をつぶす訳にもいきませんから、現代まで、そのままの形で残っているのですね。

 

 もしも、法光院のままだったら、時代が時代ですから、取り壊しの憂き目にあっていた可能性は、かなり高かったと思います。

 

 あと、もう一つ、この金毘羅社が取り壊されなかった理由は、天皇の皇女作の額が保管されていた事です。

 この金毘羅社には、江戸時代中期、中御門(なかみかど)天皇の第四皇女・宝鏡寺宮(ほうきょうじのみや)が書した「瑞現山(ずいげざん)」と「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」という額があって、これによって、このお社は、取り壊しを完全に免れました。

 

 これらは、江戸幕府の老中・松平定信が編纂した古美術の目録「集古十種(しゅうこじっしゅ)」にも載っているほどの有名な品で、この2つの額が、円政寺の神仏習合のスタイルを守ってくれたとも言えます。

 

 

 金毘羅社の上を見上げると、巨大な迫力ある赤い天狗のお面があって、度肝を抜かれます。

 

 この天狗のお面を、ものすごく怖がった少年が、なんと、のちに長州藩で騎兵隊を結成し、明治維新のきっかけを作った、あの高杉晋作だったのです。

 

 晋作は、幼少期は病弱で、弱虫だったと伝えられています。

 

 そして、晋作の母は、度胸のある強い男の子にしたいという願いを込めて、嫌がる晋作に毎日、この天狗の面の前に立たせたといいます。

 

 同じように、その近所に住んでいた桂小五郎(のちの木戸孝允)も、幼少期には背負われて、この天狗の面を見に来たそうです。

 

 その晋作や小五郎が、やがてたくましく育って、明治維新の長州藩の原動力になる訳ですから、この天狗の面こそが、日本の夜明けを作ったと言えなくもありませんね(笑)

 

 

 この巨大な鏡は、なんと直径1m30cmもあって、国内で最大級の鏡です。

 

 巨大な鉄の塊(かたまり)そのものですから、太平洋戦争の時の「金属類回収令」で、国に持っていかれてしまったそうです。

    この時代の「庚」は、きっと最高に価値があったに違いない…

 

 でも、平成18年に、京都で競売にかけられているのを、偶然発見して、買い戻したとの事…

 

 ご住職が満面の笑みで、そう語ってくれました。

 

 

 この金毘羅社には、それぞれの場所に十二支の彫刻がされているんです。

 

 木彫りの彫刻は、細かい所までしっかりと彫り込まれて、実に見事なのですが、一つ一つが小さくコンパクトで、二階の屋根に彫られた彫刻は、あまりにも遠すぎて、うまく写真に撮れませんでした。

 

 

 ご住職に案内されて、水木先生と、巨大な石灯篭の前に行きました。

 

 この灯篭は耐震構造になっていて、なんと、灯篭の下にある6つある脚の内、2つの脚は、手でくるくると回す事ができるんです。

 

 早速、その動く脚をさわらせて頂きました。

 本当に、見事なものです。

 

 さらに、ご住職が説明をし始めたのは…

 

 

 なんとこれは、コ、コココ、コナン君(服部平次の口調で…)では、ありませんか(笑)

 

 ご住職は、アニメの取材が来て、名探偵コナンの519話に、この円政寺が登場した話を、得意げに語ってくれました。

    少年探偵団も、大活躍するらしい…

 

 

 この木の馬は、とてもリアルで、いかにも動き出しそうな迫力があります。

 

 まだ少年であった、高杉晋作と伊藤博文は、この木馬の上に乗ったり、頭をなでたりしていたそうです。

 

 高杉晋作と伊藤博文は、晋作の方が2歳年上で、何となく、伊藤俊輔(のちの博文)が、高杉晋作の部下として、使われている関係みたいなイメージがしてしまいますが、この頃は、仲の良い幼友達だったようです。

 

 ちなみに、伊藤博文の「博文」という名前は、まだ若かりし頃に、高杉晋作からつけてもらった名前です。

 

 

 境内の竹に「吉田松陰門下 四天王」と書かれた竹がありました。

 

 久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)とあります。

 

 この中では、高杉晋作が、ずば抜けて知名度がありますが、他の三人も、それに負けずとも劣らない、吉田松陰が認めた勤王の志士です。

 久坂玄瑞と入江九一は、禁門の変により、吉田稔麿は池田屋事件によって、若くして散っていきました。

 

 水木先生と一緒に、維新の志士達が幼少期を過ごしたこの円政寺の境内を、思う存分散策して、また、世界遺産の街道へと戻っていきました。

 

 しばらく、この城下町の街道を歩きながら、歴史情緒あふれる萩を、楽しみたいと思います!!

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<13>萩・長州藩の学舎を訪ねて20.05.30

2020年5月30日(土)

 

 早いもので、もう5月も終わり…

 

 新型コロナウィルスによる緊急事態宣言も、ようやく解除されて、少しずつ普段生活に戻りつつあります。

 

 もちろん、世界に目をやれば、このウィルスに対して、決してまだまだ油断が許されない状況である事は、変わりありません。

 

 それにしても、世界中の国々が新型コロナにより、立ち直れないほどの大打撃を受けている中、日本という国は、この状況を比較的うまく乗り切っている優秀な国だと思います。

 

 僕は、この緊急事態宣言の時期、かなりの仕事を進める事が、できました。

 

 あと、新しく「Zoom講座」を開催するスキルなんかも、身に着けました。

 

 慣れてくると、Zoomというのは楽しいですね。

 プロジェクターのスクリーンを、画面共有するのはもちろんの事、最近では、画面上のホワイトボードにペンタブレットで文字や絵を描く方法まで、マスターしました。

 

 もちろん僕も、直接鑑定を休業にしたり、講座の日程をキャンセルしたり、予約した大阪講座の会場代が全額無駄になったりと、相当に損失もあるのですが、転んでただでは起きなかったですし、トータルすれば、プラスの方が多くなった気がします。

 

 こうして、せっかく緊急事態宣言が解除されたのですから、第二波には十分に注意しながらも、前に進んで行くしかありませんね。

 

 さて、今日の「西日本紀行記」は、いよいよ第2幕である「山口での旅」のお話です。

 

 新山口駅前の東横インのビジネスホテルに宿泊して、迎えた朝…

 

 山口のプロの鑑定師で、五気調整術協会の代表理事の水木杏香先生が、午前8時に、東横インの玄関に、車で迎えに来てくださいました。

 

 水木先生とは、前回サロン ド シルフィーユで会って以来、半年ぶりぐらいです。

 

 

 水木先生の赤い車に乗って、これから2日間、山口の見所を心ゆくまで観光する予定です。

 

 僕は、山口県に来るのは、実は、生まれて初めてなんです。

 

 だから、山口の事は、右も左も分からないのですが、水木先生が僕が興味を持ちそうな山口の名所をピックアップしてくださって、案内して頂ける事になりました。

 

 観光のスタートは、この新山口から、真北へまっすぐ行った所にある萩市(はぎし)

 

 

 萩と言えば、歴史好きな方なら、誰でも知っている、長州藩の本拠地…

 

 萩にある吉田松陰の松下村塾は、かなり有名ですが、萩は、維新の志士である高杉晋作とか、桂小五郎とか、伊藤博文とか、山縣有朋なんかを輩出した街です。

 

 さて、今回の旅行の行き先ですが、全部、水木先生にお任せです。

    本当、僕は、人任せな人間ですね(笑)

 

 

 最初にたどり着いた場所は、ものすごく古い校舎のような場所…

 

 少し前まで、本当に小学校の校舎だったのですが、小学校は隣の敷地に移転して、この建物は「萩・明倫学舎(はぎ めいりんがくしゃ)」となったのです。

 

 でも、さらに歴史をさかのぼれば、ここは「明倫館(めいりんかん)」と呼ばれる長州藩の藩校…

 

 当時の日本の各藩には、学府と呼ばれる学び舎(まなびや)があって、日本三大学府と呼ばれる、水戸藩の弘道館(こうどうかん)、岡山藩の閑谷黌(しずたにこう)、そして、この明倫館は、中でも、トップレベルの藩校でした。

 

 

 古めかしい明倫館の門があります。

 

 明倫館の出身者の有名所で言えば、幕末の超有名ヒーローである高杉晋作や桂小五郎(のちの木戸孝允)などがいます。

 

 他にも、長州藩ではいつも伊藤博文と共に行動し、維新後は外務大臣や大蔵大臣として、陰ながら日本の経済発展を支えた井上馨(いのうえかおる)や、日露戦争の時、大国ロシアを相手に、陸軍大将として大活躍をした乃木希典(のぎまれすけ)も、この明倫館出身です。

 

 ちなみに、後に叔父から譲り受けた松下村塾を開校する事になる吉田松陰は、9歳の時、なんと、この明倫館の兵学師範をしていたのだとか…

 

 まあ、この場所には、そうそうたるメンバーが集っていた訳ですね。

 

 

 水木先生に案内されて、大きな石碑の前に行きました。

 

 細かい字がいっぱい書いてあります。

 これは、長州藩十三代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)が、新明倫館の開校を記念して建てたもの…

 

 よ~く見ると、碑文の最後の方に、一ヵ所だけ削られている部分があります。

 

 

 「□□□為」と三文字、削られていますが、ここには「幕命而」という文字だったようです。

 

 「幕府の命を奉って…」みたいな意味だと思うのですが、その文言を、学生達が削り取ったのでしょう。

 

 時代は尊王攘夷の真っ只中…

 長州藩と言えば、まさにその急先鋒ですから、無理からぬ所です。

 

 明倫館は、1719年に長州藩五代藩主・毛利吉元(もうりよしもと)が家臣の子弟教育の為に開いた藩校だったのですが、明治維新の頃には、この建物は明倫小学校となり、今から5年前の2014年に、明治維新の幕末ミュージアムとなりました。

 

 という事で、これから、ここに入ってみます。

    とっても楽しみです(^^)

 

 1Fのエントランスの観光インフォメーションセンターから、歴史ある木の階段を上って、2Fの幕末ミュージアムに入ると、そこは天文・地理・医学・化学に分けられ、当時の最先端の学問の資料をそのまま紹介していました。

 

 

 これは、伊能忠敬が使用していた物と同じモデルの「象限儀(しょうげんぎ)」という天体観測の道具です。

 

 他にも、時計の代わりになったり、航海道具になったり、測量に欠かせない道具になったりと、当時は万能の最新機器だったんですね。

 

 今では、ただの骨董品にしか見えませんけど、当時は天体というものと暮らしが、密接に結びついていたという事だと思います。

 

 

 こちらは、日時計…

 

 四柱推命で使う時間は、日時計で算出される視太陽時を使います。

 

 さすがにこれでは、夜の時間は分かりませんけど、当時は、現代のように、細かい時間に汲々(きゅうきゅう)とする事も、なかったのでしょう。

 

 

 地理のコーナーに展示されていた、精度の高い地図が描かれた地球儀…

 

 これ、現代の地球儀の地図と、ほとんど変わらないです。

 

 この時代は、まだ飛行機もなかったし、当然ながら、人工衛星も何にもないのに、さっきのような象限儀を使って、ここまで精密な地図が描けてしまうんですね。

 

 

 それより少しだけ、古い時代の日本地図…

 

 少~しだけ、北海道の形が変だったり、能登半島や下北半島がなかったりと、ツッコミどころが満載ですが、これを伊能忠敬という人が、さっきの象限儀で、精密な日本地図にしていったのですね。

 

この当時の人達が、現代のインターネットのGoogle地図の機能を見たら、腰を抜かすだろうと思います。

 

 我々は、本当に恵まれた時代に生まれてきているのだと、改めて実感しました。

 

 

 これは「三球儀(さんきゅうぎ)」と言って、太陽・月・地球の動きを説明する為の道具だそうです。

 

 手前の黄色い球が地球で、割と正確な世界地図が描かれているのですが、後から、付けたされたものだという事でした。

 

 その周りの小さい球が、月で、メガホンみたいなのが太陽を表しているのだと思います。

 

 なんか、食い入るように見てしまいました。

 

 

 これ、望遠鏡ですね。

 

 一緒にいた水木杏香先生が、「西洋の望遠鏡はいたってシンプルなのに、日本の望遠鏡は、蒔絵が施されていて、見事ですね」とおっしゃっていました。

 

 日本人は昔から、欧米で開発されたものを、ただ真似るだけでなく、洗練されたより優れた物に作り替えていく天才なのだと思います。

 

 

 ここからは、医学の展示コーナー…

 

 この絵、僕、見た事あります。

 

 つい最近「四柱推命講座・上級編」の健康運の所のテキストを作っていた時に、漢方の事を調べようと思って、国会図書館で「類経図翼(るいけいずよく)」という本を読んでいた(というか、見ていた)のですが、その中の絵と全く同じです。

 

 しかも、類経図翼の絵は白黒ですが、この掛け軸の絵はカラーなので、すごく感動しました。

 

 他にも、この医学のコーナーは、たくさんの興味深いものが展示されていました。

 

 その中に、ものすごく精密なつくりの子供の頭蓋骨があったので、なんか怖いなあ… と思っていたら、展示室の方から「それ、モノホンなんです」と声を掛けられて、腰を抜かしました。

 

 当時は、そういったものが平気で、身近に置かれていたのですね。

 

 このミュージアムは、一部の物を除いて全て写真撮影がOKなのですが、さすがにこれは、撮影しようとは思いませんでした(^^;;

 

 

2Fから1Fに階段を使って降りていくと、そこは「幕末動乱の軌跡」のコーナーになっていて、大砲とか銃とか、当時の武器がたくさん展示されていました。

 

 これは、長州藩の毛利の家紋が入った火薬箱と銃…

 

 これが、日本の明治維新の直接的な原動力になったのですね。

 

 

 その後、世界遺産ビジターセンターに行くと、松下村塾の再現コーナーがあって、立体シアターになっていました。

 

 アニメキャラの松下村塾の出身者が、立体シアターでいろいろと語らい合っていて、これを見ると、吉田松陰がいかにこの頃の日本の工業教育に重きを置いていたのかが、分かります。

 

 シアターの近くに、幕末維新の歴史のクイズに三択で答えるATMみたいな機器があって、水木先生から、それをやるように勧められました。

 

 僕は、この幕末維新の歴史は少しは自信があったので、そこそこ答えられるだろうと、自信満々で挑戦してみたのですが…

 

 結果は、惨憺たるものでした。(つまり、ほとんど分からなかった…)

 

 この問題、いくら何でも難しすぎです(笑)

 

 

 水木先生に案内されて、長州ファイブ(長州藩から船でヨーロッパに派遣されて、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した豪傑5人)と一緒に写真撮影しました。

    写真は、左から井上馨、遠藤謹助、野村弥吉、浅野太志、山尾庸三、伊藤博文…

 

 なんか、すっかり絵に溶け込んでますね(^^)

 

 この後も、水木先生と一緒に、萩市から長門市に向かって、山口県の北部の観光が続きます。

 

 時計を見ると、まだお昼前…

 

 明倫学舎を出た後、山口県のすごい所に、たくさん連れて行って頂きました。

 

 初めての山口で、どんな素敵なものに出会えるか、すごくワクワクしています。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<12>さらなる西へ、新たなる旅立ち20.05.22

2020年5月22日(金)

 

 気がつけば、もう5月も、半ばを過ぎてしまいました。

 

 大阪などの関西圏も含めて、多くの地域で、緊急事態宣言が解除されて、少しだけ、ホッとしています。

 

 もちろん、これで油断したら、せっかくの今までの頑張りも水の泡ですし、サロン ド シルフィーユのある東京などの関東圏では、解除はもう少しだけ、先になりそうですが、とりあえず、峠は越したのかも知れません。

 

 さて、僕もいよいよ、Zoomを使った講座に挑戦していこうと思います。

 

 本当にちゃんとZoomを扱えるかどうか不安で、準備に時間を掛けた割に、二の足を踏んでいたのですが、やってみなければ、何も始まらないですから、今、新たな講座の日程を組んで、少しずつ受講生の方に、連絡を取っている所です。

 

 初めての事というのは、ついつい気後れしますが、失敗は覚悟の上で、前に進んで行こうと思います。  万一、うまく扱えなかったら、本当にごめんなさい…

 

 さて、去年11月の西日本旅行記のお話は、これから、第二幕「山口編」へシフトしてまいります。

 

 粋(いき)な古刹(こさつ)の一畑薬師(いちばたやくし)を最後に巡って、ILU開運ツアーの全日程も、これで全部終わり…

 

 ツアーバスはこれから、出雲空港、米子駅、米子空港の順に停車していき、ツアーに参加したメンバーは、その中の希望の場所で降りて、お別れをします。

 もちろん、中には、もう一泊して、さらに出雲の旅を続ける人もいます。

 

 一人一人が、バスを降りる前に、バスに備え付けのマイクで挨拶をして、みんなに別れを告げました。

 

 この3日間、一緒だった仲間達…

 本当に、忘れられない思い出になりました。

 

 最初の出雲空港で、ツアーの3分の1ぐらいの人と、お別れをしました。

 

 時刻は、夕方の5時です。

 

 僕は次の米子駅で下りて、そこから列車で新山口へと向かい、今夜は、新山口の東横インの部屋に、泊まる予定です。

 

 何時頃に、新山口に着けるのかが、見当がつかないので、多少遅くなっても大丈夫なように、チェックインは、少し遅めの午後10時にしておきました。

 

 バスを降りる支度をし始めた時、隣りの席のHさんが「携帯の乗換案内で、一応、目的地までのルートと時間を、確認しておいた方がいいですよ」と、アドバイスをくれました。

 

 いつものごとく僕は、列車の路線とか、発車の時刻とか、全く調べていなかったのです。

 

 米子から新山口までの距離は、東京-名古屋間とほぼ同じぐらいだし、東京-名古屋間なら、新幹線で1時間40分もあれば行けるのだから、仮にその倍の時間が掛かったとしても、最大3~4時間ぐらい見ておけば、まあ大丈夫だろうと、タカをくくっていたのですね。

 

 それで、早速、携帯の乗換案内で時間を調べてみると、僕の見込みが、ものすごく甘かった事が分かりました(笑)

 

 30分後の17:30に米子駅のホームに到着したと仮定して、新山口までのルートと到着時間を出してみると、なんと、新山口到着が23:48だったのです。

 

 えーっ、何で6時間以上も掛かるの!?

 

 正直、すごく驚きました。

 

 というより、これは僕の完全なミスですね。

 

 特急列車の本数が少ないので、もしも一本タイミングを逃すと、次の特急列車まで、かなり待ち時間があるのです。

 

 でもまあ、逆に言うと、今日中に新山口に着くという事だけでも、感謝しないといけないのかも知れません。

 もしも、終電までに着かなかったら、経由地のどこかで宿泊場所を探さなくてはいけないし、新山口のホテルのキャンセル料も、当然、掛かってきてしまいます。

 

 次の米子駅で下りるのは、出雲の湖畔の宿「くにびき」で、同じ部屋だったSさんと、Nさんと、僕の3人だけでした。

 

 藤尾美友先生、僕をこのツアーに誘ってくださったKさんとYさん、そして一緒に旅をした素敵な仲間に別れを告げて、バスを降りました。

 

 

 米子駅に下りたってからも、3人で、バスに向かって手を振っていると、バスの中からみんなが、手を振っているのが見えました。

 

 バスが見えなくなるまで、ずっと見送っていました。

 

 帰る方向が違うNさんと、駅でお別れの挨拶をして、僕は、写真家で鉄道オタクのSさんと一緒に行動しました。

 

 携帯電話を見ると、次の山口での旅で、お世話になる五気調整術の水木杏香先生から、着信が入っていました。

 

 その場で、すぐにお電話して、水木先生にご挨拶して、明日からの日程の事を話しました。

 

 しばらくの間、水木先生と話していると、Sさんが手招きしているのが見えます。

 

 水木先生と電話で話しながら、Sさんが手招きする方向へ向かうと、そこは自動券売機でした。

 

 何と、Sさんは短い時間に、新山口まで行く為に、次に僕が乗る列車から、路線ルートから、全部調べてくださって、しかも、電車の特急券や、新幹線の切符の種類のボタンなど、全部押して、後は、僕がお金を入れるだけでいい状態に、してくださっていたのです。

 

 一分後の17:26に発車する「特急やくも26号」に乗って、岡山駅で「新幹線のぞみ49号」に乗り換えれば、最速で新山口に到着するから、急いだほうがいいとの事…

 

 Sさんにうながされるまま、きっぷの券売機に現金を入れて、Sさんの指し示す改札口から、目の前に停車している特急列車に乗りました。

 

 

 僕が乗り終えると、すぐに電車ドアは閉まりました。

 

 ドアの窓から、手を振りながら、Sさんにお別れしました。

 

 僕は本当に、周りの人に助けてもらいながら、こうやって無事に生かされている…

 

 感謝の気持ちで、胸がいっぱいになりました。

 

 

 これからの旅の日程…

 

 米子駅から、この特急やくも26号に乗って、伯備線(はくびせん)で、少し東に戻るような形で、岡山へと向かいます。

 

 そして、ここから新幹線のぞみ49号博多行に乗って、一気に西へと向かっていきます。

 

 まさに、電車に詳しいSさんが、調べてくださった完璧な最短コースです。

 

 

 やくも26号の中は、意外にすいていて、ほとんど乗客はいませんでした。

 

 帰りのツアーバスの中で、Tさんに「伯備線は振り子電車だから、すごく揺れる」と聞いたので、乗り物酔いになるのが、少し心配だったのですが、こんなきれいな最新型の車両なら、その心配もなさそうです。

 

 イスのリクライニングを思いっきり下げて、思う存分くつろぎながら、2時間10分あまりの贅沢な車両の旅を楽しみました。

 

 岡山駅に到着したのは、19:39…

 よく考えてみたら、岡山駅に降りたのは、生まれて初めてです。

 

 ものすごく、大きくて立派な駅でした。

 

 

 岡山という場所も、すごく興味があったのですが、残念ながら、この先予定が詰まっていて、時間が取れそうにありません。

 

 すぐに、のぞみ49号に乗り換えて、これからの新しい旅の目的地である、山口へと向かいました。

 

 車窓の外は、すっかり夜の闇に包まれています。

 

 ものすごいスピードで、列車は、西へ西へと向かっていきました。

 

 やがて、新幹線のアナウンスが、列車が新山口に到着した事を、知らせてくれました。

 

 新山口に到着したのは、何と20:57でした。

 もしも、Sさんがいらっしゃらなかったら、間違いなく、到着は深夜の24時近くになっていたと思います。

 

 

 初めて見る、山口の街…

 

 東横イン 新山口駅新幹線口は、駅から歩いてすぐの所にあります。

 水木杏香先生に、どこに泊まったらいいかを相談した所、山口を観光するのに最もアクセスが良い、この新山口をお勧めして頂きました。

 

 駅を出てすぐの所にある、コンビニ ポプラで少しお腹の足しになるものを買い込んで、今日のねぐらに向かいます。

 

 

 東横イン、すぐに発見!!

 

 ホテルに着くと、フロントの方から、水木杏香先生からメッセージを預かっている事を、告げられました。

 

 「明日の朝、東横インの玄関口に、車でお迎えに上がります」

 

 いよいよ明日から、ここ山口で、新たなる冒険が始まります。

 

 気分がどんどんが高揚して、今、胸が高鳴っています。

 

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