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京都はんなり日記 番外編 ~星田妙見宮の星降り祭~19.12.23

2019年12月23日(月)

 

 気がつけば、もうクリスマス…

 本当に一年というのは、あっという間ですね。

 

 京都に訪れたのは、もう半年前だと言うのに、まだこのブログ、京都の話を書いています(笑)

 いくら何でも延び過ぎていますし、さすがに書くネタもなくなってきたので、今年中には完結したいと思います。

 

 今回の京都旅行は、ほとんど京都市内に滞在していたのですが、Iさんのお誘いを受けて、一度だけ大阪府まで足をのばした事がありました。

 

 訪れた場所は、大阪府交野市(かたのし)にある星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)、京都での話ではないので、これは「京都はんなり日記・番外編」という事で…

 

 交野市は大阪府とは言っても、奈良県との県境の市で、京都からのアクセスも非常に良い場所にあります。

 

 この星田妙見宮の正式名称は小松神社と言い、古事記で一番最初に登場する、天之御中主(あめのみなかぬし)が主祭神です。

 ところが、この星田妙見宮を創建したのは弘法大師であり、如意輪観音が至る所にあって、そうかと思うと、庚申社まであって北斗七星が祀られている…

 

 神道なのか、密教系の仏教なのか、はたまた道教なのか、いろんなものが混じり合った感じの不思議な神社です。

 

 

 ちなみに、この神社のすぐそばに「家康ひそみ藪」という所があります。

 

 徳川家康が織田信長から勧められて堺見物をしていた時、本能寺の変が起こり、信長は明智光秀に殺されてしまいます。

 その時に、家康はその情報を入手するや否や、堺から逃げて、この星田妙見宮の入り口の所にある藪に身を隠し、村の長・平井氏が差し出した握り飯を、むさぼるように食べたと言われています。

 

 伊賀越えは、家康の人生の中でも、一番苦しかった出来事で、晩年には、よく近習の者にその時の苦労話を語ったそうです。

 

 Iさんからお誘いを受けて、星田妙見宮に訪れたのは、7月23日の「星降り祭」の催事がある日でした。

 この日も、非常に暑い日でしたが、妙見宮の山に入ると、幾分か涼しく感じました。

 

 

 この階段を上ると、ご神体の織女石(たなばたせき)のある山上拝殿にたどり着きます。

 

 今から1200年ほど前の平安時代、弘法大師・空海が祈りを捧げていると、北斗七星が3つに分かれて地上に落ちて来ました。

 その3つの内の1つの場所がこの星田妙見宮であり、その時に落ちて来た隕石こそが、御神体の織女石という訳です。

 

 まあ、あくまでも、これは伝承ですけれど…

 

 

 頂上の拝殿にたどり着きました。

 今日は「星降り祭」という事で、かなり混んでいます。

 

 外から参拝をさせて頂き、ふと上を見ると…

 

 

 十二支によって方位が書かれた、巨大な方位磁石がありました。

 磁石の部分には、易の八卦や二十八宿なども書かれています。

 

 頭の上に吊るされているのですが、すごく趣があります。

 

 

 隣りを見ると看板があり、看板の向こうには、ご神体の織女石がありました。

 よく見ると、この織女石のさらに右後ろにも、もう一つの織女石があり、拝殿から拝めるようになっています。

 

 実は、ここには織女石は2つあるのです。

 

 

 今日は、星降り祭という事で、特別に拝殿に上がらせて頂ける事になりました。

 

 Iさんと二人で、宮司さんがいらっしゃるすぐ後ろの一番良い席に、座らせて頂きました。

 拝殿を見ると、その向こう側にある鳥居の後ろには、御神体の織女石が、ちゃんと鎮座しています。

 

 星降り祭が始まり、宮司さんが祝詞を読み上げられました。

 厳かな声が響いて、スーッと空気が浄化されたような感じになりました。

 

 たまたま、一番前に座っていた事もあり、Iさんと僕は、玉串拝礼(たまぐしはいれい)をさせて頂ける事に…

 

 玉串拝礼とは、榊の枝に紙垂(しで)がついている玉串を、神様にお供えする儀式なのですが、僕は結婚式の時にやった事があるので、何とか形だけはできました。

 

 最後に、宮司さんのお話がありました。

 

 この社会というのは、常に均衡と不均衡の繰り返しで、できている… ゆえに我々は、調和でもって、均衡にもっていこうとする事が大切です… と、おっしゃっていました。

 

 さらに宮司さんはこう言われました。

 

 この宇宙において、全ての営みが連結されており、一つになっています。そして、この実相を肯定して調和させる中において、ご利益(りやく)がもたらされる…

 

 ただし、我だけのご利益は、必ず不均衡の要因を生みだす要因となってしまいます。

 そうではなく、相共に生きる共生の中にこそ、加護がある…

 

 よく「誰かが悪い」とか「社会が悪い」とか、言っている人を見かけますが、仮にそうだとしても、もしも、その誰かを変えようと思うなら、まずは、自分が変わる事… 社会を変えようと思ったら、まずは自分を変わる… そういう心づもりこそが大切で、それでこそ、みんなが良い方向に行く事ができる…

 

 これは、本当にその通りだと思いました。

 社会が悪い、誰かが悪いと、文句ばっかり言っている人は、ずっとその不平不満の人生の中で生き続けるしかないし、自分では気づかないうちに、周りの人を不愉快な気持ちにさせているので、人もどんどん自分から離れて行きます。

 

 誰かや社会に腹を立てる前に、まずは自分が変わろうとしてみる…

 

 カナダの精神科医エリック・バーンは「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」と言っていましたが、まさにそういう事なのかも知れません。

(2014/11/14 パリ・ブログ 「人は誰でも必ず幸せになれる」 参照)

 

 

 拝殿を出た所に「おもかる石」があったので、やってみました。

 これは、願い事を念じた時、その石が持ち上げるかどうかで、その願い事が叶うかどうかを知る… というものです。

 

 この時は、仕事の願い事を念じて石を持ってみたのですが、すんなりと上がりました!!

 

 そこそこ重い石でしたし、僕は力がそんなにある方ではないので、何となく、この石を持ち上げようとしても、多分上がらないと思います。

 案外これって、自分の潜在意識にある気持ちが、そのまま作用しているのかも知れませんね。

 

 

 星田妙見宮は、まさに名前の通り、星(北斗七星)に、祈りをささげるような神社なのですが、それぞれの人に、北斗七星の中で守護してくれる星というのが、決まっています。

 

 この看板には、自分の生まれ年で「本命星」と「元辰星」というのが、一目でわかるように書いてあって、どうやら生まれた年の十二支によって、決定するようです。

 

 

 この北斗七星占いも、自分の本命星の七星で占っていきます。

 ここには「貪狼星」「巨門星」「禄存星」「文曲星」「廉貞星」「武曲星」「破軍星」の7つの名前が書いてありました。

 

 あっ、これって、紫微斗数に出てくる北斗一星~七星までの星の名前、そのまんまですね。

 

 紫微斗数と言うのは、東洋占術の中で、四柱推命と双璧を成す占いであり、僕が長年お世話になっている村野大衡先生は、まさにその紫微斗数の星を、完全に使いこなす達人です。

 

 そして、紫微斗数で最もお勧めの本と言えば…

 

 「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」(村野大衡 著/東洋書院)

 

 すごくわかりやすく書かれている本なので、めちゃくちゃ勉強になります。

 この本を読むとわかるのですが、紫微斗数の星にも、やっぱり五行属性があるんですね。

 

 貪狼(どんろう)は木、巨門(こもん)は水、禄存(ろくぞん)は土、文曲(もんごく)は水、廉貞(れんてい)は火、武曲(ぶごく)は金、破軍(はぐん)は水です。

 

 とはいえ、星田妙見宮の星は、この7つしかありませんし、自分の星である本命星は、その中のたった一つですが、紫微斗数は百をゆうに超える星が出てきて、それら全ての星の命盤の中の配置によって、占っていく緻密な占いですから、とても、これと一緒くたにできるものではありません。

 

 さっきの看板の表では、生まれた年が子の人は貪狼星、丑と亥の人は巨門星、寅と戌の人は禄存星、卯と酉の人は文曲星、辰と申の人は廉貞星、巳と未の人は武曲星、午の人が破軍星となるようです。

 

 この十二支の分け方、どこかで見覚えがあるぞ… と記憶をたどってみて、思い出しました。

 これって、下鴨神社の言社(ことしゃ)の拝殿の分け方と同じですね。

(2019/11/2 ブログ 「下鴨神社と緑のシャワー」 参照)

 

 この十二支を7つに分ける方法は、どうやら真言宗で一般的に使われている方法のようです。

 

 とはいえ、太陰暦の正月(春節)を境目にするとも、二十四節気の立春を境目にするとも書いていないから、これだと、我々が普通使っているグレゴリオ暦の1年の境目で十二支も決まってしまう事になりますが、それでいいのでしょうか。

 

 …とまあ、余計な事を考えてしまうのが、職業上の悪い癖ですね。

 

 ちなみに、村野先生に以前、僕の紫微斗数の命盤を調べて頂いた事があって、僕は「命無正曜(めいむせいよう)」という特殊な星の配置なのですが…

(2012/10/24 パリ・ブログ 「違う占いでみても、答えは同じになる」 参照)

 

 僕の生まれ年の亥で、さっきの表をたどってみると「巨門星」になりました。

 

 いきなり「巨門星」と言われても、なんかピンときませんが、巨門星は水の属性だし、頭が良さそうな感じの星なので、良しとしましょう(笑)

 

 

 星降り祭の生姜入りのおいしいお茶を頂いて、うっとりとした気分で、拝殿から下に下りてきました。

 

 星田妙見宮の入口付近にある看板…

 

 

 なんと、この星田妙見には、それぞれの七星の如意輪観音が、ちょうど北斗七星の形に見立てて、配置されているのです。

 

 Iさんと話して、この7つの観音様を全て回ってみようという事になりました。

 

 

 これは、貪狼星の如意輪観音…

 

 命宮に貪狼星がある人は、華やかでカリスマ性があり、飲食、レジャー、海外旅行等、楽しい事が大好きです。華やかな世界で才能を開花させるはずです。

(「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 

 これは、巨門星の如意輪観音…

 

 命宮に巨門星がある人は、現状に満足せず、物事を追求・研究する力がありますので、知的分野・専門分野で才能が開花します。頭の回転が速い人です。

(「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 

 各自の本命星と元辰星に礼拝するのが、通例のようですが、せっかくなので、全部礼拝して回る事にしました。

 

 下鴨神社の言社の時も、自分の年の十二支ではなく、命式に欲しい十二支の拝殿に拝んでいるし、もう、勝手に自分でルール作ってます(笑)

 

 山道を登ったり下りたりで、結構これは良い運動になりそうです。

 

 

 次は、禄存星の如意輪観音…

 

 禄存星は、身分、財運、経済、貴寿、解厄制化、衣食住、生活を楽しむ星。

「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 

 これは、文曲星の如意輪観音…

 

 文曲星は、静的活動(音楽、書道、漫画等)、風流、優雅、文筆、アートの星。

(「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 

 これは、廉貞星の如意輪観音…

 

 命宮に廉貞星がある人は、白黒決着をつけたがり、あやふやな事を嫌うので、きっちり答えが出る仕事を選べば成功します。

 頭がよく、勘も鋭いので競争世界を勝ち抜く力を発揮します。

(「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 

 これは、武曲星の如意輪観音…

 

 命宮に武曲星がある人は、直情型で、決断力があり自信家で、何をするにも行動の早い人です。裏表なく本音でズバッと話します。

(「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 

 最後は、破軍星の如意輪観音…

 

 命宮に破軍星がある人は、改革、革命等、常に激動の世界で活躍します。その割には礼儀正しい人が多いです。欠点は好き嫌いが激しく、大雑把な事です。

(「紫微斗数命理学 ~新理論の活用~」より抜粋)

 

 この後、星が落ちてきた場所(隕石落下地点)とも言われている「登龍の滝」などに巡り、星田妙見宮を後にしました。

 

 Iさんとバス停に向かって歩いていくと、鳥居のある細い小道がありました。

 

 

 何の気なしに、その小道を入ってみると、そこには200体ぐらいのお地蔵さんがいらっしゃいました。

 

 ここは「義晴地蔵尊」と言い、義晴とは、室町幕府12代将軍・足利義晴の事で、どうやらここにお墓があったようです。

 

 足利義晴は、松永久秀に殺された悲劇の13代将軍・足利義輝や、織田信長に奉じられ最後は京を追放された15代将軍・足利義昭の父に当たる人ですが、この人自身も、弱体化していた室町幕府の将軍となって、色々と苦労の多い人生でした。

 

 このお地蔵様達は、足利義晴の奥方によって、度重なる戦で亡くなった人を敵味方なく弔おうと立てられたそうで、すぐそばに、足利義晴のお墓もあります。

 

 かなり長い間、雨ざらしに放置されていたのですが、地元の人達によって、今から37年前にこうやってお堂に収められました。

 

 

 この辺りは、緑にあふれた本当に気持ちの良い場所です。

 

 夏の日差しに照らされながら、束の間の星降り祭を楽しみました。

 

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京都はんなり日記 その15 ~伏見ほろ酔い日記~19.12.18

2019年12月18日(水)

 

 今年も、もう間もなく終わり…

 

 振り返ってみると、今年1年は、僕にとって、色々な事がありました。

 今年は本当に、あちこち移動してばかりだったので、新しい素敵な出会いもいっぱいあった一年でした。

 

 でも、それと同時に今年は、悲しい別れを経験したのも、本当に多かった年でした。

 

 生きてさえいれば、いつか人はまた会えるというけれど、人は誰もが命に限りがあるから、時には、本当に大切な人と永遠の別れを経験しなければならない事もある…

 

 もちろん、人生と言うのは、そういうのを全てひっくるめて、存在しているものだし、楽しい事も悲しい事も全部ひっくるめて、受け止めていかなくっちゃならないだと思うけど…

 

 そんな時、旅というのは、時に悲しみの心を癒してくれるし、そこで目にする新鮮な風景や出会いは、煮詰まった自分を解放してくれたりもします。

 

 だから、気持ちが落ち込んだ時には、占いを受けるのも一つの手ですが、思い切って、少し遠くに旅をしてみるのもいいのではないかと思います。

 

 京都に滞在して、1週間ぐらい過ぎた頃の事でした。

 この日は、Iさんに、京都の伏見のあたりを案内して頂いたんです。

 

 伏見といったら、真っ先に浮かんでくるのが、豪華絢爛な桃山文化、そして、何と言っても伏見城の事でしょうか。

 豊臣秀吉がその生涯を閉じた場所も、伏見城です。

 

 また、徳川家康が将軍宣下を受けたのも、この伏見の地…

 

 そして、関ケ原の戦い前夜の「伏見城の戦い」では、家康と幼い頃からずっと共に過ごしてきた忠臣・鳥居元忠が、徳川方の城代として伏見城を守っていましたが、西軍の攻撃の格好の的となって、大軍に取り囲まれてしまいます。

 それでも、鳥居元忠は決して降伏する事なく、多勢に無勢の負けるとわかっている戦を最後まで戦い抜いて、この伏見城で華々しく散りました。

 

 よく歴史区分で、「安土・桃山時代」などと言います。

「安土」と言うのは、織田信長が建てた安土城がある滋賀県安土市の事ですが、それでは「桃山」というのはどこかというと、この京都伏見の事を言います。

    誤解されがちですが、桃山は大阪の事ではありません…

 

 桃山というのは、秀吉が建てた伏見城(指月伏見城)の跡地のあたりの場所の地名の事で、後からそこに、桃の木をたくさん植林した事から、後に「桃山」と呼ばれるようになったんですね。

 

 だから、秀吉が生きている時代から、この地が「桃山」と呼ばれていた訳ではありませんが、桃山文化と言えば、豊臣秀吉がこの伏見の地で政権を取っていた頃の、雄大で豪華絢爛な特徴を持つ文化の事を、指すようになりました。

    美術史的には、桃山文化とは16世紀後半~17世紀前半までのかなり広範囲の文化を指します…

 

 この伏見の地は、秀吉の時代の日本の中心地であった事は、間違いありません。

 

 あと、伏見と言うと、人によっては、稲荷山にある「伏見稲荷」の千本鳥居を思い浮かべる人もいるかも知れません。

 

 僕はまだ、一度も行った事がありませんが、あそこの鳥居は山全体で数えると、千本どころか、一万本くらいあるそうです。

 そして、あの場所は「外国人に人気の観光スポットのナンバー1」に、今年で、6年連続選ばれ続けています。

 

 とはいえ、今回は伏見城跡も伏見稲荷も、どちらも行きませんでした。

 

 Iさんが、案内してくださった、伏見のその場所とは…

 

 

 なんと、酒蔵の街並みでした!!

 

 清酒・月桂冠「月の蔵人」… 日本酒、大好きです(^^)

 

 どうやらこのお店は、月桂冠の酒蔵を改築してできた、築百年の歴史情緒あるお店のようです。

 でも、我々が到着した時には、ちょうどお昼休みで、営業していませんでした(涙)

 

 伏見は、かつては「伏水」とも記されていたそうで、質の高い伏流水が非常に豊富で、桃山丘陵の下をくぐった水脈が、今でも山麓の近くから湧き出てくるとの事…

 やがて、この伏見の地は、日本を代表する酒どころとなりました。

 

 そんな町全体が酒蔵の伏見ですから、まあ、たった1つぐらい、お店に入り損ねても、いくらでも次があります(笑)

 

 

 ここは、黄桜カッパカントリー…

 

 なんで「カッパ」なの… と疑問に思う方もいらっしゃるかも知れませんが、黄桜と言えば、カッパのかなりきわどいアニメのCMで、昔は有名だったのです。

 

 

 建物の中に入ると、その懐かしい原画が展示されていました。

 あと、その隣はミニシアターみたいになっていて、昔の黄桜のCMが何度も繰り返して見られるようになっていました。

 

 カッパッパ~、ルッパッパ、カーッパ黄桜パッパッパ~

 

 改めて見ると、このCM絶対に、今の時代には放送できませんね…

 子供の教育上、非常に良くないという事で、すぐにクレームになると思います(笑)

 

 

 中は、かっぱの博物館みたいになっていました。

 水木しげるの妖怪ギャラリーに、負けてないと思います。

 

 「かっぱのプロフィール」「世界のかっぱ」「かっぱの起源」「かっぱの歴史」「かっぱの呼び名」「かっぱの好きなもの」「かっぱの嫌いなもの」「かっぱのくすり」「かっぱの贈り物」「かっぱのミイラ」と続きます。

 

 一体これは何なのでしょう… 日本酒のテーマパークなのか、かっぱのテーマパークなのか、訳が分からないです(笑)

 

 

 もちろん、別にかっぱの事を知りたかった訳ではなくて、どちらかというと、楽しみはこっちですね…

 

 ここは日本酒直営店ですから、購入したお酒を、外のテーブルで飲む事ができるんです。

 

 

 という事で、日本酒の3点飲み比べセットです。

 日本酒好きには、たまりませんね。

 

 

 それでもって、これにビールとおつまみまで、くっつけてみました。

 もう、調子に乗って、ハメ外し過ぎています…

 

 この後、急ににわか雨が降ってきたので、慌てて建物の中に入ったりもしたんですけど…

 

 このカッパカントリーには、お座敷やカウンター席など、お酒を飲める場所がいっぱいあるのですが、そこには寄らず、ほろ酔い気分で、お店の外に出ました。

 

 Iさんがこの伏見に案内してくださった理由は、単に酒蔵を巡るのが目的ではありません。

 この後、幕末の歴史が好きな僕が喜びそうな、ある事件の名所を、ちゃんと用意してくださっていました。

 

 

 あの有名な寺田屋です!!

 

 寺田屋事件と言うと、正確には、幕末に起こった二つの事件が当てはまります。

 

 一つは、まだ公武合体の流れの中で、薩摩藩の尊王派が、薩摩藩の実権を持つ島津久光が派遣した説得チームによって、結果的に惨殺された事件、そしてもう一つが、坂本龍馬が伏見奉行所の幕府役人に襲撃された事件です。

 

 どちらも、この寺田屋で起こった事件である事には間違いないのですが、今では寺田屋事件と言えば、だいたいは、後者の坂本龍馬が受難した事件を言っている事が多いようです。

 

 

 この石碑には「伏見寺田屋殉難九烈士之脾」と書いてあります。

 

 この九烈士とは、島津久光の説得チームに切られた七人と、重症のまま生き延びたものの後に切腹させられた二人を合わせた、薩摩藩の尊王派の九人の事を言います。

 という事は、前者の方の寺田屋事件の被害者の碑ですね。

 

 この人達は、公武合体の時代には、犯罪者のような扱いをされ続けましたが、後の倒幕の時代になると、悲劇のヒーローとなる訳ですね。

 逆に、新選組なんかは、公武合体の時代にこそ、京の秩序を守ってくれる警察官のような扱いだったのに、時代の趨勢が倒幕に傾くやいなや、お尋ね者になってしまいました。

 

 もう一つの坂本龍馬が受難した寺田屋事件は、ご存知の方も多いと思いますが、龍馬の物語なんかではクライマックスの場面です。

 

 この事件が起こったのは、龍馬が薩長同盟を成し遂げて、間もなくの頃でした。

 

 龕灯提灯(がんどうちょうちん)や槍(やり)を携えた役人達が、寺田屋前をうろついているのを、入浴している時、浴室の窓の隙間から見た、龍馬の妻・お竜(りょう)は、一糸まとわぬ姿で二階にいる龍馬の元へ走り、夫に危機を知らせに行く… というのが、よく知られているストーリーです。

 

 でも、当時の文献によると「体が濡れたまま、帯もつけずに着物をひっかけて二階に行った…」というのが、本当の所のようです。

    まあ、それが普通ですよね…

 

 伏見奉行の役人がやってきた時、坂本龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で防戦するも、役人の刀によって、両手に深手を負ってしまいます。しかしながら、お竜の機智で、裏木戸から家屋を脱出して、奇跡的にからくも薩摩藩邸に逃げ込む事ができたというお話です。

 

 とはいえ、その一年後の近江屋事件の時は、さすがの龍馬の悪運も尽き、暗殺されてしまいましたが…

 

 寺田屋は見学も可能で、建物の中には、お竜が入浴していた風呂桶とか、階段の刀傷や弾痕なんかもあるそうです。

 すごく中に入りたかったのですが、営業時間は15時40分までで、すでに終わった後でした。

 

 

 日本酒とビールが体の中で混ざりあって、気持ちが龍馬になった気分です。

 

 日本を今一度せんたくいたし申候…

 

 本当、調子に乗り過ぎですね。

 

 実を言うと、この寺田屋の建物は、実際に当時の寺田屋事件が起こった建物ではなく、明治38年に新たに建て直されたものなんです。

 当時の寺田屋は、鳥羽・伏見の戦いの時に焼失してしまっていて、現在の建物の東隣りに建てられていたらしいという事が分かっています。

 だから、お竜の風呂桶とか、刀傷や弾痕というのは、かなり怪しい…

 

 まあ、時が流れれば、そういう事があっても不思議ではないですし、致し方ない事だと思います。

 

 

 しばらく歩いていくと、例によって、お酒を飲めそうな所がありました。

 

 入口の横には「喫茶 唎酒処(ききざけどころ)」の看板が…

 ここは「伏見 夢百衆(ゆめひゃくしゅう)」という、大正時代に建造された月桂冠株式会社の旧本店社屋を、改造して作られた唎酒喫茶店なのです!!

 

 この期に及んでまだ飲むか… という感じですが、何となく中に入ってみました。

 

 

 伏見の清酒の酒米セット…

 一つずつの味わいが、微妙に違います。

 

 でも、どれも美味しいです(^^)

    さすがにIさんも、今回はお酒につきあってくれませんでした…

 

 かなり足元がふらついてきましたが、Iさんの案内をされながら、この伏見の最後の目的地へと向かいます。

 

 

 本当は酔っぱらって、フラフラになっているのですが、わざと見栄張って、直立しています。

 

 ここは、御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

 この神社は清和天皇の時代から有名で、「境内から良い香りの水が湧き出し、その水を飲んだら病が治った」と言われている神社で、伏見の地の代表的な神社です。

 まさに、伏見(伏水)ならではの水の神社ですね

 

 

 ここの御香水、本当に美味しいです。

    お酒がまわっている時には、体にしみわたります…

 

 誤解のないように述べておきますと、僕は、お酒を買って家で一人で晩酌するような事は、ありませんし(頂いたお酒は別)、誰かと一緒でないと、基本的にお酒を飲む事は、ほとんどありません。

 

 だから、こんな風に酔っぱらう機会も、そんなには、ないのです。

 

 でも、たまには、こういうのも良いですね。

 その分、また明日から仕事頑張ります…

 

 

 京都伏見のほろ酔い日記… 

 

 今宵は、ここまでに致しとうございます。

 

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京都はんなり日記 その14 ~大徳寺を拝観して~19.12.08

2019年12月8日(日)

 

 時間が経つのも忘れて、目まぐるしく生活しながら、ふと気づいたら、もう12月…

 

 あまりにも時が過ぎるのが早過ぎて、全然、自分のスピードがそれに追いついていなくて、正直、戸惑っています。

    皆さま、たくさんの心のこもった贈り物を、本当にありがとうございます…

 

 新宿のヨドバシカメラに、講座のテキストに使うコピー用紙とインクジェットを買いに行った時に、ふと、丸の内線の電車の中の広告を見たら…

 

 

 きらり紅葉  おけいはん、染まる季節…

 

 おけいはんの京阪電車、懐かしいです。

 

 紅葉と言ったら、普通は、10月とか11月ぐらいの事だと、勝手に僕は思っていたのですが、こと「京都の紅葉」というと、どうやら11月下旬から12月上旬ぐらいが見ごろのようです。

 場所によっては、12月中旬ぐらいまで、紅葉が楽しめる神社仏閣も、あるとの事…

 

 でも、もう今ぐらいの時期が、京都の紅葉を見るラストチャンスですね。

 またもう一度、京都に行きたいです。

 

 大徳寺を訪れたのは、京都に滞在して、間もなくの事でした。

 

 大徳寺と言えば、臨済宗大徳寺派の大本山であって、「龍寶山(りゅうほうざん)」とも号する有名な禅寺です。

 

 

 今回、Iさんからのお勧めで、ここを訪れる事になったのですが、僕の書の師匠である野尻泰煌先生も、京都に行ったら訪れると良い名所の一つに、大徳寺を挙げられていました。

 

 このお寺も、仁和寺や龍安寺と同じく、応仁の乱によって、荒廃しきってしまったのですが、それを復興させたのが、かの有名な一休宗純です。

 

 一休宗純と言えば、アニメの「一休さん」のモデルとしても、おなじみですが、「一休」という道号を授かったのは実際には51歳の時で、子供の頃は「周建」と呼ばれてました。

 

 子供の頃にお寺でやったトンチやいたずらのエピソードは、おおよそアニメの通りですが、大人になってからも、やっぱりいたずら好きで、しかもかなり型破りな破戒僧でした。

 

 正月元旦のおめでたい日に、墓場に行って拾ってきた髑髏(しゃれこうべ)を竹の先にくっつけて、京の家々の軒先から、ヌッとのぞき込ませて「ご用心、ご用心」と言いながら、歩いて回ったとか…

 その晩年期には、40歳以上も年の離れた若い女性とずっと同棲して、毎夜、愛し合ったとか…

 

 おおよそ僧侶がやる事とは思えないようなエピソードは、他にもたくさんあります。

 

 一休は、そんなハチャメチャな人だったのですが、庶民からの人気は絶大で、権威に媚びる事なく、下々の人々の為に教えを説いて行脚する生き様は「生き仏」と称されるほどでした。

 

 確かに、この大徳寺を復興させたのは一休だとは言われていますが、別に、一休自身が本気で、大徳寺を復興させたいと思っていた訳ではありません。

 

 自由気ままに生きていた一休に、ある日、後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)からの勅命が下って、大徳寺の住職に任命されてしまったので、しぶしぶ、一休は承諾したんです。

 

 だから、大徳寺の住職に任命されてからも、一度も大徳寺に住まう事はありませんでしたし、今まで通り、寺から離れた粗末な小屋で、年の離れた若い恋人と共に過ごしていました。

 

 ところが、一休が大徳寺の住職になったといううわさが広まるやいなや、商人や武士、一般庶民からも、大徳寺にどんどんお布施が集まってきて、あっという間に、それによって、大徳寺の法堂が再建される事となってしまったという訳です。

 

 もしかすると、これこそが後土御門天皇の狙いだったのかも知れませんが(笑)

 

 

 大徳寺の案内の看板…

 

 これを見るとわかるのですが、敷地の中で、本堂や仏門、三門(金毛閣)といった、大徳寺のメインの部分は、ほんのちょっとしかなくて、4分の3以上は、敷地の中に建てられた塔頭(たっちゅう)です。

 

 塔頭とは、大寺院の敷地内に新たに建てられた小寺院や別坊の事で、脇寺(わきでら)とも言います。

 桃山時代に、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔う為に、総見院(そうけんいん)という塔頭を建立したのが発端になって、その後、大名や武将が次々に、大徳寺内に塔頭を建てていきました。

 

 養徳院、徳禅寺、龍源院、黄梅院、芳春院、竜泉庵、如意庵、聚光院、三玄院、總見院、大仙院、真珠庵、高桐院、玉林院、竜光院、大光院、正受院、興臨院、瑞峯院、大慈院、瑞運軒…

 これ全部、塔頭です。

 

 ちなみに、この塔頭の中を見ようと思ったら、それぞれに拝観料が掛かります(笑)

 それから、開放されていない塔頭も、かなりあります。

 

 Iさんから、どの塔頭に行きたいかと尋ねられた僕は、あまり考える事なく、とっさに「龍源院」と答えました。

 

 何でそう答えたのか、明確な理由はないのですが、何となく直感で、龍源院だと思ったのです。

 

 という事で、本当に龍源院に行く事に(笑)

 

 

   自分で龍源院を選んだのに「本当にここでいいの?」って顔してます(笑)

 

 門の中は、そんなに広くはなさそうです。

 

 

 立札には、龍源院の事が色々と書かれていました。

 

 どうやら、文亀2年(1502年)に建てられた塔頭のようです。建てたのは、戦国大名の畠山義元と大友義長…

 あまり聞いた事のないお名前です。

 

 織田信長が亡くなったのが1582年ですから、その80年前ですね。

 えらく古い塔頭です。

 

 でも、立札の最後の一文を読んで、龍源院を選んで良かったと思いました。

 

「寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤がある…」

 

 その碁盤、絶対に見たいです!!

 

 

 拝観料を払って、中に上がると、とても落ち着く部屋がありました。

 

 そして…

 

 

 ありました!!

 今から、430年ほど前、この碁盤で徳川家康と豊臣秀吉が対局していたのですね(感涙)

     「対局したと伝えられる…」という事ですから、本当かどうかは少しだけ怪しいですが…

 

 とはいえ、この碁盤を、あの徳川家康がさわっていたのかと思うと、何とも感慨深いものがあります。

 

 

 廊下の外に出てみたら、そこは方丈前庭(ほうじょうまえにわ)でした。

 この庭は「一枝坦(いっしだん)」と、銘を打たれています。

 

 そして、こちら側の左の方に見える丸い苔の生えた敷地が「亀島」、向こうにある2つの石が「蓬莱山」、そして、ちょっと写真から切れてますが、右の方にある石が「鶴島」と名づけられています。

 

 これは、「言葉で表す事のできない境地を、視覚を通して表現している」という禅の世界ならではの庭園…

 

 

 何とも言えない雄大な世界観に、心が呑み込まれたような感覚になりました。

 

 こういうの、うっとりしますね。

 

 

 こちらは、北側に位置する「竜吟庭(りょうぎんてい)」と呼ばれる庭です。

 ちなみに、向こう側に出っ張っている石が「須弥山(しゅみせん)」を表しているとの事…

 

 須弥山というのは、仏教でいう所の「九山八海(くせんはっかい)」の中心にある山の事を言い、ここには甘露の雨が降っているので、須弥山に住まう者は常に空腹を免れる… とされています。

 

 

 龍源院を出て、次は三玄院(さんげんいん)に入ろうと思ったのですが…

 残念ながら、門の左側に「拝観謝絶」の表札が掛けられていました。

 

 

 外に掲げられていた立札に、浅野幸長と石田三成と森忠政が創建したと書かれていたので、見てみたかったのです。

 

 石田三成という人は、浅野幸長からも、その父の浅野長政からも嫌われていましたし、だいたい、浅野幸長は、三成に不満を持つメンバーと三成の屋敷を襲撃したりもしているので、この二人が協力して、一つの塔頭を建てたというのが、何とも不思議だったのです。

     ちなみに、この襲撃事件をとりなして、三成の命を救ったのが、徳川家康…

 

 あと、浅野幸長が建てた塔頭なら、同じ浅野の僕にも、何かしら縁があるかもしれないと思ったのもあります。

 

 まあ、拝観できないものは仕方ありません。

 素直に諦めました(笑)

 

 次は、高桐院(こうとういん)に、行ってみる事にしました。

 

 

 この高桐院は、細川忠興とその妻・ガラシャの墓がある塔頭で、細川忠興が、父の細川幽斎の為に作ったとされています。

 

 ちなみに、「○○院」という名前がつけられているものは、大名など武家の人が寄進した塔頭である事を表しています。

 

 高桐院は、大徳寺の西の外れにあるのですが、何とこちらも拝観中止でした。

 

 一瞬、拝観時間が過ぎて、入れなくなったのかと思ったのですが、そうではなくて、2017年からずっと修復工事をしていたのですね。

 そして、先月の11月10日から、拝観再開されましたから、今はちゃんと拝観できます。

 

 

 ここは、大徳寺の三門(山門)です。

 下層部しか完成していなかった門の上層部を建てるのに、寄進をして援助したのが、かの千利休です。この三門の上層部の事を「金毛閣(きんもうかく)」と言います。

 

 それで、この時の大徳寺の僧侶が、利休に感謝の意を表して、上層部の門の所に利休の木像を立てました。

 

 ところが、この利休の像と言うのが、等身大で草履をはいた立ち姿で、結果的に、この三門を通る人を踏みつけるような形になってしまう…

 

 それに怒った豊臣秀吉は、この木像を三門から引きずり落して、磔(はりつけ)にし、千利休に切腹を命じて、殺してしまいます。

 

 こういう所が、秀吉の器の小ささと言いますか…

 徳川家康だったら、腹を立てる事ぐらいはあるかも知れませんが、間違っても、そういう決断はしないと思います。

 

 悲しい事に、茶道の天才である千利休は、秀吉の命によって70歳の生涯を閉じてしまいました。

 

 Iさんと共に、大徳寺を出て、その後、京都のあちこちを散策しました。

 

 

 これは、京都御所の石薬師御門(いしやくしごもん)

 

 他にも、京都の名所や神社なんかを、いっぱい散策しました。

 

 神社の中には、神話の神様を祀ったものもあれば、時の天皇や戦国武将を祀った社や、明治維新の時の功労者を祀った神社もあります。

 

 ある神社に行った時、その参道のど真ん中に、マンションが建てられているのを目にして、一瞬、目を疑いました。

 

 何と、神社の鳥居をくぐると、そこがマンションになっている…

 なんだこれは… という感じです。

 

 すがすがしいはずの参道が、建物で完全に遮断されていますし、これは、風水的にも完全にアウトでしょう。

 

 京都の土地の高騰や神社の経済事情なんかで、仕方なく、こんな事になってしまった…

 

 Iさんから、様々な京都の街の事情を教わりました。 

 

 それにしてもひどい… と思いましたが、確かに、昔と今は時代も違いますから、やむを得ない所もあるのかも知れません。

 

 今でも、石清水八幡宮のある山に、太陽光発電のパネルを取り付けようとする業者とか、景観の風情がぶち壊しになってしまう動きが、後を絶ちません。

 普通の山だったら、全然問題になる事もないでしょうし、これは、古き良き都の京都だからこその問題とも言えるでしょう。

 

 とはいえ、できうる限り、この素敵なままの京都の街を、未来の子供たちに残していけたなら、どんなに素敵だろうと思います。

 

 大徳寺を拝観して…

 心がはんなりと、優しくなれた気がしました。

 

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京都はんなり日記 その13 ~龍安寺と仁和寺、京の古刹を巡って~19.11.27

2019年11月28日(木)

 

 早いもので、今年もあと1ヶ月余りで終わり…

 さっき、サロン ド シルフィーユで仕事をしていたら、クロネコヤマト宅急便で、笹木龍一先生からのお歳暮が届きました。

 

 もう、そんな季節になってしまったのかと、思いを巡らせながら、包みを開けたら…

 

 

 笹木先生の出身地である宮城県の旬の具材が詰まった、美味しそうな鍋セットでした。

 しかも、今の僕にとってありがたい事に、電子レンジですぐ調理できるという…

 

 笹木先生の心づくしに、本当に感謝です。

 

 そして、この度、ホームページリニューアルをされたとの事、本当におめでとうございます(^^)/

 

 笹木龍一先生ホームページ↓↓

   https://sasaki-unmei.com/

 

 思えば、笹木先生が紹介してくださったIさんが、いろいろと段取りを整えてくださったお陰で、あの京都滞在は成功したようなものです。

 

 もう、あれから、4か月近くが経つんですね。

 

 龍安寺(りょうあんじ)と仁和寺(にんなじ)に訪れたのは、京都に滞在している期間の中でも、特に暑い日だったのを覚えています。

 

 京都滞在の3週間余りの期間は、雨降りの日が本当に多かったのですが、この日は、からっからの快晴で、少し外を歩いただけでも、汗が噴き出すような暑さでした。

 

 意外に思われるかもしれませんが、京都に滞在している間、ずっと僕は、毎日が時間との戦いだったのです。

 

 なにせあの時は、上級編のテキスト作りに追われていましたから、正直いって、観光なんてしている場合ではなかったのかも知れません。

 

 そんな無理をしてでも、この2つの古刹(こさつ)に巡るのを、強引に敢行したのは、僕の書の師匠である野尻泰煌先生から、「京都に行ったら、ぜひ龍安寺の石庭(せきてい)は見た方が良い」と言われていた事と、龍安寺のすぐ隣りにある仁和寺は、今回の京都講座の受講生で、広島から通ってくださったUさんが、「講座のついでに仁和寺に観光したら、ものすごく良かった」と報告してくださったからです。

 

 7年前の僕だったら、絶対に仕事優先にして、マンションに籠って、ずっとテキストを作っていたと思うのですが、パリで色々あって、だいぶ考え方が変わりました。

 (2012/3/16パリブログ 「気づきの薬」 参照)

 

 という訳で、そんなこんなで、七条のマンションからの最短ルートを検索して、早速出発です。

 

 

 インターネットでルートを調べてみると、三条まで京阪電車で行って、このバスに乗るのが一番早いようなので、早速、バスに乗り込みます。

 

 今回は、Iさんはいないので、完全に一人…

 

 まあ、言葉の通じないパリで、どこに行くのかよくわからないバスに乗って、凱旋門まで行った経験を思い出せば、何も怖くありません(笑)

 (2012/3/5パリブログ 「雨のパリと凱旋門」 参照)

 

 乗車時間40分ぐらいで、最初の目的地の龍安寺に到着しました。

 

 

 「名勝 龍安寺庭園」

 どうやら、ちゃんとたどり着けたようです(^^)

 

 

 拝観受付で、拝観料500円を払って、中に入ると、「石庭拝観」の立て札があって、その矢印の方向に沿って、進んでいきます。

 

 驚いたのは、観光客の3分の2以上が外国人の方だった事で、英語や中国語が当たり前に飛び交う中で、まるで異国に迷いこんだような錯覚に陥りました。

 

 

 庭の途中にある優しそうな石仏様…

 

 思わずほっこりと、心が癒されます。

 

 

 そして、庫裏(こり)の入り口から方丈(ほうじょう)に入ると、その縁側から、目的の石庭が見えました。

 

 

 これが、野尻先生がおっしゃっていた石庭か…

 

 しばらくの間、感慨深く見つめていました。

 

「この空間の意味って、何だろう」と考えてみても、答えは出ませんね。

 ただただ、侘び寂び(わびさび)の宇宙観が、心を洗い流してくれるというか…

 

 もしも、冬、雪が降り積もっている時にここに来てみたなら、また、全く違う景色を見せてくれるかも知れません。

 

 

 石庭も素晴らしいけれど、この仏殿前の庭園の緑も、中々のものです。

 思わず、時間が止まったような感覚になります。

 

 

 というか… この方丈という建物自体が、日本家屋の芸術そのものと言っても、良いかも知れません。

 自分がいるこの空間さえも、日常と違って感じます。

 

 龍安寺を建立したのは、細川勝元…

 この人は、室町幕府の管領の守護大名のトップであり、応仁の乱で足利義政側について、山名宗全らと戦った人です。

(2019/8/11 ブログ 「銀閣寺(慈照寺)巡り」 参照)

 

 結果的に、応仁の乱の戦火によって、龍安寺は焼失してしまいますが、細川勝元の子である細川政元により、またすぐに再建されていますので、正真正銘500年以上の歴史を誇る古刹です。

 

 

 庫裏を上がった所にある、書が書かれた屏風…

 明治から昭和にかけて活躍した漢学者の寺西乾山(てらにし けんざん)氏による、中国の漢詩だそうです。

 

 なんだかこの屏風、もの凄い存在感が漂っています。

 

 

 庫裏から外に出て、鏡容池(きょうようち)の方に出てみました。

 龍安寺と言えば、鏡容池のほとりのお店で湯豆腐を食べるのが、粋な楽しみ方らしいのですが、まあ、今回は時間もないし、たった一人で湯豆腐を食べるのも淋しいので、パスしました。

 

 幸せな気分に満たされて、緑のシャワーがあふれている、池の周りの道を通って、龍安寺を後にしました。

 

 野尻先生がおっしゃっていた石庭も見たし、さあ、次の目的地である仁和寺に急がなくては…

 

 

 向こうに小さく見えるのが、仁和寺…

 

 龍安寺から仁和寺までは、徒歩で10分ぐらいで到着しました。

 

 外は猛烈な暑さでしたから、早歩きでここまで歩いただけで、汗がとめどなく吹き出してきます。

 

 

 この中門(ちゅうもん)を抜けると、そこは、龍安寺とはまた違った、独特の世界観があるお寺でした。

 

 本当の事を言うと、仁和寺はさらっと全体を見たら、すぐにマンションに帰って、仕事をしようと思ってたのです。

 ところが、中に入ってみたら、とてもそうはいかないという事に、気づきました。

 

 なんと、おりしもタイミングよく、観音堂と金堂(こんどう)の特別公開が行われていたのです。

 ここまで来て、これを見ないで帰るなんて、いくら何でも勿体なさ過ぎます。

 

 徒然草の「仁和寺にある法師」のように、見るべきものがある事を知らなければ、さっさと帰れるのですが、こうして知ってしまった以上は、やっぱりそうはいきませんね。

 

 

 境内を歩くと、まずは見事な五重塔が目を引きます。

 

 境内は日陰がないので、思わず、この五重塔の陰に隠れたくなります。

 シャツはもう汗だくですが、ただでさえ時間がないので、足早に回る事にしました。

 

 

 そして、この建物が経蔵(きょうぞう)です。

 これは、経典や仏教に関する書物を収蔵する為の蔵ですね。

 

 

 これが霊明殿…

 ここには、ものすごくキメ細やかに作られた、10cmほどの薬師如来座像が祀られているんです。

 

 仁和寺は、平安時代の仁和2年、光孝天皇のご意志により建て始められたもので、天皇は完成を見ないまま崩御され、その後の宇多天皇の時代になって、寺は完成しました。

 仁和に作られた寺なので、仁和寺という名前なのですね。

 

 この仁和寺は、皇族や公家が代々住職を務めた、最も歴史の古い門跡寺院であり、宇多天皇が出家して仁和寺に入ってから、明治時代に、純仁(あきひと)親王が最後の皇族の門跡となるまで、ずっと皇族が住職だったという類まれなるお寺です。

 

 仁和寺の別称を「御室(おむろ)」と言うのですが、これは「天皇の隠居所」の意味です。宇多天皇がこの仁和寺で隠居されたのをきっかけに、そう呼ばれるようになりました。

 体温計のオムロンという会社がありますけど、あの名称は、この御室から取っています。

 

 

 この建物こそが、今回のイベントの主役でもある観音堂です。

 

 今回、観音堂修復完成記念の特別公開で、拝観料が別途、1,000円掛かるのですが、中に入ると、たった1,000円でいいのか、というほどに、言葉で語りつくせない感動の連続でした。

 もちろん、中は撮影禁止ですが、丁度、拝観料を支払った時に頂いたパンフレットに中の写真が載っているので、ここから写真から掲載しますね。

 

 

 パンフレットなので、ちょっと画像が荒いですが、こんな風にたくさんの観音様がいらっしゃって、傍らには風神・雷神までいました。

 

 しかも今回は特別に、この観音様の後ろにある屏風の裏側に描かれていた絵を、拝観できるのです。

 

 そこにあったのは、驚くべきキメ細やかでリアルな障壁画でした。

 この絵は、江戸時代の絵師・木村徳応らによって、描かれたもので、373年の間ずっと秘されてきた「幻の障壁画」と言われ、今回が初公開です。

 

 上の段には、見事な観音様が描かれ、下の段には、いわゆる「六道輪廻(りくどうりんね)」の世界が、ギョッとする程、赤裸々に描かれていました。

 

 そして、壁画のそばに立っている係の方が、その絵の内容を丁寧に解説をしてくれます。

 

 撮影禁止なので、パンフレットに載っていた写真で、ちょっとだけご紹介したいと思います。

 

 六道輪廻の世界観というものについて、僕が知っている限りで説明するとですね…

 輪廻の世界にある「天道」「人間道」「修羅堂」「畜生道」「餓鬼(がき)道」「地獄道」の6つで、六道と言うんです。

 

 人気アニメの「NARUTO」に出てくる、敵の首領のペイン六道の元ネタは、これです。

  アニオタしかわからない話で、ごめんなさい…

 

 この六道というのは、人が輪廻転生する道で、自分の前世などの行いによる業(ごう)が、そこに反映された結果だとされています。

 

 もちろん、この六道輪廻が実在するかどうかなんて、誰も確かめようがありませんが、僕は何となく、この世で生きている我々の心の在り方の中に、この六道のようなものがあるような気がするんですね。

 

 

 ちょっと画質が悪いのですが、横に長い障壁画の一番左の部分が、この絵になっていて、「天道」の世界を描いています。

 天女がいっぱいいて、幸せで楽しそうです。

 

 六道の中で、一番上位にあるのが、この天道です。

 ここに住まう人は、幸せいっぱいですし、性格も極めて善良なのですが、とはいえ、悟りを開いている訳ではなく、煩悩を捨てられている訳でもありません。

 

 極楽浄土と天道というのは、同じようなものかと思いきや、仏教においては、全く別の概念であり、極楽浄土が「仏が住まう永遠の安らぎのある場所」なのに対して、天道というのは、「輪廻の繰り返しの中で、一時的に行く場所」であって、天道に住んでいる天人にも、ちゃんと寿命があります。

 

 それで、その寿命を迎えると「天人五衰(衣服が垢で汚れ、脇から汗が出て、体が臭くなり、頭上にある花が萎れ、自分のいるべき場所の事を好きでなくなる)」と呼ばれる苦しみの果てに、また、輪廻転生へと戻っていかなければならないという事。

 

 なるほど…

 この天道は快楽に満たされていて、苦しみも一つもないし、幸せいっぱいですから、もっと自分を高めようとか、人の幸せの為に生きようという気持ちにも、中々なりにくい…

 

 だから、このまま自分だけの幸せに満足してしまったら、これまで自分が積んだ功徳をどんどん消費してしまうだけになってしまう、という事を表しているのでしょう。

 

 これが本当の話かどうかは別として、言わんとしている事は、何となくわかる気がしました。

 

 

 さて、これが天道の下にある人間道です。

 

 なんか、椅子に座っている男の人が、閻魔様の姿のようにも見えるので、もしかしたら、閻魔様が判決を言い渡す場面かも… と思ったのですが、他に「人間道」の描写らしき所もないので、やっぱり、これは閻魔様ではなく、地位のある人間を描いているのだと思います。

 

 観音堂の係の人に、人間道の部分はどこですかと、尋ねてみたのですが、明確な答えは得られませんでした。

 

 人間道とは、我々が生きている地表の世界の事で、仏教でいう「四苦八苦」の苦しみに満ちているのですが、同時に楽しい事もたくさんあって、それらの苦楽を通して、自分を高めたり、徳を積んだりする事もしやすいと言えます。

 

 それで「唯一自力で、仏様に出会える世界」が、さっきの天道ではなくて、実はこの人間道だとされているんですね。

 だからやっぱり、苦しみというのも、時には人間に必要なのだと思います。

 

 

 ここから先は、気分が滅入るので、正直あんまり解説したくはないのですが(笑)

 

 人々が武器を取り合って、戦っています。大きな赤鬼のように見えるのは、多分、阿修羅を表現しているのではないかと思います。

 

 これは「修羅道」という道であり、常に他者と争って、怒りが絶えない世界です。

 慢心や猜疑心によって、生みだされる世界であり、苦しみが絶えないのですが、地獄のような場所ではないとされています。

 

 この現実世界でも、そういう人、いると思いますし、僕も今思えば、20代の頃はずっと修羅道にいた気がします。

 

 六道を2つに分け、天道・人間道・修羅道を「三善道」、のちの畜生道・餓鬼道・地獄道を「三悪道」にわけるという説があります。

 また、修羅道を後の方に入れて、修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の4つで「四悪道」とする説もあります。

 

 僕は、後者の方に賛成です。

 確かに、畜生道・餓鬼道・地獄道に比べたら、修羅道はいくらかは向上心がありそうな感じはしますが、怒りは自分の我見の狭さから来ていますし、相手と共存する気もない我儘な心の状態なのですから、どう考えても、これを天道や人間道と一緒くたにして、三善道とするのは、明らかにおかしいと思うんですけどね。(あくまでも、個人的意見です…)

 

 

 争いの絶えない世界も嫌ですけど、これはもっと嫌です(笑)

 人間が、ケンタウルスになってます。

 

 これが「畜生道」というやつですね。

 この世界は、獣のような弱肉強食の世界です。

 周囲の事や人の気持ちなど全く考えず、自分の本能や欲望のままに生きた結果、畜生(動物)のレベルまで、堕ちてしまったという状態を言っているのでしょう。

 

 ここは、強いものが弱いものを使役して、あぐらをかくという構図で、自分より弱い者にはやりたい放題するのですが、逆に、自分より強い者に対しては、常に怯えていなければならないという、恐怖と暗黒の世界です。

 

 向上心や、人を慈しんだり、いたわる事を忘れている結果、下等動物のようになってしまった訳ですから、そこを思い出して反省すれば、一旦この畜生道の世界に迷い込んでも、ちゃんとここから、抜ける事ができると思うんですけどね。

 

 

 ちょっと、グロすぎます。勘弁してほしいです…

 

 これは「餓鬼道」の世界観を表したものです。

 

 餓鬼というのは、お腹がふくらんだ飢えた鬼の事で、この餓鬼になった者は、壮絶な飢えに苦しんでいて、常に、何でも良いから口に入れたくてしょうがないという衝動にかられています。

 だから、この人たちは、共食いをしているという描写になっています。

 

 強欲のまま、むさぼりの心に執着すると、この餓鬼道に落ちてしまうという訳ですね。

 

 何でも、餓鬼には、何一つ口に入れる事ができないという「無財餓鬼(むざいがき)」と、粗末な物を少しだけ食べられる「少財餓鬼(しょうざいがき)」と、食べるには全く困っていないが、どれだけ食べても満足できないという「大財餓鬼(たいざいがき)」の3つに分類する事ができるのだそうです。

 

 執着して、むさぼればむさぼるほどに、苦しむのがこの世の法則ですから、そのむさぼる癖をなくしたなら、この餓鬼道から抜けられるのかも知れません。

 

 

 最後は、この地獄道です。

 もう説明したくもないので、解説は省きます(笑)

 

 観音堂に入って、この障壁画を見ていて、色々と考えさせられました。

 人間が死んだら、こんな異様な世界があって、生まれ変わる度に、こんな所を行ったり来たりしなければならないなんて、考えただけでも心が暗くなります。

 仏教の教えと言うのは、「だからこそ、この六道輪廻から速やかに解脱して、仏の道に生きるべきなんだ」としているのですね。

 

 まあ、死んでからの事なんて、わかりませんが、案外この六道の考え方は、こうして生きている間に心が陥る感情を、物語っているような気がするし、そこから脱出するすべを述べているようにも感じるんですね。

 

 例えば、無性に怒りがわいてきて、ムカムカし始めた時には、自分の心は修羅道にいるし、目の前にご馳走があって、周りの人の目も忘れて、無我夢中でごうつくばっている時は、心は餓鬼道に落ちてしまっているのかも知れません。

 

 でも、「今、餓鬼道に落ちていたから、反省しよう」と思ったなら、その道から、すぐに戻ってこれると思うんですよ。

 少なくとも、行きっぱなしになんて、ならないはずです。

 

 行きっぱなしになってしまうのは、自分の人生をあきらめてしまった人か、反省心がなくて、自分は絶対に正しいと思っている自信過剰な人か、そのどちらかだと思います。

 

 観音堂の特別公開は、僕が京都にいた時には「11月24日まで」という事だったのですが、今、改めて情報をチェックしたら、なんと「12月8日まで」に期間延長されていました!!

 

 京都の近くにお住まいの方や、京都に行かれる用事のある方は、ぜひぜひ、仁和寺の観音堂にも、拝観されてみてください。

 

 観音堂を後にして、直射日光の日差しの下を、汗だくになりながら、もう一つの特別公開の場所でもある金堂へと向かいました。

 

 

 この金堂は、仁和寺の建物の中で、唯一国宝に指定されている建物です。

 

 仁和寺という寺もまた、龍安寺と同じように、やはり応仁の乱の戦火により、焼失してしまった寺です。

 龍安寺は、応仁の乱の東軍の守護大名・細川勝元の寺であった事から、燃えてしまったのですが、逆に、仁和寺の方は、西軍の守護大名・山名宗全の本陣とされた事で、そのほとんどが燃え尽きてしまいました。

 

 実は、この仁和寺を復興させたのは、江戸幕府三代将軍・徳川家光なんです。

 この時、家光の妹にあたる和子(まさこ)が、時の天皇である後水尾天皇の妃として、入内(じゅだい)していました。

 

 そして、当時の仁和寺の住職は、後水尾天皇の兄にあたる覚深(かくじん)入道親王であり、徳川家光が京に上洛した時に、仁和寺の再建を頼んで、無事に受け入れられたという訳です。

 

 どうして金堂だけが、他の建物と違って国宝の扱いを受けているかと言うと、この金堂を建てるのに使った木材は、元々、京の天皇の住まいである内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)に使われていた木材で、その紫宸殿をそのまま、金堂として移築したからです。

 

 その金堂に上がれるだけでも貴重なのですが、今回の特別公開では、仁和寺が建てられた平安時代の当初から存在し、応仁の乱の時は、外に持ち出されて戦火を免れたという国宝の阿弥陀三尊像も、公開されていました。

 

 

 これが、国宝の阿弥陀三尊像の真ん中の像である、阿弥陀如来坐像です。(写真は、パンフレットより拝借しています)

 

 お顔が神々しくて、見ていて、うっとりとします。

 この中には、本当に仏様の魂が入っているのではないか… というくらい神々しいです。

 

 仁和寺の係の人が、ここに来館された人全員に、さっきの話のような仁和寺の歴史を聞かせてくれます。

 

 

 仁和寺の境内の北庭にある池…

 

 まるで、極楽浄土みたいな場所です。

 

 この後、仁和寺を出た僕は、バスに乗って一直線で七条に帰り、シャワーを浴びて汗を流してから、早速、上級編のテキスト作りに取り掛かりました。

 

 それでも心は、あの龍安寺の石庭や、仁和寺にあった六道の障壁画や阿弥陀三尊像に、釘付けのまま…

 

 最高級の建築物や仏像や絵画を見て、感動して、たくさんの事を考えて、一回りも二回りも自分が成長できたような気がしました。

 

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