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自分らしさを意識すると、かえって自分らしくなくなる18.08.02

2018年8月2日(木)

 

 ふと気づけば、いつしか8月…

 本当に月日がたつのは、早いものです。

 

 外はまだまだ暑いですが、日はすでに少しずつ短くなってきているし、涼しい秋の訪れも、もうそこまで来ています。

 

 僕の師匠が良く言っていましたけど、人生というのは、年を取れば取るほどに、時間の経ち方が速く感じるという事を、今、しみじみと実感しています。

 

 特に、2012年にパリに行って帰ってきてからというもの、本当、まるでジェットコースターに乗っているみたいに、僕の回りの時間が過ぎていきます。

 

 あと、どれだけの時間、この人生の中で学ぶ事ができるのかなあ… なんて、最近はふと思ったりなんかしてみて…

 

 僕の若い頃は、いつも、頭の中にモヤモヤとした悩みがもたげていて、道を歩いている時でさえ、ドヨ~ンとした気持ちでいる事がほとんどでした。

 

 あの頃は、ミュージシャンとか俳優なんかを目指していたのですが、自分の中の理想のイメージと、自分らしく生きられていない現実とのギャップに、いつも苛立ちを隠せなかったと言いますか…

 

 道を歩いている時、きっと怖い顔をしていたと思います(笑)

 

 あの頃、鏡を見るたびに、日に日に自分の顔が醜くなっていく様子がわかって、それが恐ろしくて、鏡を見れなくなった時期もあったんです。

 

 同い年の友人が、就職したり結婚して家庭を築いたりしているのを横目で見ながら、「あんな平凡な人生なんてつまらない。自分らしく生きるんだ…」なんて言いながらも、実際、自分のやっている事は、ミュージシャンでも俳優でもなく、単なるフリーター…

 

 あの頃は、雇い主の会社の社員から、上から目線で命令されるのが、すごく嫌で、なんで自分は、こんな仕事をやっていなければならないんだ… って、いつも腹を立てていました。

 まあ、辞めたら食べて行けないのだから、仕方ないのですけど…

 

 どこかの会社に就職して、社員になるなんて、もっと耐えられないと思った…

 

 今だったら「それでも、別にいいじゃない」と堂々と言えるのですが、当時の僕は、アルバイト先の会社の人に、ヘコヘコ頭を下げている自分が本当に嫌で、いつも自己嫌悪に取りつかれていました。

 

 状況は違えども、当時の僕のように、自分らしく生きられないジレンマを感じたり、劣等感を感じている人は、結構いるのではないかと思います。

 

 でも、自分らしさって何だろう… と、よくよく考えると、何だかよくわからなくなってくるんですね。

 

 もしかすると、自分らしさなどというものは、自分の作り出した思い込みに過ぎないかも知れない…

 

 別に「自分らしさなんて、捨ててしまえ」と、言いたい訳ではありません。

 

 例え、それが思い込みであろうと、自分らしく生きようとする事は、悪い事ではないし、そうやって、もがき続ける過程で、また一段と自分を成長させる糧になるはずですから…

 

 30代を迎えて、ミュージシャンの夢を捨ててからも、頭の中にはずっと、この自分らしく生きられないモヤモヤ感が、もたげ続けていました。

 

 正直、自分の夢や目標がなくなってしまった事で、全てがもう解決不能になってしまったのではないか… という、気さえしていました。

 

 その後、師と出会ったり、占いという天職を見つける事ができたり、色々と人生に変化はあったのですが、初めてこの悩みから完全に開放されたのは、つい6年前、パリの街で、まるで自分が周りの景色に溶けていくような感覚を味わった時です。

(2012/4/22ブログ 「パリに行って変わった事」 参照)

 

 思えば、あの瞬間が、これまでずっと自分が嫌いだった僕が、初めて、自分が好きになれた瞬間でした。

 

 これまでずっと、自分らしく生きるにはどうすればいいんだろう… と悩み続けていながら、答えを探していたのに、あの瞬間、もうそんな事さえも、どうでも良くなってしまっていた…

 

 そして、これまでの人生が思い通りに行かなかった事も、トラウマになって心にこびりついていた嫌な記憶さえも、全部どうでも良くなってしまっていました。

 

 それまでは、忘れたくても忘れられない記憶が、ふいに心をよぎると、その相手に対する恨みの気持ちが沸々と湧いてきて、いてもたっても、いられなくなるほどでした。

 

 今ではむしろ、それらの出来事に感謝しているくらいです。

 

 あの痛みによって、人に優しくできるようになったのは間違いないし、もしも、あの痛みを感じる事ができなかったら、僕も彼らと同じように、たくさんの人を傷つけていたかも知れないから…

 

 それにしても、あの頃を振り返ると、どうしてあんなにも、憎しみの気持ちに支配されてしまったのかなあ… って思うんですよね。

 

 もしかしたら、自分で作り上げた「自分らしさ」に、身動きが取れなくなってしまっていたせいかな… という気もします。

 

 いつもいつも、自分らしく生きられる人生であれば、それでも問題ないんですけど、人生、そううまくは行くとは限らないです。

 特に、若い頃なんて、なおさらです。

 

 でも、もしかしたら、あんまり自分らしさというものを意識しなくても、良いのかも知れません。

 

 逆説的ですけど、自分らしさを意識すると、かえって自分らしくなくなるような気がするんです。

 

 パリで3週間近く過ごしたある日、当たり前の日常の生活が、まるで光に包まれているように、感じられた事があります。

 そして、この時の感覚は、今でも心の中にかすかに続いています。

(2012/3/15ブログ 「この瞬間の光の中で」 参照)

 

 そしてその瞬間、理屈ではなく、暖かい安らぎの中で、本当の意味での自分らしさに心が満たされていくのを、ものすごく実感するんですね。

 

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新鮮な感動が、新たな幸せを呼び込む18.07.24

2018年7月24日(火)

 

 暑い毎日が続いています。

 皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

 この時期は、自分では気づかないうちに熱中症になってしまったりするので、外を歩く時はもちろん、部屋の中にいる時や、夜寝ている時だって油断は禁物です。

 

 しっかりと水分補給をして、適度にエアコンを活用しながら、お体をいたわってお過ごしください。

 

 今日はお客様が入っていなかったので、サロン ド シルフィーユは急遽お休みにして、備品の買い出しをしに、新宿に出かけました。

 

 新宿の地下街やショップの中は、冷房がしっかりと効いていて、本当に過ごしやすいです。

 のんびりとお買い物を楽しみました。

 

 建物の中が冷房が効いていて過ごしやすいのは、今でこそ、当たり前になってしまいましたが、昔はエアコンなどという便利なものはありませんでした。

 

 エアコンが発明され、世界に初めて登場したのは、1930年の事…

 我が国の家庭に、エアコンが普及し始めたのは、1970年代になってからだと言います。

 

 僕も気がつけば、この世に生を受けて、もうじき50年近くになるのですが(全然、そんな実感ありませんが…)、僕が思い出せる最も古い幼い頃の記憶をたどると、やっぱりその頃は、家にエアコンはありませんでした。

 

 こんな夏の暑い日に、今のエアコンの代わりをしたのは、扇風機ですね。

 

 あれ、プロペラに指をはさむと、大変な事になります(笑)

 

 まあ、普通は扇風機のプロペラに指をはさむ人なんていませんが、子供の頃の僕は、ポットの熱湯を足にかけて大やけどしたり、折り畳みベッドの蝶つがいに指をはさんで大怪我をしたりと、普通ではありえない事で怪我をして、親に心配をかけていました。

 

 だから、その扇風機には、指が入りそうな隙間のある安全保護カバーの上から、紐で何重にも結って、絶対に指を中に入れられない様になっていました。

 

 小学生の頃、夏になると、いつもその扇風機にしがみつくようにして、過ごしていたのを覚えています。

 

 あと、冷蔵庫のドアを開けて、その前で涼んだりもしてしました(笑)

 

 なんか、懐かしいですね…

 

 今でこそ、日本の90%以上の家庭にはエアコンがありますが、あの頃は、どこの家庭でもエアコンなんてありませんでした。

 

 こんな猛暑から逃れる為には、近くのプールや川に行ったり、もしくは、冷房が効いたスーパーやデパートに買い物に行ったり… そんな時間もない時には、お風呂に水をためて、行水をしたりしたものです。

 

 エアコンがなくたって、案外やりようはあるんですね。

 

 今でも、日本よりも暑さが厳しい東南アジアの国々で、日本と同じようにエアコンが普及しているのは、シンガポールぐらいなもので、他の国々の多くはエアコン普及率は20%前後だと言います。

 

 かといって、現代のこの猛暑の最中、「エアコンなんか使わない方が良い」なんて言うつもりはありません。

 エアコンのスイッチをつけるだけで、熱中症を回避できるし、仕事や勉強の能率だって上がる訳ですから、大いに活用すべきです。

 

 今現在、日本人の平均寿命は、世界の国々の中で堂々の1位ですが、これは紛れもなく、エアコンの恩恵である事は間違いないでしょう。

 

 だから、我々がこうやってエアコンの恩恵にあずかれる事は、本当に感謝しければいけない事なのですが、エアコンがあるのが当たり前の生活をしていると、いつしかその事を忘れてしまいますね。

 

 きっと、エアコンに限らず、人生のどんな恩恵に対しても、同じような事は言えるかも知れませんが(笑)

 

 思い起こせば、今から30年ぐらい前、僕の家に初めてエアコンがやってきた時には、それはそれは衝撃的でした。

 

 あの頃のエアコンの性能は、今のものと比べたら、涼しくなるまでに時間もかかったし、燃費も悪かったですし、しかも当時は「エアコンから出てくる空気は、体に良くない」という、全く根拠のない都市伝説があったりもしたのですが、今までずっと「夏は暑いのが当たり前」と、うちわを片手に汗をかいて過ごしていた分、エアコンの効いた部屋を体験した時には、本当に感激でした。

 

 「エアコンがある部屋にいられるなんて、この時代に生まれてきて良かった」なんて、当時はしみじみと感動していたものです。

 

 今、そんな事に感動する人は、あんまりいないでしょうけど…

 

 考えてみれば、あの時の感動は、暑い暑いと言いながら、うちわを片手に汗をかいて過ごしていた経験をしたからこそ、あるんですね。

 

 人の心が感じる「幸福度合い」というのは、本当に相対的なもので、豊かな暮らしをしている人やお金持ちが、必ずしも幸せを感じているとは限りません。

 

 前の自分の状態に比べて、現状が、自分にとって満たされていると感じられれば、幸せだと認識できるし、逆に、どんなに今が満たされた環境でも、「前の状態の方がやっぱり幸せだったな…」 という思いが出てこれば、不満を感じるものです。

 

 そしてまた、ずっと今と同じ状態が続いていると、だんだんと感覚がマヒして、感動も感じられなくなってしまいます。

 

 だからこそ、そんな時は、今まで自分がやってみた事のないような事に挑戦して、思いっきり感動するに限ります。

 

 その感動が、またたくさんの幸せを運んできてくれますから…

 

 新しい事に挑戦するというのは、中々勇気がいるし、その結果失敗したら、目も当てられないような事にもなりますから、ついつい億劫になります。

 

 でも、別に失敗したっていいんですよね。

 

 もちろん、人生の取り返しがつかないような失敗だけは、避けた方が良いですけど、多少失敗して苦しい目に遭ったとしても、後々自分にとって、いい経験になる事の方が多いです。

 いつまでも、その失敗を悔やんでいたり、誰かのせいにしたりしない限りは…

 

 昔、僕の師匠が「最高に美味しいビールを味わう為には、思いっきり体を動かして汗をかくのが一番だ」と言っていたのを、良く思い出すのですが、まさにその通りで、本当に自分の心を満足させたければ、快楽を求めるのではなく、むしろ、あえて少し苦しい事に立ち向かっていく方が良かったりします。

 

 そうする事によって、それを乗り越えた時、その人にしか味わえない感動を味わう事もできる…

 

 もちろん、今、心がちょっぴり風邪をひいて、どうしても元気が出ない時には、そんな事する必要はありません。

 

 そんな時は「そういう時期もあるさ…」と、あせらずに、のんびり構えていたら良いでしょう。

 

 そしてまた、何か始めたい気持ちになったなら、その時に、新しい事に挑戦したらいいんです。

 

 新鮮な感動が、新たな幸せを呼び込む…

 

 一度きりの人生、思い切って、今まで開けた事のない未知の扉を開けて飛び込んでみるのも、また面白いかも知れません。

 

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運命の女神が微笑む人18.07.16

2018年7月16日(月)

 

 ワールド・カップ、フランスの「レ・ブルー」(日本チームと同じように、ユニホームを青一色にしている事から、こう呼ばれる)が見事に優勝!!

 

 ここの所、悲しいニュースや重いニュースばかりが続いていたので、フランスに思い入れがある僕としては、やっぱり嬉しいです。

 

 フランスは確かに実力もあるのですが、それにしても今回それ以上に、すごく運に恵まれていたように思います。

 

 決勝戦のクロアチア戦も、いきなり相手のオウンゴールで先制点を上げていますし、だいたいクロアチアは延長戦で一試合余分にやって疲れていますから、それだけでも分が悪いです。

 

 とはいえ、その運を上手に引き寄せて、見事に守り切って優勝を手に入れたのも、やはりフランスの実力とも言えましょう。

 

 20年ぶりの優勝、Félicitations!!(フェリシタシオン = おめでとう!!)

 

 という事で優勝から一夜明けて、「四柱推命講座・中級編 ~連日集中コース~」が、開始直前のしばし余った時間に、あわててブログを書いています!!

 

 それにしても、運と言うものの存在は、本当につかみ所がないし、一体何なのだろう… と思います。

 

 いつも真面目に常日頃、良い行いをしている人が、運が強いのかと言ったら、そうとも言い切れませんし、どちらかというと、むしろ、逆のようにも思えてきます。

 

 15世紀イタリアのタロットカードの「運命の輪」に描かれている「運命の女神(=フォルトゥーナ)」の図像というのは、必ずと言っていいほど、目隠しをしているポーズで描かれています。

 

 当時の人は、「運命の女神というのは、気まぐれで、善悪を正しく見極められないほどに盲目であり、いつもそれに相応しないような人間にばかり微笑む…」と考えていて、そういった皮肉も込められて、常に目隠しの姿で描かれていました。

 

 確かに、常に目の前に起こる偶然の幸運に関しては、まさにその通りだと思います。

 

 例えば、宝くじを買って当選した人は、みんな常日頃、立派な行いをしているような人かと言ったら、決してそうとも言い切れないでしょう。

 

 だから、宝くじに当たりたいから、「運が味方してくれるように、立派な行いをしよう」と思うのは、ナンセンスです(笑)

 

 では、どういう人が宝くじの高額当選金を当てているかと言ったら、何かの調査でやっていたのですけど、ズバリ、そのほとんどは、常に大量にくじを買っている人だそうです。

 (余談ですが、全部合わせると年間200億円ぐらいの当選金が、ちゃんと当選者がいるのに、未換金になっているそうです…)

 

 という事は、高額当選金を当てた人は、それまでに、はずれくじ代で、相当な費用を費やしていた可能性が高いです。

 

 ちなみに、占いの秘術や方位学なんかで、くじを当たりやすくする方法は確かにありますが、どこまで信用できるかは、かなり謎の部分です。

 

 今から100年ほど前、エドガー・ケーシーという、自分を睡眠状態にする事で、その人の前世や体の悪い部分、治療方法を読み取るという超能力者がいて、当時の資料によれば、その治療方法を施す事で、難病の患者の症状もことごとく治ったと言われています。

 

 そんなエドガー・ケーシーが、人に請われるままに、試験的に競馬の勝ち馬を当てるような事も行ったらしいのですが、結果は、うまくいったり、うまくいかなかったりと、十分に能力を発揮できなかったという話です。

 

 今や伝説化されているエドガー・ケーシーでさえも、そういう偶然性のものに関しては、その程度であったという事でしょう。

 

 目の前で起こる偶然のラッキーとか、逆に偶然の不幸というものさえも、何か因果関係があるかと言ったら、必ずしもそうとも言い切れません。

 

 もちろん、運がつき始めた時には、次から次へとツイてくるとか、運に見放された時は、次から次へとドツボにハマる… みたいな法則性のようなものは、確かにあります。

 

 これは、自分の心理状態がそれを引き寄せている部分も、かなりあると思うのですが…

 

 でも、そういった連鎖する運気の法則性ではなく、偶然に起こる可能性があるラッキーな出来事とか、アンラッキーな出来事に限って言えば、ほとんど、全ての人に平等な確率で起こると言えるでしょう。

 

 そこに何かの法則性を見出そうとしても、ちょっと難しいです。

 

 ただ、物事をうんと長いスパンで考えたなら、自分自身の生き方によって、結果的に大きな運を引き寄せて実りのある人生を歩む人と、一度や二度のラッキーな事は起こっても、自分の生き方によって、結果的に幸せに見放されてしまう人に、ハッキリと分かれてきます。

 

 さっき、目の前で起こる出来事の一つ一つのほとんどは、偶然に起こると述べましたが、例外的に、その人が内側に持っている本来の力によって、災難にあうのを未然に防いだり、偶然とは思えないような縁を引き寄せて、大きな幸せを得るという事は、確かにあります。

 

 なんとなく、その日はいつもの道を通らない方がいいような気がして、別の道を通ったら、命拾いしたとか、どういう訳か、ある場所に行きたいという心の声を感じて、実際にその通りにしたら、そこで運命の出会いがあったりとか、そういった類いのエピソードは、よく聞きますし、実際に偶然では考えられないような話も残っています。

(2014/9/16ブログ 「目の前に起こる事は、偶然のようで偶然ではない」 参照)

 

 こういった奇跡を、全て偶然がもたらせた作用だと、言い切る事は難しいでしょう。

 

 我々の心は、コンディションさえ良ければ、「時間」というファクターを超越した存在とつながる事ができますから、こういった形で、「三次元の世界」で起こる偶然を、くつがえす事も可能になります。

 

 真面目に生きていたら、運が味方する… というような法則性はないし、そんな風に運命の女神と駆け引きをしようとしても、むこうは目隠しをしているから、やっぱり難しい…

 

 でも、内なる心の声に耳を傾けて、フットワークは軽くしつつも、目の前の事にあんまり一喜一憂しないで、自分も幸せに、周りも人も幸せに… という素直な気持ちで、のほほんと生きているような人に、案外、運命の女神は微笑むのかも知れません。

 

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人の価値は死にざまで決まる18.07.11

2018年7月11日(水)

 

 今朝のフランスがベルギーに1-0で勝ったというサッカーの速報を見て、少し驚いています。

 あの勢いがあるベルギーには、正直、フランスでも勝てないと思ったのですが…

 やっぱり僕は、フランスに思い入れがあるだけに、嬉しいですね。

 

 しかしながら、西日本では、大雨による被害を受けて、それどころでなくなってしまっているのが現状…

 

 犠牲になられた方のご冥福をお祈りするとともに、一刻も早く事態が収拾して、被害に見舞われた皆様に平穏な生活が戻ります事を、祈念しております。

 

 ここの所、いろいろ事件や出来事がたて続けに起こっていますが、「今現在も、救助が受けられずに、被災地で孤立している人が何万人もいる」という現実が、我々の一番最初に考えなければいけない課題である事は、間違いありません。

 

 それにしても思うのは、人の命というのは本当に儚いものだという事です。

 いつ、人生の最後の日がやってくるのかなんて、誰にも予測できません。

 

 前にも書きましたけど、いくら生年月日時がわかったからと言って、人の寿命を正確にみる事など、できません。

(2018/1/12ブログ 「生年月日時の運命よりも上位にあるもの」 参照)

 

 でも、仮に自分の寿命がわかってしまったとしたら、それは、メリットよりも弊害の方がはるかに多いでしょう。

 だから、自分の寿命なんてものは、病気になって死期が近づく寸前までは、わからない方が良いのだとも思います。

 

 「死」というものは、誰にとっても未知の世界ですし、それゆえに恐ろしいものです。

 

 でも、逆の発想をすれば、人はたった一回しか、死ぬ事ができません。

 まあ、当たり前の話ですが…

 

 であったなら、僕は、その時を迎えたら、できる限り、粋で幸せな死に方をしたいなあ… などと思ったりもします。

 

 体が疲れて、布団で眠る時のように横たわって、笑顔でさよならを言って、ただ、その後は、二度と起きる事がないというだけの違い…

 そんな、自然な感じが良いですね。

 

 とはいえ、本当に辛いのは、死んでいくその人よりも、その人と二度と会えないという悲しみに打ちひしがれた、残された人達の方かも知れません。

 

 だから、死んでいく方は、なるべく幸せそうに、ホロッと感動させるような粋な死に方が出来たら、いいなあと思うんですね。

 もちろん、死に際なんて、そんなに自分の思い通りに行くものではありませんし、体の激痛や呼吸の苦しみで、それどころではないかも知れませんが…

 

 そんな思いをここ最近感じるようになったのは、落語家の桂歌丸さんが亡くなったというニュースを聞いてからです。

 

 僕も、「笑点」は結構好きで、必ず毎週見ていたという訳ではありませんが、子供の頃から、日曜の夕方になると、よくテレビをつけていました。

 

 あれは、僕が生まれる前から存在していた長寿番組で、僕の子供の頃の古い記憶では、故・三波伸介さんが大喜利の司会をやっていたりしたのですが、その頃から歌丸さんは、ずっと緑の着物を着て、参加されていましたね。

 緑色の衣装が、歌丸師匠のトレードマークのようになっていました。

 

 三遊亭円楽さんは、襲名する前は、三遊亭楽太郎さんといったのですが、この頃から、あのさわやかな語り口で、歌丸さんと絶妙な掛け合いをしていました。

 

 だから、三遊亭円楽さんの「最後に一言言わせてください。じじい、早すぎるんだよ!」と叫んだあのセリフは、何とも感慨深く感じました。

 

 三波伸介さんが司会の頃は、今から40年以上前ですから、当時は、歌丸さんも円楽さんも20代30代だった訳で、歌丸師匠も、全然「じじい」ではなかったはずですが、いつしかあれから、長い年月が過ぎているのですね。

 

 歌丸さんの葬儀の報道の中で、本当に粋だなあと思ったのが、棺桶に納められた歌丸師匠のご遺体の装束が、普通の白装束ではなくて、笑点のあの緑色の装束だったという事…

 

 これは、歌丸師匠の遺言なのか、それとも親族の方の思い入れからそうなったのかは、よくわかりませんが…

 

 そして、その棺桶の中に、釣りが大好きな歌丸さんが愛用していた釣り竿と、いつも使っている手ぬぐいと扇子が、一緒に納められたという話です。

 

 歌丸師匠も粋な方でしたけど、本当に粋な葬儀だなあと思いました。

 

 これなら、あの世に旅立ってからも、歌丸師匠も大好きな釣りができますし、何とも心にジンと来る話です。

 

 よく、「人の価値は死にざまで決まる」と言います。

 

 歌丸師匠は、その3ヵ月前まで、鼻に酸素チューブをつけながらも、高座に上がって、それをネタにして笑わせていたというほどに、壮絶な生き方をした方ですし、落語に対する思い入れは半端ないものでした。

 

 その芸事の教えは、本人が死した今でも、なお受け継がれて、語られているほどです。

 

 おそらくこれからも、歌丸師匠の熱い魂は、これからを担っていく芸人さんの心の中で、ずっと生き続けると思うんですね。

 

 人の死にざまなんて、自分の思い通りにはならないものですが、いつかその時が来たなら、なるべく安らかに幸せそうに、できれば粋に、逝きたいものだと思います。

 

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