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真の占いは哲学に通じる19.03.12

2019年3月12日(火)

 

 すっかり、ブログの更新がご無沙汰してしまいました。

 本当に申し訳ありません。

 

 ここの所、本当にいろいろな事があって、時には、人の生と死について真正面から考えさせられたり、自分の未熟さを痛感したりと、深海にダイヴして、そしてようやく、自分なりに成長して、また元の場所に戻ってきました。

 

 休みを取らずに動き回っていたら、風邪をひいてしまったのか、昨日あたりからずっと喉が痛いです。

 

 いや、もしかすると、花粉症に掛かってしまったのかも知れません。なんでも噂によると、今年の花粉症は、喉が痛くて頭がボーッとするらしいとか…

 しかも、睡眠不足の人は、免疫が下がって、花粉症が悪化しやすいのだそうです。

 

 もしも花粉症であれば、この状態が春の間ずっと続くのですね…

 であれば、風邪であってほしいです(笑)

 

 この間、「十干十二支気学 ~四柱推命方位学~」の著者であり、方位学の権威である笹木龍一先生とお話をさせて頂く機会があったのですが、改めて、素敵な先生だと思いました。

 

 笹木先生と初めてお会いしたのは、今から6年前… パリから帰ってきた年の翌年の1月…

 とっても寒い日だったのを、よく覚えています。

 

 初めてお会いした時は、何があってもブレない、まっすぐに前に突き進む方だなあ… という印象を持ちました。

 

 笹木先生が「十干十二支気学」を出版されたのは、その3年後…

 

 発売当初から、この本は、アマゾンランキングで、ずっと上位を保っていました。

 

 ちなみに、僕がサロン ド シルフィーユを開店させるべく、当初住んでいた千葉から東京に移動した時期と方位は、笹木先生の「十干十二支気学」で決めたんです。

 (2014/10/15パリブログ 「究極の未来派方位術」 参照)

 

 当時のブログで、“どれだけの効果があらわれるかは、これからの僕の事を見ていればわかります”と、書いているのですが、あの頃は、生活面においても、収入面においても、不安定極まりなかったのですが、今では、すっかり安定しました。

 

 これも、笹木先生の「十干十二支気学」のお陰だと思います。

 

 占いの世界には、本当に様々な秘技があって、もちろん、この「十干十二支気学」以外にも、素晴らしい効果をあげている開運法は、たくさん存在しています。

 

 ある意味、こういった占いの開運法の世界というのは、理屈では考えられないような摩訶不思議の連続です。

 だから、中には、こういったご利益主義的な開運法に、すっかりのめり込んでしまう人もいます。

 

 実際に効果が顕れる訳ですから、伝える方の先生も「これさえやれば、大丈夫」とばかりに、自信を持って教えます。

 

 ただ、ここで落とし穴が存在します。

 

 それは、開運法にばかり目がいって、現実面における、自分がやらなければいけない努力や、人に対する気配りなどがおろそかになってしまうような事…

 つまり、最初に開運法ありきで、日常生活を送ってしまうパターンです。

 

 僕が笹木先生の事を、本当にすごいと感じたのは、「十干十二支気学」が効果を上げているからではありません。

 

 もちろん、それもすごい事なのですけど、笹木先生は、「十干十二支気学」を扱う人が、決して、こういった本末転倒な事にならないように、普通の占い師なら面倒がって避けてしまいがちな、運命の法則性というものを懇々と説かれている事です。

 

 それは、笹木先生の著書である「十干十二支気学 ~四柱推命方位学~」にも、顕著に表れていて、あの本は、第1章、第2章をかけて、ずっと運命の法則性の説明をしています。

 

 しかも、「開運法は打ち出の小槌ではない」「先ずは元を蓄える事が必須」などと、否定的な事を懇々と述べているんです。

 

 これは、売れる本の書き方としては、最悪です(笑)

 

 売れる本にする為には、通常、本の冒頭である第1章に、ものすごくインパクトのある事を書いて、読者をひきつけるようにする… というのが鉄則です。

 

 笹木先生のような本の書き方にすると、方位学に興味を持っていて、題名を見て、書店の棚で本を手に取った人は、第一章を読んで、「ただ行けば、良い事が起こって幸せになる訳ではない」とか「進歩向上や徳を積む事こそが大事」という方位効果に対するマイナスの言葉に、気持ちをくじかれて、買う気をなくしてしまいかねません。

 

 とはいえ、これこそが、笹木先生の真摯で誠実な人柄を表しているのだと思います。

 だからこそ、信頼できるんですね。

 

 摩訶不思議な世界ですけど、天の法則に反しているのに運が開く… なんて、理不尽な事はありません。

 

 占いというものは、突き詰めていくと、哲学に通じるような気がするんです。

 摩訶不思議な開運法でさえも、その哲学の上に成り立っています。

 

 例えばですけど、人生をやりたい放題に生きてきて、人の気持ちも理解出来なくて、周りに迷惑をどれだけかけても平気でいられるような、適当に生きている人が、何かしらの占いの開運法を行ったからと言って、周囲の事にも気遣いながら、真面目に一生懸命努力している人を追い抜いて、運が開いてしまうなんて事はありえません。

 もし、そんな事があったなら、世の中は何が正しいのかわからなくなってしまいます。

 

 仮に一時的にそのような状態になったとしても、長続きはしないし、その後で、何かしらの反動が来ると思って良いでしょう。

 

 もちろん、こういった開運法は、時に人生の突破口にはなります。

 だからこそ、もしも占いの開運法で効果が得られたのなら、普通の人以上に善なる生き方を心掛ける必要があるし、誰も見ていない所でも、決して感謝を忘れる事のないようにする必要があります。

 

 そうすれば、その開運効果を持続させる事もできますし、それこそが、真の占いの開運法の目的です。

 

 四柱推命の研究者の中には、この四柱推命というものを、「科学」に分類しようとする方がいらっしゃいます。

 

 気持ちはわかるのですが、僕は、四柱推命を科学と結びつけるのは無理があると思うんです。

 もちろん、四柱推命を迷信だと思っている訳ではありません。

 

 というよりも、わざわざ四柱推命を科学というものに結びつけなくたって、いいと思うんです。

 どうせ、誰かから「疑似科学」だとか「エセ科学」だとか、突っ込まれるのがオチですから…

 

 僕はむしろ、この四柱推命には「哲学」という言葉の方がふさわしいと思う…

 

 笹木先生の最新のブログには、今週の3月16日(土)に開かれる「九星気学 入門セミナー」のご案内と共に、僕が描いた稚拙な「運命の絵柄」までもが掲載して頂いているのですが、笹木先生もきっと、この意見には賛同してくださっているのではないかと思います。

 

 運命の調律師~十干十二支氣学~ 別名、四柱推命方位学とは?

 人の運命と吉方位は一幅の絵画を見るように、あるがままにありのままに観て鑑定する

 

 四柱推命だけではなく、真の占いというのは全て、哲学に通じているように思うんです。

 

 それは、一切の矛盾が存在していない世界…

 

 その魅力に取りつかれてしまうと、楽しくて楽しくて、僕もいつしか時をたつのも忘れて、この魅惑的な世界に没頭してしまいます。

 

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人は交わる事でいくらでも変化する19.02.28

2019年2月28日(木)

 

 気がつけば、2月も今日で終わり…

 本当に、早いものです。

 

 日常の雑事に時間を追われて、もたもたしていたら、またしてもブログの間隔があいてしまいました。

 

 よく、人間の運命とか、人間の生まれながらの性質というのは、絶対に変わらない、などと言います。

 仮にそこまでは言わなくても、そういったものを変えるのは、並大抵の努力ではない… と言います。

 

 確かに…

 

 人の運命がそんなに簡単に変わってしまったら、運命学なんて存在しない事になってしまいますし、「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、生まれながらの性格だって、やっぱり根本的に死ぬまで変わらないのかも知れません。

 

 もちろんそれでも、死ぬほどの努力をしたら、もしかしたら多少変わる事もあるかも知れませんけど、間違っても、そういったものは簡単には変わる事はない… これが常識です。

 

 例えば、人づきあいが苦手で、人間関係に苦慮淡々としている人もいれば、人が大好きで、誰とでもうまく打ち解けるようなタイプもいます。

 

 こういった生まれながらの性質が、簡単に変化してしまうとか、そういう悩みを抱える運命傾向が、たやすく変わってしまうとか言われても、まるで夢物語です。

 

 ところが、こういうものが、本当に大した努力もなしに、簡単に変わってしまうとしたら…

 

 そんな事を大真面目に話そうものなら、「それって、危ない宗教の勧誘じゃないですか…」って言われそうです(笑)

 

 でも、実は一つだけ方法があるんですよ。

 もちろん、宗教なんて全く関係なく…

 

 それは、自分の一部を、他の人のものと入れ替えてしまうという方法です。

 

 一番オーソドックスな方法で言えば、輸血とか臓器移植です。

 もちろん、性格や運命を変えたくて、そんな事をする人はいないでしょうし、それ自体できない相談ですけど…

 

 だからこそ、そういう治療は、適合しなかった時には、常に死と隣り合わせになるリスクがありますし、特に臓器移植なんかに関しては、倫理的な是非も取りあげられています。

 

 7年前のパリブログにも何度か書いたのですけど、実際に臓器移植や輸血によって、我々の一般的な常識ではにわかに信じられないような形で、その人の性格が変化したりとか、ドナーの人の体験や記憶が、提供された人に移ってしまったりという事が起こったりしています。

 (2013/3/12パリブログ 「レバーの話」 参照)

 (2013/3/13パリブログ 「世の中には不思議な事がいっぱいある…」 参照)

 

 性格が変わるのはわかるとして、さすがに臓器移植で運命が変わるというと、ちょっと奇異な感じがするかも知れませんが、運命というのは、その人の持っている性格… より正確には、その人の持つ波長のようなものが引き寄せますから、性格が変われば、運命だって変わる事になります。

 

 例えば、女性はお腹の中に子供を宿すと、食べ物の好みや日々の感情が変化すると言います。

 そして、その時の食べ物の好みや感情こそが、生まれてくる子供の食べ物の好みだったり、性質だったりします。

 きっと、経験のある女性も、いらっしゃるのではないかと思うのですが…

 

 当然ながら、自分の運命を変える為に、臓器移植や輸血をするなんて、絶対に無理ですけど、そこまでの急激な変化は期待できなくても、確実に性格や運命に影響を及ぼすのが、体のスキンシップです。

 

 よく「夫婦になるとお互いが似てくる」と言いますが、あれは決して、常日頃から一緒に居て、相手の行動を見ているせいで、似てくる訳ではありません。

 多少はそういうのでも影響を受ける事はあっても、やっぱり一番大きいのは、スキンシップによって、お互いの気が循環するからに他なりません。

 

 夫婦になると、お互いの運勢は、足して2で割ったようになるとも、言われます。

 だからこそ結婚生活は、お互いがお互いを認められなくなってしまうと、破綻する事になります。

 

 あまりにも、お互いの波長が違ってきてしまうと、もう運命がつながる事さえもできなくなってしまうという訳です。

 

 そう考えると、世の中には、異性が星の数だけいると言っても、本当の意味で縁がある異性というのは、そんなに多くは存在しないのかも知れません。

 

 だから、相手の事を良く知らないままに、体の関係を持つという事は、運勢的に言えば、ある意味、あまりに無防備であると言わざるをえません。

 交わる相手によって、自分の波長が変化してしまいますから、ある程度、自分にしかできない役割を持ったりするようになったなら特に、交わる相手は、慎重に選ぶ必要があります。

 

 体の関係というのは、お互いの性格や運命にそれなりの大きな影響を与えますが、握手をするとか、ちょっと肩に触れたりするようなスキンシップなんかでも、わずかとはいえ、気は循環します。

 

 極端な話、お風呂屋さんのような循環式(かけ流しではない)のお湯に、複数の人が浸かれば、お湯を通して気が循環します。

 もちろん、それに神経質になる必要はありませんが…

 

 人間の体というのは、水で出来ていますから、そういった些細な事でも、それぞれのエネルギーが混じり合っていきます。

 

 西洋医学などに、多く見られがちな思想の一つですが、自分という存在やアイデンティティーは、全部脳の中に存在していて、そこに自分の全てがある、というような考え方があります。

 心などというものは、そもそも存在しなくて、人の思考とは、単なる脳細胞の信号の送受信に過ぎないというような…

 

 その延長線上で考えると、脳死の状態イコール死んでいるのと同じという事になり、もう、その人の臓器は摘出しても構わないという結論にたどり着きます。

 

 そもそも、こういう発想は、自分という存在と他人という存在を完全に分離して、おのおのを個というもので、セパレートする所から始まっています。

 

 ところが実際の所はどうかというと、決してそんな事はありません。

 

 人の心は、脳細胞の信号の送受信なんかではありませんし、そういったものは、我々の体全体に巡っています。

 さらに、人と人とが交われば、お互いに確実に影響を受けます。

 

 逆に、脳細胞の信号こそが、自分の心の動きが、三次元の物質に反映された結果だと考えるべきでしょう。

 

 だから、厳密に言えば、自分の心と他人の心との境でさえも、絶対ではないし、自分というものを、「これが自分なんだ」みたいな思い込みの枠でくくってしまう事は、本来の自分の可能性をせばめてしまう事にもなります。

 

 我々は普通、自分自身の肉体の事を、「自分」という存在だと思い込んでいます。

 前にも書きましたが、この自分の肉体でさえも、完全に自分の所有物だと認識するのは、正しいとは言えません。

 あくまでも、この体は、この人生を歩んで行く為に、受け継いだ「器」であって、借り物だと考えるべきでしょう。

 (2012/4/22パリブログ 「パリに行って変わった事」 参照)

 

 また、自分の事を、この百年あまりの肉体だけに限定して認識するのも、早計です。

 

 僕らはみな、何憶万年も続いている宇宙でもあり、46億年以上動いている地球の意思でもあり、さらに、それらは常に交わり合っています。

 

 人は交わる事でいくらでも変化する…

 

 この地上にある、素晴らしいと思えるものともっともっと交わって、自分の運命も、この世界の運命も、どんどん良く変わっていったなら、とっても素敵な事だと思います。

 

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目の前の相手は敵ではなく、本当に敵は自分の心にいる19.02.18

2019年2月18日(月)

 

 一年で一番冷え込む2月という月も、もう半分が終わり、まだまだ寒いとはいうものの、確実に春が近づきつつあります。

 

 先日は、東京でも雪が降りました。

 僕は寒いのが苦手なので、エアコンとガスファンヒーターをフル稼働させながら、この冬をしのいでいます。

 

 よく、「男は外に出れば、7人の敵がいる」などと言います。

 

 これは、古い時代のことわざなので、男に限定されていますけど、今や、女性も社会で活躍する時代ですから、女の人にも7人の敵は、当てはまるかも知れません。

 

 どうして7人なのかは、謎ですが、要は、表に出たらたくさん敵がいますよ… という意味だと思います。

 

 アスリートなんかでも、ライバルを打ち負かすだけの強い精神力と、勝利への執着が、勝負を決めるなどと言います。

 だからある意味、勝負に負けても「悔しい」と思えない人は、アスリートには向いていない… という事になるのも、わかる気がします。

 

 これは、この現実社会で力強く生きていく上でも、そうかも知れません。

 

 もちろん、そういう生き方が向いていない人だって、中にはいると思うし、それなら、そういう自分の良さを活かせる職業やポジションについて、自分に合った生き方をすればいいだけの話です。

 

 ただ、そうやって考えると、「悔しい」という感情は、決して悪いものとも限らないように思えてきます。

 例えそれが、人に対する嫉妬や、ひがみから来ているものであったとしても…

 

 そういう気持ちに支配されている人というのは、周りから見ると、すごく大人げない態度を取っていたり、いつも周囲の和をぶち壊す身勝手な人だったりします。

 

 確かに、それは、立派な態度とは言えませんけれど、若い内であるならば、その刺々(とげとげ)しさは、ある意味その人の可能性でもあると思います。

 

 僕の10代と20代の時は、恥ずかしい話、毎日がそんな感じでした。

 

 でも、そんな風に生きていると、外は敵だらけになりますね。

 とても、7人の敵どころではありません。

 

 それまで、味方についてくれた人であっても、ふとした瞬間に嫉妬心が湧いたら、にらみつけるような態度をするから、みんな離れていきます。

 

 そんな事をやっていると、みんな怖がって誰も近づいてこなくなりますから、当然、友達は誰もいなくなります。

 当たり前の話、素敵な恋人ができて、関係が長続きするという事もありません。

 

 う~ん、遠い過去を振り返ると、恥ずかしいやら、謝りたいやら、もういっそのこと、死んでしまいたくなりますね(笑)

 

 この頃の僕は、世の中に存在する人間のそのほとんどは、自分の事を邪魔をする敵だと思い込んでいました。

 

 実際、冷静に考えてみると、何一つ邪魔なんてされていないんですけど、この頃の僕には、かたわらで成功していくライバルさえ(この頃の僕はミュージシャンを目指していたので、メジャーデビューしてテレビに出演した人とか…)も、自分の事を不愉快にさせて苦しめるという敵だったんです。

 (だから、あの頃はテレビも見なかった)

 

 振り返ると、なんという勘違いをしていたのだろうと、いたたまれない気持ちになります。

 その嫉妬に狂った原動力のお陰で、ここまで来られたのも、また事実でもあるのですが、一つ間違ったら、嫉妬と劣等感で自殺していた可能性もあったし、まるで紙一重で、本当に危なっかしかったです。

 

 今になって、わかったのは、本当の敵というのは実は全部、自分の心の中にあったのだという事…

 

 ここまで来るのに、本当に時間が掛かりました。

 

 この頃は、いつも自分の周りにいる人達を敵だと思い込んで、周りの人を傷つけてしまったし、取り返しがつかないほどに、たくさんの人に申し訳ない事をしてしまいました。

 

 でも、実は本当の敵というのは、ずっと自分の心の中にいて、それは、人を見下して怠ける心だったり、高慢で思い上がる心だったり、逆に憶病になって怯える心だったりする…

 

 そういう自分の弱い心が幻を作って、目の前の人に、自分の嫌な部分を投影して映し出しています。

 ユング心理学では、よくこういうのを「シャドー」と呼んでたりするんですけど…

 

 こういう心の中の敵を全部倒すと、これまでずっと敵だと思っていた目の前の人は、敵なんかではなくて、本当に大切にすべき同士だという事に、気づけたりします。

 

 もちろん、世の中には、本当に悪い人間というのもいる訳ですが、心の中にいる敵が全ていなくなると、不思議な事に、そういう相手に対しても、大して憎しみがわいてこなくなります。

 

 その時には、ただ淡々と、どうやったら、その人間に出し抜かれないようにするか… とか、どうやったら、周りの大切な人が、その人間の毒牙に合わなくできるか… という方策を、クールに考えている自分がいます。

 そして、こういう時は、この手の相手に、してやられる事は、ほとんどありません。

 

 だから、相手が悪い人間であっても、あまりに感情的にその人間に腹を立ててしまうという事は、何かしら、まだ、自分の心の中に、克服しなければならないものがあるというシグナルでもある気がするんです。

 

 ここでまた、僕の十八番の徳川家康の話を書きますと…

 

 よく、家康は、織田信長や豊臣秀吉と比較されて、「凡人なのに、運だけが良くて、天下を掌握した人」みたいに言われる事があります。

 僕は家康びいきなので、前はいつも、こういう評価に腹を立てていたのですけど(笑)

 (2012/7/30パリブログ 「堪忍を全うした偉人」 参照)

 

 でも、今になって、この三英傑(信長・秀吉・家康の事)の評価は、確かに言い得ているな… と思うようになりました。

 

 例えば、織田信長という人は、発想力とか時代の先見の明という意味では、本当に優れた人でした。

 人に対してあまりに残虐で冷酷非情なので、ついついそちらに目が行ってしまいますけど、この人の頭の良さは、ずば抜けています。

 やっぱり家康なんて、この人の足元にも及ばないですね。

 

 冷静に考えれば、信長という偉大な開拓者がいなかったら、家康は天下を取れていなかったと思います。

 

 豊臣秀吉という人のは、信長とは別の意味で、すごい人です。

 信長のような斬新さはないものの、類いまれな頭脳を使って、不可能と思われる事を、見事に可能にしてしまうし、敵さえも味方に引き入れて、いつも、あまり人を殺す事なく、戦さを終わらせてしまいます。

 

 秀吉という人は、人の懐に飛び込んでいって、あっという間に、相手の心をとりこにしてしまう達人と言っても良いでしょう。

 だからこそ、一時的に戦乱の世を終結させて、天下を取るという快挙を、成し遂げる事ができたのだと思います。

 (2012/7/29パリブログ 「気配りの優しい英雄」 参照)

 

 とても、家康が叶う相手ではありません。

 家康という人は臆病者で、よほどに心を許した家臣でなければ、猜疑心が振り払えないし、秀吉のように、相手の懐に飛び込んでいくなんて度胸は、かけらもありません。

 秀吉の行動は、並外れて素早いですから、ただでさえ腰の重い家康が、秀吉に追いつくのは、至難の業です。

 

 その差が端的に表れているのが、秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の役」で、あの戦いそのものは、常に家康が有利に展開してきたのですが、その後、秀吉は、家康の周りの人間をどんどん味方に引き込み、あげくは家康のすぐそばにいた石川数正までもが、秀吉方に寝返ってしまいました。

 (石川数正は、家康のスパイとして、あえて秀吉傘下に加わったという説もあります)

 

 確かに、この論理で行けば、「秀吉=才人 家康=凡人」と評価されても、仕方ないと思います。

 事実、秀吉が先に死ぬ事がなかったら、やっぱり家康は天下を取れなかったでしょうし…

 

 じゃあ、なんで徳川家康という人が、最後に天下を取れたかと言えば、僕は決して、ただ運が良かっただけではなかったと思う…

 

 この人の本当のすごみは、自分の内面性を徹底的に錬磨して突き詰めて、自分の血肉にした所にあるように思うんです。

 

 家康は、本当の敵は、目の前にいる競争相手やライバルなんかではなく、自分の心の中にいるという事に気づいた人でした。

 そして、常に自分に対して厳しく、謙虚であり続けました。

 

 それを端的に表している家康の遺訓に「我が天下を治められたのは、武田信玄と石田治部少輔(石田三成の事)の二人のお陰である」という訓戒があります。

 

 武田信玄も石田三成も、家康の前に立ちはだかった憎き敵のはずなのに、家康は逆に、この人達に感謝しているんですね。

 (2012/9/2パリブログ 「強力なライバルは自分を強くする」 参照)

 

 普通の人は、中々こんな風に考える事はできません。

 こういう所が、家康の真骨頂だと思うし、信長や秀吉には、決して真似のできない部分です。

 

 目の前の相手は敵ではなく、本当に敵は自分の心にいる…

 

 よく、自分の限界を超えたアスリートの人も、このような事を口にしたりします。

 

 そして、その事に気づいた時、この人生の本質のようなものが垣間見えたりするし、人生というのは常に、この心の中の敵と永遠に戦い続けていく道なのかも知れないと、改めて気づかされたりもします。

 

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消えゆくものと永遠のもの19.02.11

2019年2月11日(祝)

 

 無事に立春と旧正月(春節)を迎え、干支も己亥になって、一週間が過ぎようとしています。

 今日は「建国記念の日」なんですね…

 

 学校に通っている時は、絶対にそんな事はなかったのですが、あんまり祝日に予定を左右されない仕事をしていると、祝日の認識が希薄になってきますね。

 そういえば、学校を卒業して以来、僕はきっちりと、土日祝日はお休みという職場には、一度もお勤めした事がありません。

       まったく、あきれるくらい風変わりな人生です(^^;;

 

 去年、白山比咩神社に参拝してからというもの、本当に驚くくらいに、人とのご縁が変わっていくのを感じています。

 

 そして、ここ最近、これまでになく、この「人との縁」というものの大切さを感じるようになりました。

 

 人とのご縁によって、この世の全ての恩恵を運ばれてくれる。

 だからこそ、人とのご縁は大切にしなければならない…

 

 今まで僕は、こんな風に考えていたのですが、最近になって、少しだけ変わりました。

 

 まあ、この考え方自体は、間違ってはいないと思うんですけど、でも、うがった見方をすると、「自分が恩恵を受けたい」というのが一番大切で、その為に「人とのご縁」を利用したい… という風にも取れます。

 

 とはいえ、それでもいいと思います。

 

 例え、それが本当の理由でも、みんなが「人との縁」を大切にするようになれば、お互いに幸せが波及していく訳ですし、「自分が恩恵を受けたい」というのは、自然な事で、決して恥ずかしい事でもありません。

 

 人の縁の大切さに気づく事ができないで、人を粗末にしたり、人を傷つけても平気で、結果的に自分も不幸になっていく… というのが、一番問題だと思うんですね。

 

 ただ、やっとこの年になって、少し考え方が変わったんです。

 

 我々はたくさんの恩恵を受ける事によって、幸せを感じながら、この世界で生きているのですけど、もしかしたら、それ以上に大切な何かがあるのかも知れないと…

 

 「恩恵」と一言で言っても、お金とか、社会的地位とか、住まいとか、理想の恋人とか… 様々な形の恩恵があります。

 

 例えば、お金という恩恵がなければ、日々の生活に汲々とせざるをえなくなるから、それに時間を取られて、自分の未来の可能性は制限されてしまいます。

 

 「貧すれば鈍する」という言葉がありますが、余程の人でない限り、本当にその言葉の通りになってしまうのも事実です。

 

 そういった意味で言えば、確かに、この世の中で人を幸せにしてくれる一番のものは「お金」という事にもなるでしょう。

 僕も、お金自体を悪いものだとは思っていません。

 

 ただ、お金だけで、人は本当に幸せになれるか… と言ったら、決してそんな事はない気がするのですね。

 間違った扱いをすれば、お金というのは、人を利己主義に陥れて不幸にしてしまう事もあるし、そういった意味では「両刃の剣」だと思います。

 

 衣食住を満たす為には、絶対的にお金は必要です。

 また、お金は良い使い方をすれば、人をうんと幸せにする事もできます。もしかしたら、これがお金の価値の真骨頂なのかも知れません。

 

 でも、「お金があれば、人を自分の意のままに動かす事もできるし、好きな異性の心さえを買えてしまう…」という考えは、おそらく幻想だと思います。

 

 確かに、お金を渡された相手は、一見、自分の言いなりに動いてくれるように見えるし、中にはそれだけで、自分の恋人になってくれるような異性もいるかも知れません。

 

 でも、本当の意味で、相手の心をお金で買う事なんて、できないでしょう。

 目の前の相手は、ただお金が欲しいという理由だけで、その人に服従しているに過ぎません。

 その事にふと、自分で気づいてしまうと、どんなにお金を持っていたとしても、とてつもなく寂しくなってしまうと思うんですね。

 

 その先には、孤独しかないから…

 

 それに、究極の事を言えば、お金なんて、死んであの世に旅立つ時には、持っていく事ができません。

 中にはもしかして、あり余るお金で立派な墓を建てて、さらには、ちゃんと永代供養も頼んで、死んだ後も未来永劫幸せになるんだ… という人がいるかも知れませんけど、そんなに都合良くはいかないと思うんですね。

 

 人は死んだら、おそらくは、その人の心のままの世界に行くのだと思う。

 心が冷たい人は、冷たい世界に行くと思うし、心が温かい人は、きっと温かい幸せな世界に行くと思うし…

 

 最近の僕は、年のせいか(笑)、いつしか自分があの世に行く時にも、ずっと持っていけるようなものが欲しいなあ… と考えるようになったんです。

 

 それで、あの世に持ち帰る事ができる究極の宝物って何だろう… と色々思い浮かべた時、「人との縁」というものに勝るものはないかなあ… という結論に至りました。

 

 もちろん、死ぬ時には、この世で縁が結ばれた人ともお別れしなければなりませんが、その人との素敵な思い出や記憶は、あの世の世界にも持っていけるだろうし、例え自分の肉体がなくなっても、縁のある人の心の中に、永遠に生き続ける事ができる…

 

 最近の僕が「人の縁を大切にしたい」と思う理由は、その縁によって自分が得をしたいというよりも、もっとシンプルに、良い縁で結ばれた人と共有する時間こそが、この人生で、何よりも宝物ではないかと思うようになったからです。

 

 その人がそばにいてくれる事で、お互いが心の温もりを共有し合えるとか、切磋琢磨して、お互いが高めあっていける喜びを感じられるとか… いろいろなパターンはありますけど、そういう人の縁こそが、もしかしたら人生で一番のかけがえのないものなのかも知れません。

 

 もちろん、そんな風に思える人との縁というのは、そう滅多にはないでしょう。

 だからこそ、一つ一つの縁を大切にしつつ、その縁を育てていかなければならないのだとも思う…

 

 そうは言っても、もちろん縁には、良い縁というものもあれば、悪い縁というのもあります。

 

 自分自身の心が磨かれていけば、自分が引き寄せる人の縁を、全体的に良いものに変えていく事はできるとは思いますが、それでも、悪い縁を完全に消し去る事は不可能です。

 

 この世の中には、自分の事しか考えていない傍若無人な人間もたくさんいますし、どんなに人の縁を気をつけていても、玄関先にいきなり、悪徳商法で人を陥れようとする詐欺師が訪ねてくる事だって、あるかも知れません。

 

 こういう相手との縁まで、全部良い縁にしよういうのは、いくらなんでも無理があります。

 

 とはいえ、例えそんな縁の相手であっても、なるべく憎まずにいられたら良いと思う…

 

 そんな時に僕は、良寛さんのある逸話を思い出すんです。

 

 良寛とは、言わずと知れた、江戸時代後期の名僧と讃えられた傑人…

 これは、良寛を師と仰ぐ解良栄重(げら よししげ)が著した「良寛禅師奇話」という書物に載っているお話です。

 

 ある時、良寛が、解良家に泊まっていた時の事…

 

 智海という僧が、ひどく酒に酔って、解良家を訪ねてきました。

 この智海という僧は、驕慢で自惚れが強く、周りの僧を見下すような態度を取っていた人物らしいのですが、そこにたまたま居合わせていた良寛を見るなり、妬みと怒りが高ぶって、物も言わず、いきなり良寛に殴りかかったんです。

 

 周囲の者は驚いて、慌ててそれをおさえると、智海はそのまま外に出ていってしまいました。

 

 しばらくすると、ポツポツと雨が降ってきました。

 

 その降り出した雨を見て、良寛は「あの僧は、雨具を持っているのだろうか(原文:前の僧は雨具を持ちしや)」と、自分に殴りかかった僧の事を、心配したと言います。

 

 この話は、何度聞いても、ほっこりとさせられます。

 

 良寛ほどの人物ともなれば、この僧の心理状態がどんなものか、自ずと感じ取ってしまう事もできるのでしょうが、それにしても、自分に殴りかかってきた相手なのに、外でずぶ濡れになっていないかという事を心配する良寛という人の心の広さと凄みを感じさせるエピソードです。

 

 まあ、良寛の場合、自分の家に泥棒が入られた時にも、何も盗むものがない事を不憫に思って、寝返りを打ったふりをして、自分の布団を盗みやすくしてやった… という逸話があったりしますから、ちょっと度を超えていますけど(笑)

 

 少し話がそれましたが、人の縁という事に話を戻すと、やっぱり人生には、良い縁というものもあれば、悪い縁というのもあると思うんです。

 

 悪い縁の相手と接している時、多くの時間は、憎しみや不快感が伴うものです。

 

 よく、そういう相手に対しては、温情を掛けるのは絶対に禁物で、こちらも非情に接するべきだ… などと言います。

 

 あの老子も「天は仁ならず」と言っていますし、6年前にも、僕はこれと同じような事を悩んだ事があります。

 (2013/1/14パリブログ 「例え天が冷たくても…」 参照)

 

 確かに、現実的にはその通りだと思います。

 下手にこういう相手に温情を掛ければ、相手がつけあがって、こちらがいいように利用されてしまいますから…

 

 でも、心の部分に関しては、やはり良寛さんのように、そんな相手の事でも、慈しむ事ができる自分でいたいなあと思う。

 

 確かに、老子の「天は仁ならず」というのは、正しいと思います。

 天とか、神様というのは、この世の全てのものを包括していて、人間の感情を超えた部分で動いていますから、普通の人間から見たら冷たく見えるんです。

 

 でも、人間がこれを真似して「相手がどうなろうと知ったこっちゃない…」とやるのは、ちょっと違うし、そういう気持ちになってしまっている時点で、すでに、その相手の悪い波長に影響されてしまっているとも言えます。

 

 一番理想なのは、心の部分では、相手の心情を理解して慈しみながら、現実的な対応は、非情に徹するという所でしょうか。

 (でないと、相手を甘やかして、つけあがらせてしまいますから…)

 

 僕は、こんな風に偉そうに語っていますけど、まだまだ人間ができていませんから、やっぱり良寛さんのように、うまくはいきません。

 

 未だに、こういう場面になったら、感情的になってしまう所がありますね。

 いつしか、憎しみに支配されていたりします。

 

 そして、憎しみに振り回されている自分の事が、本当に嫌いになってしまいます。

 

 だからもっと心を錬磨して、素敵な自分になって、ちゃんと自分を好きでいられるように、精進したいと思います。

 

 この世で蓄えたお金も、地位も、名誉も、いつ消えてしまうかわからないし、少なくとも死を迎えた時には、全部なくなってしまうけれど、人との縁や素敵な思い出、この世で培った強い心は、ずっと永遠のものだと思うから…

 

 そういうものを大切にして、いつしかあの世に行く時は、素敵なおみやげをたくさん持って、笑顔のまま旅立てたらなあ… と思っています。

 

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