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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<19>紅色の鳥居と茜色の夕陽20.08.03

2020年8月3日(月)

 

 今年は、いつになく梅雨明けが遅くて、関東では、8月に入ってから、やっと梅雨明けが宣言されました。

 それにしても、今日の東京は久しぶりに暑かったです。

 

 暑いのは大変ですけど、やっぱり、夏はこうでなくっちゃ… って、思いますね(笑)

   夏、大好きです…

 

 先月末は、ずっと大阪で四柱推命講座をやっていて、ようやく、東京に戻ってきたのですが、東京では、信じられない勢いで、コロナの感染者数が増えているようです。

 これでは、もうしばらく、自由に出掛けられそうにありませんね(^^;;

 

 一年前の2019年という年は、本当に旅行三昧の年だったのですが、今は、去年の内に思う存分、行きたい所に行っておいて良かったと、思っています。

 

 その分、今年は自宅にこもって、お仕事をしっかり頑張ります!!

 

 さてさて、という事で、山口の旅はまだまだ続きます。

 

 山口での旅のプランは、全部、五気調整術協会の理事である、水木杏香先生が考えてくださっていて、僕は観光の間、次にどこに行くか、全く知らないまま行動していました。

 

 もちろん、旅のプランを教えてもらう事はできましたが、仮に、水木先生から、次に行く場所の地名や名称を聞いても、それがどういう場所なのかを、知るすべもありませんから、完全に全てをお任せしていました。

 

 

 車は、山陰本線沿いの191号線を、ひたすら西へと走り、この豊原トンネルの中へ入っていきます。

 次は一体、どんな所へ行くのか…

 

 歴史の街・萩市から、いつの間にか、山口県西部にある長門市に入ってきています。

 

 ふと、車窓の外を見わたすと、そこには雄大な日本海がありました。

 

 

水木先生から、これから向かっている場所について、教えて頂きました。

 

 次に行くのは、元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)という神社で、昨今、インスタグラムでこの神社の写真が投稿されてからというもの、その絶景がまたたく間に人気となり、今では、山口県の代表的な観光スポットとなっている場所との事…

 

 つまり、「インスタ映えする最強のスポット」という訳ですね。

   そう言えば、最近、全くインスタ更新していない…

 

 

 松陰神社から元乃隅神社までを地図にすると、上のような感じです。

 

 豊原トンネルをくぐり、日本海に面した山口県の国道を、車は西に向かって、進んで行きます。

 

 おおよそ40kmぐらい、西へ向かった所にある、その場所は、それはそれは、本当に見事な景色でした。

 

 

 鮮やかな紅い鳥居が、海の方まで、見事に連なっています!!

 

 昔、雑誌か何かで、この鳥居の光景の写真を見た記憶が、かすかにあるのですが、写真で見るのと実際に見るのとでは、大違いです。

 思わず、「おおお~っ」と声が出てしまいそうなくらいに、感動しました。

 

 この鳥居の数は、全部で123基も、あるんです。

 今から三十三年ほど前である1987年あたりから、次々に地元の人々から鳥居が奉納されて、このような形になってしまったとの事…

 

 紅い鳥居と、青い日本海、そして、緑の自然の樹々が見事に調和して、最高のコントラストを作り上げています。

 一度見たら二度と忘れる事のできない、美しい景色です。

 

 この場所に連れて来てくださった、水木先生に感謝です。

 

 早速、車から降りて、大鳥居の所まで歩いて行きました。

 

 水木先生から、大鳥居の所に、元乃隅神社のお賽銭箱があると、お聞きしたのですが…

 一体どこにあるのか、さっぱり分かりません。

 

 

 水木先生が指し示す、鳥居の上を見上げてみると…

 

 とんでもない場所に、賽銭箱がありました!!

 

 これが「日本一入れづらい」と言われている賽銭箱…

 

 下から、お賽銭を賽銭箱を目がけて放り投げ、見事に中に入れば、願い事は叶うという事で、皆さん、次々にお賽銭箱目がけて、何度も何度もトライしていました。

 

 僕も3回ぐらいトライしましたが、あきらめました(笑)

   こんなの、無理です…

 

 

 上に登った所にある神社のお社…

 もちろん、これは本殿ではなく、お社の一つに過ぎません。

 

 それにしても、普通の神社のお稲荷さんの像は、もっといかめしいお姿をしている事が多いのですが、この元乃隅神社のお稲荷さんの石像は、ちょっぴり漫画チックで、可愛らしいです。

 

 この後、一番上まで登った所にある、元乃隅神社の本殿に行って、しっかり参拝させて頂きました。

 

 本殿の鳥居の奥には、おそらく創建当初からあったであろう、簡素な祠(ほこら)が祭られており、何となくこちらに、お稲荷様の御神体が祭られているように感じました。

 

 これまで何度かブログに書いていますが、僕は、神社で個人的なお願い事はしません。

 それをやると、せっかくの清々しい気持ちが、台無しになってしまうから…

 

 この日は、この素敵な旅をさせて頂いている事への感謝の気持ちを、元乃隅神社の神様にお伝えしました(^^)

 

 

 元乃隅神社の本殿に参拝した後、そこから下に連なっている、100m以上もある紅い鳥居を、見下ろしてみました。

 そこには、異次元の入り口のような雰囲気が、漂っていました。

 

 最初は、一枚のインスタグラムの投稿から火がついて、またたく間に世界中の評判となり、2015年アメリカのCNNテレビで放送された「日本の最も美しい場所31選」にも、この鳥居の景色が、選ばれたとの事…

 

 そして、「死ぬまでに行きたい! 世界の絶景 日本編」にも、日本が誇るの絶景の代表として、元乃隅神社が取り上げられています。

 

 ちなみに、この神社が創建されたのは、昭和30年ですから、つい最近なんですね。

 

 事の発端は、この辺りで漁業を営んでいた網元(あみもと)の岡村斉(おかむら ひとし)さんの枕元に、一匹の白狐(びゃっこ)が、現れた事でした。

 白狐は「これまで漁をしてこられたのは、誰のおかげか」と自分の存在を示し、さらに、過去からの関わりを、事細かに示して、「われをこの地に鎮祭(ちんさい)せよ」と告げたそうです。

 

 岡村さんは、島根県津和野にある日本五大稲荷の一つ・太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)に行って、ご祭神の分霊を祈願し、この地に、元乃隅神社を建立するに至りました。

 もちろん、この元乃隅神社は、岡村さんが建立した個人の所有物であって、太皷谷稲成神社の法人との直接的な関係は、ありません。

 

 当初この神社は、「元乃隅稲成神社(もとのすみいなりじんじゃ)」という名称だったのですが、2019年… つまり今回の旅行に行ったこの年、「元乃隅神社」と改称されました。

 

 建立当初は、本当に簡素なお社だけがあったのですが、やがて、地域の人々からの信仰を集め、次々に123基もの鳥居が寄贈される事になって、現在に至ります。

 

 

 連なっている、紅い鳥居の中をくぐっていくと、何かまるで、別世界にいざなわれていくような、気分になりました。

 

 今から65年前、一人の漁師の枕元に白狐がやってきて、事細かなメッセージを伝えたというのは、まぎれもない真実なのか、それとも、ただの幻想なのかは、さておいて、結果的に、今この場所に、ものすごいものができ上っていて、世界中の国々から、たくさんの人が、この場所に集まってくる…

 

 そんな事を考えると、何だか不思議な気分になります。

 

 この世的には説明できませんが、目に見えない強力なエネルギーが、何らかの形でこの場所に作用した結果のように、思えてなりません。

 

 「我々が縛られている、この時間軸を外せば、全ての出来事は必然なのかも知れない…」

 

 この紅く連なった鳥居をくぐっていると、そんな言葉が、脳裏に浮かんできました。

 

 だったら、その必然に、身を任せてみるのもいいか…

 

 

 123基の鳥居をすべて通り抜けて、下にたどり着くと、そこには青い日本海が広がっていました。

 

 11月半ばだというのに、この日は暖かくて、風が気持ちいいです。

 

 腕時計の時計を見ると、いつの間にか、夕方の4時になっていました。

 

 

 海岸の夕陽が、とても綺麗です。

 

 紅色(あかいろ)の鳥居も美しいけど、茜色(あかねいろ)の夕陽も、また格別なものがあります。

 

 元乃隅神社の下にある、海へと続く、けもの道は、切り立った崖になっていて、あまり端の方まで行くと危険です。

 

 僕は、かなりの高所恐怖症で、例えば、パリに行った時なんか、エッフェル塔はおろか、モンマルトルの小高い丘から、崖下の景色が少し見えただけでも、身震いして足がすくんでしまうくらいの、筋金入りの高所恐怖症でした。

(2012/3/21 ブログ 「パリの休日」 参照)

 

 足を踏み外す危険がないほどに、崖から離れていても、何ていうか… 自分が急に頭がおかしくなって、崖の方に歩いて行って、ここから飛び降りたらどうしよう… みたいな不安に駆られるんです(笑)

 もちろん、自殺願望なんて、全くないのですけど、そんな恐怖に駆られると、例え、崖から10m以上離れていても、やっぱり怖い…

 

 だから、ビルの屋上にあるビアガーデンなんかで、みんなで飲み会をした時なんかは、気持ちがソワソワして、あまり楽しめません(笑)

 

 ところが、どういう訳か、この日は崖が怖くないように感じました。

 理由はよくわかりませんが…

 

 そこで、わざと自分から崖に近づいて、足を踏み外すギリギリの所で、崖下の写真を撮ってみる事にしました。

 

 それが、この写真です。

 

 

 ちょっと写真だと、あんまり怖くなさそうに見えますが、本物はかなり切り立った崖なので、普通の人でも、この写真のアングルが取れる場所までは、中々近づけないのではないかと思います。

 現に、別に高所恐怖症でもない水木先生が、「見ているだけでも、ハラハラして怖い」とおっしゃっていましたから…

 

 ここから転落したら、間違いなく即死です。

 

 恐怖心が完全にゼロかというと、嘘になりますが、この時はどういう訳か、あまり怖く感じなかったんですね。

 

 格好つけて言うと、この時、自信をもって、自分の運命を信じる事ができたからだと思います。

 

 

 海辺まで行って、夕陽を見渡しました。

 

 茜色の夕陽と、その光を反射する紺色の海…

 全ての景色に呑み込まれてしまうような、心地良さでした。

 

 まるで、時間が止まったように、しばらくの間、そこに立ち尽くしていました。

 

 

 夕陽がどんどん、沈んでいきます。

 

 これで、今日の旅も終わりか…

 

 すっかり、自分の世界に入り込んでしまい、フリーズしていた僕を、水木先生は少し離れた場所から、見守っていてくれていました。

 

 この辺りには当然、街灯などありませんから、空が真っ暗になったら、帰れなくなってしまいます。

 

 ふと、我に返って、水木先生と車に急ぎました。

 

 いつしか、空は真っ暗になっていました。

 

 

 帰り道の車窓から、夜空を見ると、まん丸な満月が見えました。

 この日(2019年11月19日)は、ちょうど満月の日だったのですね。

 

 今頃、みどりん先生から、いつもの満月メールが、PCのメールボックスに届いているに違いない…

 

 そんな事を考えている内に、車は、どんどん南下して、山口県を南北に縦断し、僕の滞在先である新山口へと向かっていきました。

 

 本当に素敵な一日でした。

 

 お腹がすいたので、水木先生お勧めの山口県の有名ラーメンチェーン店「博多金龍」の山大通店に寄って、「味玉ラーメン」と「でか餃子」を注文しました。

 

 

 このラーメンの味は、まさに僕のストライクゾーンですね。

 餃子も、すごくおいしいです。

   村野大衡先生のブログで、紹介してほしいくらい美味しい…

 

 新山口の東横インの玄関の前まで、水木先生の車で送って頂き、そこで、水木先生とお別れしました。

 

 この日は、ホテルの部屋でシャワーを浴びて、すぐにベッドに入りました。

 

 水木先生のお話では、次の日の観光は、下関方面へ向かうとの事…

 

 楽しみで胸がドキドキして、この日は、中々眠つけませんでした。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<18>松下村塾の情景の中で20.07.22

2020年7月22日(水)

 

 7月も後半に突入して、梅雨明け前の蒸し暑い天気が続いています。

 

 ここ最近、ベネディーレで行う四柱推命講座「陰陽五行から見た、未来を良くするための四柱推命」の準備に、ずっと取り掛かっていたのですが、気がついたら、もう明後日が開催日…

 

 最初は、四柱推命を知らない人用に作っていたのですが、意外と受講生の方が多く申し込んで頂いている事を知り、急遽、実践鑑定のやり方などの内容も、講座に取り込む事にしました。

 

 という事で、今回の講座は「Zoomリアル配信受講」や「録画動画受講」も、ご用意しておりますので、皆さまのご参加、お待ち申し上げております(^^)

 

 さてさて、今日の西日本旅行記は、水木杏香先生から、山口で行ってみたい所を聞かれた時に、唯一、僕がリクエストした場所です。

 

 その場所とは、おそらく誰もがその名前は知っているであろう、ある名所…

 

 吉田松陰が29歳という、その短い生涯において、明治維新の原動力となった志士達を育て上げた場所である、松下村塾(しょうかそんじゅく)です。

 

 

 松下村塾は、高杉晋作の生誕地や、木戸孝允の旧宅がある、萩城の城下町から、ずっと東に行って、松本川を渡った所にあります。

 

 明治40年(1907年)、ここに吉田松陰をご祭神とした、松陰神社が建立されました。

 

 今では、松下村塾の辺り一帯が、この松陰神社の敷地となり、松下村塾は、その境内の中に含まれている形になっています。

 

 萩の城下町から、一旦、明倫館の駐車場に戻って、その後、水木先生の車で、松陰神社まで走りました。

 

 

 何とも、風情がある神社です。

 晩秋の日差しが、ポカポカと暖かくて、とても気持ち良いです。

 

 この石碑に彫られた「松陰神社」という字は、おそらく、吉田松陰の筆跡を参考にして、彫られたのではないかという気がしますね。

 

 まるで、維新前夜の幕末時代にタイムトリップしたような気持ちになりました。

 

 東京の世田谷にも、松陰神社があって、そこにもレプリカの松下村塾があるのですが、この萩の松下村塾は、正真正銘、実際の吉田松陰や高杉晋作や伊藤博文も通っていた、本物の松下村塾です。

 

 吉田松陰の一般的なイメージは、高潔で純真な志と、類いまれなる先見の明をもって、自ら松下村塾を立ち上げ、長州藩の維新の志士達を育てた生粋の指導者… という感じでしょうか。

 

 その思想は、江戸幕府の存続をも覆してしまうようなものであった為、危機感を感じた幕府の大老・井伊直弼により、安政の大獄にて捕らえられ、無実の罪で殺されてしまった、悲劇の思想家…

 

 驚くべき事に、吉田松陰の29年の生涯を追っていくと、このようなイメージとは、実際には、かなりかけ離れているという事に、気づかされます。

 

 もちろん、吉田松陰は相当な知識人であり「至誠(しせい)にして通じざるはなし」の精神で、まっすぐ純粋に生きてきた人である事だけは、確かですが…

 

 

 松下村塾は、神社の境内を入ってすぐの所に、ありました。

 

 よく、松下村塾というと、吉田松陰によって開かれた私塾… のように思われやすいのですが、実際には違います。

 

 この松下村塾を開いたのは、吉田松陰の叔父に当たる玉木文之進(たまき ぶんのしん)であり、最初は松陰も、その松下村塾の塾生だったのです。

 その当時の松下村塾は、この場所から400mほど東にある、玉木文之進の自宅の八畳一間の部屋でした。

 

 吉田松陰が、自分の実家である、杉家の敷地に作ったこの建物で、叔父の松下村塾の名を引き継いで、教鞭を取るようになったのは、そのずっと後の事で、その時、吉田松陰は、すでに27歳になっていました。

 

 松陰が安政の大獄で刑死するのは、29歳ですから、結局の所、吉田松陰が松下村塾で教えたのは、たった2年余りという事になります。

 

 

 ここが、松下村塾の入り口…

 早速、中に入ってみましょう。

 

 ちなみに、吉田松陰がこの松下村塾で教鞭を取るまでの間、一体、何をしていたかというと、それはそれは、波乱に満ちた歳月でした。

 

 元々、松陰は杉家の生まれであり、叔父の吉田大助の養子になる前は、杉寅之助と名乗っていました。

 

 松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家柄であり、松陰が5歳で養子に入るやいなや、その翌年、叔父の大助は亡くなってしまいます。

 その結果、松陰は6歳にして、山鹿流兵学師範・吉田家の家督を相続させらました。

 

 同じく松陰の叔父の玉木文之進によって、兵学師範にふさわしい人物となるようにと、厳しいスパルタ教育が、6歳の松陰に施されました。

 

 例えば、玉木文之進が兵法の講義をしている時、松陰の頬(ほほ)に蚊が止まって、払いのけようとすると、「学問の最中に、私心を優先するとは何事か」と言われて殴られる… というような、徹底ぶりでした。

 

 前に、明倫館の所のブログ(2020/6/9 ブログ 「萩・長州藩の学舎を訪ねて」 参照)で、すでに9歳の時には、藩校・明倫館で兵学師範をしていたと書きましたが、叔父の厳しいスパルタ教育によって、なるべくして、そうなったと言えます。

 

 その後、11歳の時に行った御前講義が非常に見事であった事から、長州藩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)から、目をかけられ、それ以降、敬親は、二年に1回は必ず、松陰の講義を受けました。

 

 毛利敬親は、「そうせい侯(部下にいつも「そうせい」とばっかり言っている暗君)」などと揶揄(やゆ)されたりもしますが、困窮していた長州藩を、実力のある者を抜擢して、幕末の雄藩(ゆうはん)にし、結果的に明治維新の原動力となった人材を、たくさん育て上げた人物です。

 吉田松陰も、その中の一人であると言えましょう。

 

 さて、吉田家の山鹿流兵学の師範をし、のちに、長沼流兵学をも身に着け、日本最強の兵学の双璧を収めた松陰でしたが、清国がアヘン戦争でイギリス軍に散々に打ち負かされたのを知ると、只ならぬ危機感を覚え、もはや、これまで学んできた中国兵学では役に立たないと、九州に赴(おもむ)いて、今度は、西洋の兵学を学ぼうとしました。

 

 その後、まずは、自分の見分を広げたいと、江戸に赴いて、当時、洋学の第一人者と言われていた、佐久間象山に師事しました。

 

 そして、度々ロシア船が、開国を求めてやってくるという東北地方の海岸沿いを、この国を守る為に、どうしたら良いかを考えながら、旅をしました。

 

 この時、一緒に東北に行くと約束した宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)との出発日の約束を守る為、長州藩の通行手形の発行を待たずに出発した事で、脱藩者扱いとなり、家禄を没収の上、浪人となってしまうのですが…

 

 

 この部屋こそが、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文や山縣有朋といった維新の志士達が育って行った場所です。

 

 床の間には、松陰の姿が描かれた掛け軸と、松陰の像があります。

 吉田松陰は、背は低く瘦せていて、あばた顔で鼻が高く、眼光がとても鋭かったそうです。

 

 松陰の教え方は、師が弟子に一方的に教えるのではなく、師と弟子がお互いに意見を交わしたり、勉学だけではなく、時には登山や水泳なども行うといった「生きた学問」だったと言われています。

 

 ピンと張りつめたような空気が、そこにありました。

 

 今でこそ、吉田松陰と言えば、明治維新を成し遂げた人材を育成した名伯楽(めいはくらく)といった扱いですが、当時、厳然と江戸幕府が存在するこの時代において、吉田松陰の考え方や取っている行動は、かなり異端なものでしたし、一歩間違えば、危ないテロリストと同等に扱われても、仕方なかったと思います。

 

 例えば、江戸幕府が朝廷に勅許を得ないで、勝手に日米修好通商条約を結んだ事に対して、非常に激怒し、江戸幕府の老中である間部詮勝(まなべ あきかつ)を待ち伏せて、条約の破棄をして、すぐさま外国船を打ち払うように迫り、それを受け入れなければ、その場で討ち取ろう… という計画を、弟子に提案したりしました。

 

 江戸幕府が勝手に、日本に不利な不平等条約をアメリカと結んだ不甲斐なさが、許せなかったのだと思います。

 

 あと、藩主の毛利敬親が京都で参勤交代する時に、その駕篭(かご)を止めて、毛利敬親を説得して、一緒に御所に上がり込み、天皇に謁見して、幕府の失政を糾弾(きゅうだん)するという計画も立てています。

 

 正直、かなり過激です(笑)

 

 というか、正直、周りが見えていない感がありますね。

 もしも、本当にこの策が実行されたら、争い嫌いの孝明天皇の怒りを買い、一発で長州藩は、朝敵になってしまったと思います。

 

 この師匠の考えに、松陰四天王の高杉晋作や久坂玄瑞、吉田稔麿(よしだ としまろ)などは、無謀だと言って、止めに入りました。

 

 さすがの桂小五郎も、これを聞いて、吉田松陰と距離を置くようになり、松陰の叔父である玉木文之進にひそかに会って、松陰を全ての門弟や友人と、絶交するようにしてほしいと、頼みこんでいました。

 当時の吉田松陰には、長州藩の血気盛んな若者を、暴走させかねない危うさがありましたから…

 

 吉田松陰という人は、長州藩の過激派以上に、過激な人なんです(笑)

 何と、ペリーが来航した時には、真面目にペリーの暗殺をも、計画していたほどです。

 

 もしも、本当にペリーが日本で殺されてしまったら、アメリカは間違いなく、日本に報復攻撃をしてくるでしょうから、日本はおそらく、アヘン戦争に負けた清国の二の舞になっていたと思います。

 

 この頃の日本人には、欧米列強の国力や軍事力が、日本のそれと、いかに大きな差の開きがあるかという事を、全くわかっていませんでした。

 それを本当に認識したのは、明治維新の後、政府の主要人物が参加した岩倉使節団以降の事です。

 

 だから、吉田松陰は、高潔で純真な志を持っていたのは確かですが、先見の明があったかどうかというと、はなはだ疑問の部分は残ります。

 

 それはさておき、吉田松陰は何を思ったのか、長州藩の上層部である周布政之助(すふ まさのすけ)にも、老中暗殺計画の事を書状を書いて、協力するように呼びかけます。

 

 仰天したのは、周布政之助です。

   津川雅彦さんが演じた周布政之助、格好よかった…

 

 周布政之助は、高杉晋作や桂小五郎とも非常に仲が良く、もちろん、れっきとした長州藩の正義派(尊王攘夷派)です。

 しかしながら、こんなとんでもない計画を放置する訳にも行かず、とりあえず吉田松陰を、士分の者を収容する上牢である野山獄に、幽閉する事にしました。

 

 これによって、吉田松陰による松下村塾は、わずか二年間で終わってしまいました…

 

 

 吉田松陰の松下村塾は、当初は、先ほどの八畳の部屋だけだったのですが、塾生がどんどん増えて、中に入りきらなくなり、新たに、この十畳半の部屋が増築されました。

 

 松下村塾の塾生名簿は、現存していませんが、合計で90名あまりの弟子がいたと、言われています。

 

 部屋の窓から、午後の日差しが入ってきていました。

 よく見ると、向こう側の壁に、松下村塾の出身者の肖像画が掛けられています。

 

 

 上段の5人と、中段の右側の2人は、僕も名前がわかるのですが、それ以外の方の写真は、さすがに誰だかわかりません(笑)

 

 ちなみに上段には、左から、松下村塾の双璧と言われた、久坂玄瑞に、高杉晋作、そして、吉田松陰、前原一誠(まえばら いっせい)、木戸孝允と写真が並んでいます。

 

 高杉晋作と久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と並び評された松下村塾の双璧であり、吉田松陰は、この二人を競わせる事で、さらに学問を深めさせようとしました。

 

 前原一誠も、この二人と常に行動を共にし、長州藩を俗論派から奪還して、明治維新に貢献し、維新後は兵部大輔に昇進、維新の十傑の一人に数えられるまでに至るも、結局は西郷隆盛と同じような運命をたどり、新政府の方針に不満を持って下野し、萩の乱で散りました。

 

 ちなみに、木戸孝允(桂小五郎)は、ここに写真は飾ってありますが、吉田松陰との交流は深かったものの、正確には、松下村塾の塾生ではありません。

 

 中段に掛けられている写真は、左から、山田顕義(やまだ あきよし)、品川弥二郎(しながわ やじろう)、野村靖(のむら やすし)、山縣有朋、伊藤博文と続きます。

 

 山田顕義は、最年少の14歳で松下村塾に入門した最後の門下生であり、高杉晋作に従って、功山寺挙兵などに参加、特に戊辰戦争での活躍が見事で、西郷隆盛に「用兵の天才」と称されたほどでした。

 

 岩倉使節団に参加して、フランスを訪れた時に触れた、ナポレオン法典に感銘を受け、軍事よりも法律が大切だと痛感し、以降、法律の研究を重ね、初代司法大臣になった人です。

 

 品川弥二郎も、高杉晋作や木戸孝允に従って活躍し、明治政府内においては、のちの内務大臣に任じられました。

 

 野村靖は、松陰四天王である入江九一(いりえ くいち)の弟で、兄と共に吉田松陰の指示に従い、老中・間部詮勝の暗殺計画を立て、失敗して投獄の憂き目を見るも、その後、非業の死を遂げた兄とは対照的に、明治の新政府内で、内務大臣や逓信大臣として活躍しました。

 

 その右隣の山縣有朋と伊藤博文は、言わずと知れた日本の総理大臣です。

 

 下段に掛けられている写真は、左から、境二郎、飯田吉次郎、河北義次郎(かわきた ぎじろう)

 

 境二郎は、明治維新後、長州藩の権大参事に任命された人物で、廃藩置県後は島根県の県令に、そして、この松下村塾の建物をずっと保存させようと、松下村塾の保存会を発足させ、塾舎の補修にあたった人物です。

 

 飯田吉次郎は、奇兵隊で活躍し、日本人が独力で作った最初のトンネルである、逢坂山トンネルを作った人です。

 

 また、河北義次郎も、禁門の変や第二次長州征伐で、長州藩の側に立って活躍した人で、明治維新以降は、佐賀の乱や西南戦争の鎮定に貢献し、のちに外交官となって、サンフランシスコ領事としても活躍しました。

 

 それにしても、この肖像の中に、残りの松陰四天王の2人である、吉田稔麿と入江九一がいないのが、残念です。

 まあ、この二人は、若くして亡くなったから、おそらく肖像画のようなものが存在しないのでしょう。

 

 吉田稔麿という人は、よほどに歴史好きの方でない限り、知らない方がほとんどだと思うのですが、実は、松下村塾の塾生の中で、最も優れた人物だったという噂もある、すごい人です。

 

 さっきの写真にあった品川弥二郎が、松下村塾で一番優れた人物として、吉田稔麿の名をあげていて、「もしも生きていたら、据え置きの総理大臣になれる」と断言していますし、初代総理大臣の伊藤博文さえも、「どうして自分などと比べる事ができようか、まさに、天下の奇才であった」と、吉田稔麿の事を語っています。

 

 吉田稔麿は、無駄口を利く事のない、眼光の鋭い男だったと言われていて、高杉晋作が騎兵隊を結成すると、それに倣い、屠勇隊(とゆうたい)を創設し、幕府の軍艦である朝陽丸(ちょうようまる)の占拠にも、成功しました。

 

 しかしながら、池田屋事件に遭遇し、新撰組と奮闘の末に討ち死にしてしまいます。

 23歳の若すぎる最期でした。

 新撰組局長の近藤勇は、「その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」と、吉田稔麿の事を語っています。

 

 入江九一は、おそらく吉田稔麿よりも、さらに知名度が低いと思うのですが、晩年期の吉田松陰から、最も愛された人なのではないかと思います。

 

 吉田松陰の「老中・間部詮勝の暗殺計画」と「毛利敬親を説得しての、天皇と謁見計画」という計画に、四天王の中で唯一、賛成して、弟の野村靖と共に、それを実行に移そうとしました。

 その為、吉田松陰から「久坂君達は、優秀だが度胸がない。しかし君だけは、国の為に死ねる男児である」と、高く評価されました。

 

 入江九一は、吉田松陰の刑死後も、師との約束を果たそうと、必死に間部詮勝の暗殺計画を果たそうとしました。

 

 久坂玄瑞と共に、蛤御門の変(禁門の変)で進撃して敗れ、敵に囲まれて自刃しようとするも、久坂玄瑞から「君だけは、何とか包囲網を突破して、藩公に京都に近づかないように、注進してほしい」と頼まれ、敵の包囲網から脱出を図るも、塀を超えた所で、越前兵の槍(やり)を顔面に受け、壮絶な最期を遂げました。

 

 

 ここは、「吉田松陰幽囚の旧宅」と呼ばれている、杉家の旧家です。

 

 22歳で、東北旅行に通行手形を待たずに出かけて、脱藩者扱いとなり、家禄を没収の上に浪人となった吉田松陰は、父の監視下での育(はぐくみ)という処遇になります。

 

 吉田松陰の能力を高く買っていた藩主の毛利敬親は、表向きは松陰を罰するも、その後、諸国遊学許可願を提出させて、もっと学ばせようとしました。

 

 そして、吉田松陰は再び、江戸の地に赴きました。

 その時、師の佐久間象山と一緒に目にしたのが、浦賀にやってきたペリーが乗った黒船だったのです。

 

 外国に行って、もっと見識を広げたいと思った吉田松陰は、佐久間象山と協力して、外国船で密航をする事を考えるようになります。

 

 ある日、漁民の小舟を盗んで、下田港に停泊していたアメリカの旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて、勝手に乗船しました。

 そして船員に、アメリカへ連れて行って欲しいと頼み込むも、拒否され、その間に小舟は流されてしまい、結局この件で、師の佐久間象山と一緒に、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に投獄されてしまいます。

 

 のちに長州藩に送られて、野山獄に幽囚される事になるのですが、その時、吉田松陰は、野山獄の囚人達の為に「孟子」とか「論語」の講義を行い、囚人達はそれを聞き入り、獄中の風紀が一気に良くなったと言います。

 

 その為、藩の上層部からも特別待遇を受け、病気療養という名目で、生家の杉家へ幽囚という処置になります。

 その時、吉田松陰が幽囚されていたのが、この吉田松陰幽囚の旧宅です。

 

 父の百合之助と、兄の梅太郎は、松陰に「この場所で、孟子の講義をやってみないか」と持ち掛け、松陰はそれを受ける事にします。

 それが、吉田松陰のこの松下村塾ができるきっかけでした。

 

 

 ゆっくりと松下村塾と吉田松陰幽囚の旧宅を見ながら、その先を歩いていくと、そこに、松陰神社がありました。

 

 幕末の思想家・吉田松陰に思いを馳せながら、しばし参拝しました。

 

 明治維新が成功すると、吉田松陰から学んだ長州の志士達は、師である吉田松陰を神格化していったんです。

 

 思いがけず、周布政之助によって、再度、野山獄に幽囚された吉田松陰だったのですが、しばらくの間は、自分の意見が受け入れられない状況に、やるかたない思いをしていたようです。

 

 獄中で吉田松陰は、弟子達に、何通かの手紙を送っています。

 

 「諸君達と私の違う所は、私は日本の為に行動を起こそうとしているのに、諸君達は、ただ手柄を立てるつもりでいるという事だ」

 

 「桂も、ひそかに図り事などをして、私の気持ちも折れそうだ」

 

 こんなナーバスな事を言って、一歩も引かない師匠に、さすがの弟子達も、困惑を隠せませんでした。

 四天王の吉田稔麿などは、松陰から送られてきた手紙を、そのまま差し戻したほどです。これは、師弟関係を解消してほしい、という意図を含んだ手段です。

 

 やがて、江戸幕府から長州藩に、吉田松陰の身柄を引き渡すようにという要請が来ました。

 いわゆるこれが、安政の大獄です。

 

 でも、幕府が吉田松陰を収監しようとした理由は、よく言われているように、「松下村塾で、若者達に尊王攘夷思想を説いているから…」という理由ではありません。

 

 この頃、京都で梅田雲浜(うめだ うんぴん)という儒学者が、攘夷運動を訴えて、幕政を激しく批判していたのですが、この時の吉田松陰には、梅田雲浜と一緒になって、幕府を中傷する文章を作成していたのではないか… という嫌疑をかけられていたのです。

 

 とはいえ、この容疑で有罪になったとしても、重くて遠島ぐらいで、死刑になる事は、まずありません。

 

 そもそも、「安政の大獄」という呼び名は明治以降につけられたもので、当時この事件は「飯泉喜内初筆一件(いいいずみきない しょひついっけん)」と呼ばれていて、飯泉喜内などが、主に井伊直弼のターゲットでした。

 吉田松陰は、たまたま梅田雲浜に関わっていたので、逮捕されたに過ぎず、関わっていないと判れば、すぐに長州に帰る事もできたのです。

 

 そんな事情で、吉田松陰は長州藩の30人の護送を伴って、江戸に赴きました。

 その時、長州藩は、松陰を特別待遇し、囚人用の食事ではなく、番人用の食事を出してくれた事に、松陰は感激しています。

 

 江戸に到着すると、評定所において、梅田雲浜との関係を問いただされたものの、すぐに、松陰の嫌疑は晴れたようでした。

 

 この時、普通にしていれば、すぐに長州に帰れたはずです。

 ところが、「至誠にして通じざるはなし」の信念を持った吉田松陰は、それができなかったのですね。

 

 評定所の番人に、今の幕府と日本の問題提起、それだけならともかく、老中・間部詮勝の暗殺計画や、藩主・毛利敬親公を巻き込んでの伏見要駕計画まで、自ら進んで話してしまいました。

 

 当時の江戸幕府にとっては、これらはどちらも、超Aクラスの重罪です。

 

 もちろん、現代の日本だったら、計画を立てただけで、死刑になるような事はありませんが、この時代、だいたい捕縛されている身でありながら、「日本の国を憂いて、老中を暗殺する計画を立てました」などと、役人に言おうものなら、最悪の結果になる事は目に見えています。

 普通の人だったら、そんな危険な事は、絶対にしないでしょう。

 

 ただちに、吉田松陰は、伝馬町の牢獄に入れられ、のちに、断首が宣告されました。

 

 吉田松陰は、その処刑の一日前「留魂録(るいこんろく)」を記し、弟子達に送りました。

 その手紙を要約すると、おおよそ次のような内容でした。

 

 私は江戸送りになる時に、孟子の言葉である「至誠にして動かざる者、未だこれ、あらざるなり」の一句を書き、手ぬぐいに縫いつけ、常に持っていた。これこそが、私の志を表すものだからである。

 もし、天に私の誠が通じれば、私の想いは幕府の役人にも伝わるであろうと、志を立てたのである。

 

 しかし、私の誠は幕府役人に伝わらず、今日に至った。

 これは私の徳がまだまだ薄く、天を動かす事ができなかったのであり、誰も責める事はできない。

 

 今日、死を覚悟しているのに、心が平安で穏やかなのは、私の心に、春夏秋冬の四季の循環が得られた実感があるからである。

 

 例えば、稲作で言うならば、春には種を蒔き、夏には苗を植え、秋にはそれを刈りとって収穫を喜び、冬には貯蔵する。

 

 私は今年で三十歳になるが、まだ一つの事も成す事ができずに死ぬのは、はたから見れば、花を咲かせず、実がならないまま、寂しく散ってしまうように見えるかも知れない。

 

 しかし、人間の寿命というのは定まりがなく、穀物とは違う。

 十歳にして死ぬ者は、十年の中に四季があり。二十歳にして死ぬ者は、二十年の中に四季がある。三十歳にして死ぬ者は、その三十年の中に四季がある。五十歳、百歳。それぞれに、その中に四季がある。

 

 十歳で死ぬのを短すぎるというのは、夏の蝉を、長い間生きている椿にしようというようなものである。

 百歳をもって長すぎるというのは、この椿を蝉のようにしようというようなものである。

 どちらも、天命に沿っている、とは言えまい。

 

 私は三十歳、四季はすでに備わっている。また、花も咲き、実も結んでいる。その実がよく熟しているかどうかは、私の知るべき所ではない。

 

 もし同志の中で、私の心を憐み、受け継いでくれる人がいるならば、種子は絶える事なく、永遠に誠の思いは、生き続けるのである。

 

 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

 (例えこの身が、武蔵野で朽ちようとも、この大和魂だけは、ここに残していく)

 

 安政六年十月二十七日、伝馬町牢屋敷にて、吉田松陰の二十九年の人生は、刑場の露と消えました。

 

 吉田松陰の処刑を執行した人物は、明治時代まで生き残っていて、吉田松陰の最期を、次のように語ったと言います。

 

 いよいよ首を切る刹那(せつな)の松陰の態度は、真にあっぱれなものであった。

 悠々(ゆうゆう)として歩を運んで来て、役人共に一揖(いちゆう)し、「御苦労様」と言って端坐(たんざ)した。

 その一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏(ばくり)も深く感動した。

 

 

 こちらは、松陰神社の隣りにある、末社の松門神社…

 

 これまでの松陰神社の社殿を移築して、松下村塾の塾生や、吉田松陰の門下生の四十二柱を御祭神として、昭和31年に創建されました。

 

 吉田松陰の人生は、たった二十九年の短いものでしたが、その精神は、この日本の原動力となって、永遠に生き続けました。

 

 例えば「幽囚録(ゆうしょうろく)」の中に「まずは軍備を図り、蝦夷(えぞ=北海道)を開拓して諸侯に領地を治めさせ、その間に乗じて、カムチャッカ半島やオホーツク海領域を奪い、琉球(りゅうきゅう=沖縄)に諭して、国内諸侯と同じように参勤させ、朝鮮半島に攻め入り、いにしえの盛時(せいじ)の如く、北は満州の地を、南は台湾、ルソン諸島を収め、進取の勢を漸示(ぜんじ)すべし」と記しています。

 

 この主張が正しいとか、間違っているとかは、ともかくとして(確かに現代において、これは通用しないと思います)、この吉田松陰の考えは、そのまま、松下村塾出身者の伊藤博文や山縣有朋などに引き継がれて、明治政府の政策となり、大日本帝国の時代へと、つながっていきました。

 

 吉田松陰という人物が、この世に存在していなければ、明治時代の国の政策方針は元より、もしかすると、今の現代の日本も、全く別のものになっていた可能性もあるでしょう。

 

 松下村塾の情景の中で…

 

 時間の制約を超えて、今もこの場所から、純粋に国を思う吉田松陰の凄まじいほどのエネルギーがわき出ているように、感じました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<17>萩焼きと夏みかんと総理大臣と高杉晋作の生家20.07.06

2020年7月10日(金)

 

 ここ最近、東京ではずっと雨が続いていて、洗濯物も中々干せなくて、困ったなあ… と思っている内に、気がつけば、もう7月です。

 本当に、あっという間に、時間が過ぎていきますね。

 

 バタバタしている内に、すでに今年も、半分終わってしまいました…

 今年こそは、必ず仕事の成果を上げてやる… と、意気込みだけはあるのですが、やろうとしていた事の3分の1も、できていません。

 

 もちろん、このまま簡単に庚子の年を終わらせる訳にいきませんから、今年の後半は、死ぬ気で頑張ります(^^;;

    リボーンの死ぬ気の炎です…

 

 萩の城下町を、五気調整術協会の水木杏香先生と、散策していたのは、もう8ヶ月の前の事…

 

 このブログは、記事をまとめる構成上、時々、旅の行動の順番の前後を入れ替えて、書いたりしています。

 

 例えば、この日(2019年11月12日)ですと、最初に萩・明倫学舎に行った後、萩中央公園の脇にある、山縣有朋像や久坂玄瑞像の横を通りぬけて、萩城城下町のエリアに入り、まず円政寺に、続けて木戸孝允旧宅を拝観すると、ちょうどお昼時になったので、レストランの「晦事(コトコト)」に入って、水木先生とお食事をした…

 というのが、本当の順番です。

 

 考えてみると、お昼時までの数時間の間に、明倫学舎、円政寺、木戸孝允旧宅と、すでに3つも観光スポットを回りきっているのですね。

 

 水木先生が、あらかじめ萩市の事を下調べをしてくださったお陰で、内容が濃くて、とてもスムーズな観光になっていました。

 

 こうして、旅の思い出を綴っていて、改めて、感謝の気持ちがわいてきます。

 

 そんなこんなで、萩の城下町のレストラン「晦事」で、美味しい昼食を取って、その後もさらに、この萩の城下町を散策しました。

 

 

 萩の城下町の白壁の建物は、当時の面影を残したまま、とても美しく保たれています。

 この日は、11月でありながらも、おだやかで温かい一日でした。

 

 萩の名産と言えば、萩焼(はぎやき)

 

 

 これは、昼食をとったレストラン「晦事」の、お店の前に飾ってあった、萩焼です。

 

 萩焼の特徴は、貫入(かんにゅう)と呼ばれる、陶器の表面の細かいヒビ割れの模様にあります。

 どちらかというと、地味な陶器なのですが、その独特で何ともいえない風合いが、非常に人気があるんです。

 

 それで、長年、萩焼の茶碗を使っていると、貫入の細かい溝に、お茶の成分などがしみ込んで、色の風合いが変わってくるのが、また良いんですね。

 

 

 あと、萩の名産と言えば、夏みかん…

 

「晦事」で飲んだ夏みかんジュースも、とってもおいしかったですが、城下町には夏みかんの樹が所々にあって、とても甘酸っぱい香りがします。

 

 ここは本当に、素敵な街です。

 

 次に、水木先生と一緒に、幕末のヒーロー高杉晋作の生家へと向かいました。

 

 

「晦事」から、高杉晋作の生家への道筋にある、田中義一の生誕地です。

 

 田中義一とは、やはり、この萩の城下町で生まれた日本の第26代内閣総理大臣…

 

 たまたま、この場所で生まれていますが、もちろん、近所に住んでいた桂小五郎とか、伊藤博文のコネで、内閣総理大臣になった訳ではありません。

 だいたい、田中義一が総理大臣になったのは、それから随分後の時代の事です。

 

 田中義一は、昭和3年、満州事変の背景となる「張作霖爆殺事件(ちょうさくりん ばくはじけん)」が勃発した時の総理大臣です。

 

 元々、陸軍の有能な軍人だったのですが、首相に就任中は、軍部との関係には随分と苦慮したようで、「張作霖爆殺事件」に対するつじつまの合わない対応を、昭和天皇に叱責されると、それを気に病みながら、心臓の病気で没した、と言われています。

 

 この狭い萩城下町の歩き回れる場所で、伊藤博文に続いて、それとは全く関係ないルートで、再び内閣総理大臣が誕生するのも、偶然にしては、出来すぎているような気がします。

 

 田中義一生誕地から、歩いて1分…

 

 

 目的の場所である、高杉晋作の生家に、たどり着きました。

 

 幕末の風雲児・高杉晋作は、1939年(天保10年)、萩藩大組士である高杉小忠太の長男として、ここで誕生しました。

 

 幼少期は病弱で、ひ弱な子供だったそうです。

 

 

 「お座敷には上がらないで下さいませ」と、木の立て札が、立てかけられています。

 

 ここが、あの高杉晋作が生まれた場所かと思うと、確かに思わず、部屋に上がりたくなってしまいます(笑)

 

 高杉晋作はこの家から、明倫館に通いながら、松下村塾にも通っていました。

 そして、吉田松陰の元でどんどん頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されるまでに、なりました。

 

 あの「円政寺」の天狗のお面を怖がった少年が、後に長州藩で騎兵隊を結成して、クーデターを起こす事になる…

 歴史というのは、不思議なものです。

 

 

 これが、高杉晋作が浸かった産湯の井戸です!!

 

 明治維新の発端を作った最初の立役者は、ここで、オギャーと生まれたのですね。

 

 晋作は、わずか27歳の短い人生を、風雲の如く駆け抜けました。

 

 僕はまだ、高杉晋作に対して、この時はあまり興味を持っていなかったのですが、翌日、この一人の偉人を、とても身近に感じられるようになりました。

 それはまた、後々のブログで語る事にします。

 

 

 晋作広場にあった「高杉晋作立志像」…

    攘夷志士に、なりきってみました(笑)

 

 高杉晋作が立てたその志は、奇兵隊という形となって、同胞によって引き継がれ、その志は、晋作の死後に身を結ぶ事になります。

 

 僕も、晋作にあやかって、小さいなりにも、自分の志を全うしたいと、改めて思いました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<16>死してのちやむ ― 桂小五郎の生き様20.06.30

2020年6月30日(火)

 

 先週の金曜日、僕は、岡山県玉野市にある珈琲焙煎店に、行ってまいりました。

 

 そのお店は、8年前の僕がまだフランス・パリにいた頃から、時々お便りをくれているMさん、そして、Mさんの息子さんがマスターをしている、こだわりの珈琲のお店…

 

 当時パリ ブログで、Mさんの事を「感謝の達人」と、よく紹介していましたが、Mさんは本当に人間的に素晴らしい方なのです。

 

 今回、Mさんの息子さんとは、10年ぶりぐらいにお会いしたのですが、とても頼りがいがある頼もしい青年となっていました。

 

 コーヒーというのは、使う豆の種類や、挽き方、焙煎する時間など、ほんの少し違うだけで、全く違う味になってしまうんですね。

 

 この「みなと珈琲焙煎所」は、そういったコーヒーの作り方によって変わる、味の違いを知り尽くした上で、丁寧に真心を込めて、最高のコーヒーになるように、作っているお店です。

 

 コーヒー豆やドリップバックなどは、通信販売でも取り扱っていますから、よかったら皆さま、美味しいコーヒーを召し上がってみてください(^^)

 

 そして、MさんとMさんの息子さんに見送られながら、岡山駅から発車する夜行バスで、9時間かけて東京まで帰ってきました。

 

 戻って来てみると、東京の天気は雨…

 もうしばらく、梅雨は続きそうな感じですね。

 

 さてさて、また去年の山口の旅の話に戻ってしまうのですが、五気調整術協会の理事・水木杏香先生と萩市の萩城城下町を歩き、この街の中で、僕が一番行ってみたいと思った、ある明治維新の偉人の旧宅を、訪ねました。

 

 

 その偉人とは、明治維新三傑の一人とも言われる、木戸孝允の事…

 

 木戸孝允と名乗るようになったのは、明治になってからの事で、30歳頃までは「桂小五郎」と名乗っていました。

 こちらの名前の方が、なじみ深く感じられる方も、多いでしょう。

 

 よく「逃げの小五郎」の異名で通っていた… などと言われますが、あれは司馬遼太郎の小説の題名「逃げの小五郎」(「幕末」という短編集に入っている)が発端であり、実際に生きている時から「逃げの小五郎」などと呼ばれていた訳ではありません。

 

 あの呼び名は、司馬遼太郎が、神道無念流の免許皆伝の腕前であり、剣術の達人でありながらも、極力戦闘を避け、逃げてばかりいた(といっても、極力戦わないのが、神道無念流の教えなのですから、仕方ないのですが…)桂小五郎の事を、ちょっぴり皮肉って、つけたネーミングと言って良いでしょう。

    ちなみに「眠りの小五郎」は、完全にこの「逃げの小五郎」からインスパイアされてます(^^;;

 

 ある意味、この呼び名は、慎重過ぎるほどの桂小五郎の性格を端的に表しているとも、言えます。

 

 明治維新三傑とは、西郷隆盛、大久保利通、そして、木戸孝允こと桂小五郎の3人の事を指し、明治維新を主導して成し遂げた主人公こそが、この三人と言えます。

 

 もちろん、実際には、星の数ほどのたくさんの名もなき人達によって、明治維新の偉業は成し遂げられているのですが、この三人は、ただならぬ人物の度量と、熱く燃えたぎる思いを持ち、さらに、事に慎重で、自らがある程度、長生きしたからこそ、偉業が達成されるのを、目にする事ができたとも言えます。

 

 それで、この三人の中で唯一、英語で外国人と話ができたのは、桂小五郎ただ一人です。

 また唯一、畳で死ぬ事ができたのも、桂小五郎だけですが、とはいえ、桂小五郎の死に方も、決して幸せな死に方とは、言えないものでした。

 

 

 ここが、木戸孝允(桂小五郎)旧宅…

 この門をくぐると、桂小五郎が生まれ育った家があります。

 

 入場料は100円で、受付の人に聞けば、この旧宅の事をいろいろ教えてくれるんです。

 

 

 とっても風情がある、住まいです。

 150年ほど前、実際にここで、あの桂小五郎が暮らしていたのかと思うと、感慨深いです!!

 

 桂小五郎が生まれたのは、桂家ではなく、長州藩毛利家の藩医であった和田家であり、8歳ぐらいまでは「和田小五郎」と名乗っていました。

       ちなみに、毛利小五郎とは、全く関係ありません(…しつこい)

 

 つまり、この旧宅は、桂家ではなく、和田家の家です。

 

 小五郎は和田家の長男だったのですが、幼少期は非常に病弱で、後継ぎとしての期待は全くされていなかったんです。

 

 そこで、小五郎の姉が婿をもらって、その婿に和田家の跡を継がせようとしたのですが、小五郎よりも、その姉の方が早世してしまったので、その婿は今度は、小五郎の妹と結婚する事となり、和田家の名跡を継ぐ事となりました。

 

 結果的に、小五郎は和田家を継ぐ必要がなくなってしまいました。

 おりしも、当時、向かい側にあった桂家は、武家の名門でありながら後継ぎがいない事から、養子の話が来て、晴れて小五郎は、萩藩大組士の家柄である桂家の跡取りとなったのです。

 

 元々は武士でないのに、武士の家を継いだ事から、小五郎はより武士らしくなろうと一生懸命努力しました。

 

 そして、江戸の神道無念流に入門して、剣術修行に人一倍精を出し、師である斎藤新太郎にも認められて、ついに塾頭にまで上り詰めました。

 

 

 これは、実際に京都に立てられている桂小五郎の像のレプリカです。

 

 この像は、京都のホテルオークラの北側に立てられていて、右側にある写真は、それを写しています。

 

 2年前、京都のIさんに案内されて、現物を見てきました。

 (2018/11/2 ブログ 「歴史と史跡を訪ねて「京都探索・その2」」 参照)

 

 桂小五郎の体は、西郷隆盛ほどではないにしろ、非常に大柄で、小五郎が剣を構えると、みんなが恐れ慄いて(おののいて)逃げて行くほどに、迫力があったと言います。

 

 よく、坂本竜馬が主役の映画やドラマだと、竜馬と小五郎が剣術試合をして、堂々と竹刀を構えている竜馬に、慎重すぎる小五郎が不安になり、その隙を取られて、竜馬に一本取られて負けるというシーンがあります。

 

 最近(2017年)見つかった文献から明らかになった事なのですが、竜馬との剣術試合の勝敗は、3-2で桂小五郎が坂本竜馬を破っていたようで、その試合の一幕の中で、竜馬に一本取られた事もあった、というのが真実のようです。

 

 とはいえ、神道無念流免許皆伝で塾頭である桂小五郎と、互角に渡り合っている坂本竜馬もまた、並々ならぬ剣の使い手である事は、間違いありません。

 

 

 この部屋こそが、明治維新の英雄・桂小五郎が生まれた場所…

 

 何とも、感慨深いです。

 

 この家で生まれ、円政寺にある天狗の面も、家の人の背中に背負われて、見に行っている訳ですから(2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)、当然、高杉晋作や伊藤博文とも、親交があります。

 親交があるどころか、その一生を通じて、深い絆で結ばれていたと言っても、過言ではありません。

 

 桂小五郎は影日向なく、高杉晋作の事を支えサポートし、晋作もまた、小五郎を頼りにし、慕い続けました。

 

 それは、伊藤博文との関係も同じで、伊藤博文が明治の元勲として、大きな活躍ができたのも、全ては桂小五郎のとりなしのお陰です。

 

 

 こちらが、仏間のようです。当時はここに、お仏壇が入っていたのでしょう。

 桂家の家督相続の話がなかったら、もしかすると小五郎は、和田小五郎のまま、医者としての人生を送っていたのかも知れません。

 

 小五郎は、子供の頃から、何をやっても一流の優等生でしたから、きっと優れた医者になっていた事と思いますが、和田小五郎のままでは、もしかすると、明治維新の偉業は、成し得ていなかったかも知れません。

 

 坂本竜馬が姉・乙女に送った手紙の「日本を今一度、洗濯いたし申し候」という言葉は有名ですが、桂小五郎はよく「この国は、手術が必要だ」という言葉を使っていたそうです。

 まさに、医者の息子らしい言葉です。

 

 師の吉田松陰とは、明倫館(2020/6/9 ブログ 「萩・長州藩の学舎を訪ねて」 参照)で初めて出会い、松陰から山鹿流兵学を習っています。

 吉田松陰は、桂小五郎より3歳年上であり、小五郎17歳、松陰20歳の時に出会っていますが、吉田松陰も当時から、桂小五郎の事を認め「事をなすの才あり」と評価していました。

 桂小五郎は、松下村塾の塾生ではありませんし、当然ながら、松陰四天王にもなっていませんが、久坂玄瑞や山縣有朋など松下村塾の塾生達にとって、兄貴分のような存在でした。

 

 松下村塾の塾生達からの諫め(いさめ)は、あまり聞こうとしなかった吉田松陰ですが、桂小五郎の言う事は、割と素直に聞き入れていました。

 

 桂小五郎はこの後、長州藩の藩主・毛利慶親の警護役に抜擢されたり、長州藩の江戸藩邸の要職に就いたりしていますが、これは、吉田松陰が藩上層部に、熱心に桂小五郎を推薦した結果です。

 

 

 この「今日」という書は、桂小五郎が7歳の頃に書いた作品です。

 

 とても、小さな子供が書いた書とは思えない、気迫のある作品で、よく見ると小さな朱の字で「以ってのほかよろし」という書の師範の文字が書かれています。

 

 これだけ見ても、普通の子供ではない事が分かります。

 

 

 こちらの掛け軸は、桂小五郎のその少し後の作品です。

 

 「天晴見事見事」と朱色の字で、書かれています。

 当時、書の師範が、このような誉め言葉を、作品に書き入れる事は珍しく、これによって、書を知らない人からも、その実力を認められ、城下で大評判となっていたそうです。

 

 ちなみに、幕末から明治維新にかけての偉人で、今現在、人気がある人物と言えば、たいがい坂本龍馬や、西郷隆盛、高杉晋作などといった所ではないかと思います。

 

 桂小五郎とか、大久保利通というのは、彼らに比べると地味ですし、どんな偉業をやったかが、今一つ知られていない所もあって、これまであまり人気がありませんでした。

 

 最近、少しずつ桂小五郎のファンが増えてきている一つの要因は、人気漫画「銀魂」で、天然キャラでありながら、割と格好よく描かれているからかも知れません。

 もっとも、あの漫画に登場するキャラの名前は「桂小太郎」ですが…

 

 

 この床の木に、桂小五郎の落書きである「已後而死」という四文字が書かれているんです。いつ書かれたかは、ちょっと分からないのですが…

 

 これは「死して後已む(やむ)」と読むのですが、「死ぬまで努力し続ける(=死んでから、動きをやめる)」という意味の言葉です。

 

 ちょっと写真を拡大してみました(^^)

 

 

 この言葉こそが、桂小五郎の覚悟のようなものだと思います。

 

 この言葉は孟子の言った言葉であり、吉田松陰はよく、孟子の講義をしていました。

 

 この言葉の同意語である「斃れて(たおれて)後已む」という言葉を、僕は初めて、四柱推命の受講生のKさんから聞いたのですが、とても気合いが入った、清々しい言葉だと思いました。

 

 

 小五郎の父である和田昌景は、眼科医でもあり、外科医であって、自宅でも診療していたので、よく患者さんが自宅に上がってきました。

 

この視力検査の紙は、当時から使われていたのかどうかは分かりませんが、時代を感じさせますね。

 

 桂小五郎という男は、常に冷静すぎるほどに、冷静な人でした。

 だから、面白みがない人というイメージを持たれがちですが、だからこそ、あの時代において、雲をつかむような話であった「明治維新」という偉業を、現実にする事ができたのだと思います。

 

 

 部屋の角に、桂家(のちの木戸家)と、小五郎の生家の和田家の家系図がありました。

 

 桂小五郎は、明治維新まで生き延びた人だから、血がつながった子孫を残しているのだろう… と思いきや、実は、そうではありません。

 唯一、実子の女の子がいましたが、18歳の時に、子を残す事もなく、早世しています。

 

 桂小五郎の妻と言えば、京都で知り合った舞妓・幾松こと、松子ですが、松子との間には子は授からず、何人か、桂家に養子を迎え入れています。

 そして、実質的に桂家を継いだのは、実の妹の子で、小五郎の甥にあたる彦太郎でした。

 

 

 左の写真は、小五郎の妻・幾松こと、木戸松子、そして、右の写真は、彦太郎と桂小五郎です。

 

 彦太郎は、のちに木戸孝正として、木戸家(桂家)を継ぎ、貴族院侯爵議員となりました。

 

 

 こちらの、左側の写真は、言うまでもなく桂小五郎(木戸孝允)です。

 そして、右側の絵は、浮世絵師・水野年方(みずの としかた)による木版画「教導立志基 木戸孝允夫人松子(きょうどうりっしのもとい きどたかよしふじんまつこ)」という作品です。

 

 幾松は、絶世の美女と言われていて、山科(やましな)の豪家が非常にひいきにしていたのですが、これに張り合って、桂小五郎も、幾松に大枚をはたすようになりました。

 そして最後は、桂小五郎の気持ちを察した伊藤博文が、刀を持って、力づくで山科の豪家を脅しに行き、これで決着がつきました。

 

 坂本竜馬の妻・お龍が、必死になって竜馬を守ったように、幾松も、身を挺して、何度も桂小五郎を守り、桂小五郎を暗殺の危機から救いました。

 常に追われる身だった桂小五郎が、明治維新まで生き延びられたのは、幾松の献身があるからこそと、言えましょう。

 

 何せ、蛤御門の変(禁門の変)の頃になると、長州藩は朝敵となり、危険な過激派とみなされて、幕府からも会津藩からも、挙句の果てに、薩摩藩からも狙われていました。

 そんな中、桂小五郎は、京都の三条大橋の下に、掘立小屋(ほったてごや)を建て、ホームレスの身なりで過ごしていたと言います。

 

 

 ちなみに、この木戸孝允旧宅にも、二階があるようです。

 

 この旧宅の正面玄関から見ると、どう見ても平屋建てにしか見えないのですが、玄関側からは、二階の部分が隠されるようにして、建てられているんですね。

 

 上に上がってみようと思ったのですが…

 

 

 残念ながら、立ち入り禁止になっていました(^^;;

 

 それにしても、この階段、あまりに奥行きが狭くて、怖いです。

 現在の建築基準法では、確実に引っ掛かりますね(笑)

 

 蛤御門の変が起こって、長州藩が朝敵となり、さらには幕府が第一次長州征伐の動きを見せると、長州藩内においても、正義派が粛清され、俗論派に取って代わられました。

 

 つまり、この時点で、桂小五郎は帰る場所さえも、なくなってしまった事になります。

 

 江戸幕府大目付・永井尚志(ながい なおゆき)が、長州藩の正義派を一掃しようと「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と、毛利氏の分家の代表である吉川経幹(きっかわ つねまさ)に聞くと、吉川経幹はあっさりと「死にました」と答え、これにより、しつこく追い掛けられる事も、なくなりましたが、完全にこの状況は八方塞がりでした。

 

 この八方塞がりの状況を救ったのが、高杉晋作率いる騎兵隊です。

 

 高杉晋作は、その天才的な軍事才能で兵を率いて、長州藩の正義派の実権を取り戻しました。

 そして、高杉晋作によって、桂小五郎は、長州藩に統率者として迎え入れられたのです。

 

 そんな折、坂本龍馬のあっせんによって、桂小五郎率いる長州藩と、西郷隆盛率いる薩摩藩は、秘密裏に同盟を結ぶ事になります。

 日本の歴史を覆した出来事である、薩長同盟です。

 

 

 木戸孝允旧宅の窓から、外ののどかな景色が見えます。

 

 江戸幕府による、第二次長州征伐が失敗すると、長州藩にとって念願だった、朝廷による朝敵の赦免が叶い、さらに薩長同盟を背景に、土佐藩による大政奉還建白書が書かれ、これにより、第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上…

 

 そして、明治維新により、明治天皇の王政復興の大号令がなされました。

 

 公武合体か、倒幕か、この時代はどっちに転んでもおかしくなかった時代でしたが、ほんのちょっとの出来事が、こんな風に時代を決めてしまうのですね。

 

 そして、桂小五郎は、明治の政治家・木戸孝允として、今度は、長州藩の代表ではなく、日本国の宰相としての活躍をする事になります。

 

 この時代には、日本の周辺には欧米列強諸国がしのぎを削って、弱小国があれば、植民地にしようと牙をむいていました。

 今のような、世界平和を大義名分とするような時代とは、まるで違います。

 

 そんな中で、木戸孝允が最も精力を傾けたのが、版籍奉還と廃藩置県でした。

 

 明治維新は成功したものの、依然として、各藩には藩主がいて、それぞれが軍事力を持っていましたから、中央政府が大きな権限を持つには、どうしても藩を廃止する必要がありました。

 このままのまとまりのない状態だと、到底日本は、欧米列強にはかないません。

 

 そこで、木戸孝允は、大久保利通の協力を得て、そのとっかかりを作り、版籍奉還の実現に成功しました。

 

 各藩主を納得させなければなりませんから、藩主をそのまま知藩事(ちはんじ)としてスライドさせ、中央政府から任命した形にし、当初は、知藩事は世襲とする方向で、話を進められ「版籍奉還の上表」が作られました。

 でも、これでは、ただ名前が変わっただけで、何も変わりありません。

 

 木戸孝允は、この案に真っ向から反対し「世襲」という文字を、上表文から削除させました。

 

 のちに、木戸孝允邸に、大久保利通、西郷隆盛、山県有朋、井上馨らが集まり、廃藩置県について意見がまとめられ、ついに明治4年、廃藩置県の詔(みことのり)がくだり、旧藩主であった知藩事は廃止となり、領主による土地支配が終わり、代わりに県令が任命され、中央政府による国の支配が実現しました。

 

 司馬遼太郎の小説なんかですと、明治維新を成し遂げた後の桂小五郎(木戸孝允)は、常にノイローゼ気味で悩みを抱え、何一つ国に有益な事をしなかったように書かれていますが、この版籍奉還と廃藩置県こそが、僕は、木戸孝允の真骨頂だと思うんです。

 

 

 木戸孝允別邸を出て、この偉大な明治維新の志士に想いを馳せながら、また、水木先生と萩の城下町を歩き始めました。

 

 廃藩置県を成し遂げた、一枚岩となった新政府に大きなヒビが入ったのは、その後、岩倉使節団の欧米視察によって、海外視察組(木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など)と留守政府組(西郷隆盛・江藤新平・板垣退助など)に分かれた後の事だと、言って良いでしょう。

 

 留守政府組は、世界の情勢を知らないまま、取り残される事となり、当然、海外視察組との見解も大きく隔たり、やがて、西郷隆盛らは下野し、西南戦争のきっかけを作ってしまいます。

 この当時の西郷隆盛なんかは、「農業こそが国の土台であり、今こそ農業を発展させていかなければならない」という考え方だったんです。

 西郷隆盛は、象皮病と呼ばれる、足が硬くなって肥大化してしまう病気の為、欧米視察に参加できなかったんですね。

 

 征韓論に囚われ、海外視察もできなくて、欧米列強諸国の国力というものが、どれだけ日本と隔たりがあるのかという事を知らない西郷隆盛には、この時期に、何の準備もなく韓国に攻め入ったなら、欧米列強諸国に日本攻撃の口実を与え、カウンターを食らってとんでもない事になるという、簡単な計算さえもできません。

 

 とはいえそれは、常に薩摩軍という日本最強の軍隊を率いて、負ける経験をした事がない西郷隆盛にとって、無理もない所かも知れません。

 征韓論を否定されて、投げやりになって下野し、鹿児島に入った西郷隆盛は、すでに時代に取り残された人でした。

 

 木戸孝允がこの世を去ったのは、おりしも、西郷隆盛を盟主とした西南戦争が勃発した年でした。

 おそらく、相当なストレスが、木戸孝允に襲い掛かっていたであろう事と思います。

 

 前から苦しめていた原因不明の脳の病気がさらに悪化し、朦朧とした状態の中、木戸孝允は、大久保利通の手を握り締め、最期に発した言葉は「西郷もいいかげんにしないか…」という言葉だったと言います。

 

 43歳の若さでした。

 

 木戸孝允は、生涯を通じて他人と争う事は、ほとんどなかったと言います。

 あまりに熟慮して、慎重すぎる所はあるものの、人の気持ちを気遣い、誰に対しても親切で、厚情の人だったと言います。

 

 神道無念流の無敵の剣豪でありながら、生涯一度も、その剣で人を斬った事がなかった…

 

 幕末の四賢侯の一人である松平春嶽は、木戸孝允の事をこう評価しています。

「木戸と大久保は、維新の際の父母とも言うべき者である。大久保は父であって、物を言いがたいが、木戸は母であって、話を聴く事が上手であった。大久保は面白みのない人であるが、木戸なら誰でも話ができる」

 

 まさに、木戸孝允の明治政府の中の立ち位置は、そんな所だったように思います。

 この時期に、日本を一つにまとめる為に、最も活躍したのは、人から嫌われ者になる覚悟で、日本の為だけに行動をしていた、大久保利通だと思います。

 木戸孝允は、その女房役に徹したと言えます。

 

 木戸孝允という人は「死して後已む」という生き様を、実際にやり遂げる事ができた人なのではないかと思います。

 そして、木戸孝允が母の役割となって見守った、伊藤博文や井上薫、山縣有朋といった、この萩の地で育った長州閥が、その後の日本を牽引して、今の時代に至っていると言って良いでしょう。

 

 そんな思いに駆られながら、木戸孝允旧宅を後にし、萩の城下町をゆっくりと歩いていきました。

 

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