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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<26>湯田温泉周遊記20.10.29

2020年10月29日(木)

 

 秋も、すっかりと深まっていきました。

 ジャケットを羽織らずに外を歩くと、少し肌寒いくらいです。

 

 僕は、今の季節が、ある意味一番苦手です。

 これから、さらにもっと寒くなるのか… また、あの寒い冬がやって来るのか… などと考えると、何だか、どよ~んと暗くなります(笑)

 

 いやいや、そんな事を言っていては、だめですね。

 冬には冬の良さが、ちゃんとあるのですから…

  (2014/2/7 パリブログ 「冬もまた良いものだ…」 参照)

 

 またしても、ブログの更新の間隔が、随分とあいてしまいました。

 そして、今回のブログも、あいも変わらず、出雲・山口旅紀行記です(^^;;

 

 この旅紀行記ブログ、当初の計画通り、30回で終わりますので、あと5回ほどです。

 今年中には、必ず終わりますので、どうか、もう少しだけ、おつき合いください。

    完全にもう、自分のやりたい放題に、暴走しております…

 

 前日の夜、水木杏香先生と別れて、今日(2019年11月14日)は、夜の20:10に山口宇部空港から離陸する、東京行きの飛行機のフライトまで、予定が空白です。

 

 水木先生も、この日は予定が入っているので、一人で山口のどこかを散策するしかありません。

 山口の事を、まだ、よく知らない僕にとって、この空白の時間をどこで過ごしたらいいか、とても迷いました。

 

「ここしばらく、のんびりできていなかったから、温泉にでもゆっくり浸かるか…」と思い、前日、山口で温泉で有名な場所を、水木先生にお聞きしました。

 

 水木先生がお勧めしてくれたのは、山口駅の隣り駅の「湯田温泉(ゆだおんせん)」という所でした。

 この湯田温泉は、温泉があるだけでなく、詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)の生誕地としても、有名なのだそうです。

 

 

 地図で調べてみると、湯田温泉に向かうには、新山口からだと、JRの山口線でひたすら北上するようです。

 乗り換えはないですから、迷う事はなさそうですね。

 

 早速、宿泊している東横INN新山口をチェックアウトし、例の大きなスーツケースをゴロゴロと押しながら、新山口駅へと向かいました。

 

 

 新山口駅の切符売り場…

 どうやら、湯田温泉までは240円で行けるようです。

 

 タイミング悪く、電車が発車する時間まで、1時間ぐらいあったので、新山口駅で、山口のうどんを食べる事にしました。

 

 こうやって、時間を気にしないで過ごすのは、本当に久しぶりです。

 

 

 電車が来たようです。

 

 この日も、暖かい小春日和で、のんびりと列車に揺られながら、山口を北上しました。

 

 だいたい30分ぐらい、電車に乗っていた所で、「次は、湯田温泉」というアナウンスが、流れました。

 

 

 無事に、湯田温泉駅に到着…

 

 経営者のMさんから、携帯に電話が掛かってきたので、「今、山口の湯田温泉という駅にいます」と告げると、Mさんは、何回か湯田温泉に旅行に来た事があるとの事で、いろいろと教えてもらいました。

 

 そして、「温泉に行くのなら、坂本竜馬なんかが泊まったという、松田屋ホテルのお風呂に入るのが良いですよ」と勧められました。

「近くには、原田酒舗(はらだしゅほ)という酒屋さんがあって、「獺祭(だっさい)」とかのお酒が安く手に入るから、行ってみると良いですよ」とも言われました。

 

 「獺祭」は言わずと知れた高級地酒ですが、それ以外にも、そのお店には、「日下無双(ひのしたむそう)」という美味しいお酒も、売っているのだとか…

 

 駅を出ると、いきなり出くわした、巨大な ゆるキャラ像に、思わず、腰をぬかしました。

 

 

 なんだか、よく分からないですけど、可愛いです(^^)

 この ゆるキャラは「ゆう太」くん… これ、キツネなのだそうです。

 

 像には なっていないですけど、「ゆう子」ちゃん、という、ゆるキャラもいて、こちらは「ゆう太」くんのガールフレンドだそうです。

 

 これは、湯田温泉の「白狐(びゃっこ)伝説」が、元になっているんですね。

 

 今から、五百年ほど昔の事じゃった。

 湯田の近くに、権現山(ごんげんやま)という小さな山があって、そのふもとには、古いお寺があったそうな。

 

 ある夜の事、お寺の和尚さんが、檀家(だんか)さんの法事に招かれ、お酒をふるまわれて、ほろ酔い加減になった帰り道、お寺に戻ろうと、寺の境内に入ろうとすると、ピチャ、ピチャ… という音が聞こえてきた。

 

 「一体、何じゃろう」と思った和尚さんは、その音がする方へと、近づいて行ったそうな。

 

 すると驚いた事に、白いキツネが一匹、池に足を浸して、ピチャ、ピチャと水をかき、それで水音がしているのだった。

 

 しばらくすると、その白キツネは、人の気配に気づいたのか、池から出て、後ろ足をかばうようにして、ぎこちない走り方で、権現山の方へ消えていったそうな。

 

 「はてはて、こんな夜更けに、なぜ、白キツネが池の中に入っているのじゃろう」

 

 和尚さんは、首を傾げながら、寺へと帰っていった。

 

 次の日の夜中、ふと、和尚さんが目をさますと、やはり、あのピチャ、ピチャという音が聞こえてくる。

 

 さては、昨日の白キツネかと、和尚さんは、そっと起き出して、池の方を見に行った。

 

 するとやはり、あの白キツネであった。

 

 白キツネは、ひとしきり池に足をひたすと、また、ぎこちないあの走り方で、権現山の方へ消えていった。

 

 次の晩も、また次の晩も、白キツネはやってきて、池に足を浸しにやって来た。

 

 そんな事が、七日七晩続いた。

 白キツネは、いつも決まったように池に足をひたし、権現山へと帰っていったが、七日目の夜には、もう後ろ足をかばう事もなく、元気に山に帰って行った。

 

 そして、次の日からは、その白キツネは、姿を見せなくなった。

 

 和尚さんは、不思議に思って、自分も池の水に足を浸してみると、なんと、池の水はちょうど良い暖かさのお湯になっておったそうな。

 

 「そうか、あの白キツネは、この温泉で、怪我をした足を癒しておったのじゃな」

 

 和尚さんは、村里の人達にこの話をすると、村人達は、試しにと、池の近くを掘ってみた。

 すると、たちどころに、温かいお湯が出た。

 

 村人達は喜び、なおも深く掘ると、今度は、泥まみれの仏像が出てきたそうな。

 和尚さんが、ていねいに泥を落とすと、金色色(こんじきいろ)の薬師如来(やくしにょらい)の像が現れた。

 村人達はひざまずいて、その薬師如来像をおがんだそうな。

 

 その後、薬師如来像は、守り本尊として、池のほとりにのお堂に納められた。

 

 この薬師如来をおがんでから、温泉に入ると、どんな難病もたちどころに治ると言われ、お湯に入りにくる人が、後を絶たなかったのじゃそうじゃ。

 

 その後、誰が名づけた訳でもなく、いつしか、湯田温泉の湯は「白狐の湯」と呼ばれるようになったそうな。

 

 湯田温泉駅の近くにある「狐の足あと」という観光案内施設があって、ここでは、足湯に浸かったり、白キツネにちなんだデザートやカフェが、楽しめるんです。

 

 建物に入館するだけなら無料で、中でイスに座って、のんびりする事もできます。

 

 この時ちょうど、雨が降ってきたので、僕は雨宿りもかねて、この「狐の足あと」の中で、しばしの時を過ごしました。

 

 雨が上がったので、また、大きなスーツケースを押して、少し町をぶらついてみました。

 

 

 偶然にも、さっき電話で聞いた原田酒舗を発見…

 

 早速、お店に入ってみました。

 

 大きな荷物を抱えているので、お土産に酒瓶を買うとしても、せいぜい1本が限度ですね。

 

 最初は、父への土産に、定番の「獺祭」を買おうかと思ったのですが、やっぱりそれなりに高いし、それに「獺祭」なら、東京の百貨店でも売っているから、ここでしか買えない「日下無双」を買う事にしました。

 

 この年の年末、実家の岐阜に帰省した時に、この「日下無双」を父と一緒に飲んだのですが、すごく美味しくて、父もすごく満足していました。

 結果的に、これが、父と会った最後の記憶になってしまったのですが…

 

 

 またしばらく、歩いて行くと、石碑がありました。

 

 “明治維新史蹟 松田屋”

 

 この松田屋には、薩長同盟に奔走していた坂本龍馬が、よく泊まりに来たそうです。

 

 ここには、「維新の湯」と呼ばれる温泉があって、そこには何と、高杉晋作や桂小五郎、さらには、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、大村益次郎、三条実美、もちろん坂本龍馬もですが、そうそうたる明治維新の第一級の主役達が、この湯に浸かっているのだとか…

 

 高杉晋作も、この松田屋を気に入り、当時、玄関横にあった楓(かえで)の幹に「盡国家之秋在焉(今こそ、国家に尽くす時なり)」と文字を刻み、その実際に刻まれた文字を、ホテルの中の資料館で、見る事ができるそうです。

 

 また、松田屋の庭園内には、長州藩の桂小五郎と伊藤博文、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通とが、薩長同盟の具体的な内容の協議の為に会見をした、というテーブルも、あるそうです。

 

 僕は、せっかく温泉に浸かるなら、この維新の湯に浸かろうと、この時、心に決めました。

 

 

 ここが、その松田屋ホテル…

 何というか、一流の風格があります。

 

 ちょっと緊張しましたが、大きなスーツケースを押しながら、玄関の所にいくと、いきなりホテルスタッフの人が「ようこそ、いらっしゃいました!!」と歓迎ムードでやって来て、僕のスーツケースを運んでくれようとしました。

 

 「いえ、宿泊ではなくて、このホテルの『維新の湯』にだけ入れないかと思って、来たのですが…」

 と言うと、申し訳なさそうに、丁重に断られました。

 

 どうやら、維新の湯に入れるのは、松田屋のホテルで宿泊をした人だけなのだそうです。

 まあ、考えてみれば、当然の話ですね。

 

 この松田屋ホテルの創業は、1675年…

 時は、まだ四代将軍・家綱の時代。徳川綱吉が、まだ将軍になる前ですから、本当に歴史があるホテルです。

 

 いきなり勘違いで来てしまった僕のような客にも、きちんと丁寧に接客してくれましたし、本当に一流のホテルだと思いました。

 

 

 ちゃっかりと、松田屋ホテルの人に、この辺りで宿泊なしで温泉に入れる施設の地図を頂いて、その地図を見ながら、一件の温泉にたどり着きました(^^)

 

 この「亀の湯」は、昼の12時から夜の11時半まで、いつでも温泉に入れます。

 

 しかも、たったの390円です。

 

 大きなスーツケースを押しながら、受付に行って、思いっきり、温泉の湯に癒されてきました!!

 

 

 湯上りは、ほんわかとしていいですね。

 

 さてさて、夜になるまでには、まだ、もう少し時間があります。

 

 のんびりと、この湯田温泉界隈を楽しみたいと思います♪

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<25>九州への徒歩の旅20.10.13

2020年10月13日(火)

 

 だんだんと、秋も深まってまいりました。

 皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 

 時は、移ろいゆくと言いますが、人生を振り返ってみれば、楽しかった事も、嬉しかった事も、悲しかった事も、苦しかった事も、全てが思い出になってしまう…

 

 最近は年のせいか、過ぎていく時間のスピードが半端なく速くて、この分だと、一生が終わるのも、あっという間かな… なんて、柄にもなく思ったりします。

 

 時が過ぎて行けば、少しずつ感情は静まっていくから、全ての出来事は、記憶の片隅に追いやられてしまいますが、それが素敵な思い出になるかどうかは、何となくですが、その時にどれだけ、自分に正直に生きられたかに、掛かっているような気がするんですね。

 

 どこか、自分にうしろめたい所や、無理をして我慢している所があると、やっぱりそれは素敵な思い出にならない…

 

 だから、全てにおいて、自然体で生きるのが、良いような気がします。

 人生、楽しんだ者が勝ちですから…

 

 もちろん、時には苦しい事だってあるでしょうけど、それも、楽しみながら乗りこえられたらいいな… って思っています。

 

 という事で、自然体のまま、山口の旅の旅行記の続きです。

   あいわらず一年前の内容で、十分うしろめたいです(^^;;

 

 水木杏香先生の提案で、急遽スケジュールの順番を入れ替えて、先に、赤間神宮へ参拝した後、また、水木先生の車で、さっきの源義経と平知盛(たいらの とももり)の像のあたりまで、戻ってきました。

 

 

 夜もふけて、空はもう、真っ暗になっています。

 駐車場に車を止めて、これからいよいよ、水木先生と旅の最後の目的地へと、向かいます。

 

 その場所とは、海の向こう側にある福岡県…

 

 何と、九州まで歩いて行こう、というプランなんです!!

 

 

 ここが、下関側の「関門トンネル人道」の入り口…

 

 関門トンネルという名前は、どこから来ているかというと、下関の「関」と、北九州市の門司(もじ)地区の「門」とが合体して「関門」となったのですね。

 

 言わずと知れた、本州と九州をつなぐ海底トンネルの事です。

 

 ちなみに、このトンネルの通行料金は、普通に歩いて通る分には、無料です。

(原付と自転車の人は、20円掛かります)

 

 

 まずは、このエレベーターに乗って、トンネルがある地下へと向かいます。

 

 福岡という県には、ものすごくなじみを感じているのですが、考えてみたら、僕はまだ一度も、行った事がありませんでした。

 

 以前、飛行機に乗って、「四柱推命完全マニュアル」の書店フェアを兼ねて、熊本県には行ったのですが、九州のそれ以外の県には、まだ、行ってません。

  (2014/1/25 パリブログ 「熊本旅紀行」 参照)

 

 それにしても、こんな風に海底トンネルを歩いて、福岡に行く事になろうとは、思ってもみませんでした。

 

 このプランを考えてくださった水木先生に、心から感謝しています。

 

 

 という事で、早速、福岡県の門司地区へ向かって、レッツゴーです(^^)

 

 トンネルの中は、雨が降る事もないですから、お天気が悪くても、傘を差さなくていいですし、本当に便利ですね。

 

 水木先生と、のんびりと九州に向かって歩いていたのですが、時折、ジョギングをしている人が、後ろから走って来て、僕たちを追い越して行きました。

 

 中には、汗だくになりながら、マラソンで何度も何度も、行ったり来たりしている人もいました。

 

 この辺りにお住まいの方だと思うのですが、本州と九州を、こんな風に1日に何回も往復できるなんて、本当うらやましいです。

 

 

 そうこうしている内に、ついに、山口県と福岡県の県境がやってきました。

 

 あの白いラインを越えれば、そこは九州の福岡県…

 

 いよいよ、その瞬間が刻一刻と近づいてきます。

 

 

 そして、ついに福岡県内に突入!!

 

 おめでとうございます。

 

 徒歩で、福岡県へと、たどり着く事ができました(^^)

 

 ちなみに、このトンネルの距離は780m… 徒歩での所要時間は、約10分です。

 

 

 壁に貼られていた掲示物をみると、なんと、ここは海面下58mの場所なんですね!!

 

 この関門トンネルが開通したのは、1958年…

 

 今からもう、60年以上も前の事になるんですね。

 

 こんな海の底にトンネルを掘ってしまうんですから、人間の叡智というのは、本当、底知れないです。

 

 そのまま、水木先生と歩いて、九州側のトンネル入り口の所まで、行きました。

 

 今回は、時間的に厳しくて、福岡県の地上に出る事は出来ませんでしたが、関門トンネルを突破したという証に、下関側、門司側それぞれに設置されている、半円のスタンプを押しました。

 

 

 この下半分の半円の下関市側のスタンプと、上半分の半円の北九州市の門司側のスタンプを、上手にギザギザを合わせて押すと、見事なまるい形のスタンプになります(^^)

 

 忘れられない素敵な思い出が、できました!!

 

 

 これで、水木先生との旅は終わり…

 

 水木先生に新山口の東横インまで、車で送って頂きながら、僕は物思いにふけりながら、車窓から下関の夜景を見ていました。

 

 感動にあふれた、本当に素敵な旅でした。

 

 この後、僕は山口の宇部空港から、明日の夜の便の飛行機で、東京に帰ります。

 

 水木先生とは、ここでお別れですが、僕が山口に滞在する時間は、あと24時間ほど残されています。

 

 せっかくですから、残されたこの時間で、気の向くままに、山口を一人旅したいと思います。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<24>黄昏の赤間神宮20.10.02

2020年10月2日(金)

 

 いつしか、10月を迎え、吹く風もすっかりと涼しくなりました。

 

 新型コロナの事で、右往左往しながら始まった2020年も残りあと3ヶ月…

 本当に、時が過ぎるのはあっという間ですね。

 

 10月21日、11月4日、18日、12月2日、16日の5日間、僕は立川の朝日カルチャーセンターで「タロット占い入門」を、やらせて頂く事になりました。

 

 タロット占いに、ご興味のある皆さま、よろしかったら、JR立川駅直結の朝日カルチャーセンターにて、お会いいたしましょう(^^)

 

 さて、この前のブログの続きですが、平安時代末期の源平最後の戦いの場でもあった、関門海峡の壇ノ浦古戦場で、しばしの時を過ごした後、水木杏香先生の車に乗って、赤間神宮へと向かいました。

 

 本来の水木先生のプランですと、壇ノ浦古戦場の次は、「関門トンネル人道」に入って福岡県まで歩いてみる… というスケジュールだったんです。

 壇ノ浦古戦場と、関門トンネル人道は、もう目と鼻の先ですから…

 

 

 そして、その後に赤間神宮に行き、時間があれば、ここから少し北上した所にある福徳稲荷神社にも参拝する… というプランだったのではないかと、思います。

 

 ところが、僕が「関ヶ原展」に行きたいと言って、無理やりそのスケジュールをねじ込んでしまった事で、関門海峡に来た時点で、もう夕方近くになってしまっていました。

 

 そこで、水木先生が急遽、順番を入れ替えて、神社の門が閉まってしまう前に、赤間神宮へ先に行く事になったという次第です。

   僕のせいで、水木先生のプランがぐちゃぐちゃになってしまいました…

 

 福徳稲荷神社に行くのは、また今度、山口に来た時ですね。

 

 

 駐車場に、車を止めて、少しだけ歩くと、大きな道路の信号を渡った所に、赤い綺麗な建物がありました。

 

 まるで、竜宮城のように見えるこの建物こそが、赤間神宮です。

 

 信号が青になるのを待って、横断歩道を渡り、早速、鳥居の下をくぐって行きました。

 

 

 黄昏(たそがれ)の空に、赤い建物が妙に映えて、何だか別世界にいざなわれるような感覚になります。

 

 ここが、壇ノ浦の合戦で、幼くして命を絶った、悲劇の天皇・安徳天皇を祀った神社…

 

 よくある事ですが、元々、この赤間神宮はお寺だったのです。

 安徳天皇が祀られる前から、阿弥陀寺(あみだじ)として、この場所に存在していました。

 阿弥陀寺は、かの「耳なし芳一」の舞台にもなったお寺です。

 

 そして、江戸時代までは、安徳天皇御影堂といい、この頃までずっと、安徳天皇は仏式により祀られていました。

 

 前にも書いたように、明治政府の神仏判然令によって、明治維新と同時に、それまでの日本の神社や仏閣のスタイルが、すっかり変わってしまったんですね。

 (2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)

 

 

 階段を上りきった所から、振り返って下を見てみると、さっきの下関海峡が見えました。

 

 少し前の僕は、こういう高い所から下を見ると、もう、足が震えて動けなくなってしまったのですが、いつの間にか、平気になっていました。

 

 空は少しずつ薄暗くなってきて、ちょっとだけ冷え込んで来ましたが、吹き抜ける風がとても気持ちいいです。

 

 

 安徳天皇が祭られている、赤間神宮の拝殿である「大安殿(たいあんでん)」に手を合わせました。

 

 「平家物語」の先帝入水の巻には、安徳天皇の最期が語られています。

 

 二位尼(にいのあま)は、わずか6歳の安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさして神璽(しんじ)を抱え、「波の下にも、素晴らしい都がございます。そこへ一緒に参りましょう」と、天皇を慰めながら、共に海に身を投じました。

 

  昔は、戦さに負けるという事は、死を意味していましたから、このような悲劇が、戦さの数だけ、日本全国にあったという事です。

 

 

 大安殿の向かって右側には、鎮守八番宮(ちんじゅはちまんぐう)がありました。

 正しくは、日本西門鎮守八幡宮と言います。

 

 ここは、壇ノ浦の合戦のさらに300年ほど前、貞観(じょうがん)の頃に建てられたお寺…

 

 行教和尚(ぎょうきょうおしょう)が、京都の石清水八幡宮にご分霊をした時、日本の西門の守り神として、下関のこの場所に、この鎮守八幡宮が建立されました。

 

 今度は、大安殿の左側に行ってみると…

 

 

 なんか、独特の空気感が漂っている場所がありました(^^;;

 この場所こそが「芳一堂(ほういちどう)」…

 

 ご存じ、耳なし芳一が祀られているお堂です。

 

 これは、世にも不思議な話…

 

 昔々、阿弥陀寺に、芳一という盲目の琵琶法師の僧侶がおりました。

 平家物語を語らせたら、この上なく素晴らしく、特に壇ノ浦の合戦の鬼気迫るその語りと琵琶の音は、人々の大評判でした。

 

 ある晩、その芳一の前に、どこからやって来たとも知れない、一人の武士が現れました。

 

 武士は、芳一に、自分達がいる屋敷に来て、琵琶を弾いて欲しいと頼みます。

 

 そして、芳一は武士に手を引かれるように、その屋敷に入り、七まがり八まがりの廊下をめぐって大広間に通されました。その部屋には、武士や女官達が居住まいを正して座っていました。

 

 「戦に負けた侍(さむらい)の悲しい物語を頼む」

 

 そう言われた芳一は、そこにいる武士や女官たちの為に、心を込めて平家物語を弾き語りました。

 

 その演奏は大変に素晴らしく、武士や女官たちは、みな涙を流し、嗚咽(おえつ)しながら、聞きいっていました。

 

 「実に満足した。又明日もあさっても、七日七夜頼みたい。ただし、この事は誰にも言ってはいけない」

 

 芳一はかたく約束をして、阿弥陀寺の自分の部屋に帰りました。

 

 次の日も、また次の日も、芳一の元に、その武士が現れ、芳一は屋敷へと出かけていきました。

 

 毎日、どこかへ出かけていく芳一に、阿弥陀寺の僧たちは、どこに行くのかと尋ねますが、芳一は、約束を守って、決して口を開こうとしません。

 

 不審に思った僧たちは、そっと芳一の後をつけると、芳一はある墓の前に、導かれるように歩いて行きました。

 そして、無数の鬼火に囲まれながら、芳一は鬼気迫る顔で、琵琶の演奏をしているのでした。

 

 僧たちは、そこで見て来た事の一部始終を、阿弥陀寺の和尚に話しました。

 

 和尚は「これはいかん。平家の亡霊が恨みをもって、墓のあたりをさまよっているのだ。このままだと、芳一はとりつかれて殺されてしまう」と言い、どうしたものかと思案しました。

 そして和尚は、芳一の体中に経文を書く事にしました。

 

 和尚は、芳一の頭から顔から足の先まで、経文を書き終えると、芳一に「今夜は決して何があっても、声を出したり、動いて音を立ててはいけない」と、言い聞かせました。

 

 いつものように、芳一を迎えに武士がやってきますが、今夜は、芳一がどこにも見つかりません。

 

 芳一に、呼びかけてみましたが、芳一は和尚から「声を出してはいけない」と言われているので、じっと黙ったままです。

 

 「どういう事だ。今宵(こよい)は、姿もなければ、呼びかけてみても、返事もない」

 

 武士が周りを見渡すと、闇夜の中に、二つの耳だけがくっきりと浮かんで見えました。

 

 「しかたない。ここに迎えにいったという証に、せめて、あの耳だけでも、持ち帰るとするか」

 

 和尚が帰宅して、芳一の所に行ってみると、そこには、耳を取られた血だらけの芳一が、気を失っていました。

 

 「しまった。耳にだけ、経文を書くのを忘れてしまった」

 

 和尚は、芳一に耳に経文を書き忘れた事を詫び、手厚く芳一を看病しました。

 

 やがて、耳の傷も癒えると、やっと芳一も元気になりました。

 そして、その後、芳一の琵琶の音と語りは、ますます磨き(みがき)がかかり、琵琶法師としての名声は、いっそう高まっていったのです。

 

 誰もが一度は、聞いた事のあるであろう「耳なし芳一」という昔話です。

 そして、この芳一がいた阿弥陀寺とは、まさに、この赤間神宮の事です。

 

 この後、水木先生と一緒に、芳一堂の前にある平家塚(へいけづか)に行きました。

 

 平家の落武者のいくつもの墓がそこにあり、黄昏時の塚は、異様な雰囲気に漂っていて、僕はなんか怖くなって、すぐにその場を離れました。

 

 その後、水木先生から、向こう側の階段を上った所に、紅石(べにし)稲荷神社という神社があるという事を聞いたのですが、その参道というか、階段の雰囲気がどうも苦手で、「やっぱり、ここはやめて、次の目的地に行きましょう」と、水木先生に提案しました。

 

 本当、僕は臆病ですね。

 でも、やっぱり神社というのは、黄昏時よりも朝行く方が、すがすがしいな… と、改めて感じました。

 

 

 赤間神宮の中から見た「水天門」…

 門の向こう側の空が、暮れかかっています。

 

 水木先生の話では、毎年5月2日~4日に「先帝祭」というお祭りがあって、この水天門の所に、巨大な赤い橋が掛けられるのだそうです。

 

 ここでいう先帝とは、安徳天皇の事…

 この祭りの見所は、たくさんあるのですが、中でも「安徳帝正装参拝(あんとくていせいそうさんぱい)」と「上臈道中(じょうろうどうちゅう)」が、すごいらしいです。

 

 「安徳帝正装参拝」は、特別に掛けられた巨大な赤い橋の上で、平清盛の四男で壇ノ浦の合戦の総大将である、平知盛(とももり)を先頭に、平清盛の長男・平重盛(しげもり)、平清盛の弟である平経盛(つねもり)と続いて入場、そしてその後に、主役の安徳天皇が入場し、平清盛の妻である二位の尼・平時子、そして、安徳天皇の母の建礼門院(けんれいもんいん)・平徳子(とくこ)と、続きます。

 

 一方の「上臈道中」の方は、橋の上で、華やかな衣装をまとった女官が舞を舞います。

 

 上臈とは、地位の高い女官… 転じて、身分の高い遊女の事…

 

 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の後を追って、海に身を投げた女官の中には、不本意ながらも一命をとりとめ、その後、遊女として生き延びた女性もいました。

 その元女官の女性たちが、安徳天皇の命日に、御廟所に参拝したのが「上臈参拝」の起源である、とされています。

 

 今年は、この新型コロナの騒ぎで中止となってしまいましたが、お祭りは毎年、盛大に繰り広げられるそうです。

 

 

 赤間神宮を後にして、振り返ってみると、ライトアップされて映る赤間神宮が、とても美しく見えました。

 

 下関の旅もいよいよ、クライマックス…

 

 これからいよいよ、水木先生との最後の旅の目的地へと向かいます。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<23>関門海峡の思い出20.09.23

2020年9月25日(金)

 

 気がつけば、随分と外も涼しくなって、朝夕は上着を着ないと、少し肌寒いくらいです。

 暑い暑いと思っている内に、お彼岸も過ぎて、いつしか、もう秋なのですね。

 

 秋と言えば、芸術の秋…

 

 9月27日(日)~30日(水)の4日間、僕の書の師匠である、野尻泰煌先生が発足させた藝文会が主催する「第31回 泰永書展」が開催されます。

 

 東京の池袋駅から歩いてすぐの「東京藝術劇場」が会場で、入場無料ですので、ぜひ、よろしかったら、お越しになってみてください。

 もちろん、浅野太志(雅号:豊峰蓬莱)も、参加しております。

 

 さてさて、いつものように、去年の11月の出雲・山口の旅の続きのお話…

    もう、あきれて、そこを突っ込む気もしない(笑)

 

 功山寺のすぐそばにある下関市立歴史博物館で、圧巻の「関ヶ原展」を見終わった後、いよいよ、水木杏香先生との最後の旅の目的地である、関門海峡へと向かう事になりました。

 

 

 水木先生が運転する赤い車に乗って、海の方へ向かって、まっすぐの道を南へつき進んでいきます。

 

 ふと、車窓の外から潮風が感じて、窓の外を見てみると…

 

 

 目の前に、ものすごく大きな橋が架かっているのが見えました。

 この橋こそ、関門海峡に掛かっている関門橋(かんもんきょう)…

 

 今いるこの場所が、本州の最西端だと思うと、何とも不思議な気持ちになります。

 

 車を駐車場に止め、水木先生に案内されて、海の方へと歩いて行きました。

 

 

 11月だというのに、この日は小春日和で、夕暮れ時なのに割と暖かいです。

 

 海風が本当に気持ち良い…

 

 僕が住んでいる東京のど真ん中では、絶対に見る事はできない、まるで大自然の中に吸い込まれるような雄大な景色です。

 ここに連れてきてくださった水木先生に、心から感謝です。

 

 関門橋の方へ向かって、しばらく歩いて行きました。

 

 

 この橋の向こう側は、福岡県北九州市の門司(もじ)

 

 福岡って、ソフィさんが住んでいる場所だな… とか、携帯サイトでお世話になったコムドアーズがある場所だな… とか、未だにまだ、足を踏み入れた事がない福岡に、思いを巡らせました。

 

 高杉晋作の時代には、山口県(長州藩)と、目の前の福岡県の門司(小倉藩)は、敵同士の関係にあったんです。

 

 余談ですが、福岡県で一番大きな藩である初代藩主が黒田長政の福岡藩は、幕末の時代は、家老の加藤司書(かとう ししょ)や月形洗蔵(つきがた せんぞう)などの筑前勤王党が活躍して、正義派の高杉晋作を、強力にサポートしていました。

 

 ところが、乙丑の獄(いっちゅうのごく)によって、加藤や月形など多くの勤王志士が処刑され、福岡で高杉晋作をかくまっていた尼僧で歌人の野村望東尼(のむら ぼうとうに)も、この時に、姫島に流刑となっています。

    のちに高杉晋作が、小船で姫島に行って、野村望東尼を救出する

 

 高杉晋作の功山寺挙兵(2020/8/26 ブログ 「功山寺の誓い」 参照)によって、長州藩の藩論が「正義派」に戻ると、第2次長州征伐が始まり、岸の向こうの小倉藩も幕府側として、長州藩と戦う事となりました。

 

 そして、高杉晋作は軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」に乗って、福岡県側に上陸し、幕府軍を敗走させ、小倉藩の門司地区を占領しました。

 

 丁度その頃、長州征伐へ向かう途上だった、十四代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れて、20歳の若さで逝去…

 幕府軍は、これによって次々と撤兵していき、小倉藩の藩兵も、自ら小倉城に火を放って、逃走してしまいました。

 

 その頃、晋作から「火吹きダルマ」とあだ名をつけられていた、兵法の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州藩の石州口方面を守り、全く無駄のない合理的な戦術で幕府軍をことごとく敗走させる事に成功し、この第2次長州征伐は、完全な長州藩の勝利となりました。

 

 

 関門海峡沿いの道路を、波の音を聞きながら、ゆっくりと歩いて行きました。

 

 高杉晋作は、この小倉藩との戦争の最中、持病の結核が重くなった事で、海軍総督の任を解かれ、この下関の地で静養するも、そのわずか半年後に、27歳の若さで息を引きとります。

 

 その時、晋作のそばにいたのは、愛妾(あいしょう)おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の他に、正妻である雅子夫人に、晋作の一人息子の東一、晋作の父と母、そして、無二の同志・山縣狂介(有朋)と、野村望東尼でした。

 

 “面白き 事もなき世を 面白く”

 

 この句は、高杉晋作が詠んだ上の句です。

 それに、近くにいた野村望東尼が、 “すみなすものは 心なりけり” と、下の句を付け加えました。

 

 この「面白き…」の句は、以前までは、高杉晋作の辞世の句と言われていましたが、最近の研究では、死の前年には、すでにこの句が詠まれていた事が分かっています。

 

 僕はこの山口旅行を通じて、正直言って、今まであまり関心がなかった高杉晋作という一人の人物が、とても身近に感じられるようになりました。

 

 

 海岸沿いに、2つの大きな像がありました。

 

 こちら側の像が、源義経の像であり、向こう側の像が、平清盛の四男・平知盛(たいらのとももり)の像…

 建立されたのは2004年なので、比較的新しい像ですね。

 

 この場所が「壇ノ浦古戦場」である事を、水木先生が教えてくれました。

 

 壇ノ浦の合戦… 高杉晋作の時代よりも、関ヶ原の戦いよりも、遥かに古い平安時代末期の戦い…

 この戦いこそが、源平の最後の合戦であり、これによって、平氏は滅亡する事になります。

 

 武士としては初めて、朝廷の臣下の最高位である太政大臣に任じられ、日本で初めての武家政権を樹立したのが、かの平清盛です。

 「平家にあらずんば、人にあらず」という言葉は、清盛の義弟・平時忠(たいらのときただ)が言った言葉ですが、まさに平安時代後期は、平氏の権力は絶大であり、栄華を誇っていました。

 

 しかしながら、平氏のこの独裁体制は、やがて周りの反発を生み出していき、源氏によって平家打倒が叫ばれる中、平清盛も熱病で苦しみながら、この世を去っていきました。

 

 そして、源頼朝、頼朝の弟である範頼(のりより)や義経、木曾義仲(きそ よしなか)らの源氏勢力によって、平氏はどんどん追い込まれていき、逃げのびた平氏が最後にたどり着いた場所が、この本州最西端の地・壇ノ浦という訳です。

 

 海の向こうは九州ですが、頼朝の上の弟である源範頼が、先回りして九州に陣取っているので、もう、向こう側には逃げられません。

 

 そして、頼朝の下の弟である源義経が、平氏打倒の兵を挙げて、壇ノ浦に攻め込んできたのでした。

 

 卯の刻(朝の6時頃)に両軍が対峙し、戦闘が始まると、最初こそは、平氏は海軍に強い事もあって、かなり有利な戦いを展開し、義経の軍を苦しめていたんです。

 この下関海峡の潮の流れが、平氏に優位に作用していたのも、大きいです。

 

 ところが、この潮の流れが逆転したんですね。

 よく「人生の潮目が変わる」などと言いますが、これによって、この戦いの攻守が逆転し、ついに、平氏の命運もついえてしまいます。

 

 

 この船の錨(いかり)を持っている像は、平知盛の像です。

 コンピューターゲームの無双キャラみたいに、これを武器にして、義経と戦おうとしている訳ではありません(笑)

 

 この壇ノ浦の合戦で、平氏の総大将だった知盛は、戦いの敗色が濃厚になると、自軍の最期を悟り、「平家の命運はこれまでだ。敵に見られたくないようなものは、全て海の中に捨てるように」と、味方に指示を出しました。

 

 そして、船に乗っている女官に「これから、皆さんは、物珍しい関東武士の姿をお目に掛かる事になりますぞ(関東武士に体をもてあそばれて、辱めを受ける事になりますぞ)」と言って、暗に自決を促しました。

 

 それによって、平清盛の妻で、知盛の母である二位尼(にいのあま)は、わずか6才の安徳天皇を抱いて、入水自殺をしました。

 

 戦いの成り行きの全てを見届けた平知盛は、「見ておくべきものは全て見た。後は、自決するだけだ」と言って、重い錨を自分の体に巻き付けて、体が水の中から浮かび上がらないようにし、海の中へと消えていきました。

 

 何とも、悲しい話です。

 

 鎌倉にいた源頼朝は、書状に書かれた義経からの戦場の結果報告を読むと、しばらくの間、身動き一つしないで、じっと黙ったままでした。

 

 元々、源頼朝は、上の弟である範頼に「平家を追討するにあたっては、くれぐれも安徳天皇を無事に京都へお返しするように…」と言い含めていたのですが、下の弟である義経が、後白河上皇を通じて、後から戦闘に参加し、結果的に安徳天皇も、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)も、海に沈んでしまったのですから、何とも言えない気分だったと思います。

 

 源頼朝と源義経の兄弟が不仲になってしまった原因は、他にもいろいろとあるのですが、この壇ノ浦の戦いの結果が、二人の仲に大きな楔(くさび)を打ち込む事になったのは、間違いありません。

 

 

 関門橋の下を、いくつもの大きな貨物船が、ボーッという音を立てながら、通り抜けて行きます。

 心地よい潮風に吹かれながら、僕はしばらくの間、この関門海峡の岸に、たたずんでいました。

 

 あれから一年くらいたった今でも、目を閉じれば、あの関門海峡の景色と波音が浮かんできますね。

 

 水木先生が「日が暮れてしまう前に、次は、この近くにある赤間神宮に行ってみましょう」と、おっしゃいました。

 赤間神宮は、この近くにあって、この壇ノ浦の合戦で亡くなった安徳天皇が祭られている神社…

 

 近くとはいえ、徒歩だと15分ぐらいは掛かってしまいますし、僕が博物館見学に時間を掛け過ぎてしまった事で、時間がおしている事もあり、水木先生の車で、赤間神宮へと向かう事になりました。

 

 間もなく、水木先生との この山口の旅も終わり…

 

 黄昏が近づいて、少しずつ暮れゆく空を見ると、少しだけ、さみしい気分になりました。

 

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