2018.11.02歴史と史跡を訪ねて ~近畿への旅<3>「京都探索・その2」~

2018年11月2日(金)

 

 時間がたつのは早いもので、いつしかもう11月…

 それにしても、今回、本当に、京都の地に訪れて良かったと思っています。

 

 京都の地は、明治になって、都が東京に移るまでは、ある意味ずっと、日本の中心地でした。

 それは、天皇という存在が、ずっと日本という国を、平和に治め続けてきたという事でもあります。

 

 桓武天皇の平安京遷都以来、源頼朝が鎌倉で幕府を開いたり、徳川家康の子孫たちが江戸でこの国の政治を取り仕切ったりしましたが、やっぱり日本の中心地は、この京都であり続けたように思います。

 時の権力者たちも、常に天皇にだけは、敬意を払っていました。

 

 だから、日本の中心地である京都は、常に動乱に巻き込まれて、火の海にされる危険がありました。

 特に、応仁の乱以降の戦国時代とか、幕末の動乱期なんかはそうでした。

 

 この京都の地には、日本の歴史が大きく変えた瞬間の記憶が、たくさん刻まれている…

 

 戦国時代と幕末の動乱期との違いを、一つだけ挙げるとすれば、戦国時代には、おのおのの大名が覇権を取る事で国を一つにしようとしていたのに対し、幕末期には、そういった己の野心ではなく、志士たちが自らの命を賭して、日本という国を一つにしようとしていた事でしょうか。

 

 幕末の京都の町で、志士たちは、自分の命の危険を顧みる事なく、ただただ、この国が一つになって、隣りの清国のように、世界の列強諸国の植民地になってしまう事だけは、回避しようとしたのでしょう。

 

 今で言えば、当時の京都は、集団テロと殺人がまかり通っていた恐ろしく治安の悪い無法地帯という事になります。

 でも、この場所で生きた、志士たちの志を感じてみると、目が覚めるような思いがします。

 

 人は、「自分の人生を幸せに生きる権利がある」と言います。

 

 いや、「権利がある」という言い方にすると、利己主義を思い起こしかねないですから、「義務がある」という言い方にした方が、良いかも知れません。

(2012/4/22パリブログ 「パリに行って変わった事」 参照)

 

 例えば、結婚もしたいし、仕事も成功させたいし、お金もたくさんあった方がいいし、子供もほしい… と、次々と望みや悩みが出てくるのは、ごく自然な事ですし、もしも、それで幸せになれるのだったら、その理想を叶えるべく、ひたすらに頑張ったら良いと思います。

 

 とはいえ逆に、そういった人生の目標に囚われてしまう事で、自分の事を、自ら不幸にしてしまう事もあります。

 

 また、その成功を手に入れたら入れたで、今度は、それを失ってしまう恐れに心を縛られて、身動きが取れなくなる事だってあります。

 

 僕が、このタイミングで無性に旅に出たいと思ったのは、そんなちっぽけな自分を捨てたかった…

 そういう思いがありました。

 

 坂本龍馬とか、西郷隆盛とか、桂小五郎とか、高杉晋作とか… 幕末の志士たちの生き様を見ると、僕は、このままじゃいけない… という気持ちになります。

 

 まあ、彼らはちゃんと結婚していますけど、中には若くして、結婚もしないまま散った人もいます。

 

 そういった人達の事を、「この世的な成功をしていないから、不幸な可哀想な人達だ」などと、狭い価値観で考えるのは、あまりにも失礼極まりない事です。

 

 維新の志士たちは、みな、自分の幸せ以上に、日本が一つになって、この国が幸せになる事に、重きを置いていたのですから…

 

 こう書くと、人によっては、命を軽く見ているように思われるかも知れないし、時代錯誤の右翼的な思想だ、などと思われるかもしれませんが、僕にはそういう意図は全くありません。

 

 もちろん、人が殺し合うなんて、絶対にあってはいけない事ですし、政治思想の事なんて、ここでは関係ないです。

 

 彼らが尊いのは、自分だけの個人の幸せに腐心するのではなく、みんなが幸せでいられる事を優先して行動した所です。

 彼らがもしも、この平和な現代に生まれたなら、当然、殺人とは無縁な、大きな視野を持った愛のあふれる人になるに違いありません。

 

 まあ、若くして亡くなってしまった多くの人は、記録も何も残っていないので、その生き様を知る事自体が難しいのですが、今でこそ有名になっている志士たちだって、名を成す前は、命を賭す覚悟ぐらいできていたと思います。

 

 でなければ、こんな偉業は成し遂げられていなかったでしょう。

 

 もちろん、結果的に朝敵として悪役にされてしまった江戸幕府や新選組とても、それは同じでしょう。

 立場は違えども、日本を一つにしたいという思いは、変わりないはずですから…

 

 Iさんに案内して頂いて、京都の街の史跡ツアーの始まりです。

 

 

 ここは、京都御苑の西側に位置する「蛤御門(はまぐりごもん)」です。

 

 この後、この門の中に入って、京都御所を見て回ったのですが、幕末時代からしたら、この門から中に入るなんて、とんでもない事です(笑)

 

 1864年「禁門の変」とか「蛤御門の変」と呼ばれる大きな武力衝突が、この場所でありました。

 この門の扉や、門の梁には、小さな穴が開いているのですが、それはまさしく、当時の銃弾がめり込んだ後なのですね。

 

 公家の三条実美らと結びつき、過激な尊王攘夷論(天皇を尊び、諸外国を討ち払おうという考え方)を展開していた長州藩に対し、会津藩と薩摩藩らの主導とした諸大名は、長州藩を警備担当の任を解き、京都からの退去を勧告しました。

 

 ちなみに、長州藩は、関ケ原の戦いで優柔不断な対応をして、徳川家康に減封された毛利輝元の子孫の藩です。

(2012/11/8パリブログ 「周りの人に流されない」 参照)

 

 これに不服とした長州藩の急進派である来島又兵衛らは挙兵し、無理やり御所の中に入って、長州藩の無実を訴えようしました。

 そして、この蛤御門で、会津藩や桑名藩兵などと戦闘を起こし、敗北し、多くの長州藩士が討ち死にします。

 

 長州藩急進派の考え方は、あまりに過激で、誰もついていけませんでした。

 それに、同じ長州藩の中でも、桂小五郎や高杉晋作らは、もっと慎重に事を構えていました。

 

 今、この状況で、長州藩だけのメンツにこだわっている場合ではない事を、桂小五郎も高杉晋作もちゃんと分かっていたんですね。

 

 

 京都ホテルオークラの正面北側(元々、長州藩の京都屋敷跡)に立つ桂小五郎像…

 

 僕は、明治維新の志士の中では、この桂小五郎が一番好きですね。

 

 なるべく相手との戦闘を避けようとした事から、何となく臆病なイメージを持たれやすいのですが、本当は、神道無念流・免許皆伝の凄腕を持つ剣の達人です。

 

 維新の三傑の一人として讃えられる割には、坂本龍馬とか、西郷隆盛、高杉晋作なんかと比べると、地味で臆病な人のようなイメージを持たれてしまうのですが、間違いなく、明治維新を率先して主導した人でした。

 

 

 この石碑が建つ場所は、今は居酒屋になっていたのですが、「池田屋事件」と言って、局長・近藤勇が自ら率いる新選組が、長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士の会合を急襲し、20名あまりの命が奪われた場所です。

 

 桂小五郎は、たまたま到着が早すぎて、一旦、池田屋の外に出て、友人と話し込んでいた事で、難を逃れたと言います。

 

 

 ここは、近江屋の跡地…

 

 「近江屋事件」で有名な坂本龍馬と中岡慎太郎が命を落とした場所です。

 

 坂本龍馬という男は、幕末動乱期の日本に、どうしても必要とされていた時代の寵児でした。

 そして、一通りの役目を全部終えると、早々と散っていった…

 

 身分はたかだか土佐の一藩士で、しかも人に誘われて、脱藩してしまいます。

 当時、脱藩というのは、藩内で罪人扱いされていて、ここまでの龍馬はどう見てもアウトローです。

 

 ところが勝海舟との出会いを契機にして、龍馬は一気に時代の表舞台に出る事になります。

 

 龍馬と中岡慎太郎が、西郷隆盛と桂小五郎を引き合わせ、薩長同盟が結ばれる事により、時代は急展開で本来の方向に動き始めます。

 

 そして、龍馬が草案した船中八策により、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上するという大政奉還を成功させてしまいます。

 

 

 その大政奉還が行われた場所が、この二条城…

 

 もしも大政奉還が無かったら、おそらく日本は、内戦で疲弊して、欧米列強諸国の植民地にされてしまったであろう事は、容易に想像できます。

 

 二条城の中は撮影禁止なので、写真に出来なかったのですが、二の丸御殿の中の徳川慶喜が大政奉還を発表した歴史的な部屋である一の間、二の間も当時の面影のまま、見る事ができました。

 

 また、歴史は少しさかのぼって、徳川家康と豊臣秀頼が会見した部屋もありました。

 

 この二条城は、江戸幕府の京都の出張所みたいなものであり、言うまでもなく、これを建てたのは徳川家康です。

 

 そして、ここは常に、日本の歴史を大きく動かした場所でもありました。

 

 京都に来て、本当に良かった…

 

 自分の事よりも、もっと大きな事の為に生きた先人の軌跡を、肌で感じる事ができました。

 

 せっかく生まれてきたのだから、自分のちっぽけな事だけに、汲々としながら悩むのはもうやめよう… 改めて、そう思いました。

 

 さあ、いよいよ次は、この旅の目的でもある天河神社へ向かう為に、この京都の地を出て、奈良の天川村まで南下します!!

 

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