2020.11.09西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<27>日本酒と維新の志士達の軌跡

2020年11月9日(月)

 

 11月を迎えて、外は、すっかりと寒くなりました。

 新型コロナの事で、騒がしく始まった2020年も、あと2ヶ月で終わり…

 

 今からちょうど一年前、この出雲と山口の旅行に旅立ったんです。

    ついに、1年のタイムタグが出来てしまった…

 

 実は今、あまりにも多くの仕事量を抱え過ぎていて、置かれている状況が、行き詰っています。

 この旅行記が30話まで終わったら、しばらくの間、このブログを休止して、今、一番やらなければいけない執筆活動に、しっかり腰を据えて取り組もうと思っています。

 

 それにしても、この7日間の旅行は、今思い出すと、本当にのんびりと時間を過ごしました。

 

 一年前の2019年という年は、本当に旅行三昧だったのですが、この出雲・山口旅行は、その締めくくりにふさわしい素晴らしい旅でした。

 

 まさか、その翌年、こんな疫病が流行して、マスクをしなければ、自由に動き回れないような事になってしまうとは、夢にも思いませんでした。

 

 湯田温泉に行った前日の夜、新山口の東横インの前で、水木杏香先生と別れた後、少し小腹が減ったので、ホテルの近くのコンビニに、お弁当を買いにいったんです。

 

 ふと、お弁当の横にある棚を見ると、ものすごく珍しい名前の日本酒がありました。

 

 

 奇兵隊 長州の酒「晋作」…

 

 今や僕は、東行庵で墓参りをするほどに、高杉晋作のファンになってしまったのですから、これを買わない手はないでしょう(笑)

 

 僕は、基本的に一人で晩酌とかは、絶対にしない人間ですが、このお酒のネーミングに負けました。

 

 この日の夜は、ホテルの部屋のベッドで寝そべりながら、病床にふした高杉晋作になったつもりで、コンビニ弁当と一緒に、この「晋作」を飲みました。

 

 飲み口がすっきりしていて、ものすごく飲みやすいお酒でしたね。

    自分ルールで、旅行中そこでしか手に入らないお酒を飲むのだけは、OKにしています…

 

 一人でお酒を飲んだその翌日は、湯田温泉で温泉三昧ですから、予算は掛かっていませんが、とても癒された贅沢な時間でした。

 

 亀の湯の温泉に、心行くまでゆったりと浸かった後、湯田温泉周辺を散策してみました。

 

 下の地図のように、おおよそ観光スポットは、湯田温泉駅から、少し北の方へ歩いたあたりに集結しています。

 

 

 その公共の観光案内所が「狐の足あと」という施設なのですが、中原中也(なかはら ちゅうや)記念館も、原田酒舗(はらだしゅほ)も、松田屋ホテルも、全部その辺りにあるんですね。

 

 あちこち回っている内に、「井上公園」という名前のそこそこの広さの公園を見つけました。

 

 なんと、この公園は、長州藩士として、いつも高杉晋作や伊藤俊輔(のちの博文)と一緒に行動していた井上聞多(のちの馨)の屋敷跡に整備されたとの事…

 つまり今から200年前、この場所は、明治の元勲・井上馨公のお屋敷だったのですね。

 

 

 井上馨の銅像が、堂々とそびえていました。

 

 明治維新の功労者でありながらも、どちらかというと、井上馨という人は、あまり良い印象を持たれない事が多いです。

 

 司馬遼太郎の「幕末」という短編集の中に「死んでも死なぬ」という題名の井上馨を主役にした短編があるのですが、その文末には「この男は維新前、袖解橋(そでときばし)で死ぬべきであったかも知れない。貪官汚吏(たんかんおり)の巨魁として悪名をのこした」と、こき下ろしています。

 

 財閥と密接に結びついて、私腹をこやしたりとか、秋田の尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)をせしめて、自分の物にしてしまった事で、江藤新平(えとう しんぺい)に追及されたりとか、とにかく黒いイメージで、とらえられる事が多い明治の政治家です。

 

 とはいえ、もしも明治政府の中に、経済の才覚を持った井上馨のような男がいなかったら、もしかすると、明治維新の後の日本が、欧米列強と互角に渡り合えるような事は、できなかったかも知れません。

 

 評論家の渡部昇一さんも、井上馨の事を「先見性があり、バランス感覚を持っていた優れた国家指導者」というように、評価しています。

 

 ちなみに、長州藩士時代の井上聞多(馨)・伊藤俊介(博文)というと、何となく、高杉晋作の「使いっぱしり」みたいなイメージで、井上聞多の年齢も、高杉晋作よりも年下で、伊藤俊介と同じぐらいの年なのかな… という印象を受けるのですが、実は違います。

 

 この3人の中では、井上聞多が最年長者で、高杉晋作よりも3つも年上なんです。

 

 

 井上馨の銅像のすぐ隣に、所郁太郎(ところ いくたろう)の顕彰碑がありました。

 

 この所郁太郎という人は、27歳の若さで亡くなった秀才の医者です。

 岐阜県の美濃赤坂で生まれ、緒方洪庵(おがた こうあん)に学んで、大坂適塾(てきじゅく)の塾頭に上りつめるほどの才能でした。

 

 ちなみに、顕彰碑の中の写真の銅像は、岐阜の美濃赤坂に立てられています。

 

 そして、この所郁太郎こそが、井上馨の命を救った大恩人でもあるのです。

 

 時は、幕府連合軍による第一次長州征伐の後の事…

 この第一次長州征伐によって、長州藩は俗論派が台頭し、藩論は、正義派と俗論派で真っ二つに割れてしまいました。

 

 この日の夜、正義派の代表で、高杉晋作の上司に当たる周布政之助(すふ まさのすけ)は、禁門の変の暴発を抑えられなかった事に責任を感じ、切腹をして果てました。

 

 同じ頃、長州藩の意思決定をする御前会議で、たった一人の正義派の代表として参加した井上聞多は「これまでの姿勢を貫き、幕府の長州征伐を受けて立つ」事を主張し、俗論派を言い負かして、藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の心をつかみ、藩論を徹底抗戦にする事に成功しました。

 

 ちなみにこの頃、高杉晋作は、下関砲台を占拠したイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合四ヶ国との講和談判に成功したものの、これが元で、攘夷派から命を狙われるようになり、危険を感じて、身を隠していました。

 (2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)

 

 御前会議を終えて、井上聞多が袖解橋(そでときばし)に差し掛かった時、俗論派の3人の刺客に襲われました。

 

 いきなり、後ろから足をつかまれると、前に押し倒されて、背中を斬られ、井上聞多が起き上がって反撃しようとすると、今度は3人がかりで斬りつけられました。

 

 たまたま、祇園の美人芸妓の君尾(きみお)からもらった鏡が、懐(ふところ)に入っていたお陰で、心臓だけは斬られなかったのが幸いでした。

 

 瀕死の状態で倒れているのを、近くに住む農夫に発見され、この井上公園がある場所に建っていた井上家に運ばれましたが、その時には、すでに虫の息でした。

 

 すぐに井上家に、二人の医者が呼ばれましたが、体中いたる所を斬られ、血が噴き出している状態で、なすすべがありません。

 聞多は最後の力で、そばにいる兄に、介錯をしてほしいと頼みます。

 

 見るに見かねた兄が、苦しんでいる弟を楽にしてやらねばと、刀を振り上げた時、そばにいた母が突然、血だらけの聞多を抱きかかえ、兄の介錯を思いとどまらせました。

 

 この時、所郁太郎は、長州藩に落ちのびていた三条実美に随行していましたが、事の次第を聞きつけて、三条実美の許しを得て、急遽、井上家に駆けつけました。

 

 そして、そこにいた二人の医師に手伝ってもらい、たまたま井上家に出入りしていた畳職人の畳針と糸を借りて、焼酎で傷所を洗滌し、小さい畳針で縫合し始めました。

 縫合は、約50針におよんだと言います。

 

 これにより、井上聞多は一命を取り留めました。

 その後も、母が献身的に聞多の看護をし、聞多の傷はみるみる良くなっていきました。

 

 この話は、戦前の国民学校の国語の教科書に「母の力」という題名で、おさめられていたそうなので、ご年配の方には、きっと、なじみのあるお話でしょう。

 

 それにしても、役割のある強運の人というのは、何があっても、こんな風に守られるものなのかも知れません。

 

 明治の元勲・井上馨は、この時代においては珍しく、79才の長寿を全うしました。

 

 さて、井上公園を後にして、まだまだ、今晩の飛行機のフライトまでには、時間がありそうです。

 

 この湯田温泉という場所を語る上で、絶対に欠かす事ができない、一人の著名な詩人がいます。

 

 もうしばらく、この湯田温泉の地を、散策してみたいと思います。

 

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