2020.09.23西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<23>関門海峡の思い出

2020年9月25日(金)

 

 気がつけば、随分と外も涼しくなって、朝夕は上着を着ないと、少し肌寒いくらいです。

 暑い暑いと思っている内に、お彼岸も過ぎて、いつしか、もう秋なのですね。

 

 秋と言えば、芸術の秋…

 

 9月27日(日)~30日(水)の4日間、僕の書の師匠である、野尻泰煌先生が発足させた藝文会が主催する「第31回 泰永書展」が開催されます。

 

 東京の池袋駅から歩いてすぐの「東京藝術劇場」が会場で、入場無料ですので、ぜひ、よろしかったら、お越しになってみてください。

 もちろん、浅野太志(雅号:豊峰蓬莱)も、参加しております。

 

 さてさて、いつものように、去年の11月の出雲・山口の旅の続きのお話…

    もう、あきれて、そこを突っ込む気もしない(笑)

 

 功山寺のすぐそばにある下関市立歴史博物館で、圧巻の「関ヶ原展」を見終わった後、いよいよ、水木杏香先生との最後の旅の目的地である、関門海峡へと向かう事になりました。

 

 

 水木先生が運転する赤い車に乗って、海の方へ向かって、まっすぐの道を南へつき進んでいきます。

 

 ふと、車窓の外から潮風が感じて、窓の外を見てみると…

 

 

 目の前に、ものすごく大きな橋が架かっているのが見えました。

 この橋こそ、関門海峡に掛かっている関門橋(かんもんきょう)…

 

 今いるこの場所が、本州の最西端だと思うと、何とも不思議な気持ちになります。

 

 車を駐車場に止め、水木先生に案内されて、海の方へと歩いて行きました。

 

 

 11月だというのに、この日は小春日和で、夕暮れ時なのに割と暖かいです。

 

 海風が本当に気持ち良い…

 

 僕が住んでいる東京のど真ん中では、絶対に見る事は出来ない、まるで大自然の中に吸い込まれるような雄大な景色です。

 ここに連れてきてくださった水木先生に、心から感謝です。

 

 関門橋の方へ向かって、しばらく歩いて行きました。

 

 

 この橋の向こう側は、福岡県北九州市の門司(もじ)

 

 福岡って、ソフィさんが住んでいる場所だな… とか、携帯サイトでお世話になったコムドアーズがある場所だな… とか、未だにまだ、足を踏み入れた事がない福岡に、思いを巡らせました。

 

 高杉晋作の時代には、山口県(長州藩)と、目の前の福岡県の門司(小倉藩)は、敵同士の関係にあったんです。

 

 余談ですが、福岡県で一番大きな藩である初代藩主が黒田長政の福岡藩は、幕末の時代は、家老の加藤司書(かとう ししょ)や月形洗蔵(つきがた せんぞう)などの筑前勤王党が活躍して、正義派の高杉晋作を、強力にサポートしていました。

 

 ところが、乙丑の獄(いっちゅうのごく)によって、加藤や月形など多くの勤王志士が処刑され、福岡で高杉晋作をかくまっていた尼僧で歌人の野村望東尼(のむら ぼうとうに)も、この時に、姫島に流刑となっています。

    のちに高杉晋作が、小船で姫島に行って、野村望東尼を救出する

 

 高杉晋作の功山寺挙兵(2020/8/26 ブログ 「功山寺の誓い」 参照)によって、長州藩の藩論が「正義派」に戻ると、第2次長州征伐が始まり、岸の向こうの小倉藩も幕府側として、長州藩と戦う事となりました。

 

 そして、高杉晋作は軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」に乗って、福岡県側に上陸し、幕府軍を敗走させ、小倉藩の門司地区を占領しました。

 

 丁度その頃、長州征伐へ向かう途上だった、十四代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れて、20歳の若さで逝去…

 幕府軍は、これによって次々と撤兵していき、小倉藩の藩兵も、自ら小倉城に火を放って、逃走してしまいました。

 

 その頃、晋作から「火吹きダルマ」とあだ名をつけられていた、兵法の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州藩の石州口方面を守り、全く無駄のない合理的な戦術で幕府軍をことごとく敗走させる事に成功し、この第2次長州征伐は、完全な長州藩の勝利となりました。

 

 

 関門海峡沿いの道路を、波の音を聞きながら、ゆっくりと歩いて行きました。

 

 高杉晋作は、この小倉藩との戦争の最中、持病の結核が重くなった事で、海軍総督の任を解かれ、この下関の地で静養するも、そのわずか半年後に、27歳の若さで息を引きとります。

 

 その時、晋作のそばにいたのは、愛妾(あいしょう)おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の他に、正妻である雅子夫人に、晋作の一人息子の東一、晋作の父と母、そして、無二の同志・山縣狂介(有朋)と、野村望東尼でした。

 

 “面白き 事もなき世を 面白く”

 

 この句は、高杉晋作が詠んだ上の句です。

 それに、近くにいた野村望東尼が、 “すみなすものは 心なりけり” と、下の句を付け加えました。

 

 この「面白き…」の句は、以前までは、高杉晋作の辞世の句と言われていましたが、最近の研究では、死の前年には、すでにこの句が詠まれていた事が分かっています。

 

 僕はこの山口旅行を通じて、正直言って、今まであまり関心がなかった高杉晋作という一人の人物が、とても身近に感じられるようになりました。

 

 

 海岸沿いに、2つの大きな像がありました。

 

 こちら側の像が、源義経の像であり、向こう側の像が、平清盛の四男・平知盛(たいらのとももり)の像…

 建立されたのは2004年なので、比較的新しい像ですね。

 

 この場所が「壇ノ浦古戦場」である事を、水木先生が教えてくれました。

 

 壇ノ浦の合戦… 高杉晋作の時代よりも、関ヶ原の戦いよりも、遥かに古い平安時代末期の戦い…

 この戦いこそが、源平の最後の合戦であり、これによって、平氏は滅亡する事になります。

 

 武士としては初めて、朝廷の臣下の最高位である太政大臣に任じられ、日本で初めての武家政権を樹立したのが、かの平清盛です。

 「平家にあらずんば、人にあらず」という言葉は、清盛の義弟・平時忠(たいらのときただ)が言った言葉ですが、まさに平安時代後期は、平氏の権力は絶大であり、栄華を誇っていました。

 

 しかしながら、平氏のこの独裁体制は、やがて周りの反発を生み出していき、源氏によって平家打倒が叫ばれる中、平清盛も熱病で苦しみながら、この世を去っていきました。

 

 そして、源頼朝、頼朝の弟である範頼(のりより)や義経、木曾義仲(きそ よしなか)らの源氏勢力によって、平氏はどんどん追い込まれていき、逃げのびた平氏が最後にたどり着いた場所が、この本州最西端の地・壇ノ浦という訳です。

 

 海の向こうは九州ですが、頼朝の上の弟である源範頼が、先回りして九州に陣取っているので、もう、向こう側には逃げられません。

 

 そして、頼朝の下の弟である源義経が、平氏打倒の兵を挙げて、壇ノ浦に攻め込んできたのでした。

 

 卯の刻(朝の6時頃)に両軍が対峙し、戦闘が始まると、最初こそは、平氏は海軍に強い事もあって、かなり有利な戦いを展開し、義経の軍を苦しめていたんです。

 この下関海峡の潮の流れが、平氏に優位に作用していたのも、大きいです。

 

 ところが、この潮の流れが逆転したんですね。

 よく「人生の潮目が変わる」などと言いますが、これによって、この戦いの攻守が逆転し、ついに、平氏の命運もついえてしまいます。

 

 

 この船の錨(いかり)を持っている像は、平知盛の像です。

 コンピューターゲームの無双キャラみたいに、これを武器にして、義経と戦おうとしている訳ではありません(笑)

 

 この壇ノ浦の合戦で、平氏の総大将だった知盛は、戦いの敗色が濃厚になると、自軍の最期を悟り、「平家の命運はこれまでだ。敵に見られたくないようなものは、全て海の中に捨てるように」と、味方に指示を出しました。

 

 そして、船に乗っている女官に「これから、皆さんは、物珍しい関東武士の姿をお目に掛かる事になりますぞ(関東武士に体をもてあそばれて、辱めを受ける事になりますぞ)」と言って、暗に自決を促しました。

 

 それによって、平清盛の妻で、知盛の母である二位尼(にいのあま)は、わずか6才の安徳天皇を抱いて、入水自殺をしました。

 

 戦いの成り行きの全てを見届けた平知盛は、「見ておくべきものは全て見た。後は、自決するだけだ」と言って、重い錨を自分の体に巻き付けて、体が水の中から浮かび上がらないようにし、海の中へと消えていきました。

 

 何とも、悲しい話です。

 

 鎌倉にいた源頼朝は、書状に書かれた義経からの戦場の結果報告を読むと、しばらくの間、身動き一つしないで、じっと黙ったままでした。

 

 元々、源頼朝は、上の弟である範頼に「平家を追討するにあたっては、くれぐれも安徳天皇を無事に京都へお返しするように…」と言い含めていたのですが、下の弟である義経が、後白河上皇を通じて、後から戦闘に参加し、結果的に安徳天皇も、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)も、海に沈んでしまったのですから、何とも言えない気分だったと思います。

 

 源頼朝と源義経の兄弟が不仲になってしまった原因は、他にもいろいろとあるのですが、この壇ノ浦の戦いの結果が、二人の仲に大きな楔(くさび)を打ち込む事になったのは、間違いありません。

 

 

 関門橋の下を、いくつもの大きな貨物船が、ボーッという音を立てながら、通り抜けて行きます。

 心地よい潮風に吹かれながら、僕はしばらくの間、この関門海峡の岸に、たたずんでいました。

 

 あれから一年くらいたった今でも、目を閉じれば、あの関門海峡の景色と波音が浮かんできますね。

 

 水木先生が「日が暮れてしまう前に、次は、この近くにある赤間神宮に行ってみましょう」と、おっしゃいました。

 赤間神宮は、この近くにあって、この壇ノ浦の合戦で亡くなった安徳天皇が祭られている神社…

 

 近くとはいえ、徒歩だと15分ぐらいは掛かってしまいますし、僕が博物館見学に時間を掛け過ぎてしまった事で、時間がおしている事もあり、水木先生の車で、赤間神宮へと向かう事になりました。

 

 間もなく、水木先生との この山口の旅も終わり…

 

 黄昏が近づいて、少しずつ暮れゆく空を見ると、少しだけ、さみしい気分になりました。

 

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