2020.08.13西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<20>高杉晋作に逢える場所

2020年8月13日(木)

 

 暑い毎日が続いていますが、暦の上では、もうとっくに秋…

 気がつけば、もうお盆なのですね。

 

 出雲・山口に行ってから、もうじき一年になろうとしています。

 本当に、時が経つのは早いものです。

 

 あの旅の中で、一番印象に残っている場所はどこか… と聞かれたら、もう全ての場所が、素晴らしい思い出なのですけど、中でも、今日のブログでご紹介する、この東行庵(とうぎょうあん)での出来事が印象的で、僕はその時の写真を、今でも携帯の待ち受けにしているほどです。

 

 新山口に到着して迎えた、2日目の朝…

 

 昨日に引き続き、朝、五気調整術協会の水木杏香先生が、東横インホテルの前まで、迎えに来てくださいました。

 

 水木先生の赤い車に乗って、新山口駅近くの東横インから、一路西へ…

 山口県の最西端にある下関市を目指して、車は走り出しました。

 

 

 本日、最初の目的地は、東行庵という場所…

 

 水木先生によると、元々は、別の場所に行く事を予定していたそうなのですが、この日はイベントの影響で、ものすごく混んでいて、あまり楽しめそうにないので、急遽、東行庵に決めたとの事でした…

 

 東行… つい最近、どこかで聞いたような名前だったけど、何だったっけ…

 と、記憶をめぐらして、思い出しました。

 

 それは、この前日に、高杉晋作の生家(2020/7/10 ブログ 「萩焼きと夏みかんと総理大臣と高杉晋作の生家」 参照)に行った時に、頂いたパンフレットの中に書かれていた、晋作自作の唄でした。

 

 “西へ行く 人をしたひ(い)て 東行く 心の底そ(ぞ) 神や知るらむ”

 

 僕は最初この唄を見た時、高杉晋作には申し訳ないのですけど、何だか語呂が悪いし、意味が分からない唄だと思いました(笑)

 

 どうやら、この唄は、高杉晋作が23歳の時に、出家して頭を剃り「東行」と称した時に、詠んだ唄らしいのです。

 

 “西へ行く人”とは、高杉晋作が尊敬する西行法師(さいぎょうほうし)の事であり、西行もまた、23歳で武家の身分を捨て、出家した人です。

 

 この唄では「西行を慕って、出家したけれど、自分は東に行くのだ」と、詠んでいます。

 そして、「その心は、神のみぞ知る」と、結んでいます。

 

 もうこれは、あからさまに「オレはこれから、江戸幕府を討伐しに行く」と、宣言しているようなものですね。

 

 

 車が「東行庵」に、たどり着きました。

 

 この時の僕は、東行庵とは高杉晋作のゆかりの地に違いない… という事は分かったのですが、どういう由来の場所なのか、恥ずかしながら、全く知りませんでした。

 

 ちなみに、西行法師の西行庵(さいぎょうあん)というのは、京都の東山や、奈良の吉野、香川の善通寺なんかにありますが、どれも本当に小さな庵(いおり)で、この広大な東行庵とは、まるで別物です。

 

 初めて東行庵を見た僕には、ものすごく巨大なお寺のような印象を受けました。

 

 

 東行庵の中に足を踏み入れると、見事な紅葉が見えます。

 

 高杉晋作の生家に行った時のブログに書いたように、晋作は、萩藩大組士である高杉小忠太(こちゅうた)の長男であり、萩藩でも身分の高い、れっきとした士族の生まれでした。

 

 子供の頃の晋作はひ弱で、円政寺の天狗の面ですら、怖がるような子供だったのですが(2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)、その反動のせいか、青年期の晋作は、血気盛んな青年となりました。

 

 そんな晋作が、他の過激派の志士とは違い、先の事を考えて、冷静な行動が取れるようになったのは、上司であった周布(すふ)政之助や、桂小五郎なんかの影響も、大きいのではないかと思います。

 

 あと、高杉晋作自身が、藩命によって上海(シャンハイ)へ渡航し、欧米の植民地となっている清国の悲惨な状況を、自分の目で見て来た事が、晋作の思考や行動に、非常に大きな影響を与えたと言って良いでしょう。

 

 坂本龍馬が主人公になっているドラマとか映画ですと、必ずと言っていいほど、高杉晋作が龍馬に、清国で買ってきた、リボルバー銃をプレゼントするシーンがあります。

 

 龍馬も、寺田屋事件(2019/12/18 ブログ 「伏見ほろ酔い日記」 参照)の時は、この晋作がくれた銃で防戦できたお陰で、命拾いをしましたから、そういった意味では、高杉晋作は坂本龍馬の命の恩人と言えなくもありません。

 

 若い頃の晋作は、あまりに過激に攘夷(じょうい = 外国人を討つ事)をやろうとするので、当時、長州藩藩主の世子であった、毛利定弘(毛利敬親の養子)から、無謀だと制止されて、ついに蟄居(ちっきょ)させられてしまいました。

 

 だから、高杉晋作は、藩内で身分が高い割には、桂小五郎や久坂玄瑞ほど、長州藩の表舞台に立ちませんし、他藩との交渉なんかにも、携わっていません。

 

 そして、吉田松陰が刑死すると、もはや晋作の攘夷倒幕の情熱は、誰も抑えられず、ついに松下村塾のメンバーと、江戸の英国公使館の焼き討ちを、やり遂げてしまいます。

 

 ある意味これは、師である吉田松陰の遺志を継ぐべく企てた事件で、高杉晋作が隊長となり、久坂玄瑞を副隊長にし、伊藤俊介(のちの博文)や井上聞多(のちの馨)なんかが、建物の火付け役となって、見事に英国公使館の建物は全焼しました。

 

 今で言えば、かなりヤバい放火の集団テロですが…

 

 幕府から怒りをかう事を恐れた長州藩では、ただちに、晋作を江戸から召還して、山口に呼び寄せました。

 

 そんな晋作が、出家をする事になったのは、その後の周布政之助との押し問答の末の成り行きと言って良いでしょう。

 

 以前のブログ(2020/7/22 ブログ 「松下村塾の情景の中で」 参照)にも書いたように、周布政之助が、吉田松陰を野山獄に幽閉した事によって、松下村塾はわずか二年間で幕を閉じてしまいました。

 

 とはいえ、周布政之助だって、れっきとした尊王攘夷派の志士であり、晋作の良き理解者でもありました。

 

 江戸から召還された晋作が、周布政之助に向って「今こそ、幕府を倒すべきだ」と言うと、周布政之助は「まだ、時期尚早だ」と、なだめます。

「じゃあ、いつまで待てばいいのか」と晋作が詰め寄ると、周布政之助は「十年待て」と言います。

 

 それを聞いた晋作が、「それなら十年の間、暇を頂く」と言い放ち、藩の承認を得ると、頭を丸めて出家してしまいました。

 その時に読んだ句が、さっきの「西へ行く人をしたひて東行く…」の唄です。

 

 一旦は出家したものの、長州藩の危機であるという事で、すぐに周布政之助から呼び戻されて、一年も経たずに、また現役に復帰していますが…

 

 

 東行庵の樹々が、秋色に色づいています。

 

 高杉晋作が、周布政之助に呼び戻された理由は、長州藩が外国船を砲撃した事で、その結果、フランスとアメリカからの報復を受け、惨敗した下関戦争がきっかけです。

 

 この時に、晋作は下関の防衛を任され、その為に結成したのが、かの有名な奇兵隊(きへいたい)という訳です。

 

 奇兵隊は、身分に因らない志願兵による部隊であり、この時代において非常に画期的な軍隊でした。

 この晋作の発想には、師である吉田松陰が論じた「西洋歩兵論(せいようほへいろん)」の影響が、色濃く反映されています。

 

 とはいえ、当初、晋作が奇兵隊を率いていたのは、3ヶ月余りの短い期間だけです。

 

 奇兵隊は、長州藩の正規部隊である撰鋒隊(せんぽうたい)と揉めて、最後はついに斬り合いの喧嘩となり、晋作はその責任を取らされて、総監を罷免されてしまいました。

 

 

 東行庵の紅葉が、燃えるように真っ赤に染まっています。

 まるで、高杉晋作の燃えたぎる維新への情熱の色のように、思えてきます。

 

 長州藩にとって、おそらくは、この下関戦争の後が、最も苦難に満ちた時期だったのではないかと、思います。

 何といっても、八月十八日の政変によって、長州藩は、京都の警備担当を他藩に回され、長州寄りの急進派の公卿(くぎょう)達と共に、京都から追放されてしまいましたから…

 

 この裏には、薩摩藩と会津藩が秘かに手を結んだ、薩会(さっかい)同盟があったのですが、そもそも事の発端は、欧米列強の外国に対して、どう対処するかの価値観の違いによるものです。

 

 その対応において、一方的に外国の船を砲撃するという、最も過激な対応をした長州藩と、天皇の親征攘夷論(しんせいじょういろん)という、最も過激な主張をしていた三条実美(さねとみ)などの急進派の公家が、この八月十八日の政変のターゲットになりました。

 

 この時期、京都を中心とした日本の政治情勢は、孝明天皇の意見が何一つ通らないほどに、攘夷倒幕の風潮や、急進派の公家の勢力が台頭していました。

 その巻き返しを図ろうとした、公武合体派によって、この八月十八日の政変が起こされたという訳です。

 

 そして、その後の池田屋事件よって、吉田稔麿(としまろ)ら長州藩士は新選組に斬られ、その一ヶ月後、禁門の変により、久坂玄瑞や入江九一、来島又兵衛は戦死、長州藩は御所に向かって発砲した事などにより、朝敵とみなされ、この後の第一次長州征伐、第二次長州征伐につながっていきます。

 

 また、海上からは、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃し、ついに下関砲台は欧米列強に占拠されるに至ります。

 

 さらに悪い事に、長州藩そのものも藩内の俗論派の台頭を受けて、責任を感じた正義派の周布政之助は自害し、晋作自身も、福岡に逃れざるを得ませんでした。

 

 長州藩の正義派は、内にも外にも、腹背に敵を受けた上に、海からは欧米列強4ヶ国に上陸されて、もう絶体絶命の四面楚歌の状態でした。

 

 ゆるやかな坂を、上へ上へと登っていくと、そこに肩ひざで立っている侍(さむらい)の像が、ありました。

 

 

 どうやら、高杉晋作像では、なさそうです。

 

 像の下の所に「山縣狂介(有朋)像」と、書かれています。

 ご存じ、第3代と第9代の日本の内閣総理大臣である、あの山縣有朋です。

 

 意外に思われるかもしれませんが、実は、山縣有朋は、高杉晋作よりも一歳年上なのです。

 

 とはいえ、下級武士の身分である山縣狂介(有朋)は、萩藩大組士の家柄の高杉晋作とは、あまりにも身分に違いがある事から、当初、その関係は、格上の高杉晋作に、年上の山縣狂介がつき従っているような形でした。

 ちなみに、山縣狂介の“狂”の字は、尊敬する高杉晋作が名乗っていた「西海一狂生東行」から、取っています。

 

 山縣狂介も松下村塾の塾生ですが、その入塾は遅く、京都にいる時に、松陰四天王の一人・久坂玄瑞から紹介状を書いてもらって、やっと吉田松陰に入門する事ができました。

 

 同じく松陰四天王の吉田稔麿と山縣狂介の間で、こんな逸話があります。

 

 松下村塾の時代、吉田稔麿は落書きをしていて、紙の真ん中に暴れ牛の絵を描いて、その横に烏帽子(えぼし)と木刀、そして棒切れを描き加えました。

 

 それを見ていた山縣狂介が「一体、これは何の絵か」と尋ねると、稔麿は「高杉という男は、何にもこだわらない天才で、誰もつなぎとめる事はできない。まあ、野に放たれた牛のようなものだな…」と答えました。

 

 「この烏帽子は何か」と問うと、「久坂玄瑞という男は、雰囲気が立派で、烏帽子でもかぶらせて屋敷に座らせれておけば、中々絵になる」と答えました。

 

 木刀の絵を指さして「これは何か」と問うと「入江九一という奴は、まあ、木刀のようなものだな。何も斬る事はできないが、脅し程度になら使える」と言いました。

 

 「では、この棒切れは何か」と、山縣狂介が尋ねると、「これはお前だ。凡庸で、何の取り柄もない…」と、答えたと言います。

 

 後の総理大臣で日本陸軍の祖も、この頃には、この程度の扱いしかされていなかった、という事ですね(笑)

 

 しかしながら、高杉晋作は、そんな山縣狂介の事を信頼し、身分の違いなど気にする事なく、自分の創設した奇兵隊に誘い入れました。

 

 やがて、山縣狂介は、奇兵隊のナンバー2である軍監にまで昇進します。

 

 山縣有朋(狂介)は、前にも書いたように(2020/6/18 ブログ 「維新の街の香り」 参照)、明治政府の頂点まで上り詰めますが、終生、高杉晋作への恩は忘れませんでした。

 

 山縣狂介像の場所を、さらに坂を登りきった所に、高くそびえる一つの像…

 

 

 これぞ、高杉晋作その人の像です。

 

 高杉晋作の真骨頂は、長州藩が朝敵となり、幕府から山口に討伐の大軍が押し寄せ、海からはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四ヶ国連合艦隊が迫って、そして、藩内からは俗論派が台頭し、正義派が次々に粛清されていく… その絶体絶命の状態から、起死回生の反撃で長州藩を立て直した、その神業とも言える活躍です。

 やがて、それがそのまま、明治維新の原動力となっていきました。

 

 連合国4ヶ国に、下関砲台を占拠されると、晋作はその和議交渉を任され、長州藩の筆頭家老の宍戸家の養子・宍戸刑馬(ししど ぎょうま)と名のって、長州藩の代表として、和平交渉の会談に臨みました。

 

 この時の高杉晋作の機転の利いた交渉の対応がこそ、長州藩を救ったとも言えます。

 

 連合国側の通訳士である、アーネスト・サトウは、後に「会談に臨んだ高杉は、魔王のように傲然としていた」と語っています。

 

 連合国側は、当然の事ながら、船を自由に通行する権利や、砲台の撤去の要請だけでなく、巨額の賠償金を要求してきました。

 

 とはいえ、それを断れば交渉は決裂し、欧米列強は砲台だけではなく、長州藩全土に武力行使をして侵略してくるのは、目に見えています。

 

 晋作は、それらをあっさりと受け入れ、賠償金も払うと言いました。

 しかしながら、「長州藩に攘夷を命じたのは、朝廷と幕府だから、賠償金は幕府に請求してほしい」と、うまくかわします。

 

 すでに欧米列強とは条約を結び、欧米列強の軍事力と日本の軍事力が、いかに隔たっているか良く分かっている江戸幕府は、本心を言えば、攘夷なんてやりたくなかったのですが、以前に孝明天皇と攘夷の約束をしていた事もあり、急進派の公家や長州藩から催促され、この時は仕方なく、攘夷命令を出したんです。

 

 そして晋作は、あらかじめ用意していた、幕府によって書かれた攘夷命令書を、連合国代表のレオポルド・キューパーに差し出しました。

 

 この攘夷命令書を見て、キューパーも納得し、賠償金は幕府に請求する、という事になりました。

 この時の長州藩は、すでに朝敵であり、幕府は長州藩を征討する準備を進めていましたから、欧米列強の矛先が幕府に向くのは、願ったりかなったりです。

 

 その代わり、キューパーは「賠償金の支払いが終わるまでの抵当として、彦島を借り受けたい」と言ってきました。

 

 高杉晋作の脳裏に、二年前に見た、清国の上海での出来事がうかびました。

 そこでは、欧米列強の外国人が、上海を我がもの顔に歩き、みるみる内に植民地化されて、清国は、国を乗っ取られていったのでした。

 

 しかしながら、ここで首を横に振って、交渉が決裂してしまえば、やはり最悪の事態になってしまいます。

 

 この時、伊藤俊介(博文)は、長州藩側の通訳を担当していたのですが、その時の高杉晋作の大胆不敵な対応に、度肝を抜かれ、後に「あの機転の利いた対応がなければ、日本も欧米列強の植民地になりかねなかった」と、称賛をしています。

 

 キューパーから、彦島租借(そしゃく)の事を切り出された高杉晋作は、何を血迷ったか、いきなり古事記を暗唱し始めました。

 

 「そもそも、日本国なるは高天原(たかあまはら)から始まる。初め、国常立(くにとこたち)の尊(みこと)ましまし、続いて、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)なる二柱(ふたはしら)の神々ありまして、天の浮橋(あめのうきはし)に立たすたまい、天沼矛(あめのぬぼこ)を持って、海を探られ、その矛の先から滴(したた)る雫(しずく)が島々になった。まずできたのが、淡路の国の淤能碁呂(おのころ)島である。されば神々、その島に天下りくだりましまし…」

 

 気でも違ったかのように、外国人の面前で、朗々と古事記を唱和する晋作に、伊藤俊介も、真っ青になりました。

 

 戸惑っている伊藤に「俊介、通訳しろ」と言います。

 

 「ちょっと高杉さん、それ古事記でしょう。私の語学力ではとても無理ですよ…」と狼狽する伊藤に「いいからやれ」と命じます。

 

 仕方なく、伊藤もたどたどしい言葉で通訳するのですが、当然ながら、相手に伝わりません。

 

 彦島租借の件をキューパーが切り出す度に、高杉晋作から古事記をずっと唱和され続け、キューパーもついに根を上げ、彦島租借の問題は、うやむやになってしまいました。

 

 後の伊藤博文は、イギリスに占領されつつある上海を、直に見てきた高杉晋作は、土地を貸し与える事が、後々植民地化につながるという事を、見抜いていたのではないかと、語っています。

 

 

 これは、高杉晋作顕彰碑(けんしょうひ)

 

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん = みんな、ただただ驚いて、ぼう然とする)として、あえて正視するものなし。これ、我が東行高杉君にあらずや…」

 

 写真では、何が書いてあるか見えませんが、ここには、事細かく、高杉晋作27年の生涯の偉業が書かれています。

 

 伊藤博文(俊介)が、「高杉の碑文こそは、わしが書く」と文章を起こし、それを明治の三筆といわれた、杉孫七郎が文字にし、除幕式には、井上馨(聞多)が代表として出席し、その時には、高杉晋作に対する思いを、長々と演説したと言います。

 

 この碑が立てられた時には、すでに伊藤博文は、中国のハルビンで暗殺されており、山縣有朋(狂介)も、除幕式は、病気の為に出席できませんでした。

 

 この顕彰碑、実は東京で作られていて、はるばるこの山口の下関まで、列車で運ばれてきたらしいです。

 

 しばらく歩いて行くと、一つの石碑がありました…

 

 

 この石碑を見て、初めて、この東行庵という場所が何なのかが、分かりました。

 

 “史蹟 高杉晋作墓”

 

 つまり、この場所、この東行庵とは、高杉晋作の墓所であり、高杉晋作ゆかりのお寺だったのです。

 

 そのまま、先に進んでくと、その場所は、まるで時間が止まったように、ひっそりとしていました。

 

 

 “東行墓”

 

 この下に、あの明治維新の革命児・高杉晋作が眠っていると思うと、胸が熱くなりました。

 

 この場所こそが、高杉晋作に逢(あ)える場所…

 

 長い時間、心行くまで、静かにそこで手を合わせてみました。

 

 この東行庵の初代庵主は、高杉晋作の愛妾(あいしょう)である、おうの…

 元々の東行庵というのは、山縣有朋が建てた「無鄰菴(むりんあん)」と呼んでいた庵でした。

 

 「無鄰菴」と聞いて、京都で行われた、日露戦争を決定づけた「無鄰菴会議(むりんあんかいぎ)」を思い浮かべた人は、かなりの歴史通だと思います。

 

 僕は、前に京都に行った時、Iさんから教えて頂いて、実際に無鄰菴会議が行われた建物を、外から見た事があるのですが、そもそも最初の無鄰菴とは、この東行庵の前庭あたりに建っていた、山縣有朋が新婚当時から住んでいた建物の事でした。

 それにちなんで、山縣有朋が新たに建てた、京都の別荘も、無鄰菴と呼ばれる事となったのです。

 

 高杉晋作が結核で早世した後、山縣有朋はヨーロッパ外遊をする際に、おうのが生活に困らないようにと、この地に所有していた敷地と、かつての住まいである無鄰菴を贈っています。

 さらに山県有朋は、明治7年に、無隣庵の隣接地を買い求め、おうのに贈っています。

 

 それが、現在の東行庵の広大な敷地という訳です。

 

 高杉晋作像の前に、山縣有朋像が立てられていたのは、そういう所以があったのですね。

 

 最初、山縣有朋から譲られた無鄰菴の屋敷を、そのまま東行庵にしていた、おうのでしたが、旧藩主の世子である毛利元昭(もうり もとあきら)や、伊藤博文、井上馨といった多くの高杉晋作を慕う人達からの寄付を得て、新たに、東行庵の建物が建てられる事となりました。

 

 やがて、おうのは、曹洞宗総本山永平寺(2018/12/11 ブログ 「永平寺巡り」 参照)の六十一世である久我環渓(くが かんけい)禅師から得度を受けて、「梅処(ばいしょ)」と名のり、ずっと晋作の菩提を弔い続けました。

 

 高杉晋作は、梅の花が大好きで、自らの手でおうのの為に作った茶杓(ちゃじゃく)には、すでに高杉晋作の字で「梅處(処)」と記されていました。

 おうのは、その晋作がくれた名前を、そのまま、名のったのですね。

 

 久我禅師が、長府市にある功山寺(こうざんじ ※次回のブログ 参照)に来た時には、厨子(ずし)入りの白衣観音菩薩像(びゃくいかんのんぼさつぞう)が贈られて、これが、この東行庵のご本尊になっています。

 

 

 もみじの紅葉の道をたどり、さらにゆるやかな坂道を上に上がっていくと、そこには、清らかなお顔をした観世音菩薩像がありました。

 

 この石造りの観世音菩薩は、東行庵三代庵主・谷玉仙(たに ぎょくせん)によって、立てられたもの…

 

 谷玉仙は、東行庵中興の祖と呼ばれ、東行記念館を開設したり、奇兵隊士や諸隊士の慰霊墓地を開いたり、保育園を経営したり、カンボジアに難民活動に行ったりと縦横無尽に活躍しました。

 

 この中の「慰霊墓地の開設」などは、まさに、生前の高杉晋作が、やり遂げたかった事だと思います。

 日本最初の招魂場である桜山招魂場は、高杉晋作が発案したものですし、その後、それをきっかけに全国各地に次々と招魂場ができ、東京招魂場は、現在の靖国神社となっています。

 

 この三代庵主・谷玉仙の活躍によって、この東行庵は完成を見たと言って良いでしょう。

 

 初代庵主の谷梅処(たに ばいしょ)こと、おうのが高杉晋作の菩提を弔い、二代庵主となる谷梅仙(たに ばいせん)も、おうのと同じく功山寺で得度をし、後に、おうのから東行庵に迎え入れられますが、その後、わずか8ヶ月で、おうのは亡くなってしまいます。

 

 谷梅仙は二代庵主として、東行庵を引き継ぎ、ある時、大人顔負けの見事な所作をする6歳の少女に出会うと、すぐに弟子として、東行庵に招き入れました。

 この少女こそが、後の三代庵主・谷玉仙です。

 

 東行庵の庵主が、そろって谷姓を名乗っているのは、理由があります。

 

 実は、晋作が多勢に無勢で功山寺で挙兵した時、高杉家から廃嫡されてしまったんです。

 

 当時は一時的に、俗論派が藩を牛耳ってしまっていましたから、高杉晋作が福岡に逃れると、藩から圧力がかかり、晋作は高杉家を廃嫡されて、高杉家の家督は、晋作の姉婿が継ぐ事になりました。

 

 ところがその後、その無謀とも言える挙兵が成功して、長州藩に正義派が返り咲き、さらに晋作が幕長戦争で幕府連合軍を破ると、藩主・毛利敬親より、新たに谷家という別家を興すように言われ、100石を与えられます。

 

 だから、あまり知られていませんが、最晩年の高杉晋作は、谷潜蔵(たに せんぞう)と名のっていました。

 

 つまり、愛妾であったおうのや、その後を継ぐ、梅仙や玉仙も、晴れて晋作と同じ谷姓を名乗る事ができたのですね。

 

 

 ここは、東行庵の敷地の真ん中あたり… 東行庵の建物に隣接した所に建てられている、東行記念館です。

 

 この2Fの部分が、下関市立東行記念館として、高杉晋作や奇兵隊のミュージアムになっています。

 

 高杉晋作が4ヶ国との会議で着用していた直垂(ひたたれ)とか、騎兵隊のたどった軌跡、それから、例えば周布政之助などと言った、晋作となじみのある人物の肖像画や、人物の解説…

 

 維新マニアの晋作ファンが、泣いて喜びそうなものばかりです。

 

 たった300円で、心ゆくまで、高杉晋作の世界に浸る事ができます。

 

 ミュージアムを出ようとして、一階に行くと、たまたまそこに、東行記念館の館長さんがいらっしゃっていました。

 

 水木先生が「東京から、こちらまで、いらっしゃったんですよ」と、館長さんに、僕の事を紹介してくださいました。

 

 「ほう、東京から、わざわざこちらまで!! それならば…」

 

 この後、僕にとって、おそらくこの旅の中で、最も印象的で忘れられない思い出ができました。

 

 詳しい事は、思い出の中にしまっておこうと思うのですが、今もそれを、携帯の待ち受け画像にしているほどに、大切にしています。

 

 

 東行庵の建物は、紅葉の中にありました。

 

 おうのがどこで生まれたかとか、どうやって、高杉晋作と出会ったかとか、ハッキリした事は何もわかっていません。

 おうのも、それについて、語る事はありませんでした。

 

 晋作と一緒に行動するようになる前は、おうのは裏町の堺屋で「此の糸(このいと)」という名で、芸者をしていたそうです。

 

 とても、素直な芸者で、やがて晋作が見受けしたと言われています。

 

 晋作とおうのが一緒に過ごした時期は、4年にも満たない歳月であり、晋作が亡くなった時、おうのはまだ、二十代の花盛りの女性でした。

 

 しかしながら、おうのは、残りの人生をかけて、晋作の菩提を弔い続けるという決心をしました。

 

 そして、その後42年間の間、ずっとこの東行庵で、ただ一人、法灯を守り通し、晋作の菩提を弔い続けました。

 

 高杉晋作には、雅子夫人という正妻がいますし、二人の間には、東一という息子もいます。

 

 という事は、愛妾のおうのは、ずっと日が当たらない肩身の狭い存在のように、思われてしまいそうですが、決して、二人の関係は、今でいう不倫とか、浮気相手とか、そういったものとは違います。

 

 おうのと晋作の関係は、ちゃんと公然とした関係であり、雅子夫人とおうのとの仲も、非常に良かったのだそうです。

 

 他にも、山縣有朋と東行庵とのお話とか、館長さんから、たくさんの素敵なお話を、聞かせて頂きました。

 

 この時をきっかけに、高杉晋作という人物が、非常に身近に感じるようになりました。

 

 東行庵の紅葉の中を、駐車場へと戻っていきます。

 

 少しお腹もすいてきました。

 この東行庵の敷地の中で、いつしか3時間以上の時が経っていたのですね。

 

 水木先生がおっしゃるには、この場所から、新幹線の線路を超えて、2kmほど南に行った所に、美味しい貝汁のドライブインがあるとの事…

 

そこは、「貝汁のみちしお」と言って、地元の人はみんな知っている、超おすすめの場所だそうです。

 

 

 すごい!! この貝汁の量と美味さは、半端ないです。

 

 新鮮な、海鮮ものがケースの中に、たくさん用意されていて、その中で好きなものを選んで、バイキング方式でトレーの上にのせて、持ってくるのです!!

 

 という事で、欲張っていっぱい持ってきてしまいました(^^)

 

 次の観光スケジュールは、ここから、南西に10kmほど行った所にある、国宝・功山寺…

 

 まさに、高杉晋作の「功山寺挙兵」を以って、明治維新がスタートしたと言っても良いでしょう。

 

 その場所は、一体どんな所なのか、自分の目で確かめてみたいという思いで、この時、胸がいっぱいでした。

 

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