2020.07.06西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<17>萩焼きと夏みかんと総理大臣と高杉晋作の生家

2020年7月10日(金)

 

 ここ最近、東京ではずっと雨が続いていて、洗濯物も中々干せなくて、困ったなあ… と思っている内に、気がつけば、もう7月です。

 本当に、あっという間に、時間が過ぎていきますね。

 

 バタバタしている内に、すでに今年も、半分終わってしまいました…

 今年こそは、必ず仕事の成果を上げてやる… と、意気込みだけはあるのですが、やろうとしていた事の3分の1も、できていません。

 

 もちろん、このまま簡単に庚子の年を終わらせる訳にいきませんから、今年の後半は、死ぬ気で頑張ります(^^;;

    リボーンの死ぬ気の炎です…

 

 萩の城下町を、五気調整術協会の水木杏香先生と、散策していたのは、もう8ヶ月の前の事…

 

 このブログは、記事をまとめる構成上、時々、旅の行動の順番の前後を入れ替えて、書いたりしています。

 

 例えば、この日(2019年11月12日)ですと、最初に萩・明倫学舎に行った後、萩中央公園の脇にある、山縣有朋像や久坂玄瑞像の横を通りぬけて、萩城城下町のエリアに入り、まず円政寺に、続けて木戸孝允旧宅を拝観すると、ちょうどお昼時になったので、レストランの「晦事(コトコト)」に入って、水木先生とお食事をした…

 というのが、本当の順番です。

 

 考えてみると、お昼時までの数時間の間に、明倫学舎、円政寺、木戸孝允旧宅と、すでに3つも観光スポットを回りきっているのですね。

 

 水木先生が、あらかじめ萩市の事を下調べをしてくださったお陰で、内容が濃くて、とてもスムーズな観光になっていました。

 

 こうして、旅の思い出を綴っていて、改めて、感謝の気持ちがわいてきます。

 

 そんなこんなで、萩の城下町のレストラン「晦事」で、美味しい昼食を取って、その後もさらに、この萩の城下町を散策しました。

 

 

 萩の城下町の白壁の建物は、当時の面影を残したまま、とても美しく保たれています。

 この日は、11月でありながらも、おだやかで温かい一日でした。

 

 萩の名産と言えば、萩焼(はぎやき)

 

 

 これは、昼食をとったレストラン「晦事」の、お店の前に飾ってあった、萩焼です。

 

 萩焼の特徴は、貫入(かんにゅう)と呼ばれる、陶器の表面の細かいヒビ割れの模様にあります。

 どちらかというと、地味な陶器なのですが、その独特で何ともいえない風合いが、非常に人気があるんです。

 

 それで、長年、萩焼の茶碗を使っていると、貫入の細かい溝に、お茶の成分などがしみ込んで、色の風合いが変わってくるのが、また良いんですね。

 

 

 あと、萩の名産と言えば、夏みかん…

 

「晦事」で飲んだ夏みかんジュースも、とってもおいしかったですが、城下町には夏みかんの樹が所々にあって、とても甘酸っぱい香りがします。

 

 ここは本当に、素敵な街です。

 

 次に、水木先生と一緒に、幕末のヒーロー高杉晋作の生家へと向かいました。

 

 

「晦事」から、高杉晋作の生家への道筋にある、田中義一の生誕地です。

 

 田中義一とは、やはり、この萩の城下町で生まれた日本の第26代内閣総理大臣…

 

 たまたま、この場所で生まれていますが、もちろん、近所に住んでいた桂小五郎とか、伊藤博文のコネで、内閣総理大臣になった訳ではありません。

 だいたい、田中義一が総理大臣になったのは、それから随分後の時代の事です。

 

 田中義一は、昭和3年、満州事変の背景となる「張作霖爆殺事件(ちょうさくりん ばくはじけん)」が勃発した時の総理大臣です。

 

 元々、陸軍の有能な軍人だったのですが、首相に就任中は、軍部との関係には随分と苦慮したようで、「張作霖爆殺事件」に対するつじつまの合わない対応を、昭和天皇に叱責されると、それを気に病みながら、心臓の病気で没した、と言われています。

 

 この狭い萩城下町の歩き回れる場所で、伊藤博文に続いて、それとは全く関係ないルートで、再び内閣総理大臣が誕生するのも、偶然にしては、出来すぎているような気がします。

 

 田中義一生誕地から、歩いて1分…

 

 

 目的の場所である、高杉晋作の生家に、たどり着きました。

 

 幕末の風雲児・高杉晋作は、1939年(天保10年)、萩藩大組士である高杉小忠太の長男として、ここで誕生しました。

 

 幼少期は病弱で、ひ弱な子供だったそうです。

 

 

 「お座敷には上がらないで下さいませ」と、木の立て札が、立てかけられています。

 

 ここが、あの高杉晋作が生まれた場所かと思うと、確かに思わず、部屋に上がりたくなってしまいます(笑)

 

 高杉晋作はこの家から、明倫館に通いながら、松下村塾にも通っていました。

 そして、吉田松陰の元でどんどん頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されるまでに、なりました。

 

 あの「円政寺」の天狗のお面を怖がった少年が、後に長州藩で騎兵隊を結成して、クーデターを起こす事になる…

 歴史というのは、不思議なものです。

 

 

 これが、高杉晋作が浸かった産湯の井戸です!!

 

 明治維新の発端を作った最初の立役者は、ここで、オギャーと生まれたのですね。

 

 晋作は、わずか27歳の短い人生を、風雲の如く駆け抜けました。

 

 僕はまだ、高杉晋作に対して、この時はあまり興味を持っていなかったのですが、翌日、この一人の偉人を、とても身近に感じられるようになりました。

 それはまた、後々のブログで語る事にします。

 

 

 晋作広場にあった「高杉晋作立志像」…

    攘夷志士に、なりきってみました(笑)

 

 高杉晋作が立てたその志は、奇兵隊という形となって、同胞によって引き継がれ、その志は、晋作の死後に身を結ぶ事になります。

 

 僕も、晋作にあやかって、小さいなりにも、自分の志を全うしたいと、改めて思いました。

 

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