2020.06.30西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<16>死してのちやむ ― 桂小五郎の生き様

2020年6月30日(火)

 

 先週の金曜日、僕は、岡山県玉野市にある珈琲焙煎店に、行ってまいりました。

 

 そのお店は、8年前の僕がまだフランス・パリにいた頃から、時々お便りをくれているMさん、そして、Mさんの息子さんがマスターをしている、こだわりの珈琲のお店…

 

 当時パリ ブログで、Mさんの事を「感謝の達人」と、よく紹介していましたが、Mさんは本当に人間的に素晴らしい方なのです。

 

 今回、Mさんの息子さんとは、10年ぶりぐらいにお会いしたのですが、とても頼りがいがある頼もしい青年となっていました。

 

 コーヒーというのは、使う豆の種類や、挽き方、焙煎する時間など、ほんの少し違うだけで、全く違う味になってしまうんですね。

 

 この「みなと珈琲焙煎所」は、そういったコーヒーの作り方によって変わる、味の違いを知り尽くした上で、丁寧に真心を込めて、最高のコーヒーになるように、作っているお店です。

 

 コーヒー豆やドリップバックなどは、通信販売でも取り扱っていますから、よかったら皆さま、美味しいコーヒーを召し上がってみてください(^^)

 

 そして、MさんとMさんの息子さんに見送られながら、岡山駅から発車する夜行バスで、9時間かけて東京まで帰ってきました。

 

 戻って来てみると、東京の天気は雨…

 もうしばらく、梅雨は続きそうな感じですね。

 

 さてさて、また去年の山口の旅の話に戻ってしまうのですが、五気調整術協会の理事・水木杏香先生と萩市の萩城城下町を歩き、この街の中で、僕が一番行ってみたいと思った、ある明治維新の偉人の旧宅を、訪ねました。

 

 

 その偉人とは、明治維新三傑の一人とも言われる、木戸孝允の事…

 

 木戸孝允と名乗るようになったのは、明治になってからの事で、30歳頃までは「桂小五郎」と名乗っていました。

 こちらの名前の方が、なじみ深く感じられる方も、多いでしょう。

 

 よく「逃げの小五郎」の異名で通っていた… などと言われますが、あれは司馬遼太郎の小説の題名「逃げの小五郎」(「幕末」という短編集に入っている)が発端であり、実際に生きている時から「逃げの小五郎」などと呼ばれていた訳ではありません。

 

 あの呼び名は、司馬遼太郎が、神道無念流の免許皆伝の腕前であり、剣術の達人でありながらも、極力戦闘を避け、逃げてばかりいた(といっても、極力戦わないのが、神道無念流の教えなのですから、仕方ないのですが…)桂小五郎の事を、ちょっぴり皮肉って、つけたネーミングと言って良いでしょう。

    ちなみに「眠りの小五郎」は、完全にこの「逃げの小五郎」からインスパイアされてます(^^;;

 

 ある意味、この呼び名は、慎重過ぎるほどの桂小五郎の性格を端的に表しているとも、言えます。

 

 明治維新三傑とは、西郷隆盛、大久保利通、そして、木戸孝允こと桂小五郎の3人の事を指し、明治維新を主導して成し遂げた主人公こそが、この三人と言えます。

 

 もちろん、実際には、星の数ほどのたくさんの名もなき人達によって、明治維新の偉業は成し遂げられているのですが、この三人は、ただならぬ人物の度量と、熱く燃えたぎる思いを持ち、さらに、事に慎重で、自らがある程度、長生きしたからこそ、偉業が達成されるのを、目にする事ができたとも言えます。

 

 それで、この三人の中で唯一、英語で外国人と話ができたのは、桂小五郎ただ一人です。

 また唯一、畳で死ぬ事ができたのも、桂小五郎だけですが、とはいえ、桂小五郎の死に方も、決して幸せな死に方とは、言えないものでした。

 

 

 ここが、木戸孝允(桂小五郎)旧宅…

 この門をくぐると、桂小五郎が生まれ育った家があります。

 

 入場料は100円で、受付の人に聞けば、この旧宅の事をいろいろ教えてくれるんです。

 

 

 とっても風情がある、住まいです。

 150年ほど前、実際にここで、あの桂小五郎が暮らしていたのかと思うと、感慨深いです!!

 

 桂小五郎が生まれたのは、桂家ではなく、長州藩毛利家の藩医であった和田家であり、8歳ぐらいまでは「和田小五郎」と名乗っていました。

       ちなみに、毛利小五郎とは、全く関係ありません(…しつこい)

 

 つまり、この旧宅は、桂家ではなく、和田家の家です。

 

 小五郎は和田家の長男だったのですが、幼少期は非常に病弱で、後継ぎとしての期待は全くされていなかったんです。

 

 そこで、小五郎の姉が婿をもらって、その婿に和田家の跡を継がせようとしたのですが、小五郎よりも、その姉の方が早世してしまったので、その婿は今度は、小五郎の妹と結婚する事となり、和田家の名跡を継ぐ事となりました。

 

 結果的に、小五郎は和田家を継ぐ必要がなくなってしまいました。

 おりしも、当時、向かい側にあった桂家は、武家の名門でありながら後継ぎがいない事から、養子の話が来て、晴れて小五郎は、萩藩大組士の家柄である桂家の跡取りとなったのです。

 

 元々は武士でないのに、武士の家を継いだ事から、小五郎はより武士らしくなろうと一生懸命努力しました。

 

 そして、江戸の神道無念流に入門して、剣術修行に人一倍精を出し、師である斎藤新太郎にも認められて、ついに塾頭にまで上り詰めました。

 

 

 これは、実際に京都に立てられている桂小五郎の像のレプリカです。

 

 この像は、京都のホテルオークラの北側に立てられていて、右側にある写真は、それを写しています。

 

 2年前、京都のIさんに案内されて、現物を見てきました。

 (2018/11/2 ブログ 「歴史と史跡を訪ねて「京都探索・その2」」 参照)

 

 桂小五郎の体は、西郷隆盛ほどではないにしろ、非常に大柄で、小五郎が剣を構えると、みんなが恐れ慄いて(おののいて)逃げて行くほどに、迫力があったと言います。

 

 よく、坂本竜馬が主役の映画やドラマだと、竜馬と小五郎が剣術試合をして、堂々と竹刀を構えている竜馬に、慎重すぎる小五郎が不安になり、その隙を取られて、竜馬に一本取られて負けるというシーンがあります。

 

 最近(2017年)見つかった文献から明らかになった事なのですが、竜馬との剣術試合の勝敗は、3-2で桂小五郎が坂本竜馬を破っていたようで、その試合の一幕の中で、竜馬に一本取られた事もあった、というのが真実のようです。

 

 とはいえ、神道無念流免許皆伝で塾頭である桂小五郎と、互角に渡り合っている坂本竜馬もまた、並々ならぬ剣の使い手である事は、間違いありません。

 

 

 この部屋こそが、明治維新の英雄・桂小五郎が生まれた場所…

 

 何とも、感慨深いです。

 

 この家で生まれ、円政寺にある天狗の面も、家の人の背中に背負われて、見に行っている訳ですから(2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)、当然、高杉晋作や伊藤博文とも、親交があります。

 親交があるどころか、その一生を通じて、深い絆で結ばれていたと言っても、過言ではありません。

 

 桂小五郎は影日向なく、高杉晋作の事を支えサポートし、晋作もまた、小五郎を頼りにし、慕い続けました。

 

 それは、伊藤博文との関係も同じで、伊藤博文が明治の元勲として、大きな活躍できたのも、全ては桂小五郎のとりなしのお陰です。

 

 

 こちらが、仏間のようです。当時はここに、お仏壇が入っていたのでしょう。

 桂家の家督相続の話がなかったら、もしかすると小五郎は、和田小五郎のまま、医者としての人生を送っていたのかも知れません。

 

 小五郎は、子供の頃から、何をやっても一流の優等生でしたから、きっと優れた医者になっていた事と思いますが、和田小五郎のままでは、もしかすると、明治維新の偉業は、成し得ていなかったかも知れません。

 

 坂本竜馬が姉・乙女に送った手紙の「日本を今一度、洗濯いたし申し候」という言葉は有名ですが、桂小五郎はよく「この国は、手術が必要だ」という言葉を使っていたそうです。

 まさに、医者の息子らしい言葉です。

 

 師の吉田松陰とは、明倫館(2020/6/9 ブログ 「萩・長州藩の学舎を訪ねて」 参照)で初めて出会い、松陰から山鹿流兵学を習っています。

 吉田松陰は、桂小五郎より3歳年上であり、小五郎17歳、松陰20歳の時に出会っていますが、吉田松陰も当時から、桂小五郎の事を認め「事をなすの才あり」と評価していました。

 桂小五郎は、松下村塾の塾生ではありませんし、当然ながら、松陰四天王にもなっていませんが、久坂玄瑞や山縣有朋など松下村塾の塾生達にとって、兄貴分のような存在でした。

 

 松下村塾の塾生達からの諫め(いさめ)は、あまり聞こうとしなかった吉田松陰ですが、桂小五郎の言う事は、割と素直に聞き入れていました。

 

 桂小五郎はこの後、長州藩の藩主・毛利慶親の警護役に抜擢されたり、長州藩の江戸藩邸の要職に就いたりしていますが、これは、吉田松陰が藩上層部に、熱心に桂小五郎を推薦した結果です。

 

 

 この「今日」という書は、桂小五郎が7歳の頃に書いた作品です。

 

 とても、小さな子供が書いた書とは思えない、気迫のある作品で、よく見ると小さな朱の字で「以ってのほかよろし」という書の師範の文字が書かれています。

 

 これだけ見ても、普通の子供ではない事が分かります。

 

 

 こちらの掛け軸は、桂小五郎のその少し後の作品です。

 

 「天晴見事見事」と朱色の字で、書かれています。

 当時、書の師範が、このような誉め言葉を、作品に書き入れる事は珍しく、これによって、書を知らない人からも、その実力を認められ、城下で大評判となっていたそうです。

 

 ちなみに、幕末から明治維新にかけての偉人で、今現在、人気がある人物と言えば、たいがい坂本龍馬や、西郷隆盛、高杉晋作などといった所ではないかと思います。

 

 桂小五郎とか、大久保利通というのは、彼らに比べると地味ですし、どんな偉業をやったかが、今一つ知られていない所もあって、これまであまり人気がありませんでした。

 

 最近、少しずつ桂小五郎のファンが増えてきている一つの要因は、人気漫画「銀魂」で、天然キャラでありながら、割と格好よく描かれているからかも知れません。

 もっとも、あの漫画に登場するキャラの名前は「桂小太郎」ですが…

 

 

 この床の木に、桂小五郎の落書きである「已後而死」という四文字が書かれているんです。いつ書かれたかは、ちょっと分からないのですが…

 

 これは「死して後已む(やむ)」と読むのですが、「死ぬまで努力し続ける(=死んでから、動きをやめる)」という意味の言葉です。

 

 ちょっと写真を拡大してみました(^^)

 

 

 この言葉こそが、桂小五郎の覚悟のようなものだと思います。

 

 この言葉は孟子の言った言葉であり、吉田松陰はよく、孟子の講義をしていました。

 

 この言葉の同意語である「斃れて(たおれて)後已む」という言葉を、僕は初めて、四柱推命の受講生のKさんから聞いたのですが、とても気合いが入った、清々しい言葉だと思いました。

 

 

 小五郎の父である和田昌景は、眼科医でもあり、外科医であって、自宅でも診療していたので、よく患者さんが自宅に上がってきました。

 

この視力検査の紙は、当時から使われていたのかどうかは分かりませんが、時代を感じさせますね。

 

 桂小五郎という男は、常に冷静すぎるほどに、冷静な人でした。

 だから、面白みがない人というイメージを持たれがちですが、だからこそ、あの時代において、雲をつかむような話であった「明治維新」という偉業を、現実にする事ができたのだと思います。

 

 

 部屋の角に、桂家(のちの木戸家)と、小五郎の生家の和田家の家系図がありました。

 

 桂小五郎は、明治維新まで生き延びた人だから、血がつながった子孫を残しているのだろう… と思いきや、実は、そうではありません。

 唯一、実子の女の子がいましたが、18歳の時に、子を残す事もなく、早世しています。

 

 桂小五郎の妻と言えば、京都で知り合った舞妓・幾松こと、松子ですが、松子との間には子は授からず、何人か、桂家に養子を迎え入れています。

 そして、実質的に桂家を継いだのは、実の妹の子で、小五郎の甥にあたる彦太郎でした。

 

 

 左の写真は、小五郎の妻・幾松こと、木戸松子、そして、右の写真は、彦太郎と桂小五郎です。

 

 彦太郎は、のちに木戸孝正として、木戸家(桂家)を継ぎ、貴族院侯爵議員となりました。

 

 

 こちらの、左側の写真は、言うまでもなく桂小五郎(木戸孝允)です。

 そして、右側の絵は、浮世絵師・水野年方(みずの としかた)による木版画「教導立志基 木戸孝允夫人松子(きょうどうりっしのもとい きどたかよしふじんまつこ)」という作品です。

 

 幾松は、絶世の美女と言われていて、山科(やましな)の豪家が非常にひいきにしていたのですが、これに張り合って、桂小五郎も、幾松に大枚をはたすようになりました。

 そして最後は、桂小五郎の気持ちを察した伊藤博文が、刀を持って、力づくで山科の豪家を脅しに行き、これで決着がつきました。

 

 坂本竜馬の妻・お龍が、必死になって竜馬を守ったように、幾松も、身を挺して、何度も桂小五郎を守り、桂小五郎を暗殺の危機から救いました。

 常に追われる身だった桂小五郎が、明治維新まで生き延びられたのは、幾松の献身があるからこそと、言えましょう。

 

 何せ、蛤御門の変(禁門の変)の頃になると、長州藩は朝敵となり、危険な過激派とみなされて、幕府からも会津藩からも、挙句の果てに、薩摩藩からも狙われていました。

 そんな中、桂小五郎は、京都の三条大橋の下に、掘立小屋(ほったてごや)を建て、ホームレスの身なりで過ごしていたと言います。

 

 

 ちなみに、この木戸孝允旧宅にも、二階があるようです。

 

 この旧宅の正面玄関から見ると、どう見ても平屋建てにしか見えないのですが、玄関側からは、二階の部分が隠されるようにして、建てられているんですね。

 

 上に上がってみようと思ったのですが…

 

 

 残念ながら、立ち入り禁止になっていました(^^;;

 

 それにしても、この階段、あまりに奥行きが狭くて、怖いです。

 現在の建築基準法では、確実に引っ掛かりますね(笑)

 

 蛤御門の変が起こって、長州藩が朝敵となり、さらには幕府が第一次長州征伐の動きを見せると、長州藩内においても、正義派が粛清され、俗論派に取って代わられました。

 

 つまり、この時点で、桂小五郎は帰る場所さえも、なくなってしまった事になります。

 

 江戸幕府大目付・永井尚志(ながい なおゆき)が、長州藩の正義派を一掃しようと「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と、毛利氏の分家の代表である吉川経幹(きっかわ つねまさ)に聞くと、吉川経幹はあっさりと「死にました」と答え、これにより、しつこく追い掛けられる事も、なくなりましたが、完全にこの状況は八方塞がりでした。

 

 この八方塞がりの状況を救ったのが、高杉晋作率いる騎兵隊です。

 

 高杉晋作は、その天才的な軍事才能で兵を率いて、長州藩の正義派の実権を取り戻しました。

 そして、高杉晋作によって、桂小五郎は、長州藩に統率者として迎え入れられたのです。

 

 そんな折、坂本龍馬のあっせんによって、桂小五郎率いる長州藩と、西郷隆盛率いる薩摩藩は、秘密裏に同盟を結ぶ事になります。

 日本の歴史を覆した出来事である、薩長同盟です。

 

 

 木戸孝允旧宅の窓から、外ののどかな景色が見えます。

 

 江戸幕府による、第二次長州征伐が失敗すると、長州藩にとって念願だった、朝廷による朝敵の赦免が叶い、さらに薩長同盟を背景に、土佐藩による大政奉還建白書が書かれ、これにより、第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上…

 

 そして、明治維新により、明治天皇の王政復興の大号令がなされました。

 

 公武合体か、倒幕か、この時代はどっちに転んでもおかしくなかった時代でしたが、ほんのちょっとの出来事が、こんな風に時代を決めてしまうのですね。

 

 そして、桂小五郎は、明治の政治家・木戸孝允として、今度は、長州藩の代表ではなく、日本国の宰相としての活躍をする事になります。

 

 この時代には、日本の周辺には欧米列強諸国がしのぎを削って、弱小国があれば、植民地にしようと牙をむいていました。

 今のような、世界平和を大義名分とするような時代とは、まるで違います。

 

 そんな中で、木戸孝允が最も精力を傾けたのが、版籍奉還と廃藩置県でした。

 

 明治維新は成功したものの、依然として、各藩には藩主がいて、それぞれが軍事力を持っていましたから、中央政府が大きな権限を持つには、どうしても藩を廃止する必要がありました。

 このままのまとまりのない状態だと、到底日本は、欧米列強にはかないません。

 

 そこで、木戸孝允は、大久保利通の協力を得て、そのとっかかりを作り、版籍奉還の実現に成功しました。

 

 各藩主を納得させなければなりませんから、藩主をそのまま知藩事(ちはんじ)としてスライドさせ、中央政府から任命した形にし、当初は、知藩事は世襲とする方向で、話を進められ「版籍奉還の上表」が作られました。

 でも、これでは、ただ名前が変わっただけで、何も変わりありません。

 

 木戸孝允は、この案に真っ向から反対し「世襲」という文字を、上表文から削除させました。

 

 のちに、木戸孝允邸に、大久保利通、西郷隆盛、山県有朋、井上馨らが集まり、廃藩置県について意見がまとめられ、ついに明治4年、廃藩置県の詔(みことのり)がくだり、旧藩主であった知藩事は廃止となり、領主による土地支配が終わり、代わりに県令が任命され、中央政府による国の支配が実現しました。

 

 司馬遼太郎の小説なんかですと、明治維新を成し遂げた後の桂小五郎(木戸孝允)は、常にノイローゼ気味で悩みを抱え、何一つ国に有益な事をしなかったように書かれていますが、この版籍奉還と廃藩置県こそが、僕は、木戸孝允の真骨頂だと思うんです。

 

 

 木戸孝允別邸を出て、この偉大な明治維新の志士に想いを馳せながら、また、水木先生と萩の城下町を歩き始めました。

 

 廃藩置県を成し遂げた、一枚岩となった新政府に大きなヒビが入ったのは、その後、岩倉使節団の欧米視察によって、海外視察組(木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など)と留守政府組(西郷隆盛・江藤新平・板垣退助など)に分かれた後の事だと、言って良いでしょう。

 

 留守政府組は、世界の情勢を知らないまま、取り残される事となり、当然、海外視察組との見解も大きく隔たり、やがて、西郷隆盛らは下野し、西南戦争のきっかけを作ってしまいます。

 この当時の西郷隆盛なんかは、「農業こそが国の土台であり、今こそ農業を発展させていかなければならない」という考え方だったんです。

 西郷隆盛は、象皮病と呼ばれる、足が硬くなって肥大化してしまう病気の為、欧米視察に参加できなかったんですね。

 

 征韓論に囚われ、海外視察もできなくて、欧米列強諸国の国力というものが、どれだけ日本と隔たりがあるのかという事を知らない西郷隆盛には、この時期に、何の準備もなく韓国に攻め入ったなら、欧米列強諸国に日本攻撃の口実を与え、カウンターを食らってとんでもない事になるという、簡単な計算さえもできません。

 

 とはいえそれは、常に薩摩軍という日本最強の軍隊を率いて、負ける経験をした事がない西郷隆盛にとって、無理もない所かも知れません。

 征韓論を否定されて、投げやりになって下野し、鹿児島に入った西郷隆盛は、すでに時代に取り残された人でした。

 

 木戸孝允がこの世を去ったのは、おりしも、西郷隆盛を盟主とした西南戦争が勃発した年でした。

 おそらく、相当なストレスが、木戸孝允に襲い掛かっていたであろう事と思います。

 

 前から苦しめていた原因不明の脳の病気がさらに悪化し、朦朧とした状態の中、木戸孝允は、大久保利通の手を握り締め、最期に発した言葉は「西郷もいいかげんにしないか…」という言葉だったと言います。

 

 43歳の若さでした。

 

 木戸孝允は、生涯を通じて他人と争う事は、ほとんどなかったと言います。

 あまりに熟慮して、慎重すぎる所はあるものの、人の気持ちを気遣い、誰に対しても親切で、厚情の人だったと言います。

 

 神道無念流の無敵の剣豪でありながら、生涯一度も、その剣で人を斬った事がなかった…

 

 幕末の四賢侯の一人である松平春嶽は、木戸孝允の事をこう評価しています。

「木戸と大久保は、維新の際の父母とも言うべき者である。大久保は父であって、物を言いがたいが、木戸は母であって、話を聴く事が上手であった。大久保は面白みのない人であるが、木戸なら誰でも話ができる」

 

 まさに、木戸孝允の明治政府の中の立ち位置は、そんな所だったように思います。

 この時期に、日本を一つにまとめる為に、最も活躍したのは、人から嫌われ者になる覚悟で、日本の為だけに行動をしていた、大久保利通だと思います。

 木戸孝允は、その女房役に徹したと言えます。

 

 木戸孝允という人は「死して後已む」という生き様を、実際にやり遂げる事ができた人なのではないかと思います。

 そして、木戸孝允が母の役割となって見守った、伊藤博文や井上薫、山縣有朋といった、この萩の地で育った長州閥が、その後の日本を牽引して、今の時代に至っていると言って良いでしょう。

 

 そんな思いに駆られながら、木戸孝允旧宅を後にし、萩の城下町をゆっくりと歩いていきました。

 

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