2020.06.09西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<14>鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面

2020年6月9日(火)

 

 いよいよ、6月ですね。

 四国や南九州は、もう梅雨入りをしたようですが、本州の方は、いつもよりも少しだけ遅めになりそうだとの事…

 

 新型コロナウィルスも、ようやく下火になって、少しずつですが、日常の生活が戻りつつあります。

 

 そして、相変わらず、このブログは、半年のタイムラグを抱えたまま、だらだらと西日本旅行記を書いています(笑)

   もう、いい加減にしろ… って感じですね(^^;;

 

 五気調整術協会の理事である、水木杏香先生の車で、新山口にある東横インから、萩・明倫学舎へと向かい、幕末の長州藩の興味深い歴史資料をたっぷりと堪能した後、車は駐車場にとめたまま、萩の街を少し歩いてみる事になりました。

 

 ちょうど、萩・明倫学舎で、この地域の周辺マップをもらえたので、それで道を確認しつつ、水木先生に案内して頂きながら、世界遺産になっている萩城の城下町がある地域へと、向かいます。

 

 長州藩の志士の銅像があちこちにある、歴史情緒あふれる萩の街を西の方へと歩いて、ある一角を超えると、まるでタイムトリップしたかのような、昔の街並みが残っている路地に差し掛かりました。

 

 そして、そのまま気がつくと、「円政寺(えんせいじ)」という古いお寺の前に、吸い寄せられるようにたどり着きました。

 

 

 拝観料は、大人200円、中高生150円、小学生150円で、とてもリーズナブルです。

 

 水木先生の観光プランに最初から、円政寺に行こうという計画があった訳ではありませんが、二人で顔を見合わせて、ここに入ってみようという事になりました。

 

 真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)月輪山(かちりんざん)円政寺…

 

 最初、このお寺を見た時、すっかり神社だと思いました。

 

 だって、ここには、鳥居があるのです!!

 

 そして、その鳥居の所に、看板が立てかけられていて「高杉晋作 伊藤博文 両公幼年勉学之所」と、書いてありました。

 

 

 騎兵隊のスーパーヒーローと、明治の元勲の初代総理大臣が、幼年期に共に勉学をしたお寺とは、一体どんな所なのだろうと、期待に胸がふくらみました。

 

 受付で拝観料を払うと、円政寺のパンフレットと、分厚い大きな紙に、イラストつきで、きれいにカラー印刷された「萩城城下町絵図」(複製禁止)が頂けます。

 パンフレットには、円政寺の由緒などが、細かく書かれていました。

 

 円政寺は、元々山口市にあった、御室派の由緒あるお寺であり、その後、毛利輝元が関ヶ原の戦いで減封されて、萩を本拠地にして築城すると、円政寺は、萩市の現在お寺がある場所から500mぐらい北東の場所に、移されました。

 

 そして、さらに時代が下り、明治3年になって、現在のこの場所に移って来たという事らしいです。

 

 では、それ以前、つまり幼年時代の高杉晋作と伊藤博文がここで勉学していた幕末の頃、この場所はどうなっていたかというと、法光院(ほうこういん)という別のお寺だったようです。

 

 明治元年に出された明治政府の神仏判然令により、法光院は廃されて、代わりに御室派の円政寺が、ここに移ってきたという訳です。

    ちょっと、ややこしいですね…

 

 お寺の正面に鳥居があるというのは、現代では、めちゃくちゃ違和感がありますが、明治以前の時代においては、こういうのは、そんなに珍しい事ではありませんでした。

 

 その頃は、神仏習合と言って、神社もお寺も、あんまり区別がなかったんですね。

 

 この鳥居が、普通の鳥居と少し違っている部分を、水木先生が発見してくれました。

 

 

 なんか、鳥居の柱の先端が、丸い形になっています。

 

 こんな風に、柱の先端が丸い形になっている鳥居というのは、神仏習合のお寺、こと「明神系」と呼ばれるお寺には、よく見られる特徴なのだそうです。

 

 とはいえ、現代において、こういう形で、神社かお寺か区別がつかないような形のお寺が残っているのは、非常に珍しい事です。

 

 この手の物は、明治維新の時に、ほとんどが消えてしまっていますから…

 

 明治の初め、明治政府によって、それまで武家が中心だった世の中から、天皇を中心とする世の中にするという目的で、神仏分離という政策がありました。

 政府は、神道を国教として確立し、伊勢神宮をその神社の頂点として、社格を設けて全国の神社を整備していったんです。

 だから、皇室の祖先や皇室の忠臣を御祭神とする神社の多くは、明治時代の初頭に作られています。

 

 そしてさらに、明治元年3月の神仏判然令によって、それまでの神仏習合の形の神社やお寺は、その形態を変える事を、余儀なくされました。

 

 「神社かお寺かどっちだか良くわからない場所は、仏像とか梵鐘とか、そういうものを全部廃して、御祭神もちゃんと日本神道の神様の名前にして、きちんとした神社にしましょう。もしくは、お寺にするんだったら、お社とか鳥居とかは破棄して、ちゃんとお寺らしくしましょう」という訳です。

 

 代表的な例だと、京都の八坂神社なんかがそうで、あそこは元々は「祇園社」といって、御祭神も牛頭天王(ゴズテンノウ)という仏様だったのですが、この神仏判然令により、仏教っぽいものは全部取り払われて、御祭神も牛頭天王から素戔嗚(スサノオ)に、変えられてしまいました。

 とはいえ、祇園祭という京都の伝統的なお祭りは、今でもちゃんと残っていますが…

 

 このようにして、明治政府は、皇室神道というものを、特別なものにしていったのです。

 

 ちなみに、元々のこの円政寺があった場所は、今では、多越(たお)神社という、普通の神社になっているみたいです。

 

 

 円政寺の本堂で、しっかりと手を合わせました。

 

 後の初代内閣総理大臣であり、一昔前は千円札の肖像画だった伊藤博文は、この円政寺(この時は法光院)で、11歳の頃から約1年半の間、寺の雑用をしながら、読書や習字にいそしんでいました。

 

 しばらく境内を見ていると、円政寺のご住職の方が出てきてくださって、お寺のあちこちにある物を、丁寧に説明してくださいました。

 

 

 ここが、この円政寺の中で、一番の見所である「金毘羅社(こんぴらしゃ)」…

 

 この金毘羅社は、ここがまだ法光院だった頃からあった、れっきとした神社です。

 

 本来なら、神仏判然令によって、取り壊されてもおかしくない建物ですが、寺の嘆願により、廃社を免れました。

 

 円政寺は、れっきとした御室派の寺なので、御室派のお寺から嘆願されては、さすがの明治政府も手が出せなかったのですね。

 

 京都はんなり日記の仁和寺の記事でも、少しふれましたが、「御室」というのは、天皇の隠居所の事…

 (2019/11/28 ブログ 「龍安寺と仁和寺、京の古刹を巡って」 参照)

 

 御室派の総本山である仁和寺の最初の門跡(もんぜき)は、宇多天皇であり、この幕末の頃の仁和寺の門跡は、仁孝天皇の猶子・純仁親王(じゅんじんしんのう)でした。

 

 のちに、純仁親王は、明治天皇の勅命により還俗し、戊辰戦争の時には、官軍の総大将として、旧幕府軍を掃討しました。

 

 その戊辰戦争に掛かった莫大な費用の大部分を、純仁親王は、御室派の寺院から調達したと言われていますから、明治の新政府も、御室派のお寺には一目置くという訳です。

 

 お寺なのに、正面には鳥居があるし、明らかに神仏判然令に反するにもかかわらず、天皇ゆかりの寺とあっては、そのお社をつぶす訳にもいきませんから、現代まで、そのままの形で残っているのですね。

 

 もしも、法光院のままだったら、時代が時代ですから、取り壊しの憂き目にあっていた可能性は、かなり高かったと思います。

 

 あと、もう一つ、この金毘羅社が取り壊されなかった理由は、天皇の皇女作の額が保管されていた事です。

 この金毘羅社には、江戸時代中期、中御門(なかみかど)天皇の第四皇女・宝鏡寺宮(ほうきょうじのみや)が書した「瑞現山(ずいげざん)」と「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」という額があって、これによって、このお社は、取り壊しを完全に免れました。

 

 これらは、江戸幕府の老中・松平定信が編纂した古美術の目録「集古十種(しゅうこじっしゅ)」にも載っているほどの有名な品で、この2つの額が、円政寺の神仏習合のスタイルを守ってくれたとも言えます。

 

 

 金毘羅社の上を見上げると、巨大な迫力ある赤い天狗のお面があって、度肝を抜かれます。

 

 この天狗のお面を、ものすごく怖がった少年が、なんと、のちに長州藩で騎兵隊を結成し、明治維新のきっかけを作った、あの高杉晋作だったのです。

 

 晋作は、幼少期は病弱で、弱虫だったと伝えられています。

 

 そして、晋作の母は、度胸のある強い男の子にしたいという願いを込めて、嫌がる晋作に毎日、この天狗の面の前に立たせたといいます。

 

 同じように、その近所に住んでいた桂小五郎(のちの木戸孝允)も、幼少期には背負われて、この天狗の面を見に来たそうです。

 

 その晋作や小五郎が、やがてたくましく育って、明治維新の長州藩の原動力になる訳ですから、この天狗の面こそが、日本の夜明けを作ったと言えなくもありませんね(笑)

 

 

 この巨大な鏡は、なんと直径1m30cmもあって、国内で最大級の鏡です。

 

 巨大な鉄の塊(かたまり)そのものですから、太平洋戦争の時の「金属類回収令」で、国に持っていかれてしまったそうです。

    この時代の「庚」は、きっと最高に価値があったに違いない…

 

 でも、平成18年に、京都で競売にかけられているのを、偶然発見して、買い戻したとの事…

 

 ご住職が満面の笑みで、そう語ってくれました。

 

 

 この金毘羅社には、それぞれの場所に十二支の彫刻がされているんです。

 

 木彫りの彫刻は、細かい所までしっかりと彫り込まれて、実に見事なのですが、一つ一つが小さくコンパクトで、二階の屋根に彫られた彫刻は、あまりにも遠すぎて、うまく写真に撮れませんでした。

 

 

 ご住職に案内されて、水木先生と、巨大な石灯篭の前に行きました。

 

 この灯篭は耐震構造になっていて、なんと、灯篭の下にある6つある脚の内、2つの脚は、手でくるくると回す事ができるんです。

 

 早速、その動く脚をさわらせて頂きました。

 本当に、見事なものです。

 

 さらに、ご住職が説明をし始めたのは…

 

 

 なんとこれは、コ、コココ、コナン君(服部平次の口調で…)では、ありませんか(笑)

 

 ご住職は、アニメの取材が来て、名探偵コナンの519話に、この円政寺が登場した話を、得意げに語ってくれました。

    少年探偵団も、大活躍するらしい…

 

 

 この木の馬は、とてもリアルで、いかにも動き出しそうな迫力があります。

 

 まだ少年であった、高杉晋作と伊藤博文は、この木馬の上に乗ったり、頭をなでたりしていたそうです。

 

 高杉晋作と伊藤博文は、晋作の方が2歳年上で、何となく、伊藤俊輔(のちの博文)が、高杉晋作の部下として、使われている関係みたいなイメージがしてしまいますが、この頃は、仲の良い幼友達だったようです。

 

 ちなみに、伊藤博文の「博文」という名前は、まだ若かりし頃に、高杉晋作からつけてもらった名前です。

 

 

 境内の竹に「吉田松陰門下 四天王」と書かれた竹がありました。

 

 久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)とあります。

 

 この中では、高杉晋作が、ずば抜けて知名度がありますが、他の三人も、それに負けずとも劣らない、吉田松陰が認めた勤王の志士です。

 久坂玄瑞と入江九一は、禁門の変により、吉田稔麿は池田屋事件によって、若くして散っていきました。

 

 水木先生と一緒に、維新の志士達が幼少期を過ごしたこの円政寺の境内を、思う存分散策して、また、世界遺産の街道へと戻っていきました。

 

 しばらく、この城下町の街道を歩きながら、歴史情緒あふれる萩を、楽しみたいと思います!!

 

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