2019.12.08京都はんなり日記 その14 ~大徳寺を拝観して~

2019年12月8日(日)

 

 時間が経つのも忘れて、目まぐるしく生活しながら、ふと気づいたら、もう12月…

 

 あまりにも時が過ぎるのが早過ぎて、全然、自分のスピードがそれに追いついていなくて、正直、戸惑っています。

    皆さま、たくさんの心のこもった贈り物を、本当にありがとうございます…

 

 新宿のヨドバシカメラに、講座のテキストに使うコピー用紙とインクジェットを買いに行った時に、ふと、丸の内線の電車の中の広告を見たら…

 

 

 きらり紅葉  おけいはん、染まる季節…

 

 おけいはんの京阪電車、懐かしいです。

 

 紅葉と言ったら、普通は、10月とか11月ぐらいの事だと、勝手に僕は思っていたのですが、こと「京都の紅葉」というと、どうやら11月下旬から12月上旬ぐらいが見ごろのようです。

 場所によっては、12月中旬ぐらいまで、紅葉が楽しめる神社仏閣も、あるとの事…

 

 でも、もう今ぐらいの時期が、京都の紅葉を見るラストチャンスですね。

 またもう一度、京都に行きたいです。

 

 大徳寺を訪れたのは、京都に滞在して、間もなくの事でした。

 

 大徳寺と言えば、臨済宗大徳寺派の大本山であって、「龍寶山(りゅうほうざん)」とも号する有名な禅寺です。

 

 

 今回、Iさんからのお勧めで、ここを訪れる事になったのですが、僕の書の師匠である野尻泰煌先生も、京都に行ったら訪れると良い名所の一つに、大徳寺を挙げられていました。

 

 このお寺も、仁和寺や龍安寺と同じく、応仁の乱によって、荒廃しきってしまったのですが、それを復興させたのが、かの有名な一休宗純です。

 

 一休宗純と言えば、アニメの「一休さん」のモデルとしても、おなじみですが、「一休」という道号を授かったのは実際には51歳の時で、子供の頃は「周建」と呼ばれてました。

 

 子供の頃にお寺でやったトンチやいたずらのエピソードは、おおよそアニメの通りですが、大人になってからも、やっぱりいたずら好きで、しかもかなり型破りな破戒僧でした。

 

 正月元旦のおめでたい日に、墓場に行って拾ってきた髑髏(しゃれこうべ)を竹の先にくっつけて、京の家々の軒先から、ヌッとのぞき込ませて「ご用心、ご用心」と言いながら、歩いて回ったとか…

 その晩年期には、40歳以上も年の離れた若い女性とずっと同棲して、毎夜、愛し合ったとか…

 

 おおよそ僧侶がやる事とは思えないようなエピソードは、他にもたくさんあります。

 

 一休は、そんなハチャメチャな人だったのですが、庶民からの人気は絶大で、権威に媚びる事なく、下々の人々の為に教えを説いて行脚する生き様は「生き仏」と称されるほどでした。

 

 確かに、この大徳寺を復興させたのは一休だとは言われていますが、別に、一休自身が本気で、大徳寺を復興させたいと思っていた訳ではありません。

 

 自由気ままに生きていた一休に、ある日、後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)からの勅命が下って、大徳寺の住職に任命されてしまったので、しぶしぶ、一休は承諾したんです。

 

 だから、大徳寺の住職に任命されてからも、一度も大徳寺に住まう事はありませんでしたし、今まで通り、寺から離れた粗末な小屋で、年の離れた若い恋人と共に過ごしていました。

 

 ところが、一休が大徳寺の住職になったといううわさが広まるやいなや、商人や武士、一般庶民からも、大徳寺にどんどんお布施が集まってきて、あっという間に、それによって、大徳寺の法堂が再建される事となってしまったという訳です。

 

 もしかすると、これこそが後土御門天皇の狙いだったのかも知れませんが(笑)

 

 

 大徳寺の案内の看板…

 

 これを見るとわかるのですが、敷地の中で、本堂や仏門、三門(金毛閣)といった、大徳寺のメインの部分は、ほんのちょっとしかなくて、4分の3以上は、敷地の中に建てられた塔頭(たっちゅう)です。

 

 塔頭とは、大寺院の敷地内に新たに建てられた小寺院や別坊の事で、脇寺(わきでら)とも言います。

 桃山時代に、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔う為に、総見院(そうけんいん)という塔頭を建立したのが発端になって、その後、大名や武将が次々に、大徳寺内に塔頭を建てていきました。

 

 養徳院、徳禅寺、龍源院、黄梅院、芳春院、竜泉庵、如意庵、聚光院、三玄院、總見院、大仙院、真珠庵、高桐院、玉林院、竜光院、大光院、正受院、興臨院、瑞峯院、大慈院、瑞運軒…

 これ全部、塔頭です。

 

 ちなみに、この塔頭の中を見ようと思ったら、それぞれに拝観料が掛かります(笑)

 それから、開放されていない塔頭も、かなりあります。

 

 Iさんから、どの塔頭に行きたいかと尋ねられた僕は、あまり考える事なく、とっさに「龍源院」と答えました。

 

 何でそう答えたのか、明確な理由はないのですが、何となく直感で、龍源院だと思ったのです。

 

 という事で、本当に龍源院に行く事に(笑)

 

 

   自分で龍源院を選んだのに「本当にここでいいの?」って顔してます(笑)

 

 門の中は、そんなに広くはなさそうです。

 

 

 立札には、龍源院の事が色々と書かれていました。

 

 どうやら、文亀2年(1502年)に建てられた塔頭のようです。建てたのは、戦国大名の畠山義元と大友義長…

 あまり聞いた事のないお名前です。

 

 織田信長が亡くなったのが1582年ですから、その80年前ですね。

 えらく古い塔頭です。

 

 でも、立札の最後の一文を読んで、龍源院を選んで良かったと思いました。

 

「寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤がある…」

 

 その碁盤、絶対に見たいです!!

 

 

 拝観料を払って、中に上がると、とても落ち着く部屋がありました。

 

 そして…

 

 

 ありました!!

 今から、430年ほど前、この碁盤で徳川家康と豊臣秀吉が対局していたのですね(感涙)

     「対局したと伝えられる…」という事ですから、本当かどうかは少しだけ怪しいですが…

 

 とはいえ、この碁盤を、あの徳川家康がさわっていたのかと思うと、何とも感慨深いものがあります。

 

 

 廊下の外に出てみたら、そこは方丈前庭(ほうじょうまえにわ)でした。

 この庭は「一枝坦(いっしだん)」と、銘を打たれています。

 

 そして、こちら側の左の方に見える丸い苔の生えた敷地が「亀島」、向こうにある2つの石が「蓬莱山」、そして、ちょっと写真から切れてますが、右の方にある石が「鶴島」と名づけられています。

 

 これは、「言葉で表す事のできない境地を、視覚を通して表現している」という禅の世界ならではの庭園…

 

 

 何とも言えない雄大な世界観に、心が呑み込まれたような感覚になりました。

 

 こういうの、うっとりしますね。

 

 

 こちらは、北側に位置する「竜吟庭(りょうぎんてい)」と呼ばれる庭です。

 ちなみに、向こう側に出っ張っている石が「須弥山(しゅみせん)」を表しているとの事…

 

 須弥山というのは、仏教でいう所の「九山八海(くせんはっかい)」の中心にある山の事を言い、ここには甘露の雨が降っているので、須弥山に住まう者は常に空腹を免れる… とされています。

 

 

 龍源院を出て、次は三玄院(さんげんいん)に入ろうと思ったのですが…

 残念ながら、門の左側に「拝観謝絶」の表札が掛けられていました。

 

 

 外に掲げられていた立札に、浅野幸長と石田三成と森忠政が創建したと書かれていたので、見てみたかったのです。

 

 石田三成という人は、浅野幸長からも、その父の浅野長政からも嫌われていましたし、だいたい、浅野幸長は、三成に不満を持つメンバーと三成の屋敷を襲撃したりもしているので、この二人が協力して、一つの塔頭を建てたというのが、何とも不思議だったのです。

     ちなみに、この襲撃事件をとりなして、三成の命を救ったのが、徳川家康…

 

 あと、浅野幸長が建てた塔頭なら、同じ浅野の僕にも、何かしら縁があるかもしれないと思ったのもあります。

 

 まあ、拝観できないものは仕方ありません。

 素直に諦めました(笑)

 

 次は、高桐院(こうとういん)に、行ってみる事にしました。

 

 

 この高桐院は、細川忠興とその妻・ガラシャの墓がある塔頭で、細川忠興が、父の細川幽斎の為に作ったとされています。

 

 ちなみに、「○○院」という名前がつけられているものは、大名など武家の人が寄進した塔頭である事を表しています。

 

 高桐院は、大徳寺の西の外れにあるのですが、何とこちらも拝観中止でした。

 

 一瞬、拝観時間が過ぎて、入れなくなったのかと思ったのですが、そうではなくて、2017年からずっと修復工事をしていたのですね。

 そして、先月の11月10日から、拝観再開されましたから、今はちゃんと拝観できます。

 

 

 ここは、大徳寺の三門(山門)です。

 下層部しか完成していなかった門の上層部を建てるのに、寄進をして援助したのが、かの千利休です。この三門の上層部の事を「金毛閣(きんもうかく)」と言います。

 

 それで、この時の大徳寺の僧侶が、利休に感謝の意を表して、上層部の門の所に利休の木像を立てました。

 

 ところが、この利休の像と言うのが、等身大で草履をはいた立ち姿で、結果的に、この三門を通る人を踏みつけるような形になってしまう…

 

 それに怒った豊臣秀吉は、この木像を三門から引きずり落して、磔(はりつけ)にし、千利休に切腹を命じて、殺してしまいます。

 

 こういう所が、秀吉の器の小ささと言いますか…

 徳川家康だったら、腹を立てる事ぐらいはあるかも知れませんが、間違っても、そういう決断はしないと思います。

 

 悲しい事に、茶道の天才である千利休は、秀吉の命によって70歳の生涯を閉じてしまいました。

 

 Iさんと共に、大徳寺を出て、その後、京都のあちこちを散策しました。

 

 

 これは、京都御所の石薬師御門(いしやくしごもん)

 

 他にも、京都の名所や神社なんかを、いっぱい散策しました。

 

 神社の中には、神話の神様を祀ったものもあれば、時の天皇や戦国武将を祀った社や、明治維新の時の功労者を祀った神社もあります。

 

 ある神社に行った時、その参道のど真ん中に、マンションが建てられているのを目にして、一瞬、目を疑いました。

 

 何と、神社の鳥居をくぐると、そこがマンションになっている…

 なんだこれは… という感じです。

 

 すがすがしいはずの参道が、建物で完全に遮断されていますし、これは、風水的にも完全にアウトでしょう。

 

 京都の土地の高騰や神社の経済事情なんかで、仕方なく、こんな事になってしまった…

 

 Iさんから、様々な京都の街の事情を教わりました。 

 

 それにしてもひどい… と思いましたが、確かに、昔と今は時代も違いますから、やむを得ない所もあるのかも知れません。

 

 今でも、石清水八幡宮のある山に、太陽光発電のパネルを取り付けようとする業者とか、景観の風情がぶち壊しになってしまう動きが、後を絶ちません。

 普通の山だったら、全然問題になる事もないでしょうし、これは、古き良き都の京都だからこその問題とも言えるでしょう。

 

 とはいえ、できうる限り、この素敵なままの京都の街を、未来の子供たちに残していけたなら、どんなに素敵だろうと思います。

 

 大徳寺を拝観して…

 心がはんなりと、優しくなれた気がしました。

 

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