2019.10.03京都はんなり日記 その7 ~七条界隈放浪記~
2019年10月3日(木)
いよいよ10月に入って、街もすっかりと秋らしい装いになってきました。
なぜか今年の秋は例年になく暖かくて、寒いのが苦手な僕にとっては、何気にありがたいですが…
そうか… 京都にいた時の夏の思い出は、もう3ヶ月も前の事なのかと考えたら、なんと、月日の流れは速いのだろうかと、実感せずにはいられません。
この3ヶ月の間、いろいろな事があったのですけど、「何だかすごく忙しかった」という印象しか残っていなくて、何をやっていたのか、きちんと思い出せないんですね。
それなのに、なぜか不思議と、京都にいた時の記憶は、割と鮮明に覚えていると言いますか…
きっと、あの体験は、僕の人生の中において、ものすごく深い意味を持つものだったのだろうと思う。
僕が京都でずっと滞在していたマンスリー・マンションは、七条の一橋宮ノ内町という所でした。

マンションから出て、駅へと向かって道を歩いていくと、道の両側には、昔ながらの風情がある木造の住宅が立ち並んでいて、幼い頃の思い出の古い街並みを思い出して、懐かしい気持ちになります。
そして、最寄り駅の七条駅は、鴨川に掛かっている七条大橋に面していて、そこから鴨川の流れを眺める事が出来ます。
ちなみに、七条は「ななじょう」と呼ぶのが正しいのか、「しちじょう」と呼ぶのが正しいのか、最初すごく悩んだのですが、どうやら、どっちでも良いみたいです(笑)
周りの人も「ななじょう」と呼んでいる人もいれば、「しちじょう」と呼んでいる人もいるんですね。
京阪電鉄では「しちじょう」と呼んでいたので、僕は、やっぱり「しちじょう」が正解だと思ってしまったのですが、市バスに乗ってみたら、停留所のアナウンスは「ななじょう」でした。
あれ、でも「丸竹夷」の唄(「三条通り散策記」参照)だと、七条を「ひっちょう」って唄っているんですよね。
何だか、気持ち悪いのでネットで調べてみたら、面白い記事が出てきました。
「七条通り/京都速報 ~「ななじょう」「しちじょう」どっち?~」
なるほど… すごく勉強になりました(^^;;

七条大橋の上から、鴨川をのぞいてみたら、川岸にコサギがじっとたたずんで、水辺にその姿を映していました。
京のコサギの優雅な姿に見とれながら、七条界隈をちょっぴり放浪してみました。
京都に滞在している間、食事はほとんど、七条駅の近くにあるマクドナルドか、ラーメン屋「坊歩」で、済ましていました。
いつも、ラーメン屋で食事をして、レジでお金を払う時に、お店の人が「おおきに」って言ってくれるのが、すごく好きで、「京都っていいなあ…」なんて思いながら、はんなりとしていました。
もちろん、コンビニで何か買って、マンションで食べる事もありました。
そうそう、それでその日は、最初コンビニに行くつもりで、家に出たのです。
昔の僕のブログを読んでいる人はご存知の通り、僕はものすごく方向音痴なので、コンビニに行くつもりで、どこでどう道を間違えてしまったのか、気づいたら、昭和時代のエッチな映画館(しかもそれは、なぜか2Fはデイサービスになっているという、とてもシュールな建物だった…)に出てしまって、気まずくて、慌てて反対方向に駆け出してみたら…

なんと、そこは、「三十三間堂」でした。
嘘みたいな本当の話です。
つまり、僕の住んでいるマンションから、三十三間堂は徒歩10分も掛からない場所にあったのですね。
ちなみに、エッチな映画館もですが(笑)
蓮華王院 三十三間堂… 偶然とはいえ、せっかく来たのですから、中に入らない手はないです。

拝観料は600円…
三十三間堂は、後白河上皇によって御所に造営されたのが、その始まりと言われています。その見どころは、1001体の千手観音像…
撮影禁止となっていたので、写真ではお見せ出来ないのですが、もう圧巻という以外はありませんでした。
ただ、僕にとって、ここは初めての場所ではないんです。
ずいぶん昔、幼い頃に、おぼろげにここに来た記憶があります。
その時に「自分に似ている観音様がこの中にいるから、探してみて」みたいな話を聞いて、一生懸命探そうとした覚えがあるんですね。
改めて、こうして千手観音像を見てみると、1001体それぞれに微妙にお顔が違っていて、でも、どの観音様も本当に慈悲深くて優しそうで…
40年ぶりに、この場所に来てみて、子供の頃とは、まるで違った印象を受けました。
端から端までゆっくりと、千体もの観音様を拝んでいたら、もしかしたら我々の目にふれない所で、本当にこんな風にたくさんの観音様が、一生懸命我々を導いてくださっているのではないか… って、大真面目に感じました。
僕らは、その観音様を見る事も感じ取る事も出来ないから、わがまま放題しているけど、それでも全部受け入れてくださって、一生懸命導いてくださっている…
そしたら、ちょっぴり涙が出そうになりました。
う~ん、まあこれは単なる想像ですし、「おめでたい空想してる奴だな…」って、思われるかも知れませんけど…

これは、南大門と太閤塀…
かの豊臣秀吉が、築いたもので、国の重要文化財にもなっています。
秀吉が方広寺を建立した時に、三十三間堂も、その方広寺の敷地内に含まれていたので、この門と塀が建てられる事になったそうです。

しばらく、三十三間堂の境内を散策して、外に出ようとしたら、ジュースの自動販売機を見つけました。
このコカ・コーラ、いつものコカ・コーラと違います。
なんと、京都仕様となっています!!
250mlで、160円です。
ちょっと、高いですね。
買おうかどうしようか、少し迷いましたが、高いのでやっぱ、やめておきました(笑)
三十三間堂を出て、でたらめに歩き回ってみたら、ある神社に行き着きました。

豊国神社…
いわずと知れた豊臣秀吉の神社です。
なんか、今日は秀吉に縁がある日だなあ… と思いながら、参拝させて頂きました。

太閤・豊臣秀吉らしく、豪華絢爛というイメージでした。
僕はご存知の通り、家康びいきの人間なので、豊臣秀吉については、好きでも嫌いでもないです。
前にもブログで書いたのですが、若い頃の秀吉は好きで、天下を取ってからの秀吉は大嫌いというのが本当の所です。
(2012/7/29 パリ・ブログ 「気配りの優しい英雄」 参照)
三十三間堂から、豊国神社に来るまでに、「耳塚」という慶長の役の犠牲者の為に建てられた五輪塔が思わず目に入ってしまったのですが、天下を取った後の秀吉による、慶長の役、そして関白秀次の一族の三条河原の公開処刑のやり方は、どうしても、受け入れられないんですね。

境内の秀吉像…
今から430年前に、裸一貫から立ち上がって、戦国時代を終わらせ、この国の天下を治めた偉人…
とにかく行動が素早くて、類まれなる知恵と、人を虜にする魅力を持った天才です。

境内には、ひょうたんが成っていました。
秀吉と言えば、千成びょうたん…
織田信長の美濃の斎藤龍興攻め時、秀吉が瓢箪を高く掲げて、合図を送った功績を信長に認められ、その報酬として金の瓢箪を与えられ、瓢箪を馬印にする事を許されたと言われています。

この立て札には、この豊国神社の由来が書かれていました。
慶長3年に亡くなった豊臣秀吉は、遺命により、東山の阿弥陀ヶ峯に埋葬され、後陽成天皇より、正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、広壮豪華な廟社が造営されましたが、その廟社は徳川幕府により、廃祀されてしまいます。
そして、社殿がこの地に再建されたのは、明治13年の事だったようです。
家康、秀吉の廟社を壊しちゃったんですね…
少し考えさせられる気持ちになりながら、豊国神社を出て、おそらくこの近くにあるであろう「方広寺」に行ってみようと思いました。
方広寺といえば、かの有名な「方広寺鐘銘事件」のお寺です。
三十三間堂の中の太閤塀が、元々、方広寺の敷地内にあったものだというのなら、方広寺は、必ずこの辺りにあるはずなのですが…
どこにも、見当たりません。
Googleの地図で調べてみると、方広寺は目と鼻の先のようなのですが、それらしき立派なお寺がどこにもないのです。
モタモタしている内に、雨が降ってきてしまいました。
出掛けた時には、晴れ渡っていたというのに、本当、京都の天気は変わりやすいです。
ここの所、ほぼ毎日、必ず雨が降っている気がしますね。
僕はいつも、バックの中に折りたたみ傘を入れているので、あわてて折りたたみ傘を広げたのですが、あまりにも激しく雨が降って来るので、軒先にでも隠れさせてもらおうと、細い小道に入りました。
そうしたら、その小道の先が小さなお寺になっている事に気づきました。
まさか、この小さなお寺が方広寺なんて事は…
そのまさかでした(笑)
あの有名な方広寺は、今では、小さな本堂と鐘の鐘楼しかありませんでした。
豊国神社のすぐ隣だったのですが、あまりにも小さいので、全く気づけませんでした。

例の鐘の銘、見つけました。
鐘はそのまんま、吹きさらしの外に、普通に放置されていました。
さすがにこれを盗む人はいないでしょうけど、こんな風に外に放置して、いたずらされたらどうするのだろうかと、余計な心配をしてしまいました。
「国家安康」「君臣豊楽」…
ちゃんと書いてありますね(笑)
この「国家安康」は、家康という言葉を「安」という言葉で、真っぷたつに切った冒涜であると、徳川方は豊臣方に文句をつけ、これが発端となって、大阪冬の陣、夏の陣へと発展していきます。
これ、今の時代の常識からしたら、言いがかりとしか思えないし、徳川家康という人は何て強引で狡猾な人間なんだ、と思われても仕方ありません。
でも、一応、家康の名誉の為に言い訳しておくと、当時の時代の諱(いみな/本名の事)に関する常識からして、「家康」という名前を二つに切ったかどうかは、そんな重要ではないのですが、当時の天下人の、しかもあろう事か下の名前の文字が、こんな風に丸々、こういう鐘に刻む文言の中に組み込まれてしまう事自体、あまりにも軽率過ぎて、ちょっと考えられない事なんですね。
漢字文化圏では、諱で呼びかける事は親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかける事は、極めて無礼であるというのが常識でした。
特に、天下人の諱の漢字であれば、ことさら慎重に扱います。
ところがこれは、四文字熟語の中に、丸々「家」と「康」というのが入ってしまっている訳ですから、いくら何でも、これはマズいです。
苗字の「徳川」とかだったら、まだマシなのですけど、下の名前ですから…
当然、日本にも中国にも、過去にはそんな前例はありえないし、建仁寺、東福寺、天龍寺などの住職からは、その文言を考えた僧の清韓に対して、「天下人の諱を文言に入れるなんて、あってはならない」、と非難が来ています。
例えるなら、淀君が「おのれ~、家康め~」って、大声で叫んでいるのが、徳川方の誰かに聞かれてしまった… というのと同じレベルの失態です。
それで、問い詰められた文言を考えた僧・清韓はどう申し開いているかというと、「家康という言葉と、豊臣という言葉を、あえて文言に入れて、その威光が現れる事を願った」と弁明しています。
つまり、当時の常識からして「気にしないで、うっかり名前、入れちゃいました…」なんていう、言い訳ができない大失態なのですね。
もしも、そんな言い訳をしたら「家康なんて、天下人として認めていないから、どうだっていいんだ」と言っている事になってしまいます。
ところが、さっきの弁明も、かたや「家康」という下の名前で、かたや「豊臣」という苗字だから、「家康を卑下して、豊臣を持ち上げているのではないか…」と言われても、仕方がない部分はあるんです。
まあ、それでも、家康が「いいよ、いいよ、それくらい…」と広い心で大目に見れば、戦さにまではならなかったのでしょうけど、家康は家康で、それまでの豊臣方の態度(特に淀君の態度)には、耐えかねるものがあったのだと思います。
すっかり話がそれてしまいました(笑)
それにしても、太閤秀吉が建立したという方広寺の巨大な大仏殿跡というのは、一体どこに行ってしまったのだろう… と思っていたら、どうやら、大仏殿跡緑地公園というのが、このすぐそばに、あるようです。
発掘調査によると、当時建てられていた大仏は、全高18mという、東大寺大仏殿をもしのぐ巨大な大仏であったそうです!!
この大仏は、伏見台地震で倒壊、秀吉の死後6年した慶長6年に放火により焼失するも、豊臣秀頼により、再興されました。
ところが残念な事に、江戸時代の寛政10年、落雷による火災により、焼失してしまいました。
秀吉の建立した奈良の大仏をしのぐ巨大大仏が、今も京の街に残っていたら、きっと、清水寺や金閣寺・銀閣寺と並ぶ、京都の名所になっているであろう事は、間違いないと思います。
方広寺を出て、しばらく歩いていたら、いつも使っていたコンビニのファミリーマートを見つける事ができました。
京都の街で見かけるのはコンビニは、圧倒的に「ファミリーマート」が多くて、「セブンイレブン」や「ローソン」は、ほとんど見かけません。
いつものように、ポカリスエットと六条麦茶を買って、七条のマンションに帰り、濡れた傘を広げてから、ベッドの上で少し横になって、歩き疲れた体を休めました。
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