2019.08.11京都はんなり旅日記 その2 ~銀閣寺(慈照寺)巡り~

2019年8月11日(日)

 

 まだまだ外は暑いですが、暦の上では立秋を過ぎて、いよいよお盆休みです。

 とはいえ、あまり僕には関係なくて、休みとは縁遠い生活を送っています。

 

 仕事が山積みになっている時、あまり時間を無駄にしないで、気分転換をしながら仕事をするにはどうしたらいいかと言うと、たくさんの仕事を、根詰めないで、替わりばんこにやるのが、意外と良いようような気がします。

 

 そうする事で、仕事に飽きが来なくなりますね。

 たまに、京都やヨーロッパに行った時の楽しい思い出に浸ったりしています(^^)

 

 野尻泰煌先生が勧めてくださった「慈照寺(じしょうじ)の東求堂(とうぐどう)」を訪れたのは、まだ京都旅行をして、日が浅い頃でした。

 

 慈照寺というと、イメージが浮かばない人も、いるかも知れません。

 実は僕も、野尻先生から、この名前を聞いた時には、すぐにわからなかったのですが、これ、銀閣寺の正式名称なんです。

 

 そもそも、「銀閣寺」という名前は、後々の世になって、作られた名前です。

 とはいえ、今では、銀閣寺という名前の方が、一般的ですが…

 

 銀閣寺は、京都の東山にあって、僕の京都でのマンションがある七条からは、バスで一本で行けます。

 

 いつもは、観光客ですごい人だかりのようですが、たまたまその日は雨で、人も少なく、はんなりとした気分で、銀閣寺に行きました。

 

 

 銀閣寺に着くと、目の前に案内図がありました。

 この案内図で、「東求堂」を探すと、境内の真ん中あたりにある事が分かります。

 

 ちなみに、銀閣寺の対をなす寺として、金閣寺(鹿苑寺(ろくえんじ))があります。

 

 僕は子供の頃に、母に連れられて、金閣寺にも銀閣寺にも行った記憶が、かすかにあるのですが、細かい所の記憶は、ぼやけています。

 

 金閣寺は、室町幕府三代将軍・足利義満によって建立され、建物の内外に金箔が貼られている豪華絢爛な建築物として知られる寺…

 

 戦後もしばらくの間は、当時のままの金閣寺が存在していて、国宝になっていたのですが、昭和25年見習いで勤めていた僧侶による放火により、焼失してしまいました。

 その話は、三島由紀夫の小説「金閣寺」や、名作と言われる映画「炎上」のネタ元にも、なっています。

 

 現在は、昭和30年に再建された、新しい金閣寺が建っています。

 国宝ではなくなってしまいましたが、新しくてピカピカの金色に輝く金閣寺が池に映る姿も、また見事で、平成6年にユネスコの世界遺産に認定されています。

 

 一方の銀閣寺は、八代将軍・足利義政が建立した当時のそのままの姿であり、言わずと知れた日本最大級の国宝…

 

 たまに、銀閣寺は元々建物の内外に銀箔が貼られていて、時代と共に剥がれ落ちてしまったように錯覚している人もいますが、銀閣寺には最初から、銀箔なんて貼られていません。

 

 銀箔なんか貼られていなくても、それ以上の美しさがあるんですね。

 

 そう考えると、後の世につけられた「銀閣寺」という呼び名は、少し誤解を招きかねない呼び名のような気もします。

 

 奥ゆかしい総門をくぐって、中へ…

 

 

 いきなり、目に飛び込んでくるのは、プリンのような謎の砂のかたまり(笑)

 

 この巨大なプリン(失礼…)の正式名称は、「向月台」と言います。

 

 向月台が、何のために作られたのかは、少々謎ですが、これは、当初の室町時代からあったものではなく、江戸時代の初期に、追加で造営されたものらしいです。

 何でも、月を鑑賞するためだとか、月の光を反射させるためだとか、いろいろと言われています。

 

 

 ふと、総門の方を振り返ると、小さな祠があります。

 

 これが「八幡社」と呼ばれる寺内の祠で、この祠は、銀閣寺の鎮守社とも言われています。

 

 

 向きを変えると、見事なまでの砂の庭の芸術…

 

 「銀沙灘」と呼ばれる、銀色の砂で表現した水の流れ(灘)です。

 

 そこをさらに奥に進むと…

 

 

 目的の東求堂は、そこにありました(^^)

 

 野尻泰煌先生が、京都に行くなら、絶対に見るべきだとおっしゃった東求堂…

 

 まさに、侘び寂びの境地のような場所でした。

 

 

 さらに奥に行ってみると、そこには「お茶の井(義政公お茶用の湧水)」がありました。

 

 ここで、足利義政は、お茶用の湧き水を汲んでいたのか…

 

 そう思うと、なんとも感慨深くなりました。

 

 足利義政と言えば、応仁の乱…

 

 ちなみに今回、僕が京都に来た時に、強烈なキャッチコピーで、売り出されているお菓子がありました。

 

 それは、「ブラックサンダー」

 

 

 何と「応仁の乱以来の衝撃!!」のお菓子です。

    なんやねん、それ…

 

 このキャッチコピーは、この京都の地でなければ、通用しません(笑)

 

 このフレーズを考えた人、すごいと思います。

 

 応仁の乱を一言で言えば、足利義政の後継者問題によって起こった乱で、この乱によって、戦国時代が始まりました。

    それを最終的に終わらせたのが、徳川家康…

 

 だから、足利義政といえば「無能」とか「無責任」の烙印が押されがちですが、それだと、ちょっとだけ、義政が可哀そうかも知れません。

 

    ↑ 足利義政

 

 この人、最初は、必死になって室町幕府の威信を取り戻そうと頑張ったんです。

 途中で、力尽きてしまいましたが…

 

 大体、室町幕府は、絶頂期を極めていた三代将軍・足利義満の子で、四代将軍になった義持が長期政権を取っていた頃から、少しずつ根幹がゆらぎ始めていました。

 

 足利義政の父で、六代将軍についた足利義教は、くじで決められたような将軍でしたが、何とか幕府の威信を取り戻そうと強権政治をもくろむも、逆にそれが仇になって、赤松満祐によって、だまし討ちにされています(嘉吉の乱)

 

 その頃から、すでに室町幕府では、将軍以上に、管領家である細川氏や、赤松満祐を討ち取って主君の仇を討った山名氏が、力を持つようになっていましたし、この細川氏や山名氏は、ちょっと気に入らない事があったら、将軍の言いつけにも従いませんでした。

 

 こんな状態の時に、足利義政が八代将軍になって、何とかしようと思った所で、そう簡単に幕府の威信は復活しないです(笑)

 

 最初は、何とかしようと頑張っていた足利義政も、その内に疲れちゃったんですね。

 自分の子供が幼くして亡くなってしまった事も、きっかけになって、もう政務をとるのも嫌になったので、唯一の実弟で、すでに出家していた義視に、何度も頼んで、還俗してもらい、弟を後継者にする事にしました。

 

 ところが、そんな折に妻の日野富子が、再び出産します。

 

 日野富子は、義政から恐妻と恐れられるほどの勝気な女性ですから、当然、自分の子供(後の足利義尚)を、後継者にしようと画策します。

 

 ここで、義政がハッキリと、義視か義尚のどちらかにさっさと将軍職を譲る事を約束すれば良かったのですが、弟にも妻にも嫌われたくない優柔不断なこの人は、どちらにもその約束をしないで、うやむやにしていました。

 

 弟の義視からは「兄さん、オレせっかく還俗したのに、一体どうしてくれるんだ」という感じに言われるので、「ごめんごめん。ちゃんとお前の事、後継者にするからさ…」みたいな感じで、管領の細川勝元を、弟の義視の後見人にしました。

 

 おりしも、守護大名の細川氏と山名氏が対立を深めていく中の事…

 義政の妻の日野富子は、息子(足利義尚)を将軍にしたいので、山名宗全に、後ろ盾になってもらうように頼みます。

 

 ここで、「足利義政+足利義視+細川勝元 VS 足利義尚+山名宗全」という構図ができあがるのですが、これだと明らかに、前者(義政・義視・細川チーム)の方が優勢ですから、この時点で何もなければ、乱にはならなかったと思います。

 

 ところが、その後、足利義政は、昔、自分の腹心だった伊勢貞親という人を、復職させて仲間に入れようとしました。

 この伊勢貞親という人は、義政の息子の義尚擁立派で、弟の義視に謀反の罪を着せて殺そうとした経緯もあり、義政がこの男を復職させた事に腹を立てた義視は、義政の元を離れ、比叡山延暦寺に出奔してしまいました。

 

 その結果、義視の後見人にされた細川勝元も、義視擁立の立場から義尚擁立に立場を180度変え、逆に、山名宗全は、今までは義尚派でしたが、出奔した義視を自軍に迎え入れると、義視派にひるがえりました。

 つまり、この人達は、味方として組む相手なんて、誰でも良いんですね(笑)

 

 結果的に「足利義政+足利義尚+細川勝元 VS 足利義視+山名宗全」という形になって、血で血を洗い、京都を焼け野原にする応仁の乱が開始されたのでした。

 

 とはいえ、実際に血みどろになって戦っているのは、細川氏や山名氏といった大名で、将軍の足利義政は銀閣寺に籠って、ずっと庭を造営しているし、弟の足利義視は、戦いを逃れて美濃に亡命した後、最後は、兄の義政や義姉の日野富子とも仲直りしています。

 

 だいたい、後に十代将軍になる足利義稙は、足利義視の息子です。

 

 

 お茶の井を見た後、小高い丘に登ってみました。

 

 ここに登ると、京都の街の様子が一望できます。

 

 足利義政という人は、京都に甚大な被害をもたらした「寛正(かんせい)の大飢饉」の時も、猿楽や酒宴に興じ、ずっと「花の御所」を改築したり、邸宅や庭園の造営をしていました。

 後花園天皇が、その事を勧告したにもかかわらず、それを無視し続けたと言います。

 

 応仁の乱が起きた当時、戦火にまみれて、火の手が上がっている京都の街が、おそらく、この丘から見て取れたでしょう。

 

 この戦いの最中、京都の民衆があえぎ苦しんでいる間も、そんな事は気にも留めず、義政はずっと、庭園の造営や和歌に夢中になっていた…

 

 丘から下を見下ろすと、そこに、銀閣寺(観音殿)がありました。

 

 

 豪華絢爛な金閣寺と違い、決して、銀粉なんて貼られていない、侘び寂びの寺…

 

 

 そこは、まるで新緑のシャワーを浴びているような、血塗られた争いとは無縁の世界…

 

 

 これは、銀閣寺の洗月泉…

 

 まるで、全ての俗世の垢を洗い流してくれるような素敵な場所でした。

 

 

 下に下りて、改めて見る銀閣寺(慈恩寺)…

 

 この銀閣寺という風景の中で、足利義政は一体何を思っていたのだろう…

 

 しばしの間、ずっと考えていました。

 

 足利義政という人の生き方は、現実逃避で無責任、決して褒められたものではないけれど、責任感に押しつぶされそうな現代人に、一つのヒントを与えてくれているようにも思えます。

 

 目の前が八方ふさがりで、もうダメだと思っても、この銀閣寺の庭園の緑のシャワーを浴びたなら、そんな事はどうでも良くなってしまうかも知れない…

 

 そして、この究極の調和の世界こそが、本来の世界なのかも知れない…

 

 もちろん、だからと言って、無責任な事をしても、逃げればいいという道理にはなりませんけど、どうにもならない状況を一度リセットするのは、悪い事ではないでしょう。

 

 

 銀閣寺から外に出て、「哲学の道」を歩いてみる事にしました。

 

 

 どこまでも、まるで永遠に続くかのような道…

 

 人生という道だって、これと同じかもしれない。

 

 その道の途中で、時には感動したり、時には打ちひしがれたりしながら、自分の心を豊かなものにしていく…

 

 人生の中でいろいろな事は起きるけど、これからも、投げ出さないで歩いて行こうと思います。

 

 ちなみに、この哲学の道は、1.5kmぐらいの長さで、このまま歩き続けると、熊野若王子神社の若王子橋まで行けるそうです(^^)

 

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