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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<28>詩人の生涯と旅人の叙情20.11.24

2020年11月24日(火)

 

 秋もすっかり深まって、いよいよ冬が違づいているのを、ひしひしと感じます。

 早いもので、今年もあと40日足らずで、終わりなのですね。

 

 僕の枕元に、山口旅行の思い出の品として買った、一冊の詩集があるんです。

 

 それは「中也の詩(ちゅうやのうた)」という、30ページほどの詩集…

 

 

 一年前、湯田温泉にある、中原中也記念館の受付で、これを買いました。

 

 あの頃の僕は、正直、中原中也の事を、よく知りませんでした。

 学校の国語の教科書かなんかに、この人の詩が出ていたような気がするんですけど、うる覚えですし、よく覚えていません。

 

 中原中也の代表作というと、「サーカス」や「汚ごれつちまつた悲しみに……」といった所でしょうか。

 本当の事を言うと僕は、仮名づかいが古いせいか、小難しくて、よく理解できない詩だと、思っていました。

 今回、詩集を買って、改めて読んでみた感想も、やっぱりそんな感じでした。

 

 でも、毎晩、寝る前にペラペラ詩集をめくって、何度も何度も中也の詩に触れている内に、この中也の詩の良さが、自然に感じられるようになってきたんです。

 

 中原中也の孤独感や、もの悲しさが、幻想的な情景と共に、じわりじわりと心に響いて来るんですね。

 

 出雲・山口の旅から帰って、翌々日ぐらいに、たまたま新宿にある紀伊国屋書店に立ち寄ったら、なんと、お店の入り口が、中原中也の特設コーナーになっていたんです。

 

 それまでは恥ずかしながら、中原中也という人は、“湯田温泉がほこる地元の有名人”ぐらいの認識しかなかったので、正直、とても驚きました。

 

 そして、これ以来、この詩人の事を、とても身近に感じられるようになりました。

 

 後から知ったのですが、中原中也という人は、詩人のカリスマ的存在であり、ちなみに「中原中也賞」とは、優れた詩を書いた人に与えられる著名な賞です。

 

 中原中也という人は、帽子をかぶった少しあどけない顔の写真で、紹介される事が多いですね。

 

 

 この写真は、18歳で上京した時、銀座の写真館で撮影した写真だそうです。

 フランスの詩人・ランボーに憧れて、この帽子を、いつもかぶっていたらしいです。

 

 中原中也の人生は、たった30年という短い生涯でした。

 

 湯田温泉に到着した時、最初に湯田温泉の総合案内所に立ち寄ったのですが、そこでは、中原中也のトレードマークである帽子とコートが無料で貸し出されていて、それを自由に着て、撮影ができるようになっていました。

 

 どうやら、中原中也という人は、この帽子とコートを身にまといながら、バーに出入りして、酒を飲んで酔っ払い、そこに来たお客にいつも絡んで、喧嘩を吹っかけていたそうです。

 

 おかげで、そのバーは客足が遠ざかって、一年と持たずして、つぶれてしまったのだとか…

 

 本当、どうしょうもない人です(笑)

    よっぽど、寂しかったんでしょうけど(^^;;

 

 小説家の太宰治も、東京の東中野で、中原中也とお酒を飲んだ事があるそうですが、案の定、酒に酔った中也から、からまれたそうです。

 

 それからというもの、中也の事を「ナメクジみたいに、てらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と、拒絶しています。

 

 とはいえ、中也が若くして亡くなった時、太宰治は、その才能を大いに惜しんだと言います。

 

 中原中也記念館は、湯田温泉の総合案内所である「狐の足あと」と道を挟んだ、目の前にありました。

 

 

 中原中也記念館の前に、ぽつねんと立てられている、“中原中也誕生之地”と刻された1つの石碑…

 

 この場所は、中原中也の生誕の地でもあり、昔はここに中也が生まれ育った家が、建っていました。

 

 今から48年前の1972年、この場所にあった中原病院(中也の父は、医師だった)が、火災によって全焼し、唯一、この写真に写っている、石碑の後ろのカイヅカイブキの木だけが、被害を免れました。

 そして、その12年後、中原中也がここで生まれた事を記して、この石碑が立てられました。

 

 中原中也の生家跡であるこの場所に、中原中也記念館が建てられたのは、さらにその12年後の事です。

    偶然ですが、これらは全部、子年の出来事ですね…

 

 

 早速、記念館に入館してみる事にしました。

 

 入館料は、一般330円で、とてもリーズナブルです。(ちなみに、高校生以下は無料です…)

 

 中に入ると、中原中也の生い立ちの歴史や、たくさんの詩が季節ごとやテーマごとに並べられていました。

 

 広々とした洗練されたモダンな空間には、中也の直筆やたくさんの資料が展示されていて、パネルに貼り出された中也の詩を楽しめるという作りで、散策しているだけで、気持ちが豊かになります。

 

 ちなみに、この建物は、日本全国で選ばれた公共建築の“公共建築百選”にも、選ばれています。

 

 

 これは、中也が書いた直筆の詩…

 

 撮影禁止なので、パンフレットに載っていた写真から紹介させて頂いています。

 

 階段を2Fに上がっていくと、そこにはビデオ放映室があって、常時、中原中也の生涯が放映されていました。

 

 そのビデオを見て、僕が知ったのは、人の死という悲しみを何度も経験しながら、孤独と向き合って生きた、儚(はかな)い一人の詩人の人生でした。

 

 中也は、中原家の長男として生まれたのですが、子供の頃は、神童と呼ばれていたんです。

 おそらく必要以上に、親から期待されていたんじゃないかと思いますね。

 

 やがて、中也は、読書にふけり、詩作に興じるようになって、学校の勉強の方は、どんどんおろそかになっていきました。

 

 軍医でもあり、教育熱心な父が、そんな事を許す訳もなく、体罰を加えられたりもしましたが、親に隠れて、ますます文学の世界に没入していきました。

 そして、小さな頃から、酒を飲んだり、たばこを吸ったりするようになり、やがて、落ちこぼれの不良少年となっていきました。

 

 学校の成績は、トップから最下位にまで落ちて、落第が決定し、留年して同じ中学校にいるのも、みっともないので、山口から、京都の中学校に転校するに至ります。

 

 やがて、中也は東京へ上京を決意し、その後は、同人誌に寄稿をしたりして、精力的に文学者としての活躍を始めました。

 

 父が亡くなったのは、中也が21歳の時…

 往診先で病で倒れた父は、その病床で、中也の歌詞が載った活字の出版物を見て、涙を流し、それからしばらくして、息を引き取ったそうです。

 

 親というのは、どんな時だって、子供の心配をしているものなのかも知れません。

 きっと、中也の詩が活字になっているのを見て、安心したのではないでしょうか。

 今の時代は、活字なんて、パソコンで簡単に作れてしまいますが、この時代、歌詞が活字になるというのは、相当に名誉な事だったはずですから…

 

 中也が生まれた中原家は、この時代だからというのもあるのでしょうが、短命で亡くなっている子供が多く、中原中也はたった30年という短い人生の間に、弟や妹の死を何度も見てきたんです。

 

 中也の詩は、最初一読しただけでは、よくわからない詩が多いのですが(単に、僕が理解できないだけかも知れませんが…)、この「妹よ」という詩は、わかりやすく、何とも言えない切実さと悲しみが伝わってきます。

 

 妹よ

 

 夜、うつくしい魂は涕(な)いて、 ― 彼女こそ正当(あたりき)なのに ―

 夜、うつくしい魂は涕いて、もう死んだつていいよう……といふのであつた。

 

 湿つた野原の黒い土、短い草の上を夜風は吹いて、

 死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、うつくしい魂は涕くのであつた。

 

 夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに

 ― 祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……

 

 やがて、中也も26歳で結婚し、27歳の時に、文也(ふみや)という男の子を授かります。

 

 中也は一人息子を溺愛し、片時も離れず一緒に遊んでいますが、文也は小児結核に罹り、わずか2歳で夭折してしまいます。

 

 その時の中也は、息子の亡骸を抱きかかえて離さず、四十九日の間は、文也の位牌の前からずっと離れなかったそうです。

 

 この頃から、中也は精神を病むようになり、やがて自身も脳膜炎に罹り、わずか30年の生涯を閉じました。

 

 中也が息子の文也の事を想い、書いた詩があります。

 

 また来ん春……

 

 また来ん春と人は云ふ

 しかし私は辛いのだ

 春がきたつて何になろ

 あの子が返つて来るぢやない

 

 おもへば今年の五月には

 おまへを抱いて動物園

 象を見せても猫(にゃあ)といひ

 鳥を見せても猫(にゃあ)だつた

 

 最後に見せた鹿だけは

 角によつぽど惹かれてか

 何とも云はず 眺めてた

 

 ほんにおまへもあの時は

 此(こ)の世の光のたゞ中に

 立つて眺めてゐたつけか……

 

 中原中也の詩が感じさせる奥行や、作品の素晴らしさは、人生でのたくさんの別れとの引き換えにあるのではないかと、感じずにはいられません。

 

 

 2Fの企画展示室では、「ムットーニからくり文学館」という展示が、行われていました。

 

 ムットーニとは、武藤政彦さんという芸術家の別名であり、武藤さんは、からくり人形師として、名高い芸術家…

 

 そして、今回ここに展示されていたのは、著名な詩人(中原中也、宮沢賢治、ジュール・シュペルヴィエル、萩原朔太郎)の詩の朗読(機械が、録音されている武藤さんの声で語りかける)に合わせて動く、6つのからくり仕掛けの作品でした。

 

 その内の3つの作品は、中原中也の詩を元にした、からくり人形なのですが、それはそれは見事なものでした。

 (撮影禁止なので、写真はパンフレットから取りました)

 

アトラスの回想

 

 

 地獄の天使

 

 われ星に甘え、われ太陽に傲岸(ごうがん)ならん時、人々自らを死物と観念してあらんことを! われは御身等(おんみら)を呪ふ。

 心は腐れ、器物は穢(けが)れぬ。「夕暮」なき競走、油と虫となる理想! ― 言葉は既に無益なるのみ。われは世界の壊滅を願ふ!

 蜂の尾と、ラム酒とに、世界は分解されしなり。夢のうちなる遠近法、夏の夜風の小鎚(こづち)の重量、それ等は既(すで)になし。

 陣営の野に笑へる陽炎(かげろう)、空を匿(かく)して笑へる歯、― おゝ古代!―心は寧(むし)ろ笛にまで、堕落すべきなり。

 

 家族旅行と木箱(きばこ)との過剰は最早(もはや)、世界をして理知(りち)にて笑はしめ、感情にて判断せしむるなり。― われは世界の壊滅を願ふ!

 

 マグデブルグの半球(はんきゅう)よ、おゝレトルトよ! 汝等(なんじら)祝福されてあるべきなり、其(そ)の他はすべて分解しければ。

 

 マグデブルグの半球よ、おゝレトルトよ! われ星に甘え、われ太陽に傲岸ならん時、汝等ぞ、讃(たた)ふべきわが従者!

 

 このからくり仕掛け、パカっと丸い玉(真空を証明したマグデブルグの半球のイメージ)が割れて、中から天使が現れるんです。

 幻想的で見事な仕掛けに、中原中也の「地獄の天使」の小難しい詩が、しっくりと合っています。

 

ロスト

 

 

 失せし希望

 

 暗き空へと消え行きぬ  わが若き日を燃えし希望は。

 

 夏の夜の星の如くは今もなほ  遐(とお)きみ空に見え隠る、今もなほ。

 

 暗き空へと消えゆきぬ  わが若き日の夢は希望は。

 

 今はた此處(ここ)に打伏(うちふ)して  獸(けもの)の如くは、暗き思ひす。

 

 そが暗き思ひいつの日  晴れんとの知るよしなくて、

 

 溺(おぼ)れたる夜(よる)の海より  空の月、望むが如し。

 

 その浪(なみ)はあまりに深く  その月はあまりに清く、

 

 あはれわが若き日を燃えし希望の  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

 

 真ん中の男の人が、美しいBGMの音と共に、宙に浮かぶというか、昇天していくというか… 

 奇想天外の仕掛けに、びっくりです。

 

サーカス

 

 

 サーカス

 

 幾時代かがありまして

    茶色い戦争ありました

 

 幾時代かがありまして

    冬は疾風吹きました

 

 幾時代かがありまして

    今夜此処(ここ)での一と殷盛り(ひとさかり)

       今夜此処での一と殷盛り

 

 サーカス小屋は高い梁(はり)

    そこに一つのブランコだ

 見えるともないブランコだ

 

 頭倒(あたまさか)さに手を垂れて

    汚れ木綿(よごれもめん)の屋蓋(やね)のもと

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

 それの近くの白い灯(ひ)

    安値(やす)いリボンと息を吐き

 

 観客様はみな鰯(いわし)

    咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

    屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇(くらのくら)

    夜は劫々(こうこう)と更けまする

    落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

    ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

 ムットーニさんの5つある作品の中でも、極めつけ、このサーカスの仕掛けがすごかったです。

 出てくる観客の頭が、本当にイワシになっているし(笑)

 

 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」とムットーニさんが読み上げる声が、ずっと耳について、消えなくなってしまいました(^^;;

 

 さてさて、ムットーニさんの作品に魅了されている内に、かなりの時間が過ぎてしまったようです。

 

 いつしか、僕の中に、中原中也という詩人が、住み着いてしまったように感じました。

 

 記念館の出口で「中也の詩集」を買うと、ボーッとした面持ちで、湯田温泉の街を歩きました。

 

 今から、100年前、少年の中原中也がこの湯田温泉の町を、傷ついた心を抱えながら歩いていたのかと思うと、何ともいえない、ノスタルジックで物悲しい気持ちになります。

 

 “中原中也という詩人は、30年余りの短い時間で、人生という旅を終えて、別の世界に帰って行ったのかな…”

 そんな風に、思えてきました。

 

 “今、生きている人生だって、旅に過ぎないのかも知れない”

 ふと、そんな言葉が、心の中にわいてきました。

 

 シュールな気持ちで、空を見上げてみると、太陽がずいぶんと西に傾いているようです。

 いつの間にか、夕暮れだったんですね。

 

 この出雲・山口の旅の残された時間も、あとわずか…

 

 そろそろ、東京に向かって離陸する、今夜の飛行機に搭乗する為に、山口宇部空港へと、向かわなくてはなりません。

 

 まずは一旦、JR山口線で、新山口駅まで戻り、そこから宇部空港行きのバスに乗る予定です。

 

 残りわずかな時間ですが、最後の旅の思い出を作りたいと思います。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<27>日本酒と維新の志士達の軌跡20.11.09

2020年11月9日(月)

 

 11月を迎えて、外は、すっかりと寒くなりました。

 新型コロナの事で、騒がしく始まった2020年も、あと2ヶ月で終わり…

 

 今からちょうど一年前、この出雲と山口の旅行に旅立ったんです。

    ついに、1年のタイムタグが出来てしまった…

 

 実は今、あまりにも多くの仕事量を抱え過ぎていて、置かれている状況が、行き詰っています。

 この旅行記が30話まで終わったら、しばらくの間、このブログを休止して、今、一番やらなければいけない執筆活動に、しっかり腰を据えて取り組もうと思っています。

 

 それにしても、この7日間の旅行は、今思い出すと、本当にのんびりと時間を過ごしました。

 

 一年前の2019年という年は、本当に旅行三昧だったのですが、この出雲・山口旅行は、その締めくくりにふさわしい素晴らしい旅でした。

 

 まさか、その翌年、こんな疫病が流行して、マスクをしなければ、自由に動き回れないような事になってしまうとは、夢にも思いませんでした。

 

 湯田温泉に行った前日の夜、新山口の東横インの前で、水木杏香先生と別れた後、少し小腹が減ったので、ホテルの近くのコンビニに、お弁当を買いにいったんです。

 

 ふと、お弁当の横にある棚を見ると、ものすごく珍しい名前の日本酒がありました。

 

 

 奇兵隊 長州の酒「晋作」…

 

 今や僕は、東行庵で墓参りをするほどに、高杉晋作のファンになってしまったのですから、これを買わない手はないでしょう(笑)

 

 僕は、基本的に一人で晩酌とかは、絶対にしない人間ですが、このお酒のネーミングに負けました。

 

 この日の夜は、ホテルの部屋のベッドで寝そべりながら、病床にふした高杉晋作になったつもりで、コンビニ弁当と一緒に、この「晋作」を飲みました。

 

 飲み口がすっきりしていて、ものすごく飲みやすいお酒でしたね。

    自分ルールで、旅行中そこでしか手に入らないお酒を飲むのだけは、OKにしています…

 

 一人でお酒を飲んだその翌日は、湯田温泉で温泉三昧ですから、予算は掛かっていませんが、とても癒された贅沢な時間でした。

 

 亀の湯の温泉に、心行くまでゆったりと浸かった後、湯田温泉周辺を散策してみました。

 

 下の地図のように、おおよそ観光スポットは、湯田温泉駅から、少し北の方へ歩いたあたりに集結しています。

 

 

 その公共の観光案内所が「狐の足あと」という施設なのですが、中原中也(なかはら ちゅうや)記念館も、原田酒舗(はらだしゅほ)も、松田屋ホテルも、全部その辺りにあるんですね。

 

 あちこち回っている内に、「井上公園」という名前のそこそこの広さの公園を見つけました。

 

 なんと、この公園は、長州藩士として、いつも高杉晋作や伊藤俊輔(のちの博文)と一緒に行動していた井上聞多(のちの馨)の屋敷跡に整備されたとの事…

 つまり今から200年前、この場所は、明治の元勲・井上馨公のお屋敷だったのですね。

 

 

 井上馨の銅像が、堂々とそびえていました。

 

 明治維新の功労者でありながらも、どちらかというと、井上馨という人は、あまり良い印象を持たれない事が多いです。

 

 司馬遼太郎の「幕末」という短編集の中に「死んでも死なぬ」という題名の井上馨を主役にした短編があるのですが、その文末には「この男は維新前、袖解橋(そでときばし)で死ぬべきであったかも知れない。貪官汚吏(たんかんおり)の巨魁として悪名をのこした」と、こき下ろしています。

 

 財閥と密接に結びついて、私腹をこやしたりとか、秋田の尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)をせしめて、自分の物にしてしまった事で、江藤新平(えとう しんぺい)に追及されたりとか、とにかく黒いイメージで、とらえられる事が多い明治の政治家です。

 

 とはいえ、もしも明治政府の中に、経済の才覚を持った井上馨のような男がいなかったら、もしかすると、明治維新の後の日本が、欧米列強と互角に渡り合えるような事は、できなかったかも知れません。

 

 評論家の渡部昇一さんも、井上馨の事を「先見性があり、バランス感覚を持っていた優れた国家指導者」というように、評価しています。

 

 ちなみに、長州藩士時代の井上聞多(馨)・伊藤俊介(博文)というと、何となく、高杉晋作の「使いっぱしり」みたいなイメージで、井上聞多の年齢も、高杉晋作よりも年下で、伊藤俊介と同じぐらいの年なのかな… という印象を受けるのですが、実は違います。

 

 この3人の中では、井上聞多が最年長者で、高杉晋作よりも3つも年上なんです。

 

 

 井上馨の銅像のすぐ隣に、所郁太郎(ところ いくたろう)の顕彰碑がありました。

 

 この所郁太郎という人は、27歳の若さで亡くなった秀才の医者です。

 岐阜県の美濃赤坂で生まれ、緒方洪庵(おがた こうあん)に学んで、大坂適塾(てきじゅく)の塾頭に上りつめるほどの才能でした。

 

 ちなみに、顕彰碑の中の写真の銅像は、岐阜の美濃赤坂に立てられています。

 

 そして、この所郁太郎こそが、井上馨の命を救った大恩人でもあるのです。

 

 時は、幕府連合軍による第一次長州征伐の後の事…

 この第一次長州征伐によって、長州藩は俗論派が台頭し、藩論は、正義派と俗論派で真っ二つに割れてしまいました。

 

 この日の夜、正義派の代表で、高杉晋作の上司に当たる周布政之助(すふ まさのすけ)は、禁門の変の暴発を抑えられなかった事に責任を感じ、切腹をして果てました。

 

 同じ頃、長州藩の意思決定をする御前会議で、たった一人の正義派の代表として参加した井上聞多は「これまでの姿勢を貫き、幕府の長州征伐を受けて立つ」事を主張し、俗論派を言い負かして、藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の心をつかみ、藩論を徹底抗戦にする事に成功しました。

 

 ちなみにこの頃、高杉晋作は、下関砲台を占拠したイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合四ヶ国との講和談判に成功したものの、これが元で、攘夷派から命を狙われるようになり、危険を感じて、身を隠していました。

 (2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)

 

 御前会議を終えて、井上聞多が袖解橋(そでときばし)に差し掛かった時、俗論派の3人の刺客に襲われました。

 

 いきなり、後ろから足をつかまれると、前に押し倒されて、背中を斬られ、井上聞多が起き上がって反撃しようとすると、今度は3人がかりで斬りつけられました。

 

 たまたま、祇園の美人芸妓の君尾(きみお)からもらった鏡が、懐(ふところ)に入っていたお陰で、心臓だけは斬られなかったのが幸いでした。

 

 瀕死の状態で倒れているのを、近くに住む農夫に発見され、この井上公園がある場所に建っていた井上家に運ばれましたが、その時には、すでに虫の息でした。

 

 すぐに井上家に、二人の医者が呼ばれましたが、体中いたる所を斬られ、血が噴き出している状態で、なすすべがありません。

 聞多は最後の力で、そばにいる兄に、介錯をしてほしいと頼みます。

 

 見るに見かねた兄が、苦しんでいる弟を楽にしてやらねばと、刀を振り上げた時、そばにいた母が突然、血だらけの聞多を抱きかかえ、兄の介錯を思いとどまらせました。

 

 この時、所郁太郎は、長州藩に落ちのびていた三条実美に随行していましたが、事の次第を聞きつけて、三条実美の許しを得て、急遽、井上家に駆けつけました。

 

 そして、そこにいた二人の医師に手伝ってもらい、たまたま井上家に出入りしていた畳職人の畳針と糸を借りて、焼酎で傷所を洗滌し、小さい畳針で縫合し始めました。

 縫合は、約50針におよんだと言います。

 

 これにより、井上聞多は一命を取り留めました。

 その後も、母が献身的に聞多の看護をし、聞多の傷はみるみる良くなっていきました。

 

 この話は、戦前の国民学校の国語の教科書に「母の力」という題名で、おさめられていたそうなので、ご年配の方には、きっと、なじみのあるお話でしょう。

 

 それにしても、役割のある強運の人というのは、何があっても、こんな風に守られるものなのかも知れません。

 

 明治の元勲・井上馨は、この時代においては珍しく、79才の長寿を全うしました。

 

 さて、井上公園を後にして、まだまだ、今晩の飛行機のフライトまでには、時間がありそうです。

 

 この湯田温泉という場所を語る上で、絶対に欠かす事ができない、一人の著名な詩人がいます。

 

 もうしばらく、この湯田温泉の地を、散策してみたいと思います。

 

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