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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<21>功山寺の誓い20.08.26

2020年8月26日(水)

 

 今年は、梅雨がやたらと長くて、夏の始まりが随分と遅くなりましたが、やっと今になって、猛烈に暑くなりました。

 でも、すっかり日は短くなっていて、あと1ヶ月もしたら、お彼岸なんですね。

 

 僕は、今度のお彼岸の4連休に「四柱推命講座・初級編Zoom版」を開催する事にしました。

 Zoomというのは本当に便利で、世界中のどこからでも、スマホか、パソコンを持っていたら、その場所で受講ができます。

    4日の内1日だけ どうしても日程が合わない程度なら、お問い合わせください♪

 

 そして、10月から「四柱推命講座・中級編Zoom版」と、「四柱推命講座・中級編~平日コース~」も、開催する事にしました。

 

 今回は、立て続けに講座を決定してしまいました。

 来年の12月31日という、自分で宣言したタイムリミットまでに、誓った目標を完徹すべく、これからの一年余り、極力、時間の無駄がないように生きるつもりです(^^)

 

 さて、今回の西日本旅行記は、山口県下関市にある、功山寺に行ってきた時のお話です。

 

 功山寺といえば、高杉晋作によって、明治維新の先駆けと言われた「功山寺挙兵」が決起された、その場所…

 

 もしも、功山寺挙兵が起こらなくて、長州藩が俗論派に牛耳られていたままだったら、確実に、明治維新は何年かは遅れていただろうと、言われています。

 

 高杉晋作の墓所である東行庵を巡った後、昼食に美味しい貝汁とお刺身を食べて、水木杏香先生が運転する車で、海沿いの国道2号線を、さらに西へと向かいました。

 

 

 そして、高杉晋作・回天義挙の挙兵の地と言われる功山寺へと到着…

 

 ちなみに、回天とは「天をめぐらす」という意で「時勢を一転させる事」を言い、義挙とは「正義の為に起こす行動」の事を言います。

 

 

 功山寺のあるその場所は、ひっそりとした、とても静かな場所でした。

 

 中に入ると、立て札があって、功山寺の由緒が書かれていました。

 

 功山寺(長府川端町)

 

 曹洞宗。嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇(どうう = 殿堂)の荒廃を見た。

 

 その後、慶長七年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に改宗した。二代藩主光弘が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。(以下略)

 

 何と、このお寺は最初から、曹洞宗だった訳でもなく、功山寺と呼ばれていた訳でも、なかったのですね。

 

 

 功山寺の静かな参道を、水木先生と一緒に登って行きました。

 

 今から、150年ほど前、高杉晋作に率いられた、血の気があふれる攘夷志士が、ここにたむろしていたとは、とても思えません。

 

 この時代の長州藩は、正義派が次々と駆逐(くちく)され、完全に俗論派に牛耳られてしまっていました。

 それは、まさしく、禁門の変の反動と言っても、良いかも知れません。

 

 禁門の変とは、長州藩の過激派の来島又兵衛(きじま またべえ)などの軍勢が、京都御所の天皇に長州藩の無実を訴えようと、退去命令が出ているにもかかわらず、それに逆らって突進し、結果的に、西郷隆盛率いる薩摩藩や会津藩などによって、殲滅(せんめつ)されられてしまった事件です。

 

 この時、高杉晋作や、桂小五郎、周布政之助(すふ まさのすけ)なんかは、過激派に慎重な姿勢を取るように懸命に抑えていたのですが、抑えきれませんでした。

 

 この禁門の変により、久坂玄瑞(くさか げんずい)や入江九一など、多くの長州藩士の命が奪われました。

 これ以来、長州藩では「薩賊会奸(さつぞくあいかん)」と言って、薩摩藩や会津藩を毛嫌いするようになった…

 

 そして、長州藩は朝敵となり、長州藩はこれ以降、俗論派の椋梨藤太(むくなし とうた)などに牛耳られていく事となります。

 

 ちなみに「正義派(=急進派)」とか「俗論派(=恭順派・保守派)」というのは、高杉晋作が使い始めた呼称です。

 

 たいがい、維新もののドラマや映画なんかでは、俗論派や、その首魁の椋梨藤太は、凡庸で愚昧な敵役にされてしまうのですが、それですと、ちょっと可愛そうな気もしますね(^^;;

 

 正義派(の一部の過激派)が起こした禁門の変は、まるで後先を考えない、長州藩を自滅させた愚行と言わざるを得ませんし、この時期、過激な事をしないで、おとなしく幕府に従って、藩を存続させようという考え方は、むしろ自然な流れです。

 

 俗論派が藩を牛耳るようになると、井上聞多(のちの馨)も、藩の存続を脅かす危険分子と見られ、数人の暴徒に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまいます。

 

 この時、聞多の母の適切な処置や、医師・所郁太郎(ところ いくたろう)による約50針におよぶ、畳糸を使った縫合によって、からくも井上聞多は、一命をとりとめるのですが、その話はまた、この何回か後のブログに譲る事にしましょう。

 

 そして、井上聞多が襲われた翌日には、過激派の暴発を食い止めらなかった事に責任を感じていた、晋作の良き上司であった周布政之助が、切腹をして、命を絶ってしまいます。

 

 久坂玄瑞らを禁門の変で失い、その上、周布政之助も井上聞多もいなくなってしまった長州藩の上層部は、完全に俗論派に、乗っ取られてしまいました。

 

 長州藩の藩主である、毛利敬親(たかちか)父子も、俗論派に従いました。

 藩論はすっかり、俗論派に傾いていましたし、この時は、これ以外に方法がなかったのです。

 

 ちなみにこの時、桂小五郎は、京都の三条河原で、物乞いに変装し、身を隠していました。

 そして、高杉晋作も、俗論派によって藩の要職を罷免され、命の危険を感じた晋作は、萩を脱出しました。

 

 

 いくつかの階段と緩やかな坂を上って行った所に、功山寺の山門があります。

 この山門は、安永2年(1773)に建立… 山門の屋根は、見事な瓦ぶきとなっています。

 

 ゆるやかな階段を、ゆっくりと上がっていきました。

 

 

 山門の入り口の柱の両側には、”沸頂山璽現少林五業端 龍池水活漲蓇渓一滈波” と、金色の文字がかたどられています。

 

 いよいよ、功山寺の中へ入ります。

 

 萩から脱出した高杉晋作は、まずは、山口に行き、俗論派の暴徒に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多の病床を見舞った後、海を渡り、福岡の博多へと逃れました。

 

 福岡の潜伏先で、晋作をかくまったのは、野村望東尼(のむら ぼうとうに)です。

 野村望東尼は、勤王の志を持つ尼僧であり、この時には58歳で、晋作とは年が33歳も離れているのですが、その後もずっと晋作に寄り添い、高杉晋作が結核で床に臥せると、愛妾おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)と共に、その最期を看取っています。

 

 高杉晋作も、桂小五郎も、周布政之助も、井上聞多もいない長州藩の正義派は、だんだんと意気消沈していきました。

 

 今となっては、藩主の毛利敬親・定広親子が、俗論派を信任しているのですから、誰もどうする事もできません。

 

 そして、朝敵となった長州藩に対し、幕府と雄藩の連合軍による、長州征伐が始まりました。これが第一次長州征伐です。

 

 藩内の俗論派は、幕府に対する恭順を示す為に、禁門の変を推進した、正義派の三家老・福原元僴(ふくはら もとたけ)、益田親施(ますだ ちかのぶ)、国司親相(くにし ちかすけ)を切腹させて、その首を、幕府連合軍の総大将である尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ よしかつ)に差し出しました。

 

 幕府連合軍だって、本音を言えば、自分達の兵を減らしてまでして、長州藩と戦いたい訳ではありません。

 

 総大将の徳川慶勝は、その首が本当に長州藩正義派の三家老であるかどうかを確認すると、参謀の西郷隆盛と相談し、山口城の屋根瓦を何枚か外させ、城を破却させたという体にし、毛利敬親・定広親子の謝罪文を受け取ると、さっさと軍勢を引き上げていきました。

 

 これによって、取り合えず、第一次長州征伐は回避されました。

 

 

 これが、国宝にも指定されている、功山寺の仏殿です。

 

 こうした中、高杉晋作によって創設された奇兵隊は、どうしていたかと言えば、赤禰武人(あかね たけと)という人物が、総督に就任していて、赤禰は、正義派である自分達と、藩を牛耳っている俗論派とが、うまく折り合いをつけて、共存する道を探っていました。

 

 明治時代に著された多くの歴史書では、たいがい赤禰武人は、正義派を裏切って俗論派の元に走った裏切り者という扱いになっていて、最後は弁明すらも許されず、正義派に処刑されてしまうのですが、この扱いは、あまりにも可哀想な気がします。

 

 赤禰武人は、高杉晋作からは相当に嫌われていましたが、まがりなりとも松下村塾の塾生ですし、江戸幕府を批判したかどで、安政の大獄で捕らえられたり、晋作の英国公使館焼き討ちにも加わったりと、尊王攘夷の志士としての実績は、かなりあった人です。

 

 ちなみに、赤禰武人が俗論派の藩政府と交渉を重ねている間、奇兵隊の指揮は、副官である山縣狂介(有朋)が握っていました。

 

 山縣狂介は他の正義派の諸隊とも話し合い、俗論派が勢いを増している現状に対抗する為に、まずは全諸隊を山口に集結させ、さらに、功山寺がある長府の地へと向かう事を決めました。

 

 そして、隊を動かす道筋で、八月十八日の政変で朝廷を追い出されて、長州藩に落ちのびてきた三条実美(さんじょう さねとみ)ら五卿(ごきょう)と高田御殿で会談し、その結果、五卿達は、諸隊の集まる長府へ、一緒に同行する事になりました。

 

 三条実美ら五卿は、この功山寺の部屋で、かくまわれる事となるのです。

 

 

 この像こそが、高杉晋作回天義挙銅像…

 

 高杉晋作はこの功山寺で、わずかな手勢で挙兵をし、それが最終的には長州藩の運命、ひいては日本の運命さえも、変えてしまう事になります。

 

 高杉晋作が博多に潜伏している間、山縣狂介らを中心とする諸隊の幹部は、俗論派との交渉が決裂した時に備え、長州藩の各地に派遣されている俗論派の代官を、暗殺する計画を建てていました。

 

 一方の俗論派は、藩主である毛利敬親父子に、正義派の諸隊が暴動を起こさないように説得させたり、隊士達の家族に圧力を掛けたりして、その士気を下げ、自然消滅するような形を目指していました。

 事実これによって、隊士達の士気はどんどん下がり、離脱者は増えていきました。

 

 そんな時、潜伏先の博多から、高杉晋作が長州藩に帰還し、長府の諸隊の元にやってきたのです!!

 

 諸隊は大歓迎して、晋作を受け入れました。

 

 高杉晋作は「暗殺という姑息(こそく)な手段は、取るべきではない」と、諸隊による代官の暗殺計画に反対し、「隊士の士気が下がって離脱者が増える前に、今こそすぐに、諸隊が一致して挙兵すべきである」と、即時の挙兵を主張しました。

 

 高杉晋作の帰還を、心から喜んだ隊士達でしたが、「急にそんな事を言われたって…」という雰囲気になり、代官の暗殺計画の方は、取り止めになりましたが、即時挙兵は、実現しませんでした。

 

 さらにこの後、奇兵隊の総督である赤禰武人が、俗論派との交渉をとりつけて復隊し、「隊をそのまま存続させる事と、隊士を全員、長州藩の藩士に取り立てるという約束を取り付けたので、藩政府に恭順するように…」と説くと、隊士達は、一気に恭順モードとなってしまいました。

 

 即時挙兵を説いているのに、全く動こうともしない諸隊を見て、業を煮やした高杉晋作は、赤穂浪士が討ち入りをした日である12月14日を、挙兵の決行日と決め、功山寺で挙兵する事を宣言しました。

 

 すると、隊の幹部はこぞって、高杉晋作の挙兵に反対し、無謀な事を取りやめるように、説得してきました。

 

 いら立った晋作は「みんなは赤禰武人に、だまされている。オレは毛利家三百年来の家臣の家柄だ。あんな百姓出身の赤禰と一緒にされては困る」と叫びました。

 

 普通、こんな事を言ったりしない晋作ですが、よほどに、いら立ちを抑えきれなかったのでしょう。

 隊士のほとんどは、農民や商人や下級武士など、身分の低い生まれであり、残念ながら、この晋作の説得に心を動かされて、一緒に挙兵をしようとする隊士は、いませんでした。

 

 それに、実際の所、全ての隊の隊士の数を合わせても、800名ほどしかいません。

 

 晋作が言うように、諸隊が一体となって挙兵をして、長州藩の正規軍に挑んでも、数の上でまるで勝ち目がないのです。

 仮に、奇跡的に長州藩を掌握できたとしても、長州藩の内乱を鎮圧するという事で、幕府連合軍に攻めて来られたら、万に一つも、勝ち目なんてありません。

 

 その点、山縣狂介は、ものすごく冷静でした。

 

 そして、この時ばかりは晋作に従わず、「武装解除するその見返りとして、正義派の要求を聞き入れてもらいたい」という条件を提示し、藩政府と交渉しようとしました。

 

 高杉晋作が隊士達の心をつかむ事ができないまま、時間だけが過ぎ、いつしか挙兵の決行日の予定だった12月14日は終わってしまい、やっと挙兵の準備が整ったのは、翌日の12月15日の深夜…

 

 この日は、まれに見る大雪となり、功山寺に集結したのは、伊藤俊輔(博文)が率いる、力士隊30名、石川小五郎が率いる、遊撃隊50名弱、それに晋作に義理を感じて挙兵に参加した数名を合わせ、総勢84人でした。

 

 仮に、諸隊の隊士800人が全員合わさったとしても、勝ち目はないのです。

 それが、たったの84人しか集まっていないのですから、これでは全く、話にもなりません。

 

 高杉晋作は死を覚悟し、遺書をしたため、連れの者にそれを託しました。

 

 こんな無謀な挙兵を決行する晋作の心には、志を貫いて、自ら散っていった吉田松陰の生き様(2020/7/22 ブログ 「松下村塾の情景の中で」 参照)への思いがあった事は、確かでしょう。

 

 この時の晋作の心には、日頃、吉田松陰が口にしていた「生きている限り、大きな仕事ができると思うのなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面だと思ったら、いつでも死ぬべし」という言葉が、何度となくリフレインしていたに、違いありません。

 

 

 ここは、七卿潜居の間(しちきょうせんいのま)

 

 功山寺では、300円の拝観料で、書院の見学をする事ができます。

 

 書院の入り口で靴を脱いで、長い廊下を歩いて行くと、やがて、この「七卿潜居の間」に行きつきます。

 

 八月十七日の政変という、公武合体派によるクーデターにより、尊王攘夷派の公卿が都を追われた、いわゆる七卿落ち(しちきょうおち)によって、長州藩にかくまわれていた三条実美らは、奇兵隊などの諸隊が長府へ移動した時に同行して、この功山寺に入り、この部屋に潜伏していました。

 

 七卿とは、三条実美、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)の七人の公卿(くぎょう)の事です。

 

 この時には、錦小路頼徳は病死し、澤宣嘉は、但馬の生野の変に、総大将として参加していたので、この部屋にはいません。

 

 だから、七卿潜居の間というのは、正しくなくて、五卿潜居の間ですね(笑)

 

 そして、後に坂本龍馬と協力し、薩長同盟を成し遂げる事となる、脱藩浪士の中岡慎太郎が、五卿の世話をしていました。

 

 

 この部屋こそが、都落ちした三条実美ら五卿が住まっていた部屋です。

 

 それは、今から150年ほど前の出来事…

 

 功山寺で挙兵をした高杉晋作は、数名の兵を引き連れ、この書院へと赴き、公卿に面会を乞いました。

 中岡慎太郎がこれを取り次ぐと、三条実美がゆっくりと寝所から出てきて、高杉晋作の前に現れました。

 

 高杉晋作は、三条実美に、これから挙兵をする事を告げて、出陣の盃(さかずき)を賜りたいと求めると、三条実美は、晋作の盃に冷酒を注いで、これを与えました。

 

 高杉晋作は、その盃を一気に飲み干し、「これよりは、長州男児の腕前、お目に懸け申すべく」と叫んで、颯爽(さっそう)と立ち上がり、陣に着きました。

 

 どうやら、三条実美は、あまりにも無謀すぎる、晋作の挙兵を止めるつもりだったようなのですが、話がうまく切り出せず、そのまま行かせてしまった… という事らしいです。

 

 

 部屋の縁側からの庭の眺め…

 功山寺に潜伏していた五卿達は、いつもこの縁側から、この庭の景色を眺めていたのでしょう。

 

 たった84名の人数で決起した、高杉晋作の挙兵は、この後どうなったか…

 

 高杉決起の報を聞いた幕府連合軍の巡見使・長谷川敬から圧力を受けた、藩政府は、幕府に恭順の意を示すべく、藩の正規軍3,800名を鎮静軍として差し向けていました。

 

 高杉晋作の84名の決起軍は、雪明かりの夜更けの中、まずは下関へ向かって行軍し、未明に、馬関新地(ばかんしんち)の会所(かいしょ)を襲撃し、武器や弾薬を奪っていきました。

 その騒ぎを、馬関周辺の住民が聞きつけると、何と120人ほどの志願兵が馬関の会所に集まり、その人数は倍以上に膨れ上がったのです。

 

 そして、高杉晋作は、決死の別動隊18名を率いて、三田尻に赴き、長州藩の持ち物である軍艦3隻を奪って、また、下関に戻ってきました。

 

 一方の山縣狂介ですが、藩政府との交渉が不調に終わった事で、山縣狂介が率いる奇兵隊も、高杉晋作に続き、挙兵をしました。

 高杉晋作に協力したいという気持ちを持っていながらも、あまりにも無謀な挙兵なので、躊躇してしまった山縣狂介ですが、いてもたっても、いられなかったに違いありません。

 

 山縣狂介の挙兵により、正義派の兵力は、一気に膨れ上がる事となります。

 この奇兵隊が、絵堂(えどう)にいた藩の鎮静軍を奇襲し、鎮静軍は不意をつかれて慌て、なすすべもなく後退し、さらに、鎮静軍の別働隊の指揮官も戦死し、敗退してしまいました。

 

 山縣狂介の参戦を大いに喜んだ高杉晋作は、唄を作って、山縣に送りました。

 

 “わしとおまへは 焼山葛(やきやまかづら) うらはきれても 根はきれぬ”

 (わしとお前は、野焼きの後に残った葛(カズラ)の根のようなもんだな。多少意見は違っても、根っこは同じで、切る事はできないのだ)

 

 この諸隊の勝利は、近隣の住民の支持を得て、小郡(おごおり)の庄屋達からは、軍資金と食糧を提供され、人夫として1,000人以上の人員が集められました。

 

 晋作は、負傷して俗論派の監視下におかれていた井上聞多を奪還し、軍の指揮官に加えました。

 

 長州藩の支藩の長府藩主である毛利元周(もうり もとちか)は、この事態を重く見て、藩主の毛利敬親父子に、諸隊の追討命令を速やかに取り消し、正義派の建白書を受け入れ、国内の統一を図るよう提案し、敬親父子はこれを了承…

 

 ここに、正義派と俗論派の攻守が逆転し、俗論派の首魁である椋梨藤太は、命の危機を察して逃亡するも、石州で捉えられ、野山獄にて斬首されてしまいました。

 

 高杉晋作のたった84名の功山寺挙兵が、思いがけなく、長州藩の藩論を180度変えてしまい、これがやがて明治維新の原動力となっていくのです。

 

 とはいえ、この件で、幕府に恭順しないという選択をした長州藩は、これにより、日本中を敵に回したと言っても良いでしょう。

 

 

 功山寺の書院の廊下を歩いて行くと、その一角に、維新の志士などが書いた手紙が展示されていました。

 

 三吉慎蔵(みよし しんぞう)宛ての坂本龍馬の手紙、毛利匡満(もうり まさみつ)公母君の写経、さらに、来島又兵衛宛ての桂小五郎の書簡が、ここに展示されていました。

 

 高杉晋作の功山寺挙兵によって、藩論が正義派にひっくり返ってしまった長州藩に、再び、幕府連合の征長軍が迫ります。

 これがいわゆる、第二次長州征伐です。

 

 この絶体絶命のピンチに、どこからともなく、長州藩のピンチを救ってくれる助っ人が現れます。

 

 長州藩と薩摩藩を結びつけ、薩長同盟の締結を目指す、坂本竜馬と中岡慎太郎、そして、桂小五郎が見つけた逸材である、兵学の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)

 

 奇跡に奇跡が重なって、やがて長州藩は朝廷から最も信任される藩となり、この流れが、徳川慶喜の大政奉還へとつながり、やがて明治維新という日本の幕開けが始まりました。

 

 高杉晋作の、一命を賭した、この功山寺の誓いが、日本の国を変えてしまったと言っても、過言ではないでしょう。

 

 

 功山寺を出た時には、もう午後2時近くになっていました。

 後にして、水木先生と近くの喫茶店で、午後のおやつタイムを取る事にしました(^^)

 

 珈琲gatto (コーヒーガット)

 

 ソイ・ミルクラテに、アイスがついたフレンチトースト、それにパフェを注文する事にしました。

 

 どれも、とっても優しい味がしました。

 

 この後は、下関市立歴史博物館に向かいます。

 

 実は、東行庵の中の東行記念館で、この歴史博物館のチラシがあって、そこに、ものすごく興味をそそられる企画展の案内が載っていました。

 そのチラシを見た僕は思わず、水木先生に、この博物館にも行ってみたいと、観光プランに追加して頂いたのです。

 

 下関市立歴史博物館、どんな展示があるのか、とてもワクワクします!!

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)

西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<20>高杉晋作に逢える場所20.08.13

2020年8月13日(木)

 

 暑い毎日が続いていますが、暦の上では、もうとっくに秋…

 気がつけば、もうお盆なのですね。

 

 出雲・山口に行ってから、もうじき一年になろうとしています。

 本当に、時が経つのは早いものです。

 

 あの旅の中で、一番印象に残っている場所はどこか… と聞かれたら、もう全ての場所が、素晴らしい思い出なのですけど、中でも、今日のブログでご紹介する、この東行庵(とうぎょうあん)での出来事が印象的で、僕はその時の写真を、今でも携帯の待ち受けにしているほどです。

 

 新山口に到着して迎えた、2日目の朝…

 

 昨日に引き続き、朝、五気調整術協会の水木杏香先生が、東横インホテルの前まで、迎えに来てくださいました。

 

 水木先生の赤い車に乗って、新山口駅近くの東横インから、一路西へ…

 山口県の最西端にある下関市を目指して、車は走り出しました。

 

 

 本日、最初の目的地は、東行庵という場所…

 

 水木先生によると、元々は、別の場所に行く事を予定していたそうなのですが、この日はイベントの影響で、ものすごく混んでいて、あまり楽しめそうにないので、急遽、東行庵に決めたとの事でした…

 

 東行… つい最近、どこかで聞いたような名前だったけど、何だったっけ…

 と、記憶をめぐらして、思い出しました。

 

 それは、この前日に、高杉晋作の生家(2020/7/10 ブログ 「萩焼きと夏みかんと総理大臣と高杉晋作の生家」 参照)に行った時に、頂いたパンフレットの中に書かれていた、晋作自作の唄でした。

 

 “西へ行く 人をしたひ(い)て 東行く 心の底そ(ぞ) 神や知るらむ”

 

 僕は最初この唄を見た時、高杉晋作には申し訳ないのですけど、何だか語呂が悪いし、意味が分からない唄だと思いました(笑)

 

 どうやら、この唄は、高杉晋作が23歳の時に、出家して頭を剃り「東行」と称した時に、詠んだ唄らしいのです。

 

 “西へ行く人”とは、高杉晋作が尊敬する西行法師(さいぎょうほうし)の事であり、西行もまた、23歳で武家の身分を捨て、出家した人です。

 

 この唄では「西行を慕って、出家したけれど、自分は東に行くのだ」と、詠んでいます。

 そして、「その心は、神のみぞ知る」と、結んでいます。

 

 もうこれは、あからさまに「オレはこれから、江戸幕府を討伐しに行く」と、宣言しているようなものですね。

 

 

 車が「東行庵」に、たどり着きました。

 

 この時の僕は、東行庵とは高杉晋作のゆかりの地に違いない… という事は分かったのですが、どういう由来の場所なのか、恥ずかしながら、全く知りませんでした。

 

 ちなみに、西行法師の西行庵(さいぎょうあん)というのは、京都の東山や、奈良の吉野、香川の善通寺なんかにありますが、どれも本当に小さな庵(いおり)で、この広大な東行庵とは、まるで別物です。

 

 初めて東行庵を見た僕には、ものすごく巨大なお寺のような印象を受けました。

 

 

 東行庵の中に足を踏み入れると、見事な紅葉が見えます。

 

 高杉晋作の生家に行った時のブログに書いたように、晋作は、萩藩大組士である高杉小忠太(こちゅうた)の長男であり、萩藩でも身分の高い、れっきとした士族の生まれでした。

 

 子供の頃の晋作はひ弱で、円政寺の天狗の面ですら、怖がるような子供だったのですが(2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)、その反動のせいか、青年期の晋作は、血気盛んな青年となりました。

 

 そんな晋作が、他の過激派の志士とは違い、先の事を考えて、冷静な行動が取れるようになったのは、上司であった周布(すふ)政之助や、桂小五郎なんかの影響も、大きいのではないかと思います。

 

 あと、高杉晋作自身が、藩命によって上海(シャンハイ)へ渡航し、欧米の植民地となっている清国の悲惨な状況を、自分の目で見て来た事が、晋作の思考や行動に、非常に大きな影響を与えたと言って良いでしょう。

 

 坂本龍馬が主人公になっているドラマとか映画ですと、必ずと言っていいほど、高杉晋作が龍馬に、清国で買ってきた、リボルバー銃をプレゼントするシーンがあります。

 

 龍馬も、寺田屋事件(2019/12/18 ブログ 「伏見ほろ酔い日記」 参照)の時は、この晋作がくれた銃で防戦できたお陰で、命拾いをしましたから、そういった意味では、高杉晋作は坂本龍馬の命の恩人と言えなくもありません。

 

 若い頃の晋作は、あまりに過激に攘夷(じょうい = 外国人を討つ事)をやろうとするので、当時、長州藩藩主の世子であった、毛利定弘(毛利敬親の養子)から、無謀だと制止されて、ついに蟄居(ちっきょ)させられてしまいました。

 

 だから、高杉晋作は、藩内で身分が高い割には、桂小五郎や久坂玄瑞ほど、長州藩の表舞台に立ちませんし、他藩との交渉なんかにも、携わっていません。

 

 そして、吉田松陰が刑死すると、もはや晋作の攘夷倒幕の情熱は、誰も抑えられず、ついに松下村塾のメンバーと、江戸の英国公使館の焼き討ちを、やり遂げてしまいます。

 

 ある意味これは、師である吉田松陰の遺志を継ぐべく企てた事件で、高杉晋作が隊長となり、久坂玄瑞を副隊長にし、伊藤俊介(のちの博文)や井上聞多(のちの馨)なんかが、建物の火付け役となって、見事に英国公使館の建物は全焼しました。

 

 今で言えば、かなりヤバい放火の集団テロですが…

 

 幕府から怒りをかう事を恐れた長州藩では、ただちに、晋作を江戸から召還して、山口に呼び寄せました。

 

 そんな晋作が、出家をする事になったのは、その後の周布政之助との押し問答の末の成り行きと言って良いでしょう。

 

 以前のブログ(2020/7/22 ブログ 「松下村塾の情景の中で」 参照)にも書いたように、周布政之助が、吉田松陰を野山獄に幽閉した事によって、松下村塾はわずか二年間で幕を閉じてしまいました。

 

 とはいえ、周布政之助だって、れっきとした尊王攘夷派の志士であり、晋作の良き理解者でもありました。

 

 江戸から召還された晋作が、周布政之助に向って「今こそ、幕府を倒すべきだ」と言うと、周布政之助は「まだ、時期尚早だ」と、なだめます。

「じゃあ、いつまで待てばいいのか」と晋作が詰め寄ると、周布政之助は「十年待て」と言います。

 

 それを聞いた晋作が、「それなら十年の間、暇を頂く」と言い放ち、藩の承認を得ると、頭を丸めて出家してしまいました。

 その時に読んだ句が、さっきの「西へ行く人をしたひて東行く…」の唄です。

 

 一旦は出家したものの、長州藩の危機であるという事で、すぐに周布政之助から呼び戻されて、一年も経たずに、また現役に復帰していますが…

 

 

 東行庵の樹々が、秋色に色づいています。

 

 高杉晋作が、周布政之助に呼び戻された理由は、長州藩が外国船を砲撃した事で、その結果、フランスとアメリカからの報復を受け、惨敗した下関戦争がきっかけです。

 

 この時に、晋作は下関の防衛を任され、その為に結成したのが、かの有名な奇兵隊(きへいたい)という訳です。

 

 奇兵隊は、身分に因らない志願兵による部隊であり、この時代において非常に画期的な軍隊でした。

 この晋作の発想には、師である吉田松陰が論じた「西洋歩兵論(せいようほへいろん)」の影響が、色濃く反映されています。

 

 とはいえ、当初、晋作が奇兵隊を率いていたのは、3ヶ月余りの短い期間だけです。

 

 奇兵隊は、長州藩の正規部隊である撰鋒隊(せんぽうたい)と揉めて、最後はついに斬り合いの喧嘩となり、晋作はその責任を取らされて、総監を罷免されてしまいました。

 

 

 東行庵の紅葉が、燃えるように真っ赤に染まっています。

 まるで、高杉晋作の燃えたぎる維新への情熱の色のように、思えてきます。

 

 長州藩にとって、おそらくは、この下関戦争の後が、最も苦難に満ちた時期だったのではないかと、思います。

 何といっても、八月十八日の政変によって、長州藩は、京都の警備担当を他藩に回され、長州寄りの急進派の公卿(くぎょう)達と共に、京都から追放されてしまいましたから…

 

 この裏には、薩摩藩と会津藩が秘かに手を結んだ、薩会(さっかい)同盟があったのですが、そもそも事の発端は、欧米列強の外国に対して、どう対処するかの価値観の違いによるものです。

 

 その対応において、一方的に外国の船を砲撃するという、最も過激な対応をした長州藩と、天皇の親征攘夷論(しんせいじょういろん)という、最も過激な主張をしていた三条実美(さねとみ)などの急進派の公家が、この八月十八日の政変のターゲットになりました。

 

 この時期、京都を中心とした日本の政治情勢は、孝明天皇の意見が何一つ通らないほどに、攘夷倒幕の風潮や、急進派の公家の勢力が台頭していました。

 その巻き返しを図ろうとした、公武合体派によって、この八月十八日の政変が起こされたという訳です。

 

 そして、その後の池田屋事件よって、吉田稔麿(としまろ)ら長州藩士は新選組に斬られ、その一ヶ月後、禁門の変により、久坂玄瑞や入江九一、来島又兵衛は戦死、長州藩は御所に向かって発砲した事などにより、朝敵とみなされ、この後の第一次長州征伐、第二次長州征伐につながっていきます。

 

 また、海上からは、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃し、ついに下関砲台は欧米列強に占拠されるに至ります。

 

 さらに悪い事に、長州藩そのものも藩内の俗論派の台頭を受けて、責任を感じた正義派の周布政之助は自害し、晋作自身も、福岡に逃れざるを得ませんでした。

 

 長州藩の正義派は、内にも外にも、腹背に敵を受けた上に、海からは欧米列強4ヶ国に上陸されて、もう絶体絶命の四面楚歌の状態でした。

 

 ゆるやかな坂を、上へ上へと登っていくと、そこに肩ひざで立っている侍(さむらい)の像が、ありました。

 

 

 どうやら、高杉晋作像では、なさそうです。

 

 像の下の所に「山縣狂介(有朋)像」と、書かれています。

 ご存じ、第3代と第9代の日本の内閣総理大臣である、あの山縣有朋です。

 

 意外に思われるかもしれませんが、実は、山縣有朋は、高杉晋作よりも一歳年上なのです。

 

 とはいえ、下級武士の身分である山縣狂介(有朋)は、萩藩大組士の家柄の高杉晋作とは、あまりにも身分に違いがある事から、当初、その関係は、格上の高杉晋作に、年上の山縣狂介がつき従っているような形でした。

 ちなみに、山縣狂介の“狂”の字は、尊敬する高杉晋作が名乗っていた「西海一狂生東行」から、取っています。

 

 山縣狂介も松下村塾の塾生ですが、その入塾は遅く、京都にいる時に、松陰四天王の一人・久坂玄瑞から紹介状を書いてもらって、やっと吉田松陰に入門する事ができました。

 

 同じく松陰四天王の吉田稔麿と山縣狂介の間で、こんな逸話があります。

 

 松下村塾の時代、吉田稔麿は落書きをしていて、紙の真ん中に暴れ牛の絵を描いて、その横に烏帽子(えぼし)と木刀、そして棒切れを描き加えました。

 

 それを見ていた山縣狂介が「一体、これは何の絵か」と尋ねると、稔麿は「高杉という男は、何にもこだわらない天才で、誰もつなぎとめる事はできない。まあ、野に放たれた牛のようなものだな…」と答えました。

 

 「この烏帽子は何か」と問うと、「久坂玄瑞という男は、雰囲気が立派で、烏帽子でもかぶらせて屋敷に座らせれておけば、中々絵になる」と答えました。

 

 木刀の絵を指さして「これは何か」と問うと「入江九一という奴は、まあ、木刀のようなものだな。何も斬る事はできないが、脅し程度になら使える」と言いました。

 

 「では、この棒切れは何か」と、山縣狂介が尋ねると、「これはお前だ。凡庸で、何の取り柄もない…」と、答えたと言います。

 

 後の総理大臣で日本陸軍の祖も、この頃には、この程度の扱いしかされていなかった、という事ですね(笑)

 

 しかしながら、高杉晋作は、そんな山縣狂介の事を信頼し、身分の違いなど気にする事なく、自分の創設した奇兵隊に誘い入れました。

 

 やがて、山縣狂介は、奇兵隊のナンバー2である軍監にまで昇進します。

 

 山縣有朋(狂介)は、前にも書いたように(2020/6/18 ブログ 「維新の街の香り」 参照)、明治政府の頂点まで上り詰めますが、終生、高杉晋作への恩は忘れませんでした。

 

 山縣狂介像の場所を、さらに坂を登りきった所に、高くそびえる一つの像…

 

 

 これぞ、高杉晋作その人の像です。

 

 高杉晋作の真骨頂は、長州藩が朝敵となり、幕府から山口に討伐の大軍が押し寄せ、海からはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四ヶ国連合艦隊が迫って、そして、藩内からは俗論派が台頭し、正義派が次々に粛清されていく… その絶体絶命の状態から、起死回生の反撃で長州藩を立て直した、その神業とも言える活躍です。

 やがて、それがそのまま、明治維新の原動力となっていきました。

 

 連合国4ヶ国に、下関砲台を占拠されると、晋作はその和議交渉を任され、長州藩の筆頭家老の宍戸家の養子・宍戸刑馬(ししど ぎょうま)と名のって、長州藩の代表として、和平交渉の会談に臨みました。

 

 この時の高杉晋作の機転の利いた交渉の対応がこそ、長州藩を救ったとも言えます。

 

 連合国側の通訳士である、アーネスト・サトウは、後に「会談に臨んだ高杉は、魔王のように傲然としていた」と語っています。

 

 連合国側は、当然の事ながら、船を自由に通行する権利や、砲台の撤去の要請だけでなく、巨額の賠償金を要求してきました。

 

 とはいえ、それを断れば交渉は決裂し、欧米列強は砲台だけではなく、長州藩全土に武力行使をして侵略してくるのは、目に見えています。

 

 晋作は、それらをあっさりと受け入れ、賠償金も払うと言いました。

 しかしながら、「長州藩に攘夷を命じたのは、朝廷と幕府だから、賠償金は幕府に請求してほしい」と、うまくかわします。

 

 すでに欧米列強とは条約を結び、欧米列強の軍事力と日本の軍事力が、いかに隔たっているか良く分かっている江戸幕府は、本心を言えば、攘夷なんてやりたくなかったのですが、以前に孝明天皇と攘夷の約束をしていた事もあり、急進派の公家や長州藩から催促され、この時は仕方なく、攘夷命令を出したんです。

 

 そして晋作は、あらかじめ用意していた、幕府によって書かれた攘夷命令書を、連合国代表のレオポルド・キューパーに差し出しました。

 

 この攘夷命令書を見て、キューパーも納得し、賠償金は幕府に請求する、という事になりました。

 この時の長州藩は、すでに朝敵であり、幕府は長州藩を征討する準備を進めていましたから、欧米列強の矛先が幕府に向くのは、願ったりかなったりです。

 

 その代わり、キューパーは「賠償金の支払いが終わるまでの抵当として、彦島を借り受けたい」と言ってきました。

 

 高杉晋作の脳裏に、二年前に見た、清国の上海での出来事がうかびました。

 そこでは、欧米列強の外国人が、上海を我がもの顔に歩き、みるみる内に植民地化されて、清国は、国を乗っ取られていったのでした。

 

 しかしながら、ここで首を横に振って、交渉が決裂してしまえば、やはり最悪の事態になってしまいます。

 

 この時、伊藤俊介(博文)は、長州藩側の通訳を担当していたのですが、その時の高杉晋作の大胆不敵な対応に、度肝を抜かれ、後に「あの機転の利いた対応がなければ、日本も欧米列強の植民地になりかねなかった」と、称賛をしています。

 

 キューパーから、彦島租借(そしゃく)の事を切り出された高杉晋作は、何を血迷ったか、いきなり古事記を暗唱し始めました。

 

 「そもそも、日本国なるは高天原(たかあまはら)から始まる。初め、国常立(くにとこたち)の尊(みこと)ましまし、続いて、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)なる二柱(ふたはしら)の神々ありまして、天の浮橋(あめのうきはし)に立たすたまい、天沼矛(あめのぬぼこ)を持って、海を探られ、その矛の先から滴(したた)る雫(しずく)が島々になった。まずできたのが、淡路の国の淤能碁呂(おのころ)島である。されば神々、その島に天下りくだりましまし…」

 

 気でも違ったかのように、外国人の面前で、朗々と古事記を唱和する晋作に、伊藤俊介も、真っ青になりました。

 

 戸惑っている伊藤に「俊介、通訳しろ」と言います。

 

 「ちょっと高杉さん、それ古事記でしょう。私の語学力ではとても無理ですよ…」と狼狽する伊藤に「いいからやれ」と命じます。

 

 仕方なく、伊藤もたどたどしい言葉で通訳するのですが、当然ながら、相手に伝わりません。

 

 彦島租借の件をキューパーが切り出す度に、高杉晋作から古事記をずっと唱和され続け、キューパーもついに根を上げ、彦島租借の問題は、うやむやになってしまいました。

 

 後の伊藤博文は、イギリスに占領されつつある上海を、直に見てきた高杉晋作は、土地を貸し与える事が、後々植民地化につながるという事を、見抜いていたのではないかと、語っています。

 

 

 これは、高杉晋作顕彰碑(けんしょうひ)

 

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん = みんな、ただただ驚いて、ぼう然とする)として、あえて正視するものなし。これ、我が東行高杉君にあらずや…」

 

 写真では、何が書いてあるか見えませんが、ここには、事細かく、高杉晋作27年の生涯の偉業が書かれています。

 

 伊藤博文(俊介)が、「高杉の碑文こそは、わしが書く」と文章を起こし、それを明治の三筆といわれた、杉孫七郎が文字にし、除幕式には、井上馨(聞多)が代表として出席し、その時には、高杉晋作に対する思いを、長々と演説したと言います。

 

 この碑が立てられた時には、すでに伊藤博文は、中国のハルビンで暗殺されており、山縣有朋(狂介)も、除幕式は、病気の為に出席できませんでした。

 

 この顕彰碑、実は東京で作られていて、はるばるこの山口の下関まで、列車で運ばれてきたらしいです。

 

 しばらく歩いて行くと、一つの石碑がありました…

 

 

 この石碑を見て、初めて、この東行庵という場所が何なのかが、分かりました。

 

 “史蹟 高杉晋作墓”

 

 つまり、この場所、この東行庵とは、高杉晋作の墓所であり、高杉晋作ゆかりのお寺だったのです。

 

 そのまま、先に進んでくと、その場所は、まるで時間が止まったように、ひっそりとしていました。

 

 

 “東行墓”

 

 この下に、あの明治維新の革命児・高杉晋作が眠っていると思うと、胸が熱くなりました。

 

 この場所こそが、高杉晋作に逢(あ)える場所…

 

 長い時間、心行くまで、静かにそこで手を合わせてみました。

 

 この東行庵の初代庵主は、高杉晋作の愛妾(あいしょう)である、おうの…

 元々の東行庵というのは、山縣有朋が建てた「無鄰菴(むりんあん)」と呼んでいた庵でした。

 

 「無鄰菴」と聞いて、京都で行われた、日露戦争を決定づけた「無鄰菴会議(むりんあんかいぎ)」を思い浮かべた人は、かなりの歴史通だと思います。

 

 僕は、前に京都に行った時、Iさんから教えて頂いて、実際に無鄰菴会議が行われた建物を、外から見た事があるのですが、そもそも最初の無鄰菴とは、この東行庵の前庭あたりに建っていた、山縣有朋が新婚当時から住んでいた建物の事でした。

 それにちなんで、山縣有朋が新たに建てた、京都の別荘も、無鄰菴と呼ばれる事となったのです。

 

 高杉晋作が結核で早世した後、山縣有朋はヨーロッパ外遊をする際に、おうのが生活に困らないようにと、この地に所有していた敷地と、かつての住まいである無鄰菴を贈っています。

 さらに山県有朋は、明治7年に、無隣庵の隣接地を買い求め、おうのに贈っています。

 

 それが、現在の東行庵の広大な敷地という訳です。

 

 高杉晋作像の前に、山縣有朋像が立てられていたのは、そういう所以があったのですね。

 

 最初、山縣有朋から譲られた無鄰菴の屋敷を、そのまま東行庵にしていた、おうのでしたが、旧藩主の世子である毛利元昭(もうり もとあきら)や、伊藤博文、井上馨といった多くの高杉晋作を慕う人達からの寄付を得て、新たに、東行庵の建物が建てられる事となりました。

 

 やがて、おうのは、曹洞宗総本山永平寺(2018/12/11 ブログ 「永平寺巡り」 参照)の六十一世である久我環渓(くが かんけい)禅師から得度を受けて、「梅処(ばいしょ)」と名のり、ずっと晋作の菩提を弔い続けました。

 

 高杉晋作は、梅の花が大好きで、自らの手でおうのの為に作った茶杓(ちゃじゃく)には、すでに高杉晋作の字で「梅處(処)」と記されていました。

 おうのは、その晋作がくれた名前を、そのまま、名のったのですね。

 

 久我禅師が、長府市にある功山寺(こうざんじ ※次回のブログ 参照)に来た時には、厨子(ずし)入りの白衣観音菩薩像(びゃくいかんのんぼさつぞう)が贈られて、これが、この東行庵のご本尊になっています。

 

 

 もみじの紅葉の道をたどり、さらにゆるやかな坂道を上に上がっていくと、そこには、清らかなお顔をした観世音菩薩像がありました。

 

 この石造りの観世音菩薩は、東行庵三代庵主・谷玉仙(たに ぎょくせん)によって、立てられたもの…

 

 谷玉仙は、東行庵中興の祖と呼ばれ、東行記念館を開設したり、奇兵隊士や諸隊士の慰霊墓地を開いたり、保育園を経営したり、カンボジアに難民活動に行ったりと縦横無尽に活躍しました。

 

 この中の「慰霊墓地の開設」などは、まさに、生前の高杉晋作が、やり遂げたかった事だと思います。

 日本最初の招魂場である桜山招魂場は、高杉晋作が発案したものですし、その後、それをきっかけに全国各地に次々と招魂場ができ、東京招魂場は、現在の靖国神社となっています。

 

 この三代庵主・谷玉仙の活躍によって、この東行庵は完成を見たと言って良いでしょう。

 

 初代庵主の谷梅処(たに ばいしょ)こと、おうのが高杉晋作の菩提を弔い、二代庵主となる谷梅仙(たに ばいせん)も、おうのと同じく功山寺で得度をし、後に、おうのから東行庵に迎え入れられますが、その後、わずか8ヶ月で、おうのは亡くなってしまいます。

 

 谷梅仙は二代庵主として、東行庵を引き継ぎ、ある時、大人顔負けの見事な所作をする6歳の少女に出会うと、すぐに弟子として、東行庵に招き入れました。

 この少女こそが、後の三代庵主・谷玉仙です。

 

 東行庵の庵主が、そろって谷姓を名乗っているのは、理由があります。

 

 実は、晋作が多勢に無勢で功山寺で挙兵した時、高杉家から廃嫡されてしまったんです。

 

 当時は一時的に、俗論派が藩を牛耳ってしまっていましたから、高杉晋作が福岡に逃れると、藩から圧力がかかり、晋作は高杉家を廃嫡されて、高杉家の家督は、晋作の姉婿が継ぐ事になりました。

 

 ところがその後、その無謀とも言える挙兵が成功して、長州藩に正義派が返り咲き、さらに晋作が幕長戦争で幕府連合軍を破ると、藩主・毛利敬親より、新たに谷家という別家を興すように言われ、100石を与えられます。

 

 だから、あまり知られていませんが、最晩年の高杉晋作は、谷潜蔵(たに せんぞう)と名のっていました。

 

 つまり、愛妾であったおうのや、その後を継ぐ、梅仙や玉仙も、晴れて晋作と同じ谷姓を名乗る事ができたのですね。

 

 

 ここは、東行庵の敷地の真ん中あたり… 東行庵の建物に隣接した所に建てられている、東行記念館です。

 

 この2Fの部分が、下関市立東行記念館として、高杉晋作や奇兵隊のミュージアムになっています。

 

 高杉晋作が4ヶ国との会議で着用していた直垂(ひたたれ)とか、騎兵隊のたどった軌跡、それから、例えば周布政之助などと言った、晋作となじみのある人物の肖像画や、人物の解説…

 

 維新マニアの晋作ファンが、泣いて喜びそうなものばかりです。

 

 たった300円で、心ゆくまで、高杉晋作の世界に浸る事ができます。

 

 ミュージアムを出ようとして、一階に行くと、たまたまそこに、東行記念館の館長さんがいらっしゃっていました。

 

 水木先生が「東京から、こちらまで、いらっしゃったんですよ」と、館長さんに、僕の事を紹介してくださいました。

 

 「ほう、東京から、わざわざこちらまで!! それならば…」

 

 この後、僕にとって、おそらくこの旅の中で、最も印象的で忘れられない思い出ができました。

 

 詳しい事は、思い出の中にしまっておこうと思うのですが、今もそれを、携帯の待ち受け画像にしているほどに、大切にしています。

 

 

 東行庵の建物は、紅葉の中にありました。

 

 おうのがどこで生まれたかとか、どうやって、高杉晋作と出会ったかとか、ハッキリした事は何もわかっていません。

 おうのも、それについて、語る事はありませんでした。

 

 晋作と一緒に行動するようになる前は、おうのは裏町の堺屋で「此の糸(このいと)」という名で、芸者をしていたそうです。

 

 とても、素直な芸者で、やがて晋作が見受けしたと言われています。

 

 晋作とおうのが一緒に過ごした時期は、4年にも満たない歳月であり、晋作が亡くなった時、おうのはまだ、二十代の花盛りの女性でした。

 

 しかしながら、おうのは、残りの人生をかけて、晋作の菩提を弔い続けるという決心をしました。

 

 そして、その後42年間の間、ずっとこの東行庵で、ただ一人、法灯を守り通し、晋作の菩提を弔い続けました。

 

 高杉晋作には、雅子夫人という正妻がいますし、二人の間には、東一という息子もいます。

 

 という事は、愛妾のおうのは、ずっと日が当たらない肩身の狭い存在のように、思われてしまいそうですが、決して、二人の関係は、今でいう不倫とか、浮気相手とか、そういったものとは違います。

 

 おうのと晋作の関係は、ちゃんと公然とした関係であり、雅子夫人とおうのとの仲も、非常に良かったのだそうです。

 

 他にも、山縣有朋と東行庵とのお話とか、館長さんから、たくさんの素敵なお話を、聞かせて頂きました。

 

 この時をきっかけに、高杉晋作という人物が、非常に身近に感じるようになりました。

 

 東行庵の紅葉の中を、駐車場へと戻っていきます。

 

 少しお腹もすいてきました。

 この東行庵の敷地の中で、いつしか3時間以上の時が経っていたのですね。

 

 水木先生がおっしゃるには、この場所から、新幹線の線路を超えて、2kmほど南に行った所に、美味しい貝汁のドライブインがあるとの事…

 

そこは、「貝汁のみちしお」と言って、地元の人はみんな知っている、超おすすめの場所だそうです。

 

 

 すごい!! この貝汁の量と美味さは、半端ないです。

 

 新鮮な、海鮮ものがケースの中に、たくさん用意されていて、その中で好きなものを選んで、バイキング方式でトレーの上にのせて、持ってくるのです!!

 

 という事で、欲張っていっぱい持ってきてしまいました(^^)

 

 次の観光スケジュールは、ここから、南西に10kmほど行った所にある、国宝・功山寺…

 

 まさに、高杉晋作の「功山寺挙兵」を以って、明治維新がスタートしたと言っても良いでしょう。

 

 その場所は、一体どんな所なのか、自分の目で確かめてみたいという思いで、この時、胸がいっぱいでした。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<19>紅色の鳥居と茜色の夕陽20.08.03

2020年8月3日(月)

 

 今年は、いつになく梅雨明けが遅くて、関東では、8月に入ってから、やっと梅雨明けが宣言されました。

 それにしても、今日の東京は久しぶりに暑かったです。

 

 暑いのは大変ですけど、やっぱり、夏はこうでなくっちゃ… って、思いますね(笑)

   夏、大好きです…

 

 先月末は、ずっと大阪で四柱推命講座をやっていて、ようやく、東京に戻ってきたのですが、東京では、信じられない勢いで、コロナの感染者数が増えているようです。

 これでは、もうしばらく、自由に出掛けられそうにありませんね(^^;;

 

 一年前の2019年という年は、本当に旅行三昧の年だったのですが、今は、去年の内に思う存分、行きたい所に行っておいて良かったと、思っています。

 

 その分、今年は自宅にこもって、お仕事をしっかり頑張ります!!

 

 さてさて、という事で、山口の旅はまだまだ続きます。

 

 山口での旅のプランは、全部、五気調整術協会の理事である、水木杏香先生が考えてくださっていて、僕は観光の間、次にどこに行くか、全く知らないまま行動していました。

 

 もちろん、旅のプランを教えてもらう事はできましたが、仮に、水木先生から、次に行く場所の地名や名称を聞いても、それがどういう場所なのかを、知るすべもありませんから、完全に全てをお任せしていました。

 

 

 車は、山陰本線沿いの191号線を、ひたすら西へと走り、この豊原トンネルの中へ入っていきます。

 次は一体、どんな所へ行くのか…

 

 歴史の街・萩市から、いつの間にか、山口県西部にある長門市に入ってきています。

 

 ふと、車窓の外を見わたすと、そこには雄大な日本海がありました。

 

 

水木先生から、これから向かっている場所について、教えて頂きました。

 

 次に行くのは、元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)という神社で、昨今、インスタグラムでこの神社の写真が投稿されてからというもの、その絶景がまたたく間に人気となり、今では、山口県の代表的な観光スポットとなっている場所との事…

 

 つまり、「インスタ映えする最強のスポット」という訳ですね。

   そう言えば、最近、全くインスタ更新していない…

 

 

 松陰神社から元乃隅神社までを地図にすると、上のような感じです。

 

 豊原トンネルをくぐり、日本海に面した山口県の国道を、車は西に向かって、進んで行きます。

 

 おおよそ40kmぐらい、西へ向かった所にある、その場所は、それはそれは、本当に見事な景色でした。

 

 

 鮮やかな紅い鳥居が、海の方まで、見事に連なっています!!

 

 昔、雑誌か何かで、この鳥居の光景の写真を見た記憶が、かすかにあるのですが、写真で見るのと実際に見るのとでは、大違いです。

 思わず、「おおお~っ」と声が出てしまいそうなくらいに、感動しました。

 

 この鳥居の数は、全部で123基も、あるんです。

 今から三十三年ほど前である1987年あたりから、次々に地元の人々から鳥居が奉納されて、このような形になってしまったとの事…

 

 紅い鳥居と、青い日本海、そして、緑の自然の樹々が見事に調和して、最高のコントラストを作り上げています。

 一度見たら二度と忘れる事のできない、美しい景色です。

 

 この場所に連れて来てくださった、水木先生に感謝です。

 

 早速、車から降りて、大鳥居の所まで歩いて行きました。

 

 水木先生から、大鳥居の所に、元乃隅神社のお賽銭箱があると、お聞きしたのですが…

 一体どこにあるのか、さっぱり分かりません。

 

 

 水木先生が指し示す、鳥居の上を見上げてみると…

 

 とんでもない場所に、賽銭箱がありました!!

 

 これが「日本一入れづらい」と言われている賽銭箱…

 

 下から、お賽銭を賽銭箱を目がけて放り投げ、見事に中に入れば、願い事は叶うという事で、皆さん、次々にお賽銭箱目がけて、何度も何度もトライしていました。

 

 僕も3回ぐらいトライしましたが、あきらめました(笑)

   こんなの、無理です…

 

 

 上に登った所にある神社のお社…

 もちろん、これは本殿ではなく、お社の一つに過ぎません。

 

 それにしても、普通の神社のお稲荷さんの像は、もっといかめしいお姿をしている事が多いのですが、この元乃隅神社のお稲荷さんの石像は、ちょっぴり漫画チックで、可愛らしいです。

 

 この後、一番上まで登った所にある、元乃隅神社の本殿に行って、しっかり参拝させて頂きました。

 

 本殿の鳥居の奥には、おそらく創建当初からあったであろう、簡素な祠(ほこら)が祭られており、何となくこちらに、お稲荷様の御神体が祭られているように感じました。

 

 これまで何度かブログに書いていますが、僕は、神社で個人的なお願い事はしません。

 それをやると、せっかくの清々しい気持ちが、台無しになってしまうから…

 

 この日は、この素敵な旅をさせて頂いている事への感謝の気持ちを、元乃隅神社の神様にお伝えしました(^^)

 

 

 元乃隅神社の本殿に参拝した後、そこから下に連なっている、100m以上もある紅い鳥居を、見下ろしてみました。

 そこには、異次元の入り口のような雰囲気が、漂っていました。

 

 最初は、一枚のインスタグラムの投稿から火がついて、またたく間に世界中の評判となり、2015年アメリカのCNNテレビで放送された「日本の最も美しい場所31選」にも、この鳥居の景色が、選ばれたとの事…

 

 そして、「死ぬまでに行きたい! 世界の絶景 日本編」にも、日本が誇るの絶景の代表として、元乃隅神社が取り上げられています。

 

 ちなみに、この神社が創建されたのは、昭和30年ですから、つい最近なんですね。

 

 事の発端は、この辺りで漁業を営んでいた網元(あみもと)の岡村斉(おかむら ひとし)さんの枕元に、一匹の白狐(びゃっこ)が、現れた事でした。

 白狐は「これまで漁をしてこられたのは、誰のおかげか」と自分の存在を示し、さらに、過去からの関わりを、事細かに示して、「われをこの地に鎮祭(ちんさい)せよ」と告げたそうです。

 

 岡村さんは、島根県津和野にある日本五大稲荷の一つ・太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)に行って、ご祭神の分霊を祈願し、この地に、元乃隅神社を建立するに至りました。

 もちろん、この元乃隅神社は、岡村さんが建立した個人の所有物であって、太皷谷稲成神社の法人との直接的な関係は、ありません。

 

 当初この神社は、「元乃隅稲成神社(もとのすみいなりじんじゃ)」という名称だったのですが、2019年… つまり今回の旅行に行ったこの年、「元乃隅神社」と改称されました。

 

 建立当初は、本当に簡素なお社だけがあったのですが、やがて、地域の人々からの信仰を集め、次々に123基もの鳥居が寄贈される事になって、現在に至ります。

 

 

 連なっている、紅い鳥居の中をくぐっていくと、何かまるで、別世界にいざなわれていくような、気分になりました。

 

 今から65年前、一人の漁師の枕元に白狐がやってきて、事細かなメッセージを伝えたというのは、まぎれもない真実なのか、それとも、ただの幻想なのかは、さておいて、結果的に、今この場所に、ものすごいものができ上っていて、世界中の国々から、たくさんの人が、この場所に集まってくる…

 

 そんな事を考えると、何だか不思議な気分になります。

 

 この世的には説明できませんが、目に見えない強力なエネルギーが、何らかの形でこの場所に作用した結果のように、思えてなりません。

 

 「我々が縛られている、この時間軸を外せば、全ての出来事は必然なのかも知れない…」

 

 この紅く連なった鳥居をくぐっていると、そんな言葉が、脳裏に浮かんできました。

 

 だったら、その必然に、身を任せてみるのもいいか…

 

 

 123基の鳥居をすべて通り抜けて、下にたどり着くと、そこには青い日本海が広がっていました。

 

 11月半ばだというのに、この日は暖かくて、風が気持ちいいです。

 

 腕時計の時計を見ると、いつの間にか、夕方の4時になっていました。

 

 

 海岸の夕陽が、とても綺麗です。

 

 紅色(あかいろ)の鳥居も美しいけど、茜色(あかねいろ)の夕陽も、また格別なものがあります。

 

 元乃隅神社の下にある、海へと続く、けもの道は、切り立った崖になっていて、あまり端の方まで行くと危険です。

 

 僕は、かなりの高所恐怖症で、例えば、パリに行った時なんか、エッフェル塔はおろか、モンマルトルの小高い丘から、崖下の景色が少し見えただけでも、身震いして足がすくんでしまうくらいの、筋金入りの高所恐怖症でした。

(2012/3/21 ブログ 「パリの休日」 参照)

 

 足を踏み外す危険がないほどに、崖から離れていても、何ていうか… 自分が急に頭がおかしくなって、崖の方に歩いて行って、ここから飛び降りたらどうしよう… みたいな不安に駆られるんです(笑)

 もちろん、自殺願望なんて、全くないのですけど、そんな恐怖に駆られると、例え、崖から10m以上離れていても、やっぱり怖い…

 

 だから、ビルの屋上にあるビアガーデンなんかで、みんなで飲み会をした時なんかは、気持ちがソワソワして、あまり楽しめません(笑)

 

 ところが、どういう訳か、この日は崖が怖くないように感じました。

 理由はよくわかりませんが…

 

 そこで、わざと自分から崖に近づいて、足を踏み外すギリギリの所で、崖下の写真を撮ってみる事にしました。

 

 それが、この写真です。

 

 

 ちょっと写真だと、あんまり怖くなさそうに見えますが、本物はかなり切り立った崖なので、普通の人でも、この写真のアングルが取れる場所までは、中々近づけないのではないかと思います。

 現に、別に高所恐怖症でもない水木先生が、「見ているだけでも、ハラハラして怖い」とおっしゃっていましたから…

 

 ここから転落したら、間違いなく即死です。

 

 恐怖心が完全にゼロかというと、嘘になりますが、この時はどういう訳か、あまり怖く感じなかったんですね。

 

 格好つけて言うと、この時、自信をもって、自分の運命を信じる事ができたからだと思います。

 

 

 海辺まで行って、夕陽を見渡しました。

 

 茜色の夕陽と、その光を反射する紺色の海…

 全ての景色に呑み込まれてしまうような、心地良さでした。

 

 まるで、時間が止まったように、しばらくの間、そこに立ち尽くしていました。

 

 

 夕陽がどんどん、沈んでいきます。

 

 これで、今日の旅も終わりか…

 

 すっかり、自分の世界に入り込んでしまい、フリーズしていた僕を、水木先生は少し離れた場所から、見守っていてくれていました。

 

 この辺りには当然、街灯などありませんから、空が真っ暗になったら、帰れなくなってしまいます。

 

 ふと、我に返って、水木先生と車に急ぎました。

 

 いつしか、空は真っ暗になっていました。

 

 

 帰り道の車窓から、夜空を見ると、まん丸な満月が見えました。

 この日(2019年11月19日)は、ちょうど満月の日だったのですね。

 

 今頃、みどりん先生から、いつもの満月メールが、PCのメールボックスに届いているに違いない…

 

 そんな事を考えている内に、車は、どんどん南下して、山口県を南北に縦断し、僕の滞在先である新山口へと向かっていきました。

 

 本当に素敵な一日でした。

 

 お腹がすいたので、水木先生お勧めの山口県の有名ラーメンチェーン店「博多金龍」の山大通店に寄って、「味玉ラーメン」と「でか餃子」を注文しました。

 

 

 このラーメンの味は、まさに僕のストライクゾーンですね。

 餃子も、すごくおいしいです。

   村野大衡先生のブログで、紹介してほしいくらい美味しい…

 

 新山口の東横インの玄関の前まで、水木先生の車で送って頂き、そこで、水木先生とお別れしました。

 

 この日は、ホテルの部屋でシャワーを浴びて、すぐにベッドに入りました。

 

 水木先生のお話では、次の日の観光は、下関方面へ向かうとの事…

 

 楽しみで胸がドキドキして、この日は、中々眠つけませんでした。

 

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