ブログ

西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<9>いざ、出雲大社の境内へ20.04.24

2020年4月24日(金)

 

 先週の金曜日、僕は49歳の誕生日を迎えました。

 

 毎年のように、村野大衡先生から、甘くておいしいスイートが届いて(村野先生の誕生日の3月27日に僕が甘いものを贈って、僕の誕生日の4月17日に村野先生から、甘いものが届くというこの慣例は、もう20年近くも続いている…)、名古屋の物理学のI博士からは、緑のきれいなタオルが何枚も届いたり、そして高天麗舟先生とそのご家族からは、緑の素敵なマグカップとピンバッジを頂いたり…

 

 それから、福岡のソフィさん、モスクワの木下順介先生、Iさん、Kさん、Rさん、Aさん、Fさん、Sさん、Nさん、Tさん、僕の誕生日を覚えていてくださって、本当にありがとうございました。

 

 ここの所、ブログは10日に1回ペースですし、たまたま前回、ブログを更新したタイミングが、僕の誕生日の前日だったので、まさか、こんなに多くの方から連絡が来て、お祝いして頂けるなんて、夢にも思いませんでした。

 

 今まで頑張って生きてて、本当に良かったです。

 

 今年は、新型コロナの影響で、お花見も行かなかったし、相変わらず僕は自宅にこもりっきりで、コツコツと仕事をこなしながら迎えた、自分の誕生日でした。

 

 それにしても、今年の初めまでは、まさか、こんな時代が来るなんて、夢にも思いませんでした。

 

 大変な事は山ほどあるけれど、それでも、そばに自分の事を大切に思ってくれている人がいてくれる…

 だから、それだけで生きていける、いや、だからこそ、その人の為にしっかりと生きていこう… と、改めて思いました。

 

 という事で、また例によって、昨年11月の西日本旅行記は、いよいよ前半「出雲編」のクライマックスです(^^)

 

 稲佐の浜で弁天島を参拝した、ILU開運ツアー一行は、先達の藤尾美友先生の先導で、出雲大社の社殿のある方へ向かって、みんなで、細い道を通りながら、歩いていきました。

 

 とはいえ、ツアーは30人近くの大所帯ですから、中には、道の途中ではぐれてしまう人もいたりしましたが、携帯で連絡を取り合って、無事に全員、出雲大社まで到着しました。

 

 出雲大社に向かうまでに、道沿いにある、出雲大社の摂社の「上宮(かみのみや)」と、末社である「下宮(しものみや)」へと、立ち寄りました。

 

 摂社とか末社という言葉は、よく神社に行くと耳にしますが、これらは、その神社の本社とは別に、そこの神社の管轄にある、小規模な神社の事を指します。

 

 ちなみに、摂社と末社の違いをいうと、摂社というのは「その神社の主祭神とゆかりの深い神様が、祀られているお社」で、末社というのは「それ以外の神様が、祀られるお社」という事になります。

 

 神社の格式という事でいえば、一般的には「摂社の方が、末社よりも上」と、されています。

 

 

 最初に、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が祀られている末社の下宮に、参拝しました。

 

 皇室の御祖先神にもかかわらず、意外と小さな祠(ほこら)で、しかも名前も「下宮」なんですね。

 

 由緒には「天照大御神は皇室の御祖先神です。優れた御霊徳で、その御神徳は広大無辺とされます」と書いてあるだけで、それ以外、この下宮に関する説明も情報も、何もありません。

 全く、謎の多い祠です。

 

 狭い場所なので、みんなが一列に並んで、次々とお賽銭を入れて、それぞれに参拝しました。

 

 

 次に立ち寄ったのが、この上宮…

 

 実は、ここは今回、神在月に出雲大社参拝をする上で、非常に重要な場所なのです。

 

 というのは、この上宮こそが「神在祭で、全国の神が集まって会議をする場所」と、されているからなんですね。

 

 中に入ると、とても人が混み合っていて、参拝をした後、お神酒(みき)を頂きました。

 何と、その時使った盃を、物実(ものざね)として、持ち帰る事ができるんです。

 

 上宮の主祭神は、天照大御神の弟神に当たる、素戔嗚(スサノオ)です。

 弟の素戔嗚が「上宮」で、姉の天照大御神が「下宮」というのが、出雲らしくて、何とも面白いです。

 

 ただ、この上宮という場所が「全国の神が集まって会議する場所」という、重要な場所であるとすれば、ここの主祭神が、本宮の主祭神の大国主神(オオクニニシ)ではなく、素戔嗚であるというのは、ちょっとだけ、辻妻が合わないように思います。

 

 一応「出雲大社の主祭神・大国主神の元に、八百万の神が集まってくる」というストーリーになっているのですし、大国主神の義父の素戔嗚が、娘婿の為に、全国の神様をお出迎えするというのも、何だかおかしな話ですし…

 

 何でこうなっているのだろうと思って、いろいろ調べてみたら、過去の歴史の一時期だけ、何と、出雲大社本宮の主祭神が「大国主神」ではなく「素戔嗚」に、変化していた時代があったのですね!!

 

 もちろん、出雲大社の創建時は、古事記の国譲り伝説にもあるように、紛れもなく、主祭神は「大国主神」でした。

 

 出雲大社の主祭神が、一時的に素戔嗚に変化した理由は、出雲大社の近くにある鰐淵寺(がくえんじ)の影響だと、言われています。

 

 鰐淵寺は、山陰屈指の天台宗の霊場なのですが、鎌倉時代になって、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の影響下において、出雲大社と密接な関係になり、一時期、鰐淵寺は出雲大社の別当寺(神社を管理する為に、置かれた寺)にも、なっていたのだとか…

 

 この鰐淵寺の中には、二体の牛頭天王坐像(ごずてんのうざぞう)が祀られているのですが、神仏習合の一つ「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」によると、牛頭天王と素戔嗚というのは、同一の存在と見なされるんです。

 

 つまり、鰐淵寺にとって、素戔嗚という神様は、特別な存在だったのですね。

 

 さらに、この鰐淵寺には「もう一つの国引き神話」というのが伝わっていて、それは、「仏教の聖地であるインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の一部が欠けて、海に漂流していたのを、素戔嗚が持ってきて、島根半島につなぎ止めた」というお話なんです。

 

 通常の国引き神話は、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)が新羅などから、四度にわけ、土地を綱で引き寄せた話…

 

 つまり、鰐淵寺が主張する説では、出雲国を作ったのは素戔嗚という事になって、出雲大社に祀られるべきは、当然、素戔嗚でなければおかしい… という事になります。

 

 そして、鎌倉時代あたりになって、鰐淵寺が出雲大社に影響力を持ってくると、出雲大社本宮の御祭神が、大国主神から、素戔嗚へと、変えられてしまったのです。

 

 そういう事であれば、この八百万の神が集まってくる上宮の主祭神が素戔嗚であっても、不思議ではありません。

 ストーリー自体が「素戔嗚の元に、八百万の神が集まって来る」という風に、変わっただけですから…

 

 ところが江戸時代になって、出雲国造家が、江戸幕府の寺社奉行に「元々、出雲大社の主祭神は、大国主神だったのだから、元に戻したい」という主張をして、それが受け入れられ、また主祭神に、大国主神がカムバックしました。

   メデタシ、メデタシ…

 

 この上宮に参拝させて頂いて、さすがに、ここに全国の神が集まって会議している気配までは、わかりませんでしたけど、ものすごいパワーを頂けた気がしました。

 

 そして、いよいよ、念願の…

 

 

 僕がずっと行きたかった「その場所」は、たくさんの人で賑わっていました。

 

 ここは「勢溜(せいだまり)の大鳥居」と呼ばれる、出雲大社の入り口です。

 

 出雲大社には4つの鳥居があって、それぞれが、石、木、鉄、銅の4種類の材質で作られていると、されていました。

 

 ちなみに、この勢溜の大鳥居は、元々は木製の鳥居だったのですが、2018年の平成の大遷宮の時に、新日鉄住金の「COR-TEN(コルテン)」の素材の鳥居に、造り替えられました。

 

 時代と共に形が変化するのは、神社だって例外ではないという事ですね。

   木製の鳥居も、見たかったな…

 

 

 この威厳ある石碑…

 やっと念願の場所に来れたという、実感がわいてきます。

 

 ちなみに、出雲大社は一般的に「いずもたいしゃ」と呼ばれる事が多いのですが、本来は「いずもおおやしろ」と呼ぶのが、しきたりです。

 

 

 境内を入った所にある「御慈愛の御神像」…

 

 いうまでもなく、出雲神話の「因幡(いなば)の白うさぎ」がモチーフになっている像です。

 

 知っている人も多いと思いますが、現代風に訳すと、大体こんな感じです。

 

 むか~し、むかし、沖ノ島の岩山に、一匹の白ウサギが住んでいました。

 

 向こう岸の因幡の土地は、草がフサフサと生えていて、ウサギは、この海を渡って因幡に行けたなら、どんなにいいだろう… と思っていました。

 

 そこである日、ウサギは、向こう岸へ行く為に、海にいるサメをだまして、うまく利用してやろうと考えました。

 

 「ねえ、サメさん、サメさんはたくさん仲間がいるみたいだけど、サメさんの数と僕らウサギの数を比べっこしようじゃないか。サメさんの数を数えるから、向こう岸まで一列に並んでみてよ」

 

 サメ達が向こう岸まで一列に並ぶと、ウサギは数を数えるふりをして、サメの背中をぴょんぴょんと跳んで、向こう岸の因幡まで、渡っていきました。

 

 「馬鹿なサメだね、こんなに簡単に、だまされるなんてサ(笑)」

 

 口を滑らせたウサギに、最後の一匹のサメがガブリと噛みつき、ウサギの皮をはいでしまいました。

 

 その頃、おおなむぢ(大国主神)の兄達(八十神=ヤソガミ)は、美しいと評判の、やがみ姫(八上比賣)に求婚をしようと、因幡の国に来ていました。

 

 海岸で、皮を剥がれてたおれているウサギを見ると、おおなむぢの兄達は、こう言いました。

 

 「海の塩水に浸かれば、すぐに良くなるよ(笑)」

 

 その言葉を真に受けたウサギが、その通りにすると、海水が傷にしみ込んで、さらに怪我が、ひどくなってしまいました。

 

 そこへ、兄達の荷物を一人で背負って歩いていた、おおむなぢがやってきました。

 

 おおなむぢは、ウサギから事情をきくと、ウサギを可哀そうに思い、傷ついたウサギの体を水門の真水で洗ってから、持っている薬を塗ってあげました。

 

 ウサギの傷はみるみる良くなり、毛が生えて、元の白ウサギになりました。

 

 元気になったウサギは「あなたこそ、やがみ姫の婿になるべきです。あんな奴らは、ふさわしくありません」と言い残して、やがみ姫に、さっきの事を伝えに行きました。

 

 それを聞いたやがみ姫は、おおなむぢの兄達が求婚に来ると「あなた方の言う事は聞きません」とはねつけ、兄達の荷物を背負っている、おおなむぢを見つけると「袋を背負われているあなた様が、私を自分のものにしてください」と言い、おおなむぢの妻となりました。

 

 その後、おおなむぢとやがみ姫の二人は、末永く幸せに暮らしましたとさ。

 

 この昔話は、典型的な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーですが、大国主神の優しい人柄(神柄?)というのが伝わって来て、結構僕は好きです(^^)

 

 まさに、大国主神というのは、国を治めるにふさわしい神ですね。

 

 

 これは、「ムスビの御神像」と言われる像…

 

 向こう側の人物が大国主神なのは分かるのですが、こちら側にある丸い玉って何だろう… と思っていると、こう説明がありました。

 

 大国主神が、まだ若者だった頃、突然、日本海に「幸魂(さきみたま)」や「奇魂(くしみたま)」といった魂(たましい)が現れ、その魂の導きによって、大国主神は、国を作る知識や教養を身につけていき、最後は「ムスビの大神」になっていったというお話が、古事記の中にあり、この像はそれを元に作られた。

 

 だから、大国主神というのは、人と人との縁を結ぶ神であり、出雲大社が縁結びの神社になった訳ですね。

 

 

 こちらの鳥居が、銅の鳥居と呼ばれる鳥居です。

 

 そして、この銅の鳥居をくぐると、出雲大社の境内の中心部に入れます。

 

 ここの鳥居を最初に建てたのが、かの毛利輝元です。

   五大老の一人で、関ケ原の西軍の総大将にされて負けた人(詳しくはパリブログ「周りの人に流されない」)

 

 毛利輝元は、いわずと知れた長州藩の藩祖ですが、長州藩の話は、この旅ブログの第二部「山口編」で、イヤというほど出てくる事になると思うので、今回は省きます(笑)

 

 輝元が建てた鳥居は木製だったのですが、損傷が激しくなったので、長州藩二代藩主・毛利綱広が、この銅の鳥居に造り替えました。

 

 実はこの銅の鳥居には、こんな銘文があります。

 

 素戔嗚尊者雲陽大社神也

 (素戔嗚こそが、雲陽(出雲)大社の神なり…)

 

 つまり、この頃まで出雲大社は、素戔嗚が祀られている事になっていたのですね。

 

 

 出雲大社の拝殿です。

 

 ツアーの皆さんと一緒に、参拝させて頂きました。

 

 ご存知の方も多いと思いますが、一般の神社では「二礼二拍手一礼」ですが、出雲大社の参拝作法は「二礼四拍手一礼」なんですね。

 

 また、特別な日に行う参拝作法は「二礼八拍手一礼」するとの事…

 

 だいたい「二礼二拍手一礼」というのも、明治政府の太政官が布達をし、戦後になって定着した参拝方法で、それ以前には、いろいろな参拝方法があったようです。

 

 出雲大社の拝殿に参拝した後、各自、自由行動となりました。

 

 

 思わず僕は、巨大しめ縄がある神楽殿に向かって、歩いていきました。

 

 あそこに、しめ縄がある… という、訳のわからない興奮が、どうしても抑えられませんでした(笑)

 

 生まれて初めて、出雲大社の巨大しめ縄を見ました。

 ただただ、感激です!!

 

 

 近くで見ると、本当、これどうやって、しめたのだろうと思います。

 

 大体の神社では、神様に向かって右側が上位で、左側が下位になるので、一般の神社では、右側が縄のない始めになり、左側を縄のない終りになります。

 

 ところが、出雲大社のしめ縄は、その逆に、左側が縄のない始めになり、右側が縄のない終りになっています。

 

 出雲大社は古来から、神様に向かって左側が上位で、右側が下位と、一般の神社とは逆に考えているからなんですね。

 

 

 こちらは、出雲大社内で一番のパワースポットと言われている素鵞社(そがのやしろ)です。

 

 主祭神は、紛れもなく素戔嗚…

 

 前回のブログ(2020/4/16 ブログ 「出雲・山口への旅~<8>日御碕神社と稲佐ヶ浜の潮風」 参照)に書いた、稲佐の浜で取ったお砂を、この素鵞社に納めて、こちらから、御神気の入ったお砂を頂くのですね。

 

 それにしても、自由行動と言われると、かえってどこに行ったらいいのか、わからなくなります(笑)

 

 一番間違いないのは、ツアーの先達である藤尾美友先生にピッタリついていく事だと思った僕は、藤尾先生と行動を共にしました。

 

 

 どこに行くのかわからないまま、藤尾先生と数人のグループに混ざって、ついていくと、山道のような所に入っていきました。

 

 アスファルトで舗装された、比較的歩きやすい山道を15分ほど歩いていくと…

 

 

 小さな祠がありました。

 

 祠は小さいのですが、この辺りの空間は本当に澄み切っていて、結界が張られた聖域のように感じました。

 

 ここは、「三歳社(みとせのやしろ)」と言って、出雲大社本殿の北西に位置しています。

 

 主祭神は、事代主神(コトシロヌシ)で、大国主の息子の神です。

 

 藤尾先生を先達にして、みんなで参拝しました。

 

 さわやかな風が、吹き抜けていきます。

 

 ふと気がつくと、随分と空が暗くなっていました。

 11月に入って、すっかり日も短くなっています。

 

 この後、ツアーバスに戻って、途中スーパーに寄って、各自、今夜の直会(なおらい)のおつまみやお酒の買い出しをしました。

 

 この直会が、また楽しいんですね。

 

 そして、ツアーバスは、2日目の宿泊宿である「湖畔の温泉宿 くにびき」へと向かいました。

 

 僕は、このツアーで知り合ったSさんと、同じ部屋で、宿泊をする事になりました。

 Sさんは、写真が趣味で、鉄道オタクでもあるという、とても気さくな男性です。

 

 ツアー参加者全員で囲む夕食…

 

 

 食事の後、温泉でゆっくりと体を癒しました。

 

 そして、夜の9時半ごろ、ホテルの一室を直会会場にして、みんなでお酒を持ち寄って、ワイワイとやりました。

 

 どういう話の流れでそうなったのか、よく分かりませんが、藤尾先生が「僕に良い人を見つけてあげよう」みたいなノリに、なっていました。

 

 「どういうタイプの女性が、好きですか」とか、みんなから聞かれたり、藤尾先生が「絶対に、年上の相手がいいと思う」と、どういう理由でそういう結論になったかは分からないのですが、太鼓判を押してくれたり…

 

 答えは、はぐらかしたままにしていましたが、昨夜と同じように、調子に乗ってお酒を飲んでいる僕を、KさんとYさんは、心配そうに見てくれていました(笑)

 

 一日目の直会の時は、すっかり寝入っていたTさんは、面白い話をして、場を盛り上げてくれました。

 

 何だかわからないですけど、楽しくて楽しくて、あっという間に深夜になっていました。

 

 どうやって自分の部屋に戻ったか、例によって、全く覚えていないのですが、多分、Sさんが、部屋まで誘導してくれたのではないかと思います。

 

 明くる日の朝…

 

 

 Sさんが、ホテルの部屋の窓から撮影した写真…

 

 写真家として十分にやっていけるのではないかと思うほどの、素敵な写真です。

 

 これから朝食をとった後、いよいよ出雲大社の「縁結び大祭」に参加します。

 

 ところが、ここで、またしても僕は、とんでもない失敗をやらかしてしまう事になるのですが…

 

 出雲の大国主神の縁に導かれて、はたしてどこまで行くのやら…

 

 行ける所まで、とことん行ってみたいと思います(^^)

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)

西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<8>日御碕神社と稲佐ヶ浜の潮風20.04.16

2020年4月16日(木)

 

 またしても、ブログの更新が、すっかり遅くなってしまい、申し訳ありません。

 

 今のこの時期ですし、僕の本拠地は東京ですから、あんまり更新が遅れると、ブログを読んでくださっている人に、余計な心配を掛けてしまうかも… と思いつつ、結局、今日になってしまいました。

 

 日頃は、危機管理能力の低い僕も、さすがに政府の緊急事態宣言が出されてからは、どうしても動かせない用事と、松屋と近所のスーパー以外は、極力、家から出ないで、室内でコツコツと仕事をしています。

 

 こんな時期にもかかわらず、仕事が山積みになっているのは変わらないし、僕は、一つの事に集中すると、のめり込んでしまうタイプなので、前にも増して、日々の時間に追われながら暮らしています。

 

 それにしても、今がインターネットやメールが発達している時代で、本当に良かったと、つくづく感じます。

 

 もしも、一昔前、そういったものがない時代にこういう事態になったなら、僕の場合、家にこもっているままでは、何一つ仕事がはかどりませんし、緊急事態宣言を守っているほとんどの方が、何もできないストレスで、まいってしまうと思いますね。

 

 …という事で、毎度毎度の事ですが、去年の11月の西日本旅行記の続きです(笑)

 

 物部神社を後にして、ILU開運ツアーの旅の一行を乗せたバスは、次の目的地へと向かって走り出し、バスが泊まった場所は、潮風の香りがする素敵な所でした。

 

 

 この海の向こうに見える島は、経島(ふみしま)と呼ばれる無人島…

 

 これから行く日御碕(ひのみさき)神社の下之宮でもあり、一般の人は、基本的に禁足地になっています。

 

 海の向こうから、ウミネコの涼し気な鳴き声が、聞こえてきます。

 

 この経島は、ウミネコの繁殖地でもあるのですね。

 

 いよいよ旅もクライマックス…

 

 この場所から、日御碕神社へと向かい、その後、稲佐の浜に立ち寄って、いよいよ最終目的地の出雲大社入りをします。

 

 バスが止まれる駐車場から、潮風の香りがする道を、神社に向かって進むと、途中には、美味しそうな焼きイカや、乾物なんかを販売しているお店があったりして、みんなでワイワイ楽しみながら、歩いていきました。

 

 

 しばらくすると、目的の日御碕神社が見えてきました。

 

 まるで、竜宮城みたいです。

 

 この日御碕神社の事を、僕が初めて知ったのは、以前、月読命(ツクヨミノミコト)の事をいろいろ教えてくださったNさんからでした。

 

 Nさんは、伊勢神宮や天照大御神(アマテラスオオミカミ)の事が大好きな方なのですが、そのNさんが一押しの神社が、この日御碕神社だったのです。

 

 日が昇る神社が、伊勢神宮だとすれば、日が沈む神社というのがある…

 伊勢神宮が、この国の昼を守る神社であるのに対し、この日御碕神社こそが、夜を守る神社になっていて、ペアの関係なのですね。

 

 そして、この神社の日沈の宮(ひしずみのみや)には、三貴子である天照大御神、月読命、素戔嗚(スサノオ)のシンボルが刻まれているという話も、お聞きしました。

 

 

 鳥居を通り抜け、そのまま進んで行くと、美しい朱色の楼門がありました。

 

 今回のこの開運のツアーに、僕を誘ってくださったKさんも、旅行前から、この日御碕神社の事をとても勧めてくださっていました。

 そして、ここに、有名な「御神砂守(おすなまもり)」というお守りがあるという事を、教えて頂いたのです。

 

 日御碕神社へ行く道すがら、ずっとKさんと神社の事を話しながら、歩いていました。

 

 この日御碕神社には、二つの宮があります。

 一つが先ほどの「日沈の宮」で、これが下の本社にあたります。

 そして、上の本社として、日沈の宮より少し高い所に建っている「神の宮」があります。

 

 日沈の宮は、天暦二年(948年)に、村上天皇勅命により祀られていましたが、神の宮が祀られたのは、さらにうんと古いと言われています。

 そして、江戸幕府三代将軍・徳川家光によって、現代の社殿は造営されました。

 

 

 まずは、みんなで「日沈の宮」の拝殿に、参拝しました。

 

 御祭神は、言うまでもなく、天照大御神…

 太陽神の天照大御神が、日の出を伊勢神宮に、そして日の入りを、この日沈の宮に祀られているんですね。

 

 

 日沈の宮の本殿の屋根の所の妻飾りを見上げると、まさにNさんが言っていた三貴子のシンボルがありました。

 

 中央に、真っ赤な太陽、右側には黄色い三日月、そして左側には星と思われる彫刻があります。

 

 それぞれ、天照大御神(太陽)、月読命(月)、素戔嗚(星)を象徴しています。

    うちは一族の中でも、すぐれた忍びは、この三種全ての術を操れる…(アニオタ以外意味不明)

 

 

 こちらは、境内にある末社で、右の大きな社が荒魂(あらみたま)神社、左の小さな社が蛭児(ひるこ)社です。

 

 真ん中にあるのは、昭和天皇の御製の御歌が記された石です。

 

 秋の果ての碕(さき)の浜の みやしろ(御社)

  をろがみ(拝み)祈る 世のたひらぎ(平らぎ)

 

 日沈の宮を参拝した後、先達の藤尾先生を先頭に階段を上がって、「神の宮」へと向かいました。

 

 

 こちらの神の宮の主祭神は、素戔嗚…

 

 暴れん坊の弟神(素戔嗚)が姉神(天照大神)の上で、鎮座している形になっているのですね。

 

 みんなで神の宮に参拝していると、心地よい風が吹き抜けていきました。

 

 

 Kさんに連れて行って頂いて、社務所でうわさの「御神砂守」を授かってきました。

 

 あと、とっても魔よけになりそうな鈴もおかれていたので、これも一緒に、授かってきました。

 サロン ド シルフィーユに、飾っておこうと思います(^^)

 

 Kさんから、最初に伺っていたのですけど、この御砂のお守りは、こちらから申し出ないと出して頂けないお守りで、ものすごいご利益があるのです。

 

 頂いた説明書きには、このように書いてあります。

 

 日御碕神社の「お砂」は古来、出雲屋敷と申す地鎮祭の鎮(しず)めものとして用い、神社敷地と同じ清らかな屋敷になるよう、お清めとして使う「お砂」でありますが、昭和四十年に群馬県の堀田靖二氏が新店舗の地鎮祭の為「お砂」を戴き、たまたま交通事故で医師から見放された友人に塗り付けたところ一命を取り留め、しかも全快、従前通りの運転手の仕事ができるようになり、その他交通安全、車酔止め、悪霊退散など不思議な奇跡体験者が多数となり…

 

 ちなみに、御神砂守の色は、赤、青、白の三種類があります。

     緑はなかったので、直感で白にした…

 

 日御碕神社は、KさんやNさんから伺った通りの本当に素晴らしい神社でした。

 

 この後、バスで20分ぐらい移動して、出雲大社のすぐ近くの海岸にある稲佐の浜へと行きました。

 

 

 浜辺には、かの有名な弁天島がありました。

 

 この島は、昭和60年頃までは海の中にあったのですが、近年になって急に砂浜が広がり、現在では、島まで歩いて行けるようになったそうです。

 

 浜辺に下りる階段の所に、お近くに住む写真家の方が、タブレットで撮った見事な写真を、みんなに披露していて、しばらくその写真に魅入っていたのですが、その後、大急ぎで弁天島に駆け寄っていきました。

 

 ここまで来て、浜辺に下りない手はありません。

 

 日御碕神社へバスで向かう時に、とても道が渋滞していたのですが、それはみんながこの稲佐の浜へ立ち寄って、お砂を取っていくからだという事でした。

 

 その時、バスの運転手さんから、いろんな話が聞けたのですが、今、稲佐の浜の砂をお守りにする参拝方法というのが、ブームになっているそうです。

 

 簡単にかいつまんで言うと、「まずは、稲佐の浜で御砂を頂いて、それを出雲大社の素鵞社(そがのやしろ)に納め、代わりに、そこにある御砂を頂いて持ち帰る」という、方法だそうです。

 

 何でも、テレビか何かでこの参拝方法が紹介されて、急にこの出雲大祭の時期には、この辺りの道路が大渋滞になったのだとか…

 

 僕は、日御碕神社のお砂の御守りを手に入れていますから、あえて、稲佐の浜の御砂は取りませんでした。

 

 

 弁天島の近くに言って、参拝してきました。

 

 一体、どうやってあんな場所にお社を建てたのだろう…

 

 ふと、素朴な疑問がよぎります。

 

 この稲佐の浜は、まさに、大国主神(オオクニヌシノカミ)の国譲り伝説の舞台でも、ありました。

 

 賣豆紀(めづき)神社(2020/2/29 ブログ 「出雲・山口への旅~<3>古代の女神に導かれて」 参照)の時に、国譲り伝説の事を、少しだけ書いたのですが…

 

 大国主神に懐柔されて、下照比売(シタテルヒメ)の夫となった天若日子(アメノワカヒコ)が、高天原(たかあまはら)から射られた矢に当たって、亡くなってしまった後、絶対に融通が利かなそうな武神、建御雷(タケミカヅチ)が派遣されました。

 

 これは懐柔できないと悟るや、争いを望まなかった大国主神は、この稲佐の浜で、国を譲る事を決断しました。

 

 細かく書けば、それはこの後の、大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)の服従と、同じく大国主の息子の建御名方(タケミナカタ)と建御雷の戦いの後の事なのですが、とにかくこの国は、大国主神ら国津神(くにつかみ)から、天津神(あまつかみ)へと、譲られる事になるのです。

 

 大国主神は「国を譲る代わりに、私の住む所として、天津神の御子が住まうのと同じ位、大きな宮殿を建ててください。そうすれば私は、永遠にそこに住まい、表舞台に出ない事を誓いましょう」と言いました。

 

 そして、その大国主神の住まいとして建てられたのが、出雲大社という訳です。

 

 この話を聞く度に、この大国主の神様というのは、何て心が広くて貴い神様なのだろうと、つくづく思います。

 

 さて、いよいよ旅はクライマックス…

 

 これから徒歩で、待望の目的地である、大国主神が鎮座する出雲大社へと向かいます!!

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)

西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<7>古神道の始祖・物部氏のパワー20.04.05

2020年4月5日(日)

 

 今日のお昼に、丸亀製麺のうどんを食べに行こうと思ったら、なんとお休みでした!!

 

 まあ、この時期ですから、仕方がありませんね。

 

 僕も、なるべくは出歩かないようにして、家にこもって、講座の資料を作ったりと、コツコツ仕事をしているのですが…

 

 それにしても、新型コロナウィルスの影響が、まさかここまで大きくなるとは、年の初めには思ってもいませんでした。

 

 特に、接客業で人と会う仕事をされていらっしゃる方は、大変な目に遭われていらっしゃいますし、このウィルスを終息させるべく、真正面から戦っていらっしゃる医療関係者の方には、本当に頭が下がります。

 

 今、我々の行動も、どうしても選択肢が制限されてしまいがちですけど、この与えられた環境の中で、少しでも有意義に時間を使っていけたらと思います。

 

 …という事で、いつもの事ながら、半年前の西日本旅行記のブログの続きです(^^;;

 

 素戔嗚(スサノオ)の魂が眠るという、須佐神社を後にして、ILU開運ツアーの一行は、一旦、出雲市から外に出て、島根県太田市にある物部(もののべ)神社へと向かいました。

 

 

 物部神社は、石見国(いわみのくに)一宮と呼ばれています。

 

 ちなみに「一宮」とは、その地域の中で、最も社格の高いとされる神社を言います。

 

 前回のブログの須佐神社と出雲大社は、出雲国(いずものくに)の一宮です。

 一宮が2つあるというのも、本来おかしいのですが、だからこそ、須佐神社と出雲大社は、張り合っている部分があるのかも知れません。

 

 おそらくは、元々は須佐神社が一宮で、そこに新たに出雲大社ができて、同じく一宮になったのでしょう。

 

 

 石見国一宮・物部神社、到着…

 

 僕自身、このツアーの出発前は、ずっと東京で時間に追われていて、出雲大社に参拝するという事以外は、どういうプランで、どこの神社に立ち寄るかとか、きちんと把握していませんでした。

 

 だから「次に行くのは、物部神社です」とバスの中で言われた時も、「飛鳥時代の前あたりに、蘇我氏と争って覇権を奪われた物部氏の神社か…」ぐらいにしか、思いつかず、正直そんなに興味もわいていませんでした。

 

 半年前の僕は恥ずかしながら、あんまり物部氏の事も、知らなかったのです。

 

 

「物部」と書いて「もののふ」とも読ませるように、物部とは、古代日本においては、兵権と刑罰を担う職業でした。

 物部氏というのは、大和朝廷において「物部神道」と呼ばれる古神道や、呪術なども担当していたそうです。

 

 その後、仏教崇拝の蘇我氏と対立し、一時は仏教に弾圧を加えるも、その後、蘇我馬子や後に推古天皇となる炊屋姫(かしきやひめ)によって、粛清され、没落していきます。

 

 物部氏というのは、神武天皇よりも前に、国を治めていた饒速日(ニギハヤヒ)の子孫であるとされ、それは元伊勢である籠(かご)神社、そして、この籠神社は、よくこの手の話題で取りざたされる謎多き童謡「カゴメ唄」とも、密接な関係があると言われます。

 

 

 境内に入ってみると、いきなり鶴の置物がありました。

 

 このツアーは、藤尾美友先生が先達となって、神社や古神道の説明をしてもらいながら、とってもレアな神社を廻るのですが、常に、藤尾先生のご主人が、ツアーに参加している我々のお世話をしてくださっていて、時々、謎かけをされる事もあります。

 

 物部神社の境内に入った時、藤尾先生のご主人から、あるお題を渡されました。

 

 それは「この神社のどこかには、鶴と亀がいます。それぞれ、どこにいるか見つけてください」というもの…

 

 鶴は、誰でもすぐに見つけられたと思うのですが、亀の方はどこにもいません。

 

 

 境内全体を見渡してみましたが、亀らしきものは、どこにも見当たらないです。

 

 鶴と亀… と聞いて、ふと「カゴメ唄」の事を思い出しました。

 

 かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる

 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ

 

 この歌は少なくとも、江戸時代以前からある歌だと言われています。

 余談ですが、その頃の文献によれば、「鶴と亀が滑った」とか「後ろの正面だあれ」という部分は、まだ歌詞になくて、全く別の歌詞になっています。

 

 もちろん、鶴と亀、後ろの正面バージョンの歌詞が、ただ残されていなかっただけかも知れませんが…

 

 あまりにも、みんなが亀を見つけられないので、藤尾先生のご主人が、正解を教えてくれました。

 

 

 なんと、拝殿の向こうから、ちょっぴり顔を出している本殿の屋根の所に、亀がいるではありませんか…

 

 これは、さすがに気づきませんでした。

 

 

 お手水の所にも、勾玉のようなものが、描かれています。

この手水石に彫られた4つの曲玉(まがたま)に触れる事で、勝運や財運が強くなるとの事…

 

 まずは、お手水の水入れそのものが、曲玉の形になっていて「浄の曲玉」と呼ばれ、そして、彫られている勾玉は、左から順に「勝の曲玉」「財の曲玉」「健の曲玉」「徳の曲玉」と、名づけられています。

 

 早速、お手水をして、4つの勾玉に触れておきました(^^)

 

 みんなで拝殿に参拝して、その後、藤尾美友先生に、屋根の造りなどの説明を聞きながら、本殿にも手を合わせました。

 

 物部神社の御神徳は、勝負運…

 古代日本の兵権と懲罰を担った物部氏の神様だけあります。

 

 物部神社の主祭神は、宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)

 物部氏の初代とされる神です。

 

 

 その後、摂社である「後神社(うしろじんじゃ)」に、参拝しました。

 ここの御祭神は、宇摩志麻遅命の妃である師長姫(シナガヒメ)が、祀られています

 

「後ろの正面だあれ…」

 なぜか例のカゴメ唄が、耳にこびりついてきます。

 

 2本の杉の木に守られた、後神社…

 静かで、とても清々しい場所です。

 

 

 そして、藤尾先生がおすすめの末社が、この神代七代(かみのよななよ)社…

 

 神代七代とは、三貴子(さんきし)である、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、素戔嗚を生んだ、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神を含む七代の神様の事です。

 はっきり言って、これらの神様が祀られている神社は、かなり珍しいです。

 

 御祭神名の所には、国常立尊(クニトコタチノミコト)、国狭槌尊(クニノサツチノミコト)、豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)、泥土煮尊(ウイジニノミコト)、大戸道辺尊(オオトノベノミコト)、面足尊(オモダルノミコト)、惶根尊(カシコネノミコト)、そして、伊邪那岐・伊邪那美の名前が書かれていました。

 

 国常立尊は、多少知名度がありますが、それ以外の神様はあんまり聞いた事がないです。

 古代から、物部神道において、この神代七代の神様が奏上されて、常に祀られているのかも知れません。

 

 

 こちらは、願いが叶えられやすくなるという「勝石(かちいし)」…

 

 伝えられている所によれば、物部神社の御祭神・宇摩志麻遅命が鶴に乗っておりたち、この石に腰を下ろされたと言います。

 

 運気の籠ったこの勝石を撫でると、全ての願いに通じる「勝ち運」を受けられるそうです。

 

 せっかくなので、いっぱい撫でておきました(^^)

 

 気のせいかも知れませんが、何だかやる気がわいてきました!!

 

 古神道の始祖・物部氏のパワーが満ち溢れた神社で、元気をたっぷりチャージしました。

 

 さて、この後は、日御碕(ひのみさき)神社に参拝し、稲佐ヶ浜(いなさがはま)に立ち寄って、いよいよ人生初の出雲大社に参拝させて頂きます。

 

 旅のクライマックスは、これから…

 とっても、ドキドキします。

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)