ブログ

未来は無限の可能性があるのに、過去の苦い経験だけが人を臆病にさせる18.09.30

2018年9月30日(日)

 

 いよいよ、9月も今日で終わり…

 

 台風24号が、日本に上陸して、嫌味なくらいに、ピンポイントで日本列島の真上を通過しています。

 このブログを書いている最中も、窓の外は、ものすごい風の音がビュービューとなっています。

 

 今年は、なぜこうも台風が日本を直撃するのだろうと、ため息が出そうになりますが、とにもかくにも、台風が近くにやってきた時には、くれぐれも気を引き締めて、安全最優先で行動してください

 

 僕も8月半ばぐらいから、本当に身辺がゴチャゴチャしていたのですが、やっと少しずつ落ち着きつつあります。

 今は、今度の10月6日から、朝日カルチャーセンター・立川で行う「かんたんタロット占い 小アルカナ56枚を読み解く」の準備に、全力を傾けています。

 

 前回のブログでは、「人生というのは、苦しい事や辛い事を乗り越える事こそ人生の醍醐味だし、それがあるから人生は豊かになる」などと、ちょっぴり格好つけて書いてみたのですが、とはいえ、辛かった事とか、うまく行かなかったりした過去の苦い経験が、人生に悪影響を与えてしまう事だって、あるでしょう。

 

 時に、そういう自分にとって思わしくない経験は、恐れという感情を引き起こして、人を臆病にして、何事に対しても消極的にさせてしまいます。

 

 もちろん、恐れの感情が、全て悪い働きをする訳ではなく、恐れる事により、人は自重して、慎重に行動できるようにもなるし、その結果、失敗を回避する事もできます。

 

 だから、時には強力な武器となる事もあります。

 

 僕が尊敬している徳川家康は、知れば知るほどに、いつも恐れという感情につき動かされて、行動をしていたような人だと思うのですが、結果的に、群雄割拠の戦国時代を制して、天下を取ってしまいました。

 

 まあ、あの人は、いろいろと恐れながらも、時々、開き直りとしか思えないような大胆な行動ができた人なので、特別なケースと言えるでしょう。

 

 ただし、恐れというものは、悪く作用すれば、ただ不快な感情を呼び込むだけではなく、人の持っている本来の行動力や発展性さえも奪ってしまいます。

 

 恐れる事によって、その恐れている内容を、現実的に引き寄せてしまう事もあるし、その恐れの感情や、過去の嫌な記憶から抜けだす為に、まるで、しいられたように、不合理な行動を取らなくてはいけなくなるような事もあります。

 強迫性障害(OCD)などは、まさにそれが極端になった事例でしょう。

 

 例えば、結婚で失敗をした事がある人は、また、次も同じような事が起こるのではないかと、結婚そのものに臆病になってしまうという事は、よく聞く話です。

 

 不思議な事に、結婚でうまく行かない人の多くは、子供時代に、両親が仲が悪くて、喧嘩ばかりしていたとか、そういう辛い思い出を持っている事も多いものです。

 

 子供時代の不仲な両親を見ていて、「結婚とは、不幸なものだ」という思い込みや恐れに、支配されてしまうのかも知れません。

 

 また、子供時代に、母親から虐待を受けたり、冷たい仕打ちをされたりして、愛情を感じる事ができなかった女性は、子育てに対して、非常に不安を抱えやすいと言います。

 

 自分が母親にされた事と同じ事を、我が子に繰り返してしまうのではないかと恐れる事もあれば、本当に、親から自分にされた仕打ちを、そのまま自分が我が子にやってしまっているというケースもあります。

 

 また、その恐れが、子供を愛せない事に悩み苦しんだり、育児ノイローゼになる事もあれば、その不安が、潜在的な不妊の要因になっていたりする事もあると言います。

 

 もっと日常的な出来事で言えば、例えば、何かに挑戦して、一生懸命頑張ったのにもかかわらず、結果が思わしくない形になってしまった時、また、同じ事にもう一度、挑戦しようとするのは、非常に勇気がいります。

 

 若い時なら、「一度失敗したら、その悔しさをバネにして、もう一回挑戦する」みたいな事もあるかも知れません。

 でも、その失敗が二回目ともなれば、かなり打ちのめされますし、さらに、三回目ともなれば、ほとんどの人は、心をくじかれてしまうでしょう。

 

 もちろん、たいして真剣に取り組んでいない事であったなら、この限りではありませんが、自分がその目標に全身全霊で取り組んでいて、しかも最後の最後のもう少しの所でくつがえされて、うまく行かなかったような場合には、どんなに強い人でも、ポキッと心が折れるものです。

 

 それが、些細なミスによるものだったり、ましてや自分以外の人が原因になって、そうなった場合には、なおさらです。

 

 つまらない事例でお恥ずかしいのですが、僕が6年前パリで、ブログの更新に3度も失敗して、その度に、一生懸命作った全ての文章が消えてしまった時には、完全に心が折れました。

(2014/10/23パリブログ 「今ならあの時の失敗が話せる」 参照)

 

 まあ、今振り返れば、ブログを始めて3回目の記事で、あんなおバカな記事を書くのは、いろいろな意味で、やめておいて正解だったと思うし、あれは何かに守られて、更新できなかったのではないかとさえ思えるのですが(笑)

 

 まあ、こんな風に、中には無理してリベンジしなくたって良い事だってあります。

 

 失敗した事を、再度挑戦するのは、すごく気が重いのもわかるし、「また、失敗したらどうしよう」という気持ちになるのもわかりますが、冷静に考えれば、別に、また次も失敗するとは限りません。

 

 普通に考えたなら、一回挑戦して、経験をしている分、次は失敗をしにくくなるというのが道理です。

 

 それでも、何度も繰り返して失敗しているとしたら、そこには何かしらの原因がある訳で、よっぽど不可能な事を挑戦しているのでもない限り、その原因を特定して、そこの部分を改善すれば、次こそ成功する確率はうんと上がるはずです。

 

 とはいえ、失敗する事を過度に恐れてしまうの最大の原因は、多分、物事を「成功」と「失敗」という結果だけで、全てを二元的に考えてしまう所に、あるのではないかという気がするんですね。

 

 そこに至る努力のプロセスの中にこそ、大切な学びがあるのであって、そういったものを結果だけで相対的に決めつけて、それ以外の全てを否定してしまうのは、本当にばかげていますし、少し前、ワールドカップのトーナメント戦を見た後に書いたブログでは、そんな事を熱く語ってしまいました。

(2018/7/3ブログ 「負け方が良ければ、必ず未来は開ける」 参照)

 

 まあ、そうは言った所で、誰だって、失敗するよりは成功した方が良いと思うのが人情ですし、当たり前な事です。

 

 だからこそ、物事の結果を恐れるし、つい臆病になって二の足を踏んでしまう気持ちも、すごく良く分かります。

 

 おそらく、過去世というものの影響だって、あるんじゃないかなあ… という気がしますね。

 

 僕は高所恐怖症で、とにかく高い所が怖くて怖くてしょうがないのですが、多分、過去世で高い所から落ちているか、飛び降り自殺をしているような気がします(笑)

 もちろん、これは単なる想像ですが…

 

 サイキックの人が、いろいろな人の過去世を見てみると、どういう訳か、その人が現在行き詰まっている問題とそっくりなシチュエーションの過去世というのがあって、それが何度も繰り返されていると言います。

 

 例えば、兄弟で比較をされて、親に見捨てられたという前世を持っていたなら、今の現実の人生も、やっぱり同じようなシチュエーションになってしまうという感じです。

 

 これ、何となくわかる気がします。

 一つの連続した人生であっても、こんな風に皮肉な感じに、似たようなシチュエーションが何度も繰り返されたりしますから…

 

 前世も今世も共通しているのは、親に対してとても恨んでいたり、強烈な悲しみの感情を持っている事で、このネガティブな思いが要因になって、人生上で、何度も同じような事が繰り返されてしまう…

 

 そのリフレーンを止めるには、自分自身がその感情から解放されて、そんな状況であっても、自分で自分の事を幸せにできるかどうかに掛かっている、という事なのかも知れません。

 

 もしも、自分が不幸な状態にいるのを、全て他人のせいにして、恨みの気持ちから抜け出せなかったなら、永遠にそこから抜け出る事はできない気がします。

 

 結局の所、大切なのは、目の前に繰り広げられる現実以上に、自分の心の持ち方にあるのかも知れません。

 

 心の持ち方が変われば、例え、目の前の現実が何一つ変わらなくて、同じ状況に置かれていたとしても、感じ方は、まるで天国と地獄です。

 

 そして、結果的に、その心の状態が現実に反映されるので、その後の人生には、天と地ほどの開きが出るでしょう。

 

 だからこそ、過去の辛い記憶に、必要以上に振り回される事はありません。

 

 もちろん、これは感情の問題ですから、無理やり自分に言い聞かせるのではなくて、あくまでも自分の無理のない範囲で取り組んでいく事が大切ですが…

 

 未来は無限の可能性があるのに、過去の苦い経験だけが人を臆病にさせる…

 

 この先につながっている未来は、例え紆余曲折はあっても、最終的には間違いなく、全ての人が本物の幸せにたどり着く為に、存在しているはずです。

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)


悲しい時には悲しんだらいいし、苦しい時には苦しんだらいい18.09.24

2018年9月24日(祝)

 

 気がつけば、お中日も過ぎて、外もすっかり涼しくなりました。

 

 いよいよ、10月6日に迫ってきている朝日カルチャーセンター主催の「かんたんタロット占い 小アルカナ56枚を読み解く」の準備を、鑑定の合間を縫って、今、取り掛かろうとしている所です。

 

 ここ1ヶ月ぐらいの間に、僕の身の周りの状況がすごく変化しているのに、仕事は仕事で山積みになっていて、身動きが取れないまま、少し息切れしています。

 

 でも、これは僕だけの話ではなくて、みんな同じように、困難な状況の中でも、前に進む為に頑張っているのだから、弱音を吐いてはいられませんね。

 

 今までの人生、本当にいろいろな事がありました。

 

 誰の人生でも、嬉しい事も楽しい事もあるけれど、それと同じくらい、悲しい事や辛い事だって、あるものです。

 

 嬉しい時や楽しい時には、それを思う存分、楽しんで、人に迷惑を掛けない程度に、思い切り人生を謳歌したらいいと思います。

 

 でも、人生の醍醐味と言うのは、悲しい時や苦しい時にどうやって乗り越えられるか… という所に、やっぱりあるような気がするんですね。

 

 これに気づいてしまうと、少なくとも悲しみや苦しみに対する恐怖は、あまりなくなります。

 

 もちろん、山中鹿之助みたいに「我に、艱難辛苦を与えたまえ…」とまでは思いませんし、悲しい事や苦しい事は、できれば味わいたくはないのですが、それでも、目の前に来てしまったら、潔くそれを受け止めよう…

 

 僕も今では、それくらいには思えるようになりました。

 

 そんな人ばかり増えたら、占い師はお客様がうんと減って、僕も廃業してしまうかも知れませんが、人の心から不安がなくなって、みんなが幸せになるのであれば、それもいいかなあ… と思ったりもします。

 

 そうなったら、また、転職すればいいだけの話ですし…
  そうなったら今度は、占いの歴史やルーツを研究して本を書く作家さんになりたい(^^)

 

 人生から、悲しみや苦しみをなくす事は絶対にできないし、そもそも、なくそうとする事自体、意味のない事だと思うのですが、悲しみや苦しみに対する不安を取り除くという事ぐらいなら、何とか可能だと思うんですね。

 

 それに、悲しみや苦しみは、人生を豊かなものにしてくれます。

 

 苦しみや悲しみの中で過ごした時期というのは、貴重な学びの時期だと思うし、自分を高めていく為に、絶対に必要不可欠な時期である事は、間違いありません。

 

 「悲しみや苦しみの乗り越え方」みたいな本は、そこら辺りに出回ってますし、そこに書いてある事も、だいたい想像もつくのですが、悲しみや苦しみといったものは、時に、それを感じる事に意味があると思うんですね。

 

 僕も、今さっき「悲しみや苦しみは、人生を豊かなものにしてくれる…」などと書いちゃいましたけど、それは、結果的に後から気づける事であって、苦しみや悲しみの真っ只中にいる時に、そんな事を感じられる訳はありません。

 

 「今、すごく悲しいけど、これは人生を豊かにしてくれる事だから、悲しんじゃいけない。むしろ喜びとして受け止めるんだ…」なんて、頭をこねくり回しながら考える必要なんてないし、そんな事をする意味なんてないです。

 

 苦しい時は、苦しんだらいいと思うんです。「苦しみは、考え方の工夫で、苦しみではなくなる」とは、良く言いますけど、そんな事は一朝一夕にできる話ではありません。

 

 苦しみながら、重い荷物を運んでいる時に、「苦しいと思うから苦しいんだ… 試しに苦しくないと思ってみよう…」なんて、訳のわからない事を考えたら、集中力が途切れて、荷物を落としてしまいます(笑)

 

 もちろん、目の前に起こった出来事と言うのは、ある程度、受け止め方によってどうにでも変わってしまうのも事実です。

 だから、それほど重要でない事まで、悲しんだり、苦しんだりする必要は、全くありません。

 

 でも、例えば、一生モノの失恋をしたとか、肉親が亡くなったとか、体中が病気で痛いとか、もう「受け止め方でどうにかなる」というレベルを超えてしまったものに関しては、そんな事をしても意味がないと思うんですね。

 

 だから、よく宗教なんかで「悲しい時や苦しい時こそ、笑顔を心掛けましょう。そうしたら、本当に楽しくなってきます…」などというのが、たまにありますけど、これ、確かに人前(特に接客業)では、役に立つ事もあるかもしれませんが、誰もいない所で、こんな事をする必要なんて、全くありません。

 

 無理して作り笑いしたって、楽しくなる訳ありませんから…

 

 それに、自分にウソをついて、自分の感情にフタをしてしまったら、何が何だかわからなくなって、自分を見失ってしまいます。

 

 本当は悲しいのに、その悲しみに自分で気がつけないほどの不幸もありません。

 

 僕も若い頃、そんな生き方をしてきたのでよくわかるのですが、18才の時、自分の母親が死んだ時にも、何一つ悲しみが湧いてこなかったんです。

 

 今思い起こせば、あの頃は、自分の頭の中で理屈をこねくり回して、悲しみを感じられなくしていたのだ… という事に気がつけるのですが…

 

 でも、そんな事をわざわざしなくたって、人間の心というのは、限界を超えると、まるで電気のヒューズが飛ぶように、感情が鈍って何も感じなくなってしまうようにできてるんですね。

 

 ヒトラーのナチス・ドイツによって行われた、強制収容所内でのユダヤ人の虐待は、それはもう言葉で尽くせない凄惨を極めた壮絶なもので、あの所業は「人の常軌を逸した悪魔の所業」としか言いようがないのですが、それを身をもって体験したユダヤ人の精神科医V.E.フランクルが、こんな風に書いています。

 

 「初めて収容所に入れられた時は、ありとあらゆるおぞましい事に満ち満ちた大量の印象に対して、恐怖や憤懣、吐き気というような感情が起こるが、こうした感情はいつしか弱まっていって、心は殻をかぶり、情緒そのものが最小限になり、一日何とか生き延びる事だけに全力が注がれる事になる。そうやって、心は均衡を保とうとするのだ。その時には、人間の内面的な水準は、群生動物のそれにまで下がっている事に気づかされる…」(「それでも人生にイエスと言う」V.E.フランクル より要約)

 

 あまりにも受け入れがたい現実を目にした時、心が全てを感じ取ってしまったら、人は精神が崩壊してしまう… だから、無意識的にこういう事になるのだと思います。

 

 アクターズ・スクールの「メソッド演技」の練習の一つに、「過去のトラウマの記憶を思いおこして、未消化のまま過去に追いやられていた出来事に向かい合う」という作業があるのですが、人によっては、それによって精神が病んでしまう人もいます。

 

 エクササイズの後に、酒浸りになってしまったマリリン・モンローも、その一人だったと言います。

(2012/7/20パリブログ 「いざ、内面の旅へ」 参照)

 

 ですから、ただ安易に、自分の感情に、正面からで立ち向かっていったらいい、というものでもありません。

 

 でも、自分が過去に目をそらして、心のブラックボックスに鬱積してしまった感情の記憶が、何らかの恐れの気持ちになって、その人の運気を停滞させているような事は、意外とあると思います。

 

 人によって、受け入れられる感情の許容量が違いますから、その部分は、何とも言えないのですが、その人の人生の試練は、通常の場合なら、その人が乗り越えられる範囲でやってくるものです。

 

 悲しい時には悲しんだらいいし、苦しい時には苦しんだらいい…

 

 どっぷりと不幸な感情に浸ってしまうような事は、決して良い訳ではないし、時々、上手に、自分の気持ちを紛らわせる事は必要だけど、その本質の感情から目をそらす事はしない…

 

 そういう感情を経験するからこそ、人の痛みも分かるようになるし、より魅力的な自分に成長していく事もできるでしょう。

 

 やがて、その悲しみや苦しみが心の栄養となって、より素晴らしい人生が切り開かれているその日を信じて、ありのままの素直な自分で、乗り越えていけたらいい…

 

 最近の僕は、そんな風に思うようになりました。

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)


祭りの日の記憶18.09.16

2018年9月16日(日)

 

 今日は、毎年秋に開かれる「中野氷川神社例大祭」の日…

 

 サロン ド シルフィーユはお休みにして、オフィスの大家で20年来の親友でもあるS君と一緒に、地元の御神輿を担ぎに行きました。

 

 この中野の秋祭りは、たまに、S君と参加すのですけど、こ御神輿が半端なく重いんです!!

 

 もちろん、大勢で肩の上に乗せて担ぐのですが、御神輿が肩にぶつかる度に、ものすごく痛い…

 

 S君は毎年、御神輿をかついでいるので、かつぎ方のコツをすっかりマスターしているのですが、僕は今回、50mも持たないまま、ダウンしてしまいました。

 

 前に担いだ時は、何とか踏ん張って、一区間、通して担いだのですが、体力が落ちているせいか、今日は、すぐ息が上がってしまいました(笑)

 

 僕は昔から、こんな風に祭好きだったかと言うと、小さな頃は、こういうお祭りが本当に大嫌いでしたね。

 

 特に御神輿は、死ぬほど嫌いで、子供の頃、親に町内会の子供御神輿に連れていかれると、その度に必ず泣き出していました。

 

 いつから、あれほど大嫌いな祭りが、好きになったのだろう…

 

 多分、祭りの本当の意味を、理解出来るようになってからのような気がします。

 

 今日の朝は、プライベートの生活で、いろいろとあって、かなり調子が悪かったんです。

 

 ここ最近では珍しく、夕方まで何も食べてないのに、全然食欲もわいてこないし、胸はムカつくしで、体調も絶不調だったのですが、不思議に御神輿を持って、汗をダクダクかきながら、「わっしょい、わっしょい」って言っていたら、いつの間にか体調も良くなっていました。

 

 「祭り」とは元来、神を祀るという言葉から来ていて、神様に祈ったり、神様と対話するという意味から来ています。

 

 そして、「祭り」は「間釣り」でもあり、人が神様に感謝を捧げ、神様の御心を人が伺ったりしながら、神と人の間を釣り合わせるように交流をする… という意味もあります。

 

 神様と言っても、「人間は、神様に絶対服従しなければならない」などと、軍隊のように神様と人間を考えるのではなく(本物の神様は、大体、そんな事は望んでいないと思う…)、かと言って、人間の望みを一方的にお願いするのでもなく(これでは、神様と交流している事にならない…)、神様と人間が、調和して一体化しながら、みんなが幸せになるように盛り上がっていく…

 

 だから、祭りは楽しいし、パワーをもらえるし、そこに何とも言えない懐かしい風情や、心の幸福感を感じるも、そんな所から来ている気がします。

 

 人は、辛い事や悲しい事があると、気持ちが塞ぎこんで、そこから出られなくなってしまう事があります。

 

 そんな時、どんなにたくさんの人に周りを囲まれていても、人は孤独で独りぼっちですし、そういう状態の時には、誰かからの励ましの声も、耳に届かなかったりします。

 

 誰の人生でも、こういう試練の時期というのが、あるものですが、こういう時の乗り越え方で、その後の人生が決まってきてしまうような気がします。

 

 そんな時、心を開く事ができる誰かに相談する… というのも、一つの方法でしょう。

 

 ただし、鑑定を受けるのでもない限り、相談を持ち掛けた人に迷惑を掛けているかも知れない… という事は自覚はして、あまり相手に甘え過ぎたり、しつこく愚痴を言うような事はしない事です。

 

 でも、中には、相談できるような人が誰もいない… という人も、いるかも知れません。

 

 特に、いつも自分が相談を受ける側で、頼られる立場の人は、どうしても、そういう事になってしまいがちです。

 

 あと、孤独で悲しくて、たまらない時、解決策として、ありがちなのが、気晴らしの気分転換をする方法です。

 中でも、スポーツを始めとした、体をうんと動かす気分転換は、かなり効果的だと思います。

 

 男性の場合には、その気晴らしの方法が、時に、キャバクラだったりとか、風俗だったりとかする人もいるかも知れません。

 気持ちは、わからなくはないのですが、それだと、問題の本質に目をそらしてしまう事になる気がするんですね。

 

 そういう刺激的な体験をする事で、一時的にしろ、目の前の孤独や悲しみを一瞬、忘れられるかも知れませんが、今度は、毎回そういう強い刺激がないと、悲しみがあふれ出てくるような事になると思うし、悲しみの乗り越え方としては、一番マズい方法のような気がするんです。

    不幸な事がきっかけで、そこから真っ逆さまに運気が落ちていく典型的なパターンだと思う

 

 ちなみに僕は、そういう辛い事や悲しい事にあった時、人に相談する事は、あまり、ありません。

 

 その代わり、そういう時には、特に意識して、いつも自分の事を守ってくれているエネルギーの存在を、強く感じるようにしています。

 

 一見、特殊な事を言っているようですけど、これは誰でもできる方法です。

 誰でも、そういう自分を守ってくれるエネルギーの存在は、ありますから…

 

 すると、僕の場合、なぜか咳が出て、肩の上にのしかかっている重いものが外れていくのが、分かるんです。

 

 そして不思議な事に、あれほど悲しくて死にたいぐらいにまで思っていた感情が消えて、一瞬で元気になったりします。

 

 その経験をする度に、「自分が感じていると思った悲しい気持ちや孤独感は、本当の自分じゃなかったんだな…」なんて、気づかされたりします。

 

 目に見えないエネルギーとのつながりを感じられれば、人は決して独りぼっちではないし、役割を持たされて生きている事に気づくと、うんと強くなれる…

 

 それにしても、祭りというのは、本当にいいですね。

 

 思い切り体力の限界まで盛り上がって、何もかも忘れて、神様と間釣り合わせをしてみる…

 

 祭りの日の記憶…

 

 毎回、祭りの日は楽しいのですが、今日は、また一段と良い体験をさせて頂きました。

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)


何もない所から始めよう18.09.09

2018年9月9日(日)

 

 酷暑だった今年の夏も終わり、外も少しずつ涼しくなって、過ごしやすくなってきました。

 

 今日はサロン ド シルフィーユで、たくさんのお客様を鑑定させて頂いたのですが、夜半を迎えると、窓の外で、風に乗って秋祭りのお囃子や太鼓の音が聞こえてきました。

 

 この音はどこから聞こえてくるのだろうかと、夕食に出かけがてら確かめてみると、中野坂上のサンブライトツインビルの裏の広場に櫓が組まれていて、そこで、たくさんの人が踊っていました。

 

 もう、秋祭りの季節なんですね。

 

 しみじみと、感慨深い気持ちになりました。

 

 このサロン ド シルフィーユが開業したのは、2014年の秋の事…

 

 早いもので、それから、もう4年が過ぎてしまいました。

 

 本当に懐かしいです。

 

 あれから、たくさんのものを得て、今の僕があります。

 

 2012年にパリから帰国した頃は、貪欲にいろんなものを欲しがって、実際にそれを手に入れてきました。

 

 「songe a Paris」のブログは、パリに出発する前日から、1,000回になるまで毎日書き続けたブログですが、あの1,000日の間に、2冊の本を出版したり、念願の事務所を持ったりと、自分の夢をほとんど叶える事ができました。

 

 それは、周りの人達や、運というものに助けられたから、できたに違いありません。

 

 パリに出発するまでの40年余りの僕の人生は、確かに師匠と出会った事からは、少しずつは開かれてきてはいましたけど、正直、鳴かず飛ばずで、何一つ夢や目的が叶わないような人生だったんです。

 

 だから、それまでの僕は、自分の持っている運というものも、ほとんど消費していなかったと思いますね。

 

 パリに行ってから運が開いたのは、それまでにずっと蓄えていた運を、一気に放出したからに過ぎません。

 

 もしも、今、自分の人生は何一つ思い通りになっていない… と感じている人がいたら、それはすごく喜ばしい事でもあると思うんですよ。

 

 だって、その人は相当に、運気が蓄えられているはずですから…

 

 まあ、中々そんな風には思えないとは思えますが、本当の事です。

 

 僕の場合は、自分の願いを叶えたといったって、世の中の大成功者に比べたら、はなはだ小ぶりですけど、僕的には、これぐらいで十分に満足しています。

 

 ただ、今のままだと、これまで僕を応援してくれた人やお世話になった人に、大した恩返しができないので、その為だけに、もうちょっとだけ力が得られたらな… ぐらいの欲はありますけど…

 

 今の僕の人生は、パリに行く前の僕の人生と比べたら、本当に比較にならないくらい幸せです。

 

 でも、ここが重要なんですけど、夢が叶ったり、生活が豊かになったりしたから、幸せになった… という訳ではない気がするんです。

 

 それは確かに、幸せだと感じる理由の一つではあるのでしょうけど、本質ではないと言いますか…

 

 じゃあ、何で今、自分の人生が幸せだと感じられるかと言ったら、自分自身が精神的に成長できたからだと思うんですね。

 

 ビートルズのメンバーだったジョン・レノンが、ビートルズが世界を圧巻して、全ての富と成功を手に入れた時、次のように言ったと言います。

 

 “ビートルズは、欲しいだけの金を儲け、好きなだけの名声を得て、そして、何も無い事を知った…”

 

 この言葉を聞いて、僕は今だからこそ、なるほどなあ… と思う事ができます。

 別に、欲しいだけのお金や、好きなだけの名声を得ている訳ではないんですけど、何となく想像で(笑)

 

 もしも、現実的な成功を手に入れたとしても、精神的に何一つ成長できないままだったら、おそらく人は、「もっと、もっと」と言って、見境なく心が満たされる事を求め続けるだけだと思うんですね。

 

 自分の精神が幼いままであれば、現実的な幸せが得られれば得られるほどに、失う事への恐怖におびえるようになるし、それを維持しなければいけないというプレッシャーに悩まされるようになるはずです。

 

 その苦しみというのは、ある意味、自分の周りに何もなかった時の苦しみ以上のものかも知れません。

 

 これは、自分の心の器以上に、現実的な幸せに満たされてしまっている場合に、起こりえる事です。

 

 例えるならば、胃が細いのに、たくさん食べ過ぎて、消化できずに、苦しくてアップアップしているようなものですね。

 

 それ以上、食べ物を詰め込んだら、お腹を壊すか、吐いてしまうかのどちらかです。

 

 この時の対策としては、胃の許容量を大きくするがごとく、自分をもっと精神的に成長させて、心の器を広げるしかない気がします。

 

 まあ、とは言っても、それは一朝一夕にできる事ではありませんが…

 

 欲しいものが得られないというのも、確かに苦しいですけど、今まであったものが失われるという苦しみは、それ以上だと思うんですね。

 

 今まで裕福だったのが一文無しになるとか、長い間連れ添っていた伴侶と別れるとか、築き上げてきた名声が失墜するとか…

 

 たくさんのものを得れば、常にそういうリスクにさらされる事になります。

 

 心の器が広げられれば、そんな風に悩む事もないのでしょうが、それは急にできる事ではありません。

 

 でもその時、こんな風に思えたら、苦しみから解放されると思うんですね。

 

 何もない所から始めよう… って。

 

 口で言うのは簡単だけど、急にそんな風に思えるものか… と言われるかも知れませんが、それしかないような気がします。

 

 これは、今まで「得よう得よう」と頑張ってきた反作用でもあると思うんですけど…

 

 人生、時にはハングリー精神で、必死になってたくさんのものを得ようとする時期があってもいいと思うのですが、それだけだと心が持ちません。

 

 そんな時、確実に心を安らげる事ができる方法は、自分に取って必要ないものを捨てる事だったりします。

 

 緑フェチの僕の部屋は、本当、緑色の物で部屋じゅう埋め尽くされていて、それは、買い物をしている時に、緑色のものを見つけると、つい衝動買いしてしまうからなんですけど(笑)

 

 こんな風に物が増えると、だんだん整理整頓が難しくなって、部屋が散らかって、何がどこにあるのかが、わからなくなってきます。(何もかも緑色だと、なおさらです(^^;;)

 

 そうすると、頭もゴチャゴチャになって、何も手につかなくなるんですね。

 

 こういう時は、必要な物か必要でない物かを見極めて、必要でない物をどんどん捨てていくに限ります。

 

 これと同じように、自分自身が現実的な成功を手にして、いろいろなものが自分の周りに集まってきた時に、それが本当に必要なものなのか、必要でないものなのかを見極めて、あまり執着しないという心構えが、本当に大切になってきます。

 

 自分の中の「これだけは絶対に維持したい」とか「こうしなければいけない」とか、そういった執着を捨てていくと、心が軽やかになって楽になるんですね。

 

 もちろん、自分が大切だと思うものを、本当に捨ててしまう必要はありません。

 

 それに対する執着だけを捨てれば、いいんですね。

 

 もちろん、これは、何事に対しても冷淡になれ… という意味ではなく、自分の愛情はこれまで通り注いでいくのですけど、それが、自分の所有物である… というような間違った認識を捨てる事でもあります。

 

 恋愛の悩みだって、基本これができれば、解決すると思うんです。

 

 大好きな相手に対して、愛情は注ぎ続けるのですけど、そこに自分に都合の良い期待はしないし、相手にわかってもらおうとも思わなければ、何も苦しい事はありません。

 もちろん、それがそう簡単な事ではないのは、わかっていますけれど…

 

 何もない所から始めよう…

 

 人は生まれた時は裸一貫だった訳ですし、死ぬ時もまた同じ…

 

 それに気づいて、周りの全てのものに感謝できる時、失う事に恐れる事のない本当の幸せを感じられるはずです。

 

もし良かったら、クリックしてください(^^)