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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<23>関門海峡の思い出20.09.23

2020年9月25日(金)

 

 気がつけば、随分と外も涼しくなって、朝夕は上着を着ないと、少し肌寒いくらいです。

 暑い暑いと思っている内に、お彼岸も過ぎて、いつしか、もう秋なのですね。

 

 秋と言えば、芸術の秋…

 

 9月27日(日)~30日(水)の4日間、僕の書の師匠である、野尻泰煌先生が発足させた藝文会が主催する「第31回 泰永書展」が開催されます。

 

 東京の池袋駅から歩いてすぐの「東京藝術劇場」が会場で、入場無料ですので、ぜひ、よろしかったら、お越しになってみてください。

 もちろん、浅野太志(雅号:豊峰蓬莱)も、参加しております。

 

 さてさて、いつものように、去年の11月の出雲・山口の旅の続きのお話…

    もう、あきれて、そこを突っ込む気もしない(笑)

 

 功山寺のすぐそばにある下関市立歴史博物館で、圧巻の「関ヶ原展」を見終わった後、いよいよ、水木杏香先生との最後の旅の目的地である、関門海峡へと向かう事になりました。

 

 

 水木先生が運転する赤い車に乗って、海の方へ向かって、まっすぐの道を南へつき進んでいきます。

 

 ふと、車窓の外から潮風が感じて、窓の外を見てみると…

 

 

 目の前に、ものすごく大きな橋が架かっているのが見えました。

 この橋こそ、関門海峡に掛かっている関門橋(かんもんきょう)…

 

 今いるこの場所が、本州の最西端だと思うと、何とも不思議な気持ちになります。

 

 車を駐車場に止め、水木先生に案内されて、海の方へと歩いて行きました。

 

 

 11月だというのに、この日は小春日和で、夕暮れ時なのに割と暖かいです。

 

 海風が本当に気持ち良い…

 

 僕が住んでいる東京のど真ん中では、絶対に見る事は出来ない、まるで大自然の中に吸い込まれるような雄大な景色です。

 ここに連れてきてくださった水木先生に、心から感謝です。

 

 関門橋の方へ向かって、しばらく歩いて行きました。

 

 

 この橋の向こう側は、福岡県北九州市の門司(もじ)

 

 福岡って、ソフィさんが住んでいる場所だな… とか、携帯サイトでお世話になったコムドアーズがある場所だな… とか、未だにまだ、足を踏み入れた事がない福岡に、思いを巡らせました。

 

 高杉晋作の時代には、山口県(長州藩)と、目の前の福岡県の門司(小倉藩)は、敵同士の関係にあったんです。

 

 余談ですが、福岡県で一番大きな藩である初代藩主が黒田長政の福岡藩は、幕末の時代は、家老の加藤司書(かとう ししょ)や月形洗蔵(つきがた せんぞう)などの筑前勤王党が活躍して、正義派の高杉晋作を、強力にサポートしていました。

 

 ところが、乙丑の獄(いっちゅうのごく)によって、加藤や月形など多くの勤王志士が処刑され、福岡で高杉晋作をかくまっていた尼僧で歌人の野村望東尼(のむら ぼうとうに)も、この時に、姫島に流刑となっています。

    のちに高杉晋作が、小船で姫島に行って、野村望東尼を救出する

 

 高杉晋作の功山寺挙兵(2020/8/26 ブログ 「功山寺の誓い」 参照)によって、長州藩の藩論が「正義派」に戻ると、第2次長州征伐が始まり、岸の向こうの小倉藩も幕府側として、長州藩と戦う事となりました。

 

 そして、高杉晋作は軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」に乗って、福岡県側に上陸し、幕府軍を敗走させ、小倉藩の門司地区を占領しました。

 

 丁度その頃、長州征伐へ向かう途上だった、十四代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れて、20歳の若さで逝去…

 幕府軍は、これによって次々と撤兵していき、小倉藩の藩兵も、自ら小倉城に火を放って、逃走してしまいました。

 

 その頃、晋作から「火吹きダルマ」とあだ名をつけられていた、兵法の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州藩の石州口方面を守り、全く無駄のない合理的な戦術で幕府軍をことごとく敗走させる事に成功し、この第2次長州征伐は、完全な長州藩の勝利となりました。

 

 

 関門海峡沿いの道路を、波の音を聞きながら、ゆっくりと歩いて行きました。

 

 高杉晋作は、この小倉藩との戦争の最中、持病の結核が重くなった事で、海軍総督の任を解かれ、この下関の地で静養するも、そのわずか半年後に、27歳の若さで息を引きとります。

 

 その時、晋作のそばにいたのは、愛妾(あいしょう)おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の他に、正妻である雅子夫人に、晋作の一人息子の東一、晋作の父と母、そして、無二の同志・山縣狂介(有朋)と、野村望東尼でした。

 

 “面白き 事もなき世を 面白く”

 

 この句は、高杉晋作が詠んだ上の句です。

 それに、近くにいた野村望東尼が、 “すみなすものは 心なりけり” と、下の句を付け加えました。

 

 この「面白き…」の句は、以前までは、高杉晋作の辞世の句と言われていましたが、最近の研究では、死の前年には、すでにこの句が詠まれていた事が分かっています。

 

 僕はこの山口旅行を通じて、正直言って、今まであまり関心がなかった高杉晋作という一人の人物が、とても身近に感じられるようになりました。

 

 

 海岸沿いに、2つの大きな像がありました。

 

 こちら側の像が、源義経の像であり、向こう側の像が、平清盛の四男・平知盛(たいらのとももり)の像…

 建立されたのは2004年なので、比較的新しい像ですね。

 

 この場所が「壇ノ浦古戦場」である事を、水木先生が教えてくれました。

 

 壇ノ浦の合戦… 高杉晋作の時代よりも、関ヶ原の戦いよりも、遥かに古い平安時代末期の戦い…

 この戦いこそが、源平の最後の合戦であり、これによって、平氏は滅亡する事になります。

 

 武士としては初めて、朝廷の臣下の最高位である太政大臣に任じられ、日本で初めての武家政権を樹立したのが、かの平清盛です。

 「平家にあらずんば、人にあらず」という言葉は、清盛の義弟・平時忠(たいらのときただ)が言った言葉ですが、まさに平安時代後期は、平氏の権力は絶大であり、栄華を誇っていました。

 

 しかしながら、平氏のこの独裁体制は、やがて周りの反発を生み出していき、源氏によって平家打倒が叫ばれる中、平清盛も熱病で苦しみながら、この世を去っていきました。

 

 そして、源頼朝、頼朝の弟である範頼(のりより)や義経、木曾義仲(きそ よしなか)らの源氏勢力によって、平氏はどんどん追い込まれていき、逃げのびた平氏が最後にたどり着いた場所が、この本州最西端の地・壇ノ浦という訳です。

 

 海の向こうは九州ですが、頼朝の上の弟である源範頼が、先回りして九州に陣取っているので、もう、向こう側には逃げられません。

 

 そして、頼朝の下の弟である源義経が、平氏打倒の兵を挙げて、壇ノ浦に攻め込んできたのでした。

 

 卯の刻(朝の6時頃)に両軍が対峙し、戦闘が始まると、最初こそは、平氏は海軍に強い事もあって、かなり有利な戦いを展開し、義経の軍を苦しめていたんです。

 この下関海峡の潮の流れが、平氏に優位に作用していたのも、大きいです。

 

 ところが、この潮の流れが逆転したんですね。

 よく「人生の潮目が変わる」などと言いますが、これによって、この戦いの攻守が逆転し、ついに、平氏の命運もついえてしまいます。

 

 

 この船の錨(いかり)を持っている像は、平知盛の像です。

 コンピューターゲームの無双キャラみたいに、これを武器にして、義経と戦おうとしている訳ではありません(笑)

 

 この壇ノ浦の合戦で、平氏の総大将だった知盛は、戦いの敗色が濃厚になると、自軍の最期を悟り、「平家の命運はこれまでだ。敵に見られたくないようなものは、全て海の中に捨てるように」と、味方に指示を出しました。

 

 そして、船に乗っている女官に「これから、皆さんは、物珍しい関東武士の姿をお目に掛かる事になりますぞ(関東武士に体をもてあそばれて、辱めを受ける事になりますぞ)」と言って、暗に自決を促しました。

 

 それによって、平清盛の妻で、知盛の母である二位尼(にいのあま)は、わずか6才の安徳天皇を抱いて、入水自殺をしました。

 

 戦いの成り行きの全てを見届けた平知盛は、「見ておくべきものは全て見た。後は、自決するだけだ」と言って、重い錨を自分の体に巻き付けて、体が水の中から浮かび上がらないようにし、海の中へと消えていきました。

 

 何とも、悲しい話です。

 

 鎌倉にいた源頼朝は、書状に書かれた義経からの戦場の結果報告を読むと、しばらくの間、身動き一つしないで、じっと黙ったままでした。

 

 元々、源頼朝は、上の弟である範頼に「平家を追討するにあたっては、くれぐれも安徳天皇を無事に京都へお返しするように…」と言い含めていたのですが、下の弟である義経が、後白河上皇を通じて、後から戦闘に参加し、結果的に安徳天皇も、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)も、海に沈んでしまったのですから、何とも言えない気分だったと思います。

 

 源頼朝と源義経の兄弟が不仲になってしまった原因は、他にもいろいろとあるのですが、この壇ノ浦の戦いの結果が、二人の仲に大きな楔(くさび)を打ち込む事になったのは、間違いありません。

 

 

 関門橋の下を、いくつもの大きな貨物船が、ボーッという音を立てながら、通り抜けて行きます。

 心地よい潮風に吹かれながら、僕はしばらくの間、この関門海峡の岸に、たたずんでいました。

 

 あれから一年くらいたった今でも、目を閉じれば、あの関門海峡の景色と波音が浮かんできますね。

 

 水木先生が「日が暮れてしまう前に、次は、この近くにある赤間神宮に行ってみましょう」と、おっしゃいました。

 赤間神宮は、この近くにあって、この壇ノ浦の合戦で亡くなった安徳天皇が祭られている神社…

 

 近くとはいえ、徒歩だと15分ぐらいは掛かってしまいますし、僕が博物館見学に時間を掛け過ぎてしまった事で、時間がおしている事もあり、水木先生の車で、赤間神宮へと向かう事になりました。

 

 間もなく、水木先生との この山口の旅も終わり…

 

 黄昏が近づいて、少しずつ暮れゆく空を見ると、少しだけ、さみしい気分になりました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<22>それぞれの関ヶ原20.09.13

2020年9月13日(日)

 

 あっという間に、もう9月の半ば…

 今回は、かなりブログの更新が遅れてしまいました。

 

 この半月あまり、いろいろな事が身の回りに起こって、追い掛け回されるように、忙しく過ごしていました。

 

 気がつけば、もう後2ヶ月足らずで、出雲と山口に旅行した時から、一年が経ってしまうのですね。

     う~ん、このブログって一体…

 

 さてさて、水木杏香先生に、功山寺へ案内して頂き、その後、近くにあった喫茶店・珈琲gatto (コーヒーガット) で、少し休憩をして、いよいよ例の下関市立歴史博物館に向かいました。

 

 

 下関歴史博物館は、功山寺から歩いて2分ぐらい…

 本当に、目と鼻の先にありました。

 

 高杉晋作の墓所・東行庵の中にある東行記念館で、この歴史博物館のすごく興味をそそられる企画展のチラシを見つけてしまい、急遽、水木先生にお願いして、この下関市立歴史博物館に行くのを、旅のスケジュールの予定に、追加して頂いたのです。

 

 そのチラシとは…

 

 

 「関ケ原 天下分け目と毛利氏の戦い」の特別企画展…

 

 まあ、戦国時代の歴史に興味がない人にとっては、「ふ~ん、あっそう…」という感じでしょうね(笑)

 

 でも、この関ケ原展は、すごくレアなんですよ。

 たいがいの関ヶ原の合戦関係の展覧会というのは、東軍の代表である徳川家康と、西軍の代表である石田三成に主眼を置いて、語られます。

 

 でも、この企画展の主役は、家康でもなく、三成でもなく、毛利家であるといった所が、珍しいんです。

 

 おそらく、このような関ヶ原の展覧会は、山口に行かなければ、見られないと思います。

 

 ちなみに、西軍の総大将は石田三成だと思われる人もいるかも知れませんが、それは正しくありません。

 

 もちろん、実質的には西軍を統率しようとしていたのは、石田三成ですけど、一応、形としては、毛利輝元が西軍の総大将だったのです。

 

 石田三成は、朋友である大谷吉継から「お主は人望がないから、総大将は毛利輝元か宇喜多秀家を立てて、陰に徹せよ」という、手厳しい助言を受けて、毛利輝元に、総大将を頼んだのですね。

(2014/1/5パリブログ 「カッコよく恩に応えたい」 参照)

 

 だから、本当の西軍の総大将は、まぎれもなく、毛利家であり、どんな行きさつで負けてしまったかは、僕が8年前に書いたパリブログに、かいつまんで書いておりますので、そちらをご覧頂けると、嬉しいです。

(2012/11/8パリブログ 「周りの人に流されない」 参照)

 

 それにしても、この企画展の副題が「長府(ちょうふ)藩初代藩主 毛利秀元生誕440年記念特別展」となっているのが、面白いです。

 

 関ヶ原の戦いで、毛利家の代表として参戦しながら、吉川広家や、毛利家の家老・福原広俊(ふくばら ひろとし)に騙されて、一歩も兵を動かせなかった毛利秀元からしてみれば、自分の生誕記念に、人生の汚点である関ヶ原の特集なんかされても、嬉しくも何ともないと思うのですが…

 

 

 この下関市立歴史博物館は、4年前の2016年11月18日に、リニューアルオープンしたのですが、それまでは「長府博物館」と呼ばれていたのです。

 

 長府藩というのは、長州藩の支藩であって、その長府藩初代藩主が、さっきの毛利秀元です。

 

 早速、中に入ってみると、元々は長府ゆかりの博物館だけあって、毛利秀元の事が、大々的に紹介されていました。

 

博物館の中に入って、すぐの所の壁に「毛利秀元の文武 ―眼差し元就に少しも異ならず―」と、大きな文字で書かれたプレートがあります。

 

 毛利秀元は、毛利元就の四男である、穂井田元清(ほいだ もときよ)の次男として、生まれたのですが、毛利家の血を絶やさないようにと、叔父である小早川隆景によって、当時、嫡男のいなかった毛利輝元の養子に入れられました。

(2012/11/7パリブログ 「団結する事で、困難が乗り越えられる」 参照)

 

 でも、その後、毛利輝元に実子が生まれると(のちの、毛利秀就)、秀元は、宗家の後を継ぐ事を辞退します。

 

 その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、秀元は戦功が多く、秀吉からも認められて17万石を与えられ、毛利家の別家を創設する事を、許されました。

 

 関ヶ原の戦いでは、色々とあって、毛利家は120万石から、たった36万石に減封されてしまいますが、この時、秀元は、毛利領内において、長府の地に支藩と作る事を許され、支藩長府藩の藩主となっています。

 

 そして、天下が徳川に傾くと、秀元は、徳川家康の養女である浄明院(じょうみょういん)を正室に迎え入れ、三代将軍家光の御伽衆(おとぎしゅう)としても、活躍しました。

 

 毛利秀元は、お人良しで周囲に流されやすい輝元とは違い、非常に有能で、頭の良い戦国武将です。

 

 

 博物館の入り口付近には、関ヶ原で西軍についた大名達の旗がいっぱいありました。

 

 ちなみに、東軍の大名の旗は、一本もありませんでした。

  まあ、ここは西国・毛利の地ですから…

 

 エントランスで、観覧料を確かめると、今回の関ヶ原の観覧だけなら500円で、博物館の常設展も、一緒に拝観する場合は、700円でした。

 

 水木先生と相談して、せっかく維新の街の歴史博物館に来たのですから、常設展も一緒に見る事にしました。

 

 まずは、常設展を先に見てみました。

 

 

 なんと、高杉晋作が連合国4ヶ国との和平交渉(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)の時に、かぶっていた網笠です。

 

 所々、穴が開いて、ボロボロですね(^^;;

 

 でも、これを、今から150年前に、高杉晋作がかぶっていたのかと思うと、何とも感慨深いです。

 

 特別企画展である「関ヶ原 天下分け目と毛利氏の戦い」の展示物は、撮影禁止となっていましたが、こちらの常設展の方は、ありがたい事に、写真撮影OKでした。

 

 

 これ、下関戦争の時に、実際に使われていた大砲です。

 

 下関戦争の発端は、久坂玄瑞(くさか げんずい)が率いていた光明寺党が、外国船に発砲した一発です。

 それで、その翌年、4ヶ国連合艦隊が報復に攻めてきて、長州砲台は壊滅し、占領されてしまいます。

 

 実はこの大砲、下関戦争の戦利品として、フランス軍によって、パリに持ち帰られてしまったんです。

 

 その13年後、パリに留学していた西園寺公望(さいおんじ きんもち)が、パリのアンヴァリッドに入った時に、偶然この大砲を発見…

 

 その後、昭和に入ってから、外務省がフランス政府に「あの大砲を返して欲しい」と、返還請求をしていましたが、「そういう前例を作れば、世界各国から得た戦利品を、全て返さなくてはいけない事になってしまう」と、フランス政府に渋られ、中々返還してもらえませんでした。

 

 この大砲が、はるばるパリから戻ってきたのは、なんと昭和59年…

 

 という事は、120年もの間、この大砲はパリに滞在していたのですね。

  3週間で終わった僕のパリ滞在が、やたら短く感じられる…

 

 大砲さん、パリへの長旅、お疲れ様でした(^^)

 

 いよいよ、これから、目的の関ヶ原展のコーナーに入ります。

 

 撮影禁止なので、写真でお見せできないのが残念なのですが、そこには、本当に膨大な資料がありました。

 

 東軍の武将の資料は、あまりないのかと思っていましたが、そうではありませんでした。

 

 徳川家康の木像とか、家康の感状、そして、井伊直政・本多忠勝 連署起請文(きしょうもん)なんかも、ありました。

 

 有名な「内府ちがいの条々(じょうじょう)」も、ありましたね。

 これは、家康を弾劾すべく、13項目の条項が書かれた書状です。

 

 よく、内府ちがいの条々は、石田三成によって、発せられたように言われますが、実際には三成の署名はありません。

 この時、三成はすでに、武断派七将による襲撃事件によって失脚し、五奉行を退いているので、そんな権限はなく、内府ちがいの条々の署名は増田長盛、長束正家、前田玄以の3人の奉行となっています。

   ちなみに、残りの1人の五奉行・浅野長政は、この時、失脚している上に、家康方についています。

 

 当然ですが、この書状には、毛利輝元の署名はありません。

 だから、吉川広家も「輝元は勝手に、西軍の総大将に担ぎ上げられているだけだから、所領を安堵してほしい」と家康に頼んたのですね。

 

 毛利家の外交僧・安国寺恵瓊の像もありました。

 安国寺恵瓊は、豊臣秀吉がまだ信長の家臣だった頃に会い、やがて秀吉が天下を取るであろうと見抜いた人です。

 さすがに、家康の天下までは見抜けず、関ヶ原で西軍が負けると、乱の首謀者として、京都の六条河原にて散っていきましたが…

 

 この特別展は、毛利秀元や毛利輝元の書状の展示物が、非常に多かったのが、印象的でした。

 

 長府ゆかりの毛利秀元が、何となくですが、この特別展の主役になっているように、感じました。

 確かに、この企画展の副題が「毛利秀元生誕440年記念特別展」ですから、無理もありません。

 

 そして、当然ながら、ここには吉川広家の書状も、展示されていました。

 この吉川広家と徳川家康との手紙のやり取りこそが、東軍に勝利をもたらしたと言っても、良いでしょう。

(2014/11/2パリブログ 「手紙に込められた真心」 参照)

 

 毛利輝元や秀元にとって、吉川広家は東軍と通じていた裏切り者という事になります。

 

 しかしながら、もしも吉川広家が、西軍の総大将になってしまった毛利輝元の事を、家康に何度も詫びて、家康から自分に与えられるはずだった周防と長門を、毛利家に差し出さなかったなら、毛利家という大名は、この時に、消滅していた事も事実です。

 そういった意味において、吉川広家は、毛利家の救世主とも言えます。

 

 結果的に、毛利家の領土は、吉川広家がもらうはずだった周防と長門の36万石になってしまいましたが、その中で、吉川家に任されたのは、岩国3万石の所領でした。

 

 毛利家には、毛利秀就(輝元の実子)の宗家である長州藩の他に、毛利秀元の長府藩、そして、徳山藩、清末藩という支藩がありましたが、吉川広家の岩国領は、毛利家の直轄地という扱いであり、支藩としての届け出もされていませんでした。

 

 つまり、吉川広家は毛利家の一家来であって、岩国領の統治をやらせてやっているだけ… みたいな扱いだったんですね。

 

 元々、吉川家は国持ち大名であり、広家の父・吉川元春は、毛利元就の次男で、毛利家当主である輝元の叔父あって、毛利家を支えた功績は大きいのですし、本来、この36万石だって、家康が広家に拝領させるつもりの土地だったのですから、この扱いはあんまりだと思うのですが(笑)

 

 まあ、毛利家宗家からすれば、もしも吉川広家が内通していなくて、関ヶ原の南宮山に陣取っていた3万3千の軍が、そのまま東軍の家康の陣に突っ込んでいたら、確実に勝てたのに… という思いがありますから、いたし方ない部分は、あるとは思います。

 

 徳川将軍家も、この事をよくわかっていて、吉川広家の岩国領には、特別に直接将軍と謁見する権利が認められていて、さらには、岩国は藩にもなっていないのに、吉川家は江戸屋敷を持つという、大名クラスの特別待遇となっていました。

 

 

 関ヶ原展のパンフレットに載っていた、関ヶ原の合戦の屏風絵…

 

 これは元々、井伊直政の居城である彦根城にあったものだそうです。

 ひときわ、画面右側の赤色の軍団が目立ちますが、これが「井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)」です。

 

 あの関ヶ原の合戦において、東軍と内通して、毛利家宗家から嫌われ者になってしまった吉川広家、関ヶ原では広家の陣にさえぎられて何一つ活躍できなかったものの、陰からずっと毛利家を支えた毛利秀元、そして、東軍からの手紙が届くやいなや、さっさと大坂城から退去してしまった、西軍総大将の毛利輝元…

 

 関ヶ原の時は、まるでバラバラだった3人の子孫達ですが、この260年後の、幕府連合軍による長州征伐の時には、一致団結して、それぞれの立場を生かして、毛利家を守りました。

 

 吉川家の立場は、毛利家においては、隅に追いやられていましたが、将軍家と仲がいい吉川家は、幕府お抱えの毛利家のお目付け役のような存在でもあり、第一次長州征伐の時も、幕府軍と折衝をしたのは、吉川広家の子孫である吉川経幹(つねまさ)でした。

 

 江戸幕府大目付の永井尚志(なおゆき)は、毛利宗家の子孫である藩主・毛利敬親(たかちか)と世継の定広を、後ろ手にして、罪人として幕府軍に引き渡す事を、吉川経幹に条件として、つきつけると、吉川経幹は顔面蒼白となって「この上は、長州藩と支藩全軍で徹底抗戦する」と主張…

 それを見かねた幕府連合軍の参謀・西郷隆盛は、永井尚志に条件を再考する事を主張し、結果的に、藩主父子は謝罪文書を提出するだけで、良い事になりました。

 

 また、永井尚志から「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と聞かれた時も、吉川経幹はあっさりと「死にました」と答え、維新の原動力となる二人を、うまく匿う(かくまう)事に成功しました。

 

 第一次長州征伐の後、俗論派が台頭するようになると、藩主の毛利敬親父子は、俗論派の支持に回り、藩論はすっかり江戸幕府恭順になってしまいましたが、高杉晋作が功山寺挙兵をして、藩内が騒然とすると、毛利秀元の子孫である、支藩長府藩藩主・毛利元周(もとちか)は、藩主の毛利父子に、直ちに諸隊の追討命令を取り消して、正義派の建白書を受け入れるように提案し、敬親父子はこれを了承…

 その結果、俗論派の首魁・椋梨藤太(むくなし とうた)は地位を追われ、高杉晋作のクーデターは成功し、長州藩に正義派が返り咲き、これが明治維新の大きな原動力となっていきました。

 

 歴史は繰り返す… と言いますが、不思議なものです。

 

 関ヶ原の時は、徳川方の東軍にあっさりと敗れた、西軍の毛利家が、260年後は、勝者と敗者が入れ替わって、毛利家の長州藩が、結果的に江戸の徳川幕府を倒す事になるのですから…

 

 下関市立歴史博物館の展示資料は、非常に貴重で、滅多にお目に掛かれない展示品ばかりで、時間を忘れて、一つ一つの資料を食い入るように見てしまいました。

 

 気がついたら、かなりの時間が過ぎていたのですが、その間、水木先生は何もおっしゃらず、ずっと待っていてくださいました。

 

 博物館の外に出ると、いつしか、夕方近くなっていました。

 

 水木先生は、今日観光するスケジュールを、色々と調整してくださり、これから最後の目的地へと向かいます。

 

 その場所は、山口県の最西端である関門海峡…

 

 全く初めて行く、本州の西の果て…

 そこには一体、何があるのか、ワクワクして心臓が飛び出しそうです!!

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<21>功山寺の誓い20.08.26

2020年8月26日(水)

 

 今年は、梅雨がやたらと長くて、夏の始まりが随分と遅くなりましたが、やっと今になって、猛烈に暑くなりました。

 でも、すっかり日は短くなっていて、あと1ヶ月もしたら、お彼岸なんですね。

 

 僕は、今度のお彼岸の4連休に「四柱推命講座・初級編Zoom版」を開催する事にしました。

 Zoomというのは本当に便利で、世界中のどこからでも、スマホか、パソコンを持っていたら、その場所で受講ができます。

    4日の内1日だけ どうしても日程が合わない程度なら、お問い合わせください♪

 

 そして、10月から「四柱推命講座・中級編Zoom版」と、「四柱推命講座・中級編~平日コース~」も、開催する事にしました。

 

 今回は、立て続けに講座を決定してしまいました。

 来年の12月31日という、自分で宣言したタイムリミットまでに、誓った目標を完徹すべく、これからの一年余り、極力、時間の無駄がないように生きるつもりです(^^)

 

 さて、今回の西日本旅行記は、山口県下関市にある、功山寺に行ってきた時のお話です。

 

 功山寺といえば、高杉晋作によって、明治維新の先駆けと言われた「功山寺挙兵」が決起された、その場所…

 

 もしも、功山寺挙兵が起こらなくて、長州藩が俗論派に牛耳られていたままだったら、確実に、明治維新は何年かは遅れていただろうと、言われています。

 

 高杉晋作の墓所である東行庵を巡った後、昼食に美味しい貝汁とお刺身を食べて、水木杏香先生が運転する車で、海沿いの国道2号線を、さらに西へと向かいました。

 

 

 そして、高杉晋作・回天義挙の挙兵の地と言われる功山寺へと到着…

 

 ちなみに、回天とは「天をめぐらす」という意で「時勢を一転させる事」を言い、義挙とは「正義の為に起こす行動」の事を言います。

 

 

 功山寺のあるその場所は、ひっそりとした、とても静かな場所でした。

 

 中に入ると、立て札があって、功山寺の由緒が書かれていました。

 

 功山寺(長府川端町)

 

 曹洞宗。嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇(どうう = 殿堂)の荒廃を見た。

 

 その後、慶長七年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に改宗した。二代藩主光弘が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。(以下略)

 

 何と、このお寺は最初から、曹洞宗だった訳でもなく、功山寺と呼ばれていた訳でも、なかったのですね。

 

 

 功山寺の静かな参道を、水木先生と一緒に登って行きました。

 

 今から、150年ほど前、高杉晋作に率いられた、血の気があふれる攘夷志士が、ここにたむろしていたとは、とても思えません。

 

 この時代の長州藩は、正義派が次々と駆逐(くちく)され、完全に俗論派に牛耳られてしまっていました。

 それは、まさしく、禁門の変の反動と言っても、良いかも知れません。

 

 禁門の変とは、長州藩の過激派の来島又兵衛(きじま またべえ)などの軍勢が、京都御所の天皇に長州藩の無実を訴えようと、退去命令が出ているにもかかわらず、それに逆らって突進し、結果的に、西郷隆盛率いる薩摩藩や会津藩などによって、殲滅(せんめつ)されられてしまった事件です。

 

 この時、高杉晋作や、桂小五郎、周布政之助(すふ まさのすけ)なんかは、過激派に慎重な姿勢を取るように懸命に抑えていたのですが、抑えきれませんでした。

 

 この禁門の変により、久坂玄瑞(くさか げんずい)や入江九一など、多くの長州藩士の命が奪われました。

 これ以来、長州藩では「薩賊会奸(さつぞくあいかん)」と言って、薩摩藩や会津藩を毛嫌いするようになった…

 

 そして、長州藩は朝敵となり、長州藩はこれ以降、俗論派の椋梨藤太(むくなし とうた)などに牛耳られていく事となります。

 

 ちなみに「正義派(=急進派)」とか「俗論派(=恭順派・保守派)」というのは、高杉晋作が使い始めた呼称です。

 

 たいがい、維新もののドラマや映画なんかでは、俗論派や、その首魁の椋梨藤太は、凡庸で愚昧な敵役にされてしまうのですが、それですと、ちょっと可愛そうな気もしますね(^^;;

 

 正義派(の一部の過激派)が起こした禁門の変は、まるで後先を考えない、長州藩を自滅させた愚行と言わざるを得ませんし、この時期、過激な事をしないで、おとなしく幕府に従って、藩を存続させようという考え方は、むしろ自然な流れです。

 

 俗論派が藩を牛耳るようになると、井上聞多(のちの馨)も、藩の存続を脅かす危険分子と見られ、数人の暴徒に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまいます。

 

 この時、聞多の母の適切な処置や、医師・所郁太郎(ところ いくたろう)による約50針におよぶ、畳糸を使った縫合によって、からくも井上聞多は、一命をとりとめるのですが、その話はまた、この何回か後のブログに譲る事にしましょう。

 

 そして、井上聞多が襲われた翌日には、過激派の暴発を食い止めらなかった事に責任を感じていた、晋作の良き上司であった周布政之助が、切腹をして、命を絶ってしまいます。

 

 久坂玄瑞らを禁門の変で失い、その上、周布政之助も井上聞多もいなくなってしまった長州藩の上層部は、完全に俗論派に、乗っ取られてしまいました。

 

 長州藩の藩主である、毛利敬親(たかちか)父子も、俗論派に従いました。

 藩論はすっかり、俗論派に傾いていましたし、この時は、これ以外に方法がなかったのです。

 

 ちなみにこの時、桂小五郎は、京都の三条河原で、物乞いに変装し、身を隠していました。

 そして、高杉晋作も、俗論派によって藩の要職を罷免され、命の危険を感じた晋作は、萩を脱出しました。

 

 

 いくつかの階段と緩やかな坂を上って行った所に、功山寺の山門があります。

 この山門は、安永2年(1773)に建立… 山門の屋根は、見事な瓦ぶきとなっています。

 

 ゆるやかな階段を、ゆっくりと上がっていきました。

 

 

 山門の入り口の柱の両側には、”沸頂山璽現少林五業端 龍池水活漲蓇渓一滈波” と、金色の文字がかたどられています。

 

 いよいよ、功山寺の中へ入ります。

 

 萩から脱出した高杉晋作は、まずは、山口に行き、俗論派の暴徒に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多の病床を見舞った後、海を渡り、福岡の博多へと逃れました。

 

 福岡の潜伏先で、晋作をかくまったのは、野村望東尼(のむら ぼうとうに)です。

 野村望東尼は、勤王の志を持つ尼僧であり、この時には58歳で、晋作とは年が33歳も離れているのですが、その後もずっと晋作に寄り添い、高杉晋作が結核で床に臥せると、愛妾おうの(2020/8/13 ブログ 「高杉晋作に逢える場所」 参照)と共に、その最期を看取っています。

 

 高杉晋作も、桂小五郎も、周布政之助も、井上聞多もいない長州藩の正義派は、だんだんと意気消沈していきました。

 

 今となっては、藩主の毛利敬親・定広親子が、俗論派を信任しているのですから、誰もどうする事もできません。

 

 そして、朝敵となった長州藩に対し、幕府と雄藩の連合軍による、長州征伐が始まりました。これが第一次長州征伐です。

 

 藩内の俗論派は、幕府に対する恭順を示す為に、禁門の変を推進した、正義派の三家老・福原元僴(ふくはら もとたけ)、益田親施(ますだ ちかのぶ)、国司親相(くにし ちかすけ)を切腹させて、その首を、幕府連合軍の総大将である尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ よしかつ)に差し出しました。

 

 幕府連合軍だって、本音を言えば、自分達の兵を減らしてまでして、長州藩と戦いたい訳ではありません。

 

 総大将の徳川慶勝は、その首が本当に長州藩正義派の三家老であるかどうかを確認すると、参謀の西郷隆盛と相談し、山口城の屋根瓦を何枚か外させ、城を破却させたという体にし、毛利敬親・定広親子の謝罪文を受け取ると、さっさと軍勢を引き上げていきました。

 

 これによって、取り合えず、第一次長州征伐は回避されました。

 

 

 これが、国宝にも指定されている、功山寺の仏殿です。

 

 こうした中、高杉晋作によって創設された奇兵隊は、どうしていたかと言えば、赤禰武人(あかね たけと)という人物が、総督に就任していて、赤禰は、正義派である自分達と、藩を牛耳っている俗論派とが、うまく折り合いをつけて、共存する道を探っていました。

 

 明治時代に著された多くの歴史書では、たいがい赤禰武人は、正義派を裏切って俗論派の元に走った裏切り者という扱いになっていて、最後は弁明すらも許されず、正義派に処刑されてしまうのですが、この扱いは、あまりにも可哀想な気がします。

 

 赤禰武人は、高杉晋作からは相当に嫌われていましたが、まがりなりとも松下村塾の塾生ですし、江戸幕府を批判したかどで、安政の大獄で捕らえられたり、晋作の英国公使館焼き討ちにも加わったりと、尊王攘夷の志士としての実績は、かなりあった人です。

 

 ちなみに、赤禰武人が俗論派の藩政府と交渉を重ねている間、奇兵隊の指揮は、副官である山縣狂介(有朋)が握っていました。

 

 山縣狂介は他の正義派の諸隊とも話し合い、俗論派が勢いを増している現状に対抗する為に、まずは全諸隊を山口に集結させ、さらに、功山寺がある長府の地へと向かう事を決めました。

 

 そして、隊を動かす道筋で、八月十八日の政変で朝廷を追い出されて、長州藩に落ちのびてきた三条実美(さんじょう さねとみ)ら五卿(ごきょう)と高田御殿で会談し、その結果、五卿達は、諸隊の集まる長府へ、一緒に同行する事になりました。

 

 三条実美ら五卿は、この功山寺の部屋で、かくまわれる事となるのです。

 

 

 この像こそが、高杉晋作回天義挙銅像…

 

 高杉晋作はこの功山寺で、わずかな手勢で挙兵をし、それが最終的には長州藩の運命、ひいては日本の運命さえも、変えてしまう事になります。

 

 高杉晋作が博多に潜伏している間、山縣狂介らを中心とする諸隊の幹部は、俗論派との交渉が決裂した時に備え、長州藩の各地に派遣されている俗論派の代官を、暗殺する計画を建てていました。

 

 一方の俗論派は、藩主である毛利敬親父子に、正義派の諸隊が暴動を起こさないように説得させたり、隊士達の家族に圧力を掛けたりして、その士気を下げ、自然消滅するような形を目指していました。

 事実これによって、隊士達の士気はどんどん下がり、離脱者は増えていきました。

 

 そんな時、潜伏先の博多から、高杉晋作が長州藩に帰還し、長府の諸隊の元にやってきたのです!!

 

 諸隊は大歓迎して、晋作を受け入れました。

 

 高杉晋作は「暗殺という姑息(こそく)な手段は、取るべきではない」と、諸隊による代官の暗殺計画に反対し、「隊士の士気が下がって離脱者が増える前に、今こそすぐに、諸隊が一致して挙兵すべきである」と、即時の挙兵を主張しました。

 

 高杉晋作の帰還を、心から喜んだ隊士達でしたが、「急にそんな事を言われたって…」という雰囲気になり、代官の暗殺計画の方は、取り止めになりましたが、即時挙兵は、実現しませんでした。

 

 さらにこの後、奇兵隊の総督である赤禰武人が、俗論派との交渉をとりつけて復隊し、「隊をそのまま存続させる事と、隊士を全員、長州藩の藩士に取り立てるという約束を取り付けたので、藩政府に恭順するように…」と説くと、隊士達は、一気に恭順モードとなってしまいました。

 

 即時挙兵を説いているのに、全く動こうともしない諸隊を見て、業を煮やした高杉晋作は、赤穂浪士が討ち入りをした日である12月14日を、挙兵の決行日と決め、功山寺で挙兵する事を宣言しました。

 

 すると、隊の幹部はこぞって、高杉晋作の挙兵に反対し、無謀な事を取りやめるように、説得してきました。

 

 いら立った晋作は「みんなは赤禰武人に、だまされている。オレは毛利家三百年来の家臣の家柄だ。あんな百姓出身の赤禰と一緒にされては困る」と叫びました。

 

 普通、こんな事を言ったりしない晋作ですが、よほどに、いら立ちを抑えきれなかったのでしょう。

 隊士のほとんどは、農民や商人や下級武士など、身分の低い生まれであり、残念ながら、この晋作の説得に心を動かされて、一緒に挙兵をしようとする隊士は、いませんでした。

 

 それに、実際の所、全ての隊の隊士の数を合わせても、800名ほどしかいません。

 

 晋作が言うように、諸隊が一体となって挙兵をして、長州藩の正規軍に挑んでも、数の上でまるで勝ち目がないのです。

 仮に、奇跡的に長州藩を掌握できたとしても、長州藩の内乱を鎮圧するという事で、幕府連合軍に攻めて来られたら、万に一つも、勝ち目なんてありません。

 

 その点、山縣狂介は、ものすごく冷静でした。

 

 そして、この時ばかりは晋作に従わず、「武装解除するその見返りとして、正義派の要求を聞き入れてもらいたい」という条件を提示し、藩政府と交渉しようとしました。

 

 高杉晋作が隊士達の心をつかむ事ができないまま、時間だけが過ぎ、いつしか挙兵の決行日の予定だった12月14日は終わってしまい、やっと挙兵の準備が整ったのは、翌日の12月15日の深夜…

 

 この日は、まれに見る大雪となり、功山寺に集結したのは、伊藤俊輔(博文)が率いる、力士隊30名、石川小五郎が率いる、遊撃隊50名弱、それに晋作に義理を感じて挙兵に参加した数名を合わせ、総勢84人でした。

 

 仮に、諸隊の隊士800人が全員合わさったとしても、勝ち目はないのです。

 それが、たったの84人しか集まっていないのですから、これでは全く、話にもなりません。

 

 高杉晋作は死を覚悟し、遺書をしたため、連れの者にそれを託しました。

 

 こんな無謀な挙兵を決行する晋作の心には、志を貫いて、自ら散っていった吉田松陰の生き様(2020/7/22 ブログ 「松下村塾の情景の中で」 参照)への思いがあった事は、確かでしょう。

 

 この時の晋作の心には、日頃、吉田松陰が口にしていた「生きている限り、大きな仕事ができると思うのなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面だと思ったら、いつでも死ぬべし」という言葉が、何度となくリフレインしていたに、違いありません。

 

 

 ここは、七卿潜居の間(しちきょうせんいのま)

 

 功山寺では、300円の拝観料で、書院の見学をする事ができます。

 

 書院の入り口で靴を脱いで、長い廊下を歩いて行くと、やがて、この「七卿潜居の間」に行きつきます。

 

 八月十七日の政変という、公武合体派によるクーデターにより、尊王攘夷派の公卿が都を追われた、いわゆる七卿落ち(しちきょうおち)によって、長州藩にかくまわれていた三条実美らは、奇兵隊などの諸隊が長府へ移動した時に同行して、この功山寺に入り、この部屋に潜伏していました。

 

 七卿とは、三条実美、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)の七人の公卿(くぎょう)の事です。

 

 この時には、錦小路頼徳は病死し、澤宣嘉は、但馬の生野の変に、総大将として参加していたので、この部屋にはいません。

 

 だから、七卿潜居の間というのは、正しくなくて、五卿潜居の間ですね(笑)

 

 そして、後に坂本龍馬と協力し、薩長同盟を成し遂げる事となる、脱藩浪士の中岡慎太郎が、五卿の世話をしていました。

 

 

 この部屋こそが、都落ちした三条実美ら五卿が住まっていた部屋です。

 

 それは、今から150年ほど前の出来事…

 

 功山寺で挙兵をした高杉晋作は、数名の兵を引き連れ、この書院へと赴き、公卿に面会を乞いました。

 中岡慎太郎がこれを取り次ぐと、三条実美がゆっくりと寝所から出てきて、高杉晋作の前に現れました。

 

 高杉晋作は、三条実美に、これから挙兵をする事を告げて、出陣の盃(さかずき)を賜りたいと求めると、三条実美は、晋作の盃に冷酒を注いで、これを与えました。

 

 高杉晋作は、その盃を一気に飲み干し、「これよりは、長州男児の腕前、お目に懸け申すべく」と叫んで、颯爽(さっそう)と立ち上がり、陣に着きました。

 

 どうやら、三条実美は、あまりにも無謀すぎる、晋作の挙兵を止めるつもりだったようなのですが、話がうまく切り出せず、そのまま行かせてしまった… という事らしいです。

 

 

 部屋の縁側からの庭の眺め…

 功山寺に潜伏していた五卿達は、いつもこの縁側から、この庭の景色を眺めていたのでしょう。

 

 たった84名の人数で決起した、高杉晋作の挙兵は、この後どうなったか…

 

 高杉決起の報を聞いた幕府連合軍の巡見使・長谷川敬から圧力を受けた、藩政府は、幕府に恭順の意を示すべく、藩の正規軍3,800名を鎮静軍として差し向けていました。

 

 高杉晋作の84名の決起軍は、雪明かりの夜更けの中、まずは下関へ向かって行軍し、未明に、馬関新地(ばかんしんち)の会所(かいしょ)を襲撃し、武器や弾薬を奪っていきました。

 その騒ぎを、馬関周辺の住民が聞きつけると、何と120人ほどの志願兵が馬関の会所に集まり、その人数は倍以上に膨れ上がったのです。

 

 そして、高杉晋作は、決死の別動隊18名を率いて、三田尻に赴き、長州藩の持ち物である軍艦3隻を奪って、また、下関に戻ってきました。

 

 一方の山縣狂介ですが、藩政府との交渉が不調に終わった事で、山縣狂介が率いる奇兵隊も、高杉晋作に続き、挙兵をしました。

 高杉晋作に協力したいという気持ちを持っていながらも、あまりにも無謀な挙兵なので、躊躇してしまった山縣狂介ですが、いてもたっても、いられなかったに違いありません。

 

 山縣狂介の挙兵により、正義派の兵力は、一気に膨れ上がる事となります。

 この奇兵隊が、絵堂(えどう)にいた藩の鎮静軍を奇襲し、鎮静軍は不意をつかれて慌て、なすすべもなく後退し、さらに、鎮静軍の別働隊の指揮官も戦死し、敗退してしまいました。

 

 山縣狂介の参戦を大いに喜んだ高杉晋作は、唄を作って、山縣に送りました。

 

 “わしとおまへは 焼山葛(やきやまかづら) うらはきれても 根はきれぬ”

 (わしとお前は、野焼きの後に残った葛(カズラ)の根のようなもんだな。多少意見は違っても、根っこは同じで、切る事はできないのだ)

 

 この諸隊の勝利は、近隣の住民の支持を得て、小郡(おごおり)の庄屋達からは、軍資金と食糧を提供され、人夫として1,000人以上の人員が集められました。

 

 晋作は、負傷して俗論派の監視下におかれていた井上聞多を奪還し、軍の指揮官に加えました。

 

 長州藩の支藩の長府藩主である毛利元周(もうり もとちか)は、この事態を重く見て、藩主の毛利敬親父子に、諸隊の追討命令を速やかに取り消し、正義派の建白書を受け入れ、国内の統一を図るよう提案し、敬親父子はこれを了承…

 

 ここに、正義派と俗論派の攻守が逆転し、俗論派の首魁である椋梨藤太は、命の危機を察して逃亡するも、石州で捉えられ、野山獄にて斬首されてしまいました。

 

 高杉晋作のたった84名の功山寺挙兵が、思いがけなく、長州藩の藩論を180度変えてしまい、これがやがて明治維新の原動力となっていくのです。

 

 とはいえ、この件で、幕府に恭順しないという選択をした長州藩は、これにより、日本中を敵に回したと言っても良いでしょう。

 

 

 功山寺の書院の廊下を歩いて行くと、その一角に、維新の志士などが書いた手紙が展示されていました。

 

 三吉慎蔵(みよし しんぞう)宛ての坂本龍馬の手紙、毛利匡満(もうり まさみつ)公母君の写経、さらに、来島又兵衛宛ての桂小五郎の書簡が、ここに展示されていました。

 

 高杉晋作の功山寺挙兵によって、藩論が正義派にひっくり返ってしまった長州藩に、再び、幕府連合の征長軍が迫ります。

 これがいわゆる、第二次長州征伐です。

 

 この絶体絶命のピンチに、どこからともなく、長州藩のピンチを救ってくれる助っ人が現れます。

 

 長州藩と薩摩藩を結びつけ、薩長同盟の締結を目指す、坂本竜馬と中岡慎太郎、そして、桂小五郎が見つけた逸材である、兵学の天才・村田蔵六(のちの大村益次郎)

 

 奇跡に奇跡が重なって、やがて長州藩は朝廷から最も信任される藩となり、この流れが、徳川慶喜の大政奉還へとつながり、やがて明治維新という日本の幕開けが始まりました。

 

 高杉晋作の、一命を賭した、この功山寺の誓いが、日本の国を変えてしまったと言っても、過言ではないでしょう。

 

 

 功山寺を出た時には、もう午後2時近くになっていました。

 後にして、水木先生と近くの喫茶店で、午後のおやつタイムを取る事にしました(^^)

 

 珈琲gatto (コーヒーガット)

 

 ソイ・ミルクラテに、アイスがついたフレンチトースト、それにパフェを注文する事にしました。

 

 どれも、とっても優しい味がしました。

 

 この後は、下関市立歴史博物館に向かいます。

 

 実は、東行庵の中の東行記念館で、この歴史博物館のチラシがあって、そこに、ものすごく興味をそそられる企画展の案内が載っていました。

 そのチラシを見た僕は思わず、水木先生に、この博物館にも行ってみたいと、観光プランに追加して頂いたのです。

 

 下関市立歴史博物館、どんな展示があるのか、とてもワクワクします!!

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<20>高杉晋作に逢える場所20.08.13

2020年8月13日(木)

 

 暑い毎日が続いていますが、暦の上では、もうとっくに秋…

 気がつけば、もうお盆なのですね。

 

 出雲・山口に行ってから、もうじき一年になろうとしています。

 本当に、時が経つのは早いものです。

 

 あの旅の中で、一番印象に残っている場所はどこか… と聞かれたら、もう全ての場所が、素晴らしい思い出なのですけど、中でも、今日のブログでご紹介する、この東行庵(とうぎょうあん)での出来事が印象的で、僕はその時の写真を、今でも携帯の待ち受けにしているほどです。

 

 新山口に到着して迎えた、2日目の朝…

 

 昨日に引き続き、朝、五気調整術協会の水木杏香先生が、東横インホテルの前まで、迎えに来てくださいました。

 

 水木先生の赤い車に乗って、新山口駅近くの東横インから、一路西へ…

 山口県の最西端にある下関市を目指して、車は走り出しました。

 

 

 本日、最初の目的地は、東行庵という場所…

 

 水木先生によると、元々は、別の場所に行く事を予定していたそうなのですが、この日はイベントの影響で、ものすごく混んでいて、あまり楽しめそうにないので、急遽、東行庵に決めたとの事でした…

 

 東行… つい最近、どこかで聞いたような名前だったけど、何だったっけ…

 と、記憶をめぐらして、思い出しました。

 

 それは、この前日に、高杉晋作の生家(2020/7/10 ブログ 「萩焼きと夏みかんと総理大臣と高杉晋作の生家」 参照)に行った時に、頂いたパンフレットの中に書かれていた、晋作自作の唄でした。

 

 “西へ行く 人をしたひ(い)て 東行く 心の底そ(ぞ) 神や知るらむ”

 

 僕は最初この唄を見た時、高杉晋作には申し訳ないのですけど、何だか語呂が悪いし、意味が分からない唄だと思いました(笑)

 

 どうやら、この唄は、高杉晋作が23歳の時に、出家して頭を剃り「東行」と称した時に、詠んだ唄らしいのです。

 

 “西へ行く人”とは、高杉晋作が尊敬する西行法師(さいぎょうほうし)の事であり、西行もまた、23歳で武家の身分を捨て、出家した人です。

 

 この唄では「西行を慕って、出家したけれど、自分は東に行くのだ」と、詠んでいます。

 そして、「その心は、神のみぞ知る」と、結んでいます。

 

 もうこれは、あからさまに「オレはこれから、江戸幕府を討伐しに行く」と、宣言しているようなものですね。

 

 

 車が「東行庵」に、たどり着きました。

 

 この時の僕は、東行庵とは高杉晋作のゆかりの地に違いない… という事は分かったのですが、どういう由来の場所なのか、恥ずかしながら、全く知りませんでした。

 

 ちなみに、西行法師の西行庵(さいぎょうあん)というのは、京都の東山や、奈良の吉野、香川の善通寺なんかにありますが、どれも本当に小さな庵(いおり)で、この広大な東行庵とは、まるで別物です。

 

 初めて東行庵を見た僕には、ものすごく巨大なお寺のような印象を受けました。

 

 

 東行庵の中に足を踏み入れると、見事な紅葉が見えます。

 

 高杉晋作の生家に行った時のブログに書いたように、晋作は、萩藩大組士である高杉小忠太(こちゅうた)の長男であり、萩藩でも身分の高い、れっきとした士族の生まれでした。

 

 子供の頃の晋作はひ弱で、円政寺の天狗の面ですら、怖がるような子供だったのですが(2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)、その反動のせいか、青年期の晋作は、血気盛んな青年となりました。

 

 そんな晋作が、他の過激派の志士とは違い、先の事を考えて、冷静な行動が取れるようになったのは、上司であった周布(すふ)政之助や、桂小五郎なんかの影響も、大きいのではないかと思います。

 

 あと、高杉晋作自身が、藩命によって上海(シャンハイ)へ渡航し、欧米の植民地となっている清国の悲惨な状況を、自分の目で見て来た事が、晋作の思考や行動に、非常に大きな影響を与えたと言って良いでしょう。

 

 坂本龍馬が主人公になっているドラマとか映画ですと、必ずと言っていいほど、高杉晋作が龍馬に、清国で買ってきた、リボルバー銃をプレゼントするシーンがあります。

 

 龍馬も、寺田屋事件(2019/12/18 ブログ 「伏見ほろ酔い日記」 参照)の時は、この晋作がくれた銃で防戦できたお陰で、命拾いをしましたから、そういった意味では、高杉晋作は坂本龍馬の命の恩人と言えなくもありません。

 

 若い頃の晋作は、あまりに過激に攘夷(じょうい = 外国人を討つ事)をやろうとするので、当時、長州藩藩主の世子であった、毛利定弘(毛利敬親の養子)から、無謀だと制止されて、ついに蟄居(ちっきょ)させられてしまいました。

 

 だから、高杉晋作は、藩内で身分が高い割には、桂小五郎や久坂玄瑞ほど、長州藩の表舞台に立ちませんし、他藩との交渉なんかにも、携わっていません。

 

 そして、吉田松陰が刑死すると、もはや晋作の攘夷倒幕の情熱は、誰も抑えられず、ついに松下村塾のメンバーと、江戸の英国公使館の焼き討ちを、やり遂げてしまいます。

 

 ある意味これは、師である吉田松陰の遺志を継ぐべく企てた事件で、高杉晋作が隊長となり、久坂玄瑞を副隊長にし、伊藤俊介(のちの博文)や井上聞多(のちの馨)なんかが、建物の火付け役となって、見事に英国公使館の建物は全焼しました。

 

 今で言えば、かなりヤバい放火の集団テロですが…

 

 幕府から怒りをかう事を恐れた長州藩では、ただちに、晋作を江戸から召還して、山口に呼び寄せました。

 

 そんな晋作が、出家をする事になったのは、その後の周布政之助との押し問答の末の成り行きと言って良いでしょう。

 

 以前のブログ(2020/7/22 ブログ 「松下村塾の情景の中で」 参照)にも書いたように、周布政之助が、吉田松陰を野山獄に幽閉した事によって、松下村塾はわずか二年間で幕を閉じてしまいました。

 

 とはいえ、周布政之助だって、れっきとした尊王攘夷派の志士であり、晋作の良き理解者でもありました。

 

 江戸から召還された晋作が、周布政之助に向って「今こそ、幕府を倒すべきだ」と言うと、周布政之助は「まだ、時期尚早だ」と、なだめます。

「じゃあ、いつまで待てばいいのか」と晋作が詰め寄ると、周布政之助は「十年待て」と言います。

 

 それを聞いた晋作が、「それなら十年の間、暇を頂く」と言い放ち、藩の承認を得ると、頭を丸めて出家してしまいました。

 その時に読んだ句が、さっきの「西へ行く人をしたひて東行く…」の唄です。

 

 一旦は出家したものの、長州藩の危機であるという事で、すぐに周布政之助から呼び戻されて、一年も経たずに、また現役に復帰していますが…

 

 

 東行庵の樹々が、秋色に色づいています。

 

 高杉晋作が、周布政之助に呼び戻された理由は、長州藩が外国船を砲撃した事で、その結果、フランスとアメリカからの報復を受け、惨敗した下関戦争がきっかけです。

 

 この時に、晋作は下関の防衛を任され、その為に結成したのが、かの有名な奇兵隊(きへいたい)という訳です。

 

 奇兵隊は、身分に因らない志願兵による部隊であり、この時代において非常に画期的な軍隊でした。

 この晋作の発想には、師である吉田松陰が論じた「西洋歩兵論(せいようほへいろん)」の影響が、色濃く反映されています。

 

 とはいえ、当初、晋作が奇兵隊を率いていたのは、3ヶ月余りの短い期間だけです。

 

 奇兵隊は、長州藩の正規部隊である撰鋒隊(せんぽうたい)と揉めて、最後はついに斬り合いの喧嘩となり、晋作はその責任を取らされて、総監を罷免されてしまいました。

 

 

 東行庵の紅葉が、燃えるように真っ赤に染まっています。

 まるで、高杉晋作の燃えたぎる維新への情熱の色のように、思えてきます。

 

 長州藩にとって、おそらくは、この下関戦争の後が、最も苦難に満ちた時期だったのではないかと、思います。

 何といっても、八月十八日の政変によって、長州藩は、京都の警備担当を他藩に回され、長州寄りの急進派の公卿(くぎょう)達と共に、京都から追放されてしまいましたから…

 

 この裏には、薩摩藩と会津藩が秘かに手を結んだ、薩会(さっかい)同盟があったのですが、そもそも事の発端は、欧米列強の外国に対して、どう対処するかの価値観の違いによるものです。

 

 その対応において、一方的に外国の船を砲撃するという、最も過激な対応をした長州藩と、天皇の親征攘夷論(しんせいじょういろん)という、最も過激な主張をしていた三条実美(さねとみ)などの急進派の公家が、この八月十八日の政変のターゲットになりました。

 

 この時期、京都を中心とした日本の政治情勢は、孝明天皇の意見が何一つ通らないほどに、攘夷倒幕の風潮や、急進派の公家の勢力が台頭していました。

 その巻き返しを図ろうとした、公武合体派によって、この八月十八日の政変が起こされたという訳です。

 

 そして、その後の池田屋事件よって、吉田稔麿(としまろ)ら長州藩士は新選組に斬られ、その一ヶ月後、禁門の変により、久坂玄瑞や入江九一、来島又兵衛は戦死、長州藩は御所に向かって発砲した事などにより、朝敵とみなされ、この後の第一次長州征伐、第二次長州征伐につながっていきます。

 

 また、海上からは、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃し、ついに下関砲台は欧米列強に占拠されるに至ります。

 

 さらに悪い事に、長州藩そのものも藩内の俗論派の台頭を受けて、責任を感じた正義派の周布政之助は自害し、晋作自身も、福岡に逃れざるを得ませんでした。

 

 長州藩の正義派は、内にも外にも、腹背に敵を受けた上に、海からは欧米列強4ヶ国に上陸されて、もう絶体絶命の四面楚歌の状態でした。

 

 ゆるやかな坂を、上へ上へと登っていくと、そこに肩ひざで立っている侍(さむらい)の像が、ありました。

 

 

 どうやら、高杉晋作像では、なさそうです。

 

 像の下の所に「山縣狂介(有朋)像」と、書かれています。

 ご存じ、第3代と第9代の日本の内閣総理大臣である、あの山縣有朋です。

 

 意外に思われるかもしれませんが、実は、山縣有朋は、高杉晋作よりも一歳年上なのです。

 

 とはいえ、下級武士の身分である山縣狂介(有朋)は、萩藩大組士の家柄の高杉晋作とは、あまりにも身分に違いがある事から、当初、その関係は、格上の高杉晋作に、年上の山縣狂介がつき従っているような形でした。

 ちなみに、山縣狂介の“狂”の字は、尊敬する高杉晋作が名乗っていた「西海一狂生東行」から、取っています。

 

 山縣狂介も松下村塾の塾生ですが、その入塾は遅く、京都にいる時に、松陰四天王の一人・久坂玄瑞から紹介状を書いてもらって、やっと吉田松陰に入門する事ができました。

 

 同じく松陰四天王の吉田稔麿と山縣狂介の間で、こんな逸話があります。

 

 松下村塾の時代、吉田稔麿は落書きをしていて、紙の真ん中に暴れ牛の絵を描いて、その横に烏帽子(えぼし)と木刀、そして棒切れを描き加えました。

 

 それを見ていた山縣狂介が「一体、これは何の絵か」と尋ねると、稔麿は「高杉という男は、何にもこだわらない天才で、誰もつなぎとめる事はできない。まあ、野に放たれた牛のようなものだな…」と答えました。

 

 「この烏帽子は何か」と問うと、「久坂玄瑞という男は、雰囲気が立派で、烏帽子でもかぶらせて屋敷に座らせれておけば、中々絵になる」と答えました。

 

 木刀の絵を指さして「これは何か」と問うと「入江九一という奴は、まあ、木刀のようなものだな。何も斬る事はできないが、脅し程度になら使える」と言いました。

 

 「では、この棒切れは何か」と、山縣狂介が尋ねると、「これはお前だ。凡庸で、何の取り柄もない…」と、答えたと言います。

 

 後の総理大臣で日本陸軍の祖も、この頃には、この程度の扱いしかされていなかった、という事ですね(笑)

 

 しかしながら、高杉晋作は、そんな山縣狂介の事を信頼し、身分の違いなど気にする事なく、自分の創設した奇兵隊に誘い入れました。

 

 やがて、山縣狂介は、奇兵隊のナンバー2である軍監にまで昇進します。

 

 山縣有朋(狂介)は、前にも書いたように(2020/6/18 ブログ 「維新の街の香り」 参照)、明治政府の頂点まで上り詰めますが、終生、高杉晋作への恩は忘れませんでした。

 

 山縣狂介像の場所を、さらに坂を登りきった所に、高くそびえる一つの像…

 

 

 これぞ、高杉晋作その人の像です。

 

 高杉晋作の真骨頂は、長州藩が朝敵となり、幕府から山口に討伐の大軍が押し寄せ、海からはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四ヶ国連合艦隊が迫って、そして、藩内からは俗論派が台頭し、正義派が次々に粛清されていく… その絶体絶命の状態から、起死回生の反撃で長州藩を立て直した、その神業とも言える活躍です。

 やがて、それがそのまま、明治維新の原動力となっていきました。

 

 連合国4ヶ国に、下関砲台を占拠されると、晋作はその和議交渉を任され、長州藩の筆頭家老の宍戸家の養子・宍戸刑馬(ししど ぎょうま)と名のって、長州藩の代表として、和平交渉の会談に臨みました。

 

 この時の高杉晋作の機転の利いた交渉の対応がこそ、長州藩を救ったとも言えます。

 

 連合国側の通訳士である、アーネスト・サトウは、後に「会談に臨んだ高杉は、魔王のように傲然としていた」と語っています。

 

 連合国側は、当然の事ながら、船を自由に通行する権利や、砲台の撤去の要請だけでなく、巨額の賠償金を要求してきました。

 

 とはいえ、それを断れば交渉は決裂し、欧米列強は砲台だけではなく、長州藩全土に武力行使をして侵略してくるのは、目に見えています。

 

 晋作は、それらをあっさりと受け入れ、賠償金も払うと言いました。

 しかしながら、「長州藩に攘夷を命じたのは、朝廷と幕府だから、賠償金は幕府に請求してほしい」と、うまくかわします。

 

 すでに欧米列強とは条約を結び、欧米列強の軍事力と日本の軍事力が、いかに隔たっているか良く分かっている江戸幕府は、本心を言えば、攘夷なんてやりたくなかったのですが、以前に孝明天皇と攘夷の約束をしていた事もあり、急進派の公家や長州藩から催促され、この時は仕方なく、攘夷命令を出したんです。

 

 そして晋作は、あらかじめ用意していた、幕府によって書かれた攘夷命令書を、連合国代表のレオポルド・キューパーに差し出しました。

 

 この攘夷命令書を見て、キューパーも納得し、賠償金は幕府に請求する、という事になりました。

 この時の長州藩は、すでに朝敵であり、幕府は長州藩を征討する準備を進めていましたから、欧米列強の矛先が幕府に向くのは、願ったりかなったりです。

 

 その代わり、キューパーは「賠償金の支払いが終わるまでの抵当として、彦島を借り受けたい」と言ってきました。

 

 高杉晋作の脳裏に、二年前に見た、清国の上海での出来事がうかびました。

 そこでは、欧米列強の外国人が、上海を我がもの顔に歩き、みるみる内に植民地化されて、清国は、国を乗っ取られていったのでした。

 

 しかしながら、ここで首を横に振って、交渉が決裂してしまえば、やはり最悪の事態になってしまいます。

 

 この時、伊藤俊介(博文)は、長州藩側の通訳を担当していたのですが、その時の高杉晋作の大胆不敵な対応に、度肝を抜かれ、後に「あの機転の利いた対応がなければ、日本も欧米列強の植民地になりかねなかった」と、称賛をしています。

 

 キューパーから、彦島租借(そしゃく)の事を切り出された高杉晋作は、何を血迷ったか、いきなり古事記を暗唱し始めました。

 

 「そもそも、日本国なるは高天原(たかあまはら)から始まる。初め、国常立(くにとこたち)の尊(みこと)ましまし、続いて、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)なる二柱(ふたはしら)の神々ありまして、天の浮橋(あめのうきはし)に立たすたまい、天沼矛(あめのぬぼこ)を持って、海を探られ、その矛の先から滴(したた)る雫(しずく)が島々になった。まずできたのが、淡路の国の淤能碁呂(おのころ)島である。されば神々、その島に天下りくだりましまし…」

 

 気でも違ったかのように、外国人の面前で、朗々と古事記を唱和する晋作に、伊藤俊介も、真っ青になりました。

 

 戸惑っている伊藤に「俊介、通訳しろ」と言います。

 

 「ちょっと高杉さん、それ古事記でしょう。私の語学力ではとても無理ですよ…」と狼狽する伊藤に「いいからやれ」と命じます。

 

 仕方なく、伊藤もたどたどしい言葉で通訳するのですが、当然ながら、相手に伝わりません。

 

 彦島租借の件をキューパーが切り出す度に、高杉晋作から古事記をずっと唱和され続け、キューパーもついに根を上げ、彦島租借の問題は、うやむやになってしまいました。

 

 後の伊藤博文は、イギリスに占領されつつある上海を、直に見てきた高杉晋作は、土地を貸し与える事が、後々植民地化につながるという事を、見抜いていたのではないかと、語っています。

 

 

 これは、高杉晋作顕彰碑(けんしょうひ)

 

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん = みんな、ただただ驚いて、ぼう然とする)として、あえて正視するものなし。これ、我が東行高杉君にあらずや…」

 

 写真では、何が書いてあるか見えませんが、ここには、事細かく、高杉晋作27年の生涯の偉業が書かれています。

 

 伊藤博文(俊介)が、「高杉の碑文こそは、わしが書く」と文章を起こし、それを明治の三筆といわれた、杉孫七郎が文字にし、除幕式には、井上馨(聞多)が代表として出席し、その時には、高杉晋作に対する思いを、長々と演説したと言います。

 

 この碑が立てられた時には、すでに伊藤博文は、中国のハルビンで暗殺されており、山縣有朋(狂介)も、除幕式は、病気の為に出席できませんでした。

 

 この顕彰碑、実は東京で作られていて、はるばるこの山口の下関まで、列車で運ばれてきたらしいです。

 

 しばらく歩いて行くと、一つの石碑がありました…

 

 

 この石碑を見て、初めて、この東行庵という場所が何なのかが、分かりました。

 

 “史蹟 高杉晋作墓”

 

 つまり、この場所、この東行庵とは、高杉晋作の墓所であり、高杉晋作ゆかりのお寺だったのです。

 

 そのまま、先に進んでくと、その場所は、まるで時間が止まったように、ひっそりとしていました。

 

 

 “東行墓”

 

 この下に、あの明治維新の革命児・高杉晋作が眠っていると思うと、胸が熱くなりました。

 

 この場所こそが、高杉晋作に逢(あ)える場所…

 

 長い時間、心行くまで、静かにそこで手を合わせてみました。

 

 この東行庵の初代庵主は、高杉晋作の愛妾(あいしょう)である、おうの…

 元々の東行庵というのは、山縣有朋が建てた「無鄰菴(むりんあん)」と呼んでいた庵でした。

 

 「無鄰菴」と聞いて、京都で行われた、日露戦争を決定づけた「無鄰菴会議(むりんあんかいぎ)」を思い浮かべた人は、かなりの歴史通だと思います。

 

 僕は、前に京都に行った時、Iさんから教えて頂いて、実際に無鄰菴会議が行われた建物を、外から見た事があるのですが、そもそも最初の無鄰菴とは、この東行庵の前庭あたりに建っていた、山縣有朋が新婚当時から住んでいた建物の事でした。

 それにちなんで、山縣有朋が新たに建てた、京都の別荘も、無鄰菴と呼ばれる事となったのです。

 

 高杉晋作が結核で早世した後、山縣有朋はヨーロッパ外遊をする際に、おうのが生活に困らないようにと、この地に所有していた敷地と、かつての住まいである無鄰菴を贈っています。

 さらに山県有朋は、明治7年に、無隣庵の隣接地を買い求め、おうのに贈っています。

 

 それが、現在の東行庵の広大な敷地という訳です。

 

 高杉晋作像の前に、山縣有朋像が立てられていたのは、そういう所以があったのですね。

 

 最初、山縣有朋から譲られた無鄰菴の屋敷を、そのまま東行庵にしていた、おうのでしたが、旧藩主の世子である毛利元昭(もうり もとあきら)や、伊藤博文、井上馨といった多くの高杉晋作を慕う人達からの寄付を得て、新たに、東行庵の建物が建てられる事となりました。

 

 やがて、おうのは、曹洞宗総本山永平寺(2018/12/11 ブログ 「永平寺巡り」 参照)の六十一世である久我環渓(くが かんけい)禅師から得度を受けて、「梅処(ばいしょ)」と名のり、ずっと晋作の菩提を弔い続けました。

 

 高杉晋作は、梅の花が大好きで、自らの手でおうのの為に作った茶杓(ちゃじゃく)には、すでに高杉晋作の字で「梅處(処)」と記されていました。

 おうのは、その晋作がくれた名前を、そのまま、名のったのですね。

 

 久我禅師が、長府市にある功山寺(こうざんじ ※次回のブログ 参照)に来た時には、厨子(ずし)入りの白衣観音菩薩像(びゃくいかんのんぼさつぞう)が贈られて、これが、この東行庵のご本尊になっています。

 

 

 もみじの紅葉の道をたどり、さらにゆるやかな坂道を上に上がっていくと、そこには、清らかなお顔をした観世音菩薩像がありました。

 

 この石造りの観世音菩薩は、東行庵三代庵主・谷玉仙(たに ぎょくせん)によって、立てられたもの…

 

 谷玉仙は、東行庵中興の祖と呼ばれ、東行記念館を開設したり、奇兵隊士や諸隊士の慰霊墓地を開いたり、保育園を経営したり、カンボジアに難民活動に行ったりと縦横無尽に活躍しました。

 

 この中の「慰霊墓地の開設」などは、まさに、生前の高杉晋作が、やり遂げたかった事だと思います。

 日本最初の招魂場である桜山招魂場は、高杉晋作が発案したものですし、その後、それをきっかけに全国各地に次々と招魂場ができ、東京招魂場は、現在の靖国神社となっています。

 

 この三代庵主・谷玉仙の活躍によって、この東行庵は完成を見たと言って良いでしょう。

 

 初代庵主の谷梅処(たに ばいしょ)こと、おうのが高杉晋作の菩提を弔い、二代庵主となる谷梅仙(たに ばいせん)も、おうのと同じく功山寺で得度をし、後に、おうのから東行庵に迎え入れられますが、その後、わずか8ヶ月で、おうのは亡くなってしまいます。

 

 谷梅仙は二代庵主として、東行庵を引き継ぎ、ある時、大人顔負けの見事な所作をする6歳の少女に出会うと、すぐに弟子として、東行庵に招き入れました。

 この少女こそが、後の三代庵主・谷玉仙です。

 

 東行庵の庵主が、そろって谷姓を名乗っているのは、理由があります。

 

 実は、晋作が多勢に無勢で功山寺で挙兵した時、高杉家から廃嫡されてしまったんです。

 

 当時は一時的に、俗論派が藩を牛耳ってしまっていましたから、高杉晋作が福岡に逃れると、藩から圧力がかかり、晋作は高杉家を廃嫡されて、高杉家の家督は、晋作の姉婿が継ぐ事になりました。

 

 ところがその後、その無謀とも言える挙兵が成功して、長州藩に正義派が返り咲き、さらに晋作が幕長戦争で幕府連合軍を破ると、藩主・毛利敬親より、新たに谷家という別家を興すように言われ、100石を与えられます。

 

 だから、あまり知られていませんが、最晩年の高杉晋作は、谷潜蔵(たに せんぞう)と名のっていました。

 

 つまり、愛妾であったおうのや、その後を継ぐ、梅仙や玉仙も、晴れて晋作と同じ谷姓を名乗る事ができたのですね。

 

 

 ここは、東行庵の敷地の真ん中あたり… 東行庵の建物に隣接した所に建てられている、東行記念館です。

 

 この2Fの部分が、下関市立東行記念館として、高杉晋作や奇兵隊のミュージアムになっています。

 

 高杉晋作が4ヶ国との会議で着用していた直垂(ひたたれ)とか、騎兵隊のたどった軌跡、それから、例えば周布政之助などと言った、晋作となじみのある人物の肖像画や、人物の解説…

 

 維新マニアの晋作ファンが、泣いて喜びそうなものばかりです。

 

 たった300円で、心ゆくまで、高杉晋作の世界に浸る事ができます。

 

 ミュージアムを出ようとして、一階に行くと、たまたまそこに、東行記念館の館長さんがいらっしゃっていました。

 

 水木先生が「東京から、こちらまで、いらっしゃったんですよ」と、館長さんに、僕の事を紹介してくださいました。

 

 「ほう、東京から、わざわざこちらまで!! それならば…」

 

 この後、僕にとって、おそらくこの旅の中で、最も印象的で忘れられない思い出ができました。

 

 詳しい事は、思い出の中にしまっておこうと思うのですが、今もそれを、携帯の待ち受け画像にしているほどに、大切にしています。

 

 

 東行庵の建物は、紅葉の中にありました。

 

 おうのがどこで生まれたかとか、どうやって、高杉晋作と出会ったかとか、ハッキリした事は何もわかっていません。

 おうのも、それについて、語る事はありませんでした。

 

 晋作と一緒に行動するようになる前は、おうのは裏町の堺屋で「此の糸(このいと)」という名で、芸者をしていたそうです。

 

 とても、素直な芸者で、やがて晋作が見受けしたと言われています。

 

 晋作とおうのが一緒に過ごした時期は、4年にも満たない歳月であり、晋作が亡くなった時、おうのはまだ、二十代の花盛りの女性でした。

 

 しかしながら、おうのは、残りの人生をかけて、晋作の菩提を弔い続けるという決心をしました。

 

 そして、その後42年間の間、ずっとこの東行庵で、ただ一人、法灯を守り通し、晋作の菩提を弔い続けました。

 

 高杉晋作には、雅子夫人という正妻がいますし、二人の間には、東一という息子もいます。

 

 という事は、愛妾のおうのは、ずっと日が当たらない肩身の狭い存在のように、思われてしまいそうですが、決して、二人の関係は、今でいう不倫とか、浮気相手とか、そういったものとは違います。

 

 おうのと晋作の関係は、ちゃんと公然とした関係であり、雅子夫人とおうのとの仲も、非常に良かったのだそうです。

 

 他にも、山縣有朋と東行庵とのお話とか、館長さんから、たくさんの素敵なお話を、聞かせて頂きました。

 

 この時をきっかけに、高杉晋作という人物が、非常に身近に感じるようになりました。

 

 東行庵の紅葉の中を、駐車場へと戻っていきます。

 

 少しお腹もすいてきました。

 この東行庵の敷地の中で、いつしか3時間以上の時が経っていたのですね。

 

 水木先生がおっしゃるには、この場所から、新幹線の線路を超えて、2kmほど南に行った所に、美味しい貝汁のドライブインがあるとの事…

 

そこは、「貝汁のみちしお」と言って、地元の人はみんな知っている、超おすすめの場所だそうです。

 

 

 すごい!! この貝汁の量と美味さは、半端ないです。

 

 新鮮な、海鮮ものがケースの中に、たくさん用意されていて、その中で好きなものを選んで、バイキング方式でトレーの上にのせて、持ってくるのです!!

 

 という事で、欲張っていっぱい持ってきてしまいました(^^)

 

 次の観光スケジュールは、ここから、南西に10kmほど行った所にある、国宝・功山寺…

 

 まさに、高杉晋作の「功山寺挙兵」を以って、明治維新がスタートしたと言っても良いでしょう。

 

 その場所は、一体どんな所なのか、自分の目で確かめてみたいという思いで、この時、胸がいっぱいでした。

 

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