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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<16>死してのちやむ ― 桂小五郎の生き様20.06.30

2020年6月30日(火)

 

 先週の金曜日、僕は、岡山県玉野市にある珈琲焙煎店に、行ってまいりました。

 

 そのお店は、8年前の僕がまだフランス・パリにいた頃から、時々お便りをくれているMさん、そして、Mさんの息子さんがマスターをしている、こだわりの珈琲のお店…

 

 当時パリ ブログで、Mさんの事を「感謝の達人」と、よく紹介していましたが、Mさんは本当に人間的に素晴らしい方なのです。

 

 今回、Mさんの息子さんとは、10年ぶりぐらいにお会いしたのですが、とても頼りがいがある頼もしい青年となっていました。

 

 コーヒーというのは、使う豆の種類や、挽き方、焙煎する時間など、ほんの少し違うだけで、全く違う味になってしまうんですね。

 

 この「みなと珈琲焙煎所」は、そういったコーヒーの作り方によって変わる、味の違いを知り尽くした上で、丁寧に真心を込めて、最高のコーヒーになるように、作っているお店です。

 

 コーヒー豆やドリップバックなどは、通信販売でも取り扱っていますから、よかったら皆さま、美味しいコーヒーを召し上がってみてください(^^)

 

 そして、MさんとMさんの息子さんに見送られながら、岡山駅から発車する夜行バスで、9時間かけて東京まで帰ってきました。

 

 戻って来てみると、東京の天気は雨…

 もうしばらく、梅雨は続きそうな感じですね。

 

 さてさて、また去年の山口の旅の話に戻ってしまうのですが、五気調整術協会の理事・水木杏香先生と萩市の萩城城下町を歩き、この街の中で、僕が一番行ってみたいと思った、ある明治維新の偉人の旧宅を、訪ねました。

 

 

 その偉人とは、明治維新三傑の一人とも言われる、木戸孝允の事…

 

 木戸孝允と名乗るようになったのは、明治になってからの事で、30歳頃までは「桂小五郎」と名乗っていました。

 こちらの名前の方が、なじみ深く感じられる方も、多いでしょう。

 

 よく「逃げの小五郎」の異名で通っていた… などと言われますが、あれは司馬遼太郎の小説の題名「逃げの小五郎」(「幕末」という短編集に入っている)が発端であり、実際に生きている時から「逃げの小五郎」などと呼ばれていた訳ではありません。

 

 あの呼び名は、司馬遼太郎が、神道無念流の免許皆伝の腕前であり、剣術の達人でありながらも、極力戦闘を避け、逃げてばかりいた(といっても、極力戦わないのが、神道無念流の教えなのですから、仕方ないのですが…)桂小五郎の事を、ちょっぴり皮肉って、つけたネーミングと言って良いでしょう。

    ちなみに「眠りの小五郎」は、完全にこの「逃げの小五郎」からインスパイアされてます(^^;;

 

 ある意味、この呼び名は、慎重過ぎるほどの桂小五郎の性格を端的に表しているとも、言えます。

 

 明治維新三傑とは、西郷隆盛、大久保利通、そして、木戸孝允こと桂小五郎の3人の事を指し、明治維新を主導して成し遂げた主人公こそが、この三人と言えます。

 

 もちろん、実際には、星の数ほどのたくさんの名もなき人達によって、明治維新の偉業は成し遂げられているのですが、この三人は、ただならぬ人物の度量と、熱く燃えたぎる思いを持ち、さらに、事に慎重で、自らがある程度、長生きしたからこそ、偉業が達成されるのを、目にする事ができたとも言えます。

 

 それで、この三人の中で唯一、英語で外国人と話ができたのは、桂小五郎ただ一人です。

 また唯一、畳で死ぬ事ができたのも、桂小五郎だけですが、とはいえ、桂小五郎の死に方も、決して幸せな死に方とは、言えないものでした。

 

 

 ここが、木戸孝允(桂小五郎)旧宅…

 この門をくぐると、桂小五郎が生まれ育った家があります。

 

 入場料は100円で、受付の人に聞けば、この旧宅の事をいろいろ教えてくれるんです。

 

 

 とっても風情がある、住まいです。

 150年ほど前、実際にここで、あの桂小五郎が暮らしていたのかと思うと、感慨深いです!!

 

 桂小五郎が生まれたのは、桂家ではなく、長州藩毛利家の藩医であった和田家であり、8歳ぐらいまでは「和田小五郎」と名乗っていました。

       ちなみに、毛利小五郎とは、全く関係ありません(…しつこい)

 

 つまり、この旧宅は、桂家ではなく、和田家の家です。

 

 小五郎は和田家の長男だったのですが、幼少期は非常に病弱で、後継ぎとしての期待は全くされていなかったんです。

 

 そこで、小五郎の姉が婿をもらって、その婿に和田家の跡を継がせようとしたのですが、小五郎よりも、その姉の方が早世してしまったので、その婿は今度は、小五郎の妹と結婚する事となり、和田家の名跡を継ぐ事となりました。

 

 結果的に、小五郎は和田家を継ぐ必要がなくなってしまいました。

 おりしも、当時、向かい側にあった桂家は、武家の名門でありながら後継ぎがいない事から、養子の話が来て、晴れて小五郎は、萩藩大組士の家柄である桂家の跡取りとなったのです。

 

 元々は武士でないのに、武士の家を継いだ事から、小五郎はより武士らしくなろうと一生懸命努力しました。

 

 そして、江戸の神道無念流に入門して、剣術修行に人一倍精を出し、師である斎藤新太郎にも認められて、ついに塾頭にまで上り詰めました。

 

 

 これは、実際に京都に立てられている桂小五郎の像のレプリカです。

 

 この像は、京都のホテルオークラの北側に立てられていて、右側にある写真は、それを写しています。

 

 2年前、京都のIさんに案内されて、現物を見てきました。

 (2018/11/2 ブログ 「歴史と史跡を訪ねて「京都探索・その2」」 参照)

 

 桂小五郎の体は、西郷隆盛ほどではないにしろ、非常に大柄で、小五郎が剣を構えると、みんなが恐れ慄いて(おののいて)逃げて行くほどに、迫力があったと言います。

 

 よく、坂本竜馬が主役の映画やドラマだと、竜馬と小五郎が剣術試合をして、堂々と竹刀を構えている竜馬に、慎重すぎる小五郎が不安になり、その隙を取られて、竜馬に一本取られて負けるというシーンがあります。

 

 最近(2017年)見つかった文献から明らかになった事なのですが、竜馬との剣術試合の勝敗は、3-2で桂小五郎が坂本竜馬を破っていたようで、その試合の一幕の中で、竜馬に一本取られた事もあった、というのが真実のようです。

 

 とはいえ、神道無念流免許皆伝で塾頭である桂小五郎と、互角に渡り合っている坂本竜馬もまた、並々ならぬ剣の使い手である事は、間違いありません。

 

 

 この部屋こそが、明治維新の英雄・桂小五郎が生まれた場所…

 

 何とも、感慨深いです。

 

 この家で生まれ、円政寺にある天狗の面も、家の人の背中に背負われて、見に行っている訳ですから(2020/6/9 ブログ 「鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面」 参照)、当然、高杉晋作や伊藤博文とも、親交があります。

 親交があるどころか、その一生を通じて、深い絆で結ばれていたと言っても、過言ではありません。

 

 桂小五郎は影日向なく、高杉晋作の事を支えサポートし、晋作もまた、小五郎を頼りにし、慕い続けました。

 

 それは、伊藤博文との関係も同じで、伊藤博文が明治の元勲として、大きな活躍できたのも、全ては桂小五郎のとりなしのお陰です。

 

 

 こちらが、仏間のようです。当時はここに、お仏壇が入っていたのでしょう。

 桂家の家督相続の話がなかったら、もしかすると小五郎は、和田小五郎のまま、医者としての人生を送っていたのかも知れません。

 

 小五郎は、子供の頃から、何をやっても一流の優等生でしたから、きっと優れた医者になっていた事と思いますが、和田小五郎のままでは、もしかすると、明治維新の偉業は、成し得ていなかったかも知れません。

 

 坂本竜馬が姉・乙女に送った手紙の「日本を今一度、洗濯いたし申し候」という言葉は有名ですが、桂小五郎はよく「この国は、手術が必要だ」という言葉を使っていたそうです。

 まさに、医者の息子らしい言葉です。

 

 師の吉田松陰とは、明倫館(2020/6/9 ブログ 「萩・長州藩の学舎を訪ねて」 参照)で初めて出会い、松陰から山鹿流兵学を習っています。

 吉田松陰は、桂小五郎より3歳年上であり、小五郎17歳、松陰20歳の時に出会っていますが、吉田松陰も当時から、桂小五郎の事を認め「事をなすの才あり」と評価していました。

 桂小五郎は、松下村塾の塾生ではありませんし、当然ながら、松陰四天王にもなっていませんが、久坂玄瑞や山縣有朋など松下村塾の塾生達にとって、兄貴分のような存在でした。

 

 松下村塾の塾生達からの諫め(いさめ)は、あまり聞こうとしなかった吉田松陰ですが、桂小五郎の言う事は、割と素直に聞き入れていました。

 

 桂小五郎はこの後、長州藩の藩主・毛利慶親の警護役に抜擢されたり、長州藩の江戸藩邸の要職に就いたりしていますが、これは、吉田松陰が藩上層部に、熱心に桂小五郎を推薦した結果です。

 

 

 この「今日」という書は、桂小五郎が7歳の頃に書いた作品です。

 

 とても、小さな子供が書いた書とは思えない、気迫のある作品で、よく見ると小さな朱の字で「以ってのほかよろし」という書の師範の文字が書かれています。

 

 これだけ見ても、普通の子供ではない事が分かります。

 

 

 こちらの掛け軸は、桂小五郎のその少し後の作品です。

 

 「天晴見事見事」と朱色の字で、書かれています。

 当時、書の師範が、このような誉め言葉を、作品に書き入れる事は珍しく、これによって、書を知らない人からも、その実力を認められ、城下で大評判となっていたそうです。

 

 ちなみに、幕末から明治維新にかけての偉人で、今現在、人気がある人物と言えば、たいがい坂本龍馬や、西郷隆盛、高杉晋作などといった所ではないかと思います。

 

 桂小五郎とか、大久保利通というのは、彼らに比べると地味ですし、どんな偉業をやったかが、今一つ知られていない所もあって、これまであまり人気がありませんでした。

 

 最近、少しずつ桂小五郎のファンが増えてきている一つの要因は、人気漫画「銀魂」で、天然キャラでありながら、割と格好よく描かれているからかも知れません。

 もっとも、あの漫画に登場するキャラの名前は「桂小太郎」ですが…

 

 

 この床の木に、桂小五郎の落書きである「已後而死」という四文字が書かれているんです。いつ書かれたかは、ちょっと分からないのですが…

 

 これは「死して後已む(やむ)」と読むのですが、「死ぬまで努力し続ける(=死んでから、動きをやめる)」という意味の言葉です。

 

 ちょっと写真を拡大してみました(^^)

 

 

 この言葉こそが、桂小五郎の覚悟のようなものだと思います。

 

 この言葉は孟子の言った言葉であり、吉田松陰はよく、孟子の講義をしていました。

 

 この言葉の同意語である「斃れて(たおれて)後已む」という言葉を、僕は初めて、四柱推命の受講生のKさんから聞いたのですが、とても気合いが入った、清々しい言葉だと思いました。

 

 

 小五郎の父である和田昌景は、眼科医でもあり、外科医であって、自宅でも診療していたので、よく患者さんが自宅に上がってきました。

 

この視力検査の紙は、当時から使われていたのかどうかは分かりませんが、時代を感じさせますね。

 

 桂小五郎という男は、常に冷静すぎるほどに、冷静な人でした。

 だから、面白みがない人というイメージを持たれがちですが、だからこそ、あの時代において、雲をつかむような話であった「明治維新」という偉業を、現実にする事ができたのだと思います。

 

 

 部屋の角に、桂家(のちの木戸家)と、小五郎の生家の和田家の家系図がありました。

 

 桂小五郎は、明治維新まで生き延びた人だから、血がつながった子孫を残しているのだろう… と思いきや、実は、そうではありません。

 唯一、実子の女の子がいましたが、18歳の時に、子を残す事もなく、早世しています。

 

 桂小五郎の妻と言えば、京都で知り合った舞妓・幾松こと、松子ですが、松子との間には子は授からず、何人か、桂家に養子を迎え入れています。

 そして、実質的に桂家を継いだのは、実の妹の子で、小五郎の甥にあたる彦太郎でした。

 

 

 左の写真は、小五郎の妻・幾松こと、木戸松子、そして、右の写真は、彦太郎と桂小五郎です。

 

 彦太郎は、のちに木戸孝正として、木戸家(桂家)を継ぎ、貴族院侯爵議員となりました。

 

 

 こちらの、左側の写真は、言うまでもなく桂小五郎(木戸孝允)です。

 そして、右側の絵は、浮世絵師・水野年方(みずの としかた)による木版画「教導立志基 木戸孝允夫人松子(きょうどうりっしのもとい きどたかよしふじんまつこ)」という作品です。

 

 幾松は、絶世の美女と言われていて、山科(やましな)の豪家が非常にひいきにしていたのですが、これに張り合って、桂小五郎も、幾松に大枚をはたすようになりました。

 そして最後は、桂小五郎の気持ちを察した伊藤博文が、刀を持って、力づくで山科の豪家を脅しに行き、これで決着がつきました。

 

 坂本竜馬の妻・お龍が、必死になって竜馬を守ったように、幾松も、身を挺して、何度も桂小五郎を守り、桂小五郎を暗殺の危機から救いました。

 常に追われる身だった桂小五郎が、明治維新まで生き延びられたのは、幾松の献身があるからこそと、言えましょう。

 

 何せ、蛤御門の変(禁門の変)の頃になると、長州藩は朝敵となり、危険な過激派とみなされて、幕府からも会津藩からも、挙句の果てに、薩摩藩からも狙われていました。

 そんな中、桂小五郎は、京都の三条大橋の下に、掘立小屋(ほったてごや)を建て、ホームレスの身なりで過ごしていたと言います。

 

 

 ちなみに、この木戸孝允旧宅にも、二階があるようです。

 

 この旧宅の正面玄関から見ると、どう見ても平屋建てにしか見えないのですが、玄関側からは、二階の部分が隠されるようにして、建てられているんですね。

 

 上に上がってみようと思ったのですが…

 

 

 残念ながら、立ち入り禁止になっていました(^^;;

 

 それにしても、この階段、あまりに奥行きが狭くて、怖いです。

 現在の建築基準法では、確実に引っ掛かりますね(笑)

 

 蛤御門の変が起こって、長州藩が朝敵となり、さらには幕府が第一次長州征伐の動きを見せると、長州藩内においても、正義派が粛清され、俗論派に取って代わられました。

 

 つまり、この時点で、桂小五郎は帰る場所さえも、なくなってしまった事になります。

 

 江戸幕府大目付・永井尚志(ながい なおゆき)が、長州藩の正義派を一掃しようと「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と、毛利氏の分家の代表である吉川経幹(きっかわ つねまさ)に聞くと、吉川経幹はあっさりと「死にました」と答え、これにより、しつこく追い掛けられる事も、なくなりましたが、完全にこの状況は八方塞がりでした。

 

 この八方塞がりの状況を救ったのが、高杉晋作率いる騎兵隊です。

 

 高杉晋作は、その天才的な軍事才能で兵を率いて、長州藩の正義派の実権を取り戻しました。

 そして、高杉晋作によって、桂小五郎は、長州藩に統率者として迎え入れられたのです。

 

 そんな折、坂本龍馬のあっせんによって、桂小五郎率いる長州藩と、西郷隆盛率いる薩摩藩は、秘密裏に同盟を結ぶ事になります。

 日本の歴史を覆した出来事である、薩長同盟です。

 

 

 木戸孝允旧宅の窓から、外ののどかな景色が見えます。

 

 江戸幕府による、第二次長州征伐が失敗すると、長州藩にとって念願だった、朝廷による朝敵の赦免が叶い、さらに薩長同盟を背景に、土佐藩による大政奉還建白書が書かれ、これにより、第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上…

 

 そして、明治維新により、明治天皇の王政復興の大号令がなされました。

 

 公武合体か、倒幕か、この時代はどっちに転んでもおかしくなかった時代でしたが、ほんのちょっとの出来事が、こんな風に時代を決めてしまうのですね。

 

 そして、桂小五郎は、明治の政治家・木戸孝允として、今度は、長州藩の代表ではなく、日本国の宰相としての活躍をする事になります。

 

 この時代には、日本の周辺には欧米列強諸国がしのぎを削って、弱小国があれば、植民地にしようと牙をむいていました。

 今のような、世界平和を大義名分とするような時代とは、まるで違います。

 

 そんな中で、木戸孝允が最も精力を傾けたのが、版籍奉還と廃藩置県でした。

 

 明治維新は成功したものの、依然として、各藩には藩主がいて、それぞれが軍事力を持っていましたから、中央政府が大きな権限を持つには、どうしても藩を廃止する必要がありました。

 このままのまとまりのない状態だと、到底日本は、欧米列強にはかないません。

 

 そこで、木戸孝允は、大久保利通の協力を得て、そのとっかかりを作り、版籍奉還の実現に成功しました。

 

 各藩主を納得させなければなりませんから、藩主をそのまま知藩事(ちはんじ)としてスライドさせ、中央政府から任命した形にし、当初は、知藩事は世襲とする方向で、話を進められ「版籍奉還の上表」が作られました。

 でも、これでは、ただ名前が変わっただけで、何も変わりありません。

 

 木戸孝允は、この案に真っ向から反対し「世襲」という文字を、上表文から削除させました。

 

 のちに、木戸孝允邸に、大久保利通、西郷隆盛、山県有朋、井上馨らが集まり、廃藩置県について意見がまとめられ、ついに明治4年、廃藩置県の詔(みことのり)がくだり、旧藩主であった知藩事は廃止となり、領主による土地支配が終わり、代わりに県令が任命され、中央政府による国の支配が実現しました。

 

 司馬遼太郎の小説なんかですと、明治維新を成し遂げた後の桂小五郎(木戸孝允)は、常にノイローゼ気味で悩みを抱え、何一つ国に有益な事をしなかったように書かれていますが、この版籍奉還と廃藩置県こそが、僕は、木戸孝允の真骨頂だと思うんです。

 

 

 木戸孝允別邸を出て、この偉大な明治維新の志士に想いを馳せながら、また、水木先生と萩の城下町を歩き始めました。

 

 廃藩置県を成し遂げた、一枚岩となった新政府に大きなヒビが入ったのは、その後、岩倉使節団の欧米視察によって、海外視察組(木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など)と留守政府組(西郷隆盛・江藤新平・板垣退助など)に分かれた後の事だと、言って良いでしょう。

 

 留守政府組は、世界の情勢を知らないまま、取り残される事となり、当然、海外視察組との見解も大きく隔たり、やがて、西郷隆盛らは下野し、西南戦争のきっかけを作ってしまいます。

 この当時の西郷隆盛なんかは、「農業こそが国の土台であり、今こそ農業を発展させていかなければならない」という考え方だったんです。

 西郷隆盛は、象皮病と呼ばれる、足が硬くなって肥大化してしまう病気の為、欧米視察に参加できなかったんですね。

 

 征韓論に囚われ、海外視察もできなくて、欧米列強諸国の国力というものが、どれだけ日本と隔たりがあるのかという事を知らない西郷隆盛には、この時期に、何の準備もなく韓国に攻め入ったなら、欧米列強諸国に日本攻撃の口実を与え、カウンターを食らってとんでもない事になるという、簡単な計算さえもできません。

 

 とはいえそれは、常に薩摩軍という日本最強の軍隊を率いて、負ける経験をした事がない西郷隆盛にとって、無理もない所かも知れません。

 征韓論を否定されて、投げやりになって下野し、鹿児島に入った西郷隆盛は、すでに時代に取り残された人でした。

 

 木戸孝允がこの世を去ったのは、おりしも、西郷隆盛を盟主とした西南戦争が勃発した年でした。

 おそらく、相当なストレスが、木戸孝允に襲い掛かっていたであろう事と思います。

 

 前から苦しめていた原因不明の脳の病気がさらに悪化し、朦朧とした状態の中、木戸孝允は、大久保利通の手を握り締め、最期に発した言葉は「西郷もいいかげんにしないか…」という言葉だったと言います。

 

 43歳の若さでした。

 

 木戸孝允は、生涯を通じて他人と争う事は、ほとんどなかったと言います。

 あまりに熟慮して、慎重すぎる所はあるものの、人の気持ちを気遣い、誰に対しても親切で、厚情の人だったと言います。

 

 神道無念流の無敵の剣豪でありながら、生涯一度も、その剣で人を斬った事がなかった…

 

 幕末の四賢侯の一人である松平春嶽は、木戸孝允の事をこう評価しています。

「木戸と大久保は、維新の際の父母とも言うべき者である。大久保は父であって、物を言いがたいが、木戸は母であって、話を聴く事が上手であった。大久保は面白みのない人であるが、木戸なら誰でも話ができる」

 

 まさに、木戸孝允の明治政府の中の立ち位置は、そんな所だったように思います。

 この時期に、日本を一つにまとめる為に、最も活躍したのは、人から嫌われ者になる覚悟で、日本の為だけに行動をしていた、大久保利通だと思います。

 木戸孝允は、その女房役に徹したと言えます。

 

 木戸孝允という人は「死して後已む」という生き様を、実際にやり遂げる事ができた人なのではないかと思います。

 そして、木戸孝允が母の役割となって見守った、伊藤博文や井上薫、山縣有朋といった、この萩の地で育った長州閥が、その後の日本を牽引して、今の時代に至っていると言って良いでしょう。

 

 そんな思いに駆られながら、木戸孝允旧宅を後にし、萩の城下町をゆっくりと歩いていきました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<15>維新の街の香り20.06.18

2020年6月18日(木)

 

 全国的に梅雨入りを迎えて、東京もここの所、曇り空が多くなっています。

 

 この度、お世話になっている伊泉龍一先生をご紹介をいただき、次回の大阪で開催する四柱推命講座・初級編の前日7月24日(祝)に、大阪・梅田の占いスクール・ベネディーレにて、「陰陽五行から見た、未来を良くするための四柱推命」を、開催させて頂く事になりました。

 

 ちなみに、ベネディーレの講座は、Zoom参加や録画受講もあるので、全国から参加できます。

 よろしかったら、ぜひ、ホームページにアクセスしてみてください(^^)

 

 さてさて、西日本旅行記は、まだまだ続きます。

 おそらくこの話、終わるまでに30話分ぐらいになってしまうのではないかと思います。

 そして、山口編の旅行記のクライマックスは、まさにこれからです。

 

 五気調整術協会の理事である、水木杏香先生の山口の地に行ったのは、元々、水木先生から、漢方や五行によって、体を健康にする処方箋を学ぶ、という目的がありました。

 

 そしてもちろん、この山口という明治維新の原動力となった地に、足を踏み入れて、一度、自分の体でそのパワーを確かめてみたい、という気持ちが強かったからでもあります。

 

 水木先生は、薬膳の処方や漢方の医療に精通されていて、それを五行と連動させて、実際に様々な効果や実績を出されていらっしゃるプロフェッショナルですから、この時、予定していた上級編講座の「健康運」の内容をブラッシュアップするには、この上なく力強い味方です。

 

 そんなこんなで、車の中では、漢方の蔵象論(ぞうしょうろん)のお話や、健康を保つにはどうしたらよいか… といった話を、ずっと水木先生からお聞きしていました。

 

 自分で言うのもなんですが、僕は本当に仕事人間で、こんな風に観光をしていても、いつも次の講座の内容の事や、書きたい本の事なんかが、ずっと頭をよぎっているんです。

 

 車の中で水木先生から、蔵象の肝・心・脾・肺・腎の五臓の極意と言っても良いようなお話を聞きながら、しっかりとメモと取っていました。

 

 旅の最初の目的地の「明倫学舎」の駐車場で車を止めて、その後は、ちょうどそこから北西の方向にある萩城の城下町を目指して、歩いていきました。

 

 

 緑があふれて、とっても清々しい、萩中央公園の脇の道を、水木先生と一緒に散歩しました。

 

 そして、その道の途中で、この地に生誕した偉人達のたくさんの像と、遭遇しました。

 

 

 最初に遭遇したのは、制帽をかぶり、馬にまたがった明治の元勲、山縣有朋公の銅像でした。

 

 言わずと知れた、この国の第3代および第9代内閣総理大臣になった人です。

 この人が、他の内閣総理大臣と違う所は、現役軍人であり続けながら、総理大臣になった所…

 

 明治天皇から「特に功労が大きい」という理由で、本人の希望を尊重して、特別に現役軍人であり続けながら、総理大臣となりました。

 

 若い頃は、吉田松陰の晩年期(晩年期といっても、吉田松陰28歳ですが…)の門下生であり、ずっと生涯を通じて「松陰先生門下生」と称し続けた人で、高杉晋作と深い親交があり、晋作亡き後の騎兵隊を率いています。

 

 西郷隆盛が下野した征韓論政変で煮え切らない態度を取ったので、桂小五郎(木戸孝允)と一時的に険悪な状態となった事もあるのですが、その能力から、後に許され、関係を修復しています。

 

 自由民権運動を封じ込めたり、日本の軍部の影響を大きくし、軍制改革や徴兵制を取り入れて、軍備拡張を推し進めていった人であり、そういった意味では、のちの日本が、軍国主義の道を突き進む下地を作った人とも言えるでしょう。

 

 だから、山縣有朋の評価は、今でも賛否両論ですね。

 

 でも、勝海舟にして「あれは、正直一辺倒の男だ」と言わしめるほどの、愚直なほどに、まっすぐな人物でした。

 

 

 この胸像は、佐々木義彦翁のもの…

 すみません。どんな方なのか、この時は全くわからなかったので、いろいろと調べてみました。

 

 戦前、戦後を通じ、日本の産業経済の発展に尽力し、学校や公会堂の施設整備や灌漑用水の整備などに多額の寄付をし、教育の充実や福祉に多大な貢献をした方です。

 いわば、この萩の救世主のような方ですね。

 

 さらに、そこから、萩中央公園に沿って、まっすぐ北に進んでいくと…

 

 

「久坂玄瑞進撃像」が、ありました。

 

 逆光になって、写真が真っ黒になってしまっていますが(^^;;

 

 円政寺にあった竹にも、吉田松陰四天王の一人として、久坂玄瑞の名がありましたが、まさに、松下村塾の松陰門下生の中で、高杉晋作と共に双璧と言われた人物で、幕末史に興味がある方なら、ご存じの方もいらっしゃると思います。

 

 でも、名前は良く聞くし、聞き覚えがあるけど、何をやった人かはよくわからない… という人も多いかも知れませんが(笑)

       まるで、ニッシンボーのCMみたいな…

 

 久坂玄瑞というのは、まだ十代の頃から、当時ペリーの黒船来訪で、朝廷の勅許も得ず、押し付けられて無条件開国をしてしまった幕府のふがいなさを憂い、この国の未来を慮っていた強烈な志士で、最初は吉田松陰とも、書簡で激論を交わしたような熱血漢です。

 

 吉田松陰からも一目置かれ、松陰は自分の一番下の妹と玄瑞との結婚の話をまとめ、玄瑞を義弟としました。

 

 後の奇兵隊の前身となる光明寺党を結成した人でもあり、当時の長州藩の藩主である毛利敬親に建白書を上提し、それまで、俗論派の長井雅楽(ながい うた)によって握られていた藩論を覆してしまった人です。

 そしてさらに、桂小五郎と協力して、長井雅楽を失脚に追い込みました。

 

 もしも、久坂玄瑞のこの働きがなかったら、長州藩は相変わらず、俗論派に牛耳られたままですので、明治維新につながる事もなかったでしょう。

 

 久坂玄瑞の最期は、京都の蛤御門(はまぐりごもん)の変でした。

 薩会同盟(さっかいどうめい/薩摩藩と会津藩の同盟)が成立し、八月十八日の政変が起こって、長州藩の排除が決定されると、長州藩の過激派は「武力をもって京都に進発し、天皇に長州の無実を訴える」と主張し、兵を率いて上洛し、戦闘が起こります。

 

 これが、蛤御門の変(禁門の変)です。

 

 最初、久坂玄瑞は桂小五郎と協力して、過激派をなだめて、行動を押しとどめていたんです。

 でも、それまで京都にいた島津久光とかが、国元に帰っていくと、急に心変わりし、過激派が主張する進発派にくみします。

 

 その後、朝廷からの退去命令が出た事で、兵を引き上げようとしたものの、来島又兵衛らの意見を押しとどめられず、そのまま戦闘に参加し、敗北して、仲間と刺し違え、自害して果てました。

 

 明治維新という偉業は、志半ばにして亡くなっていった、名もなきたくさんの志士達の犠牲の上に、成り立っていると言えましょう。

 

 

 いよいよ、世界遺産でもある「萩城城下町」の街並みに入りました。

 

 この道、右側は普通の住宅街なのですが、左側は、まるでタイムトリップしたかのような、昔の街並みが続いています。

 

 街が世界遺産に指定されてしまうと、そこに住んでいる住人の方も、勝手に家を改築したりする事が出来なくなってしまうそうです。

 それだけなら、まだしも、エアコンの室外機を人の目に触れる所に置く事も、できないのだとか…

 

 真夏にも、エアコンが自由に設置できないなんて、想像しただけでもキツいです。

 

 水木先生のお話を聞きながら、世界遺産に指定されるのも、楽じゃないんだなあ… なんて思いました。

 

 円政寺を拝観し、明治維新の三傑の一人である桂小五郎の旧宅に立ち寄って、そろそろお腹がすいてきたので、昼食をとる事にしました。

 

 

 世界遺産の街で、閑静なとても素敵な食堂を見つけました。

 

 お店の名前は「晦事」と書き、「コトコト」と読ませるようです。

 

 四柱推命をやっていて、晦という字を見ると、「晦火」とか「晦気殺」とか、色々と変なものが浮かんできます(笑)

 

 

 部屋のガラス戸越しに見える庭の景色が、何とも言えない趣(おもむき)があって、すごく素敵です。

 

 毎日の始まりの事を「晦事(ことこと)」と言うとの事で、それがお店のネーミングになりました。

 

 

 水木先生がお勧めしてくれた、チーズの入った「焼きカレー」を注文してみました。

 

 水木先生の話では、この焼きカレーの発祥の地は、山口県の隣りの県である福岡県なのだそうです。

 考えてみれば、この場所からすぐの所に、九州があるのですね!!

 

 チーズがまろやかにからまって、とても良い良い味を出しています。

 

 普通にご飯にかけて食べるカレーとは、ある意味、全く違う味わいですね。

 

 

 そして、萩の名物の一つといえば「夏みかん」なんです。

 その夏みかんから作った、しぼりたての美味しいジュースを頂きました!!

 

 夏みかんの甘い香りがたまらない…

 

 本当に美味しいジュースです。

 

 

 お店の方に、水木先生と一緒の写真を撮って頂きました。

 

 ちょっと、逆光になってしまって、写真うつりは悪いのですが、まるで時の流れが止まったかような、安らぎに包まれた雰囲気のお店でした。

 

 この萩の城下町のあたりは、ものすごい数の偉人や政治家、実業家も輩出しているんです。

 

 もしかすると、このあたりには、目に見えない巨大なエネルギーの渦のようなものがあるのかも知れない…

 

 街を歩いていて、どうしてもそんな風に感じてしまう自分がいました。

 

 そのエネルギーを体中に受けながら、この後、この城下町にある維新の志士の生家などをめぐっていきました。

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<14>鳥居のあるお寺と、二人の少年と天狗の面20.06.09

2020年6月9日(火)

 

 いよいよ、6月ですね。

 四国や南九州は、もう梅雨入りをしたようですが、本州の方は、いつもよりも少しだけ遅めになりそうだとの事…

 

 新型コロナウィルスも、ようやく下火になって、少しずつですが、日常の生活が戻りつつあります。

 

 そして、相変わらず、このブログは、半年のタイムラグを抱えたまま、だらだらと西日本旅行記を書いています(笑)

   もう、いい加減にしろ… って感じですね(^^;;

 

 五気調整術協会の理事である、水木杏香先生の車で、新山口にある東横インから、萩・明倫学舎へと向かい、幕末の長州藩の興味深い歴史資料をたっぷりと堪能した後、車は駐車場にとめたまま、萩の街を少し歩いてみる事になりました。

 

 ちょうど、萩・明倫学舎で、この地域の周辺マップをもらえたので、それで道を確認しつつ、水木先生に案内して頂きながら、世界遺産になっている萩城の城下町がある地域へと、向かいます。

 

 長州藩の志士の銅像があちこちにある、歴史情緒あふれる萩の街を西の方へと歩いて、ある一角を超えると、まるでタイムトリップしたかのような、昔の街並みが残っている路地に差し掛かりました。

 

 そして、そのまま気がつくと、「円政寺(えんせいじ)」という古いお寺の前に、吸い寄せられるようにたどり着きました。

 

 

 拝観料は、大人200円、中高生150円、小学生150円で、とてもリーズナブルです。

 

 水木先生の観光プランに最初から、円政寺に行こうという計画があった訳ではありませんが、二人で顔を見合わせて、ここに入ってみようという事になりました。

 

 真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)月輪山(かちりんざん)円政寺…

 

 最初、このお寺を見た時、すっかり神社だと思いました。

 

 だって、ここには、鳥居があるのです!!

 

 そして、その鳥居の所に、看板が立てかけられていて「高杉晋作 伊藤博文 両公幼年勉学之所」と、書いてありました。

 

 

 騎兵隊のスーパーヒーローと、明治の元勲の初代総理大臣が、幼年期に共に勉学をしたお寺とは、一体どんな所なのだろうと、期待に胸がふくらみました。

 

 受付で拝観料を払うと、円政寺のパンフレットと、分厚い大きな紙に、イラストつきで、きれいにカラー印刷された「萩城城下町絵図」(複製禁止)が頂けます。

 パンフレットには、円政寺の由緒などが、細かく書かれていました。

 

 円政寺は、元々山口市にあった、御室派の由緒あるお寺であり、その後、毛利輝元が関ヶ原の戦いで減封されて、萩を本拠地にして築城すると、円政寺は、萩市の現在お寺がある場所から500mぐらい北東の場所に、移されました。

 

 そして、さらに時代が下り、明治3年になって、現在のこの場所に移って来たという事らしいです。

 

 では、それ以前、つまり幼年時代の高杉晋作と伊藤博文がここで勉学していた幕末の頃、この場所はどうなっていたかというと、法光院(ほうこういん)という別のお寺だったようです。

 

 明治元年に出された明治政府の神仏判然令により、法光院は廃されて、代わりに御室派の円政寺が、ここに移ってきたという訳です。

    ちょっと、ややこしいですね…

 

 お寺の正面に鳥居があるというのは、現代では、めちゃくちゃ違和感がありますが、明治以前の時代においては、こういうのは、そんなに珍しい事ではありませんでした。

 

 その頃は、神仏習合と言って、神社もお寺も、あんまり区別がなかったんですね。

 

 この鳥居が、普通の鳥居と少し違っている部分を、水木先生が発見してくれました。

 

 

 なんか、鳥居の柱の先端が、丸い形になっています。

 

 こんな風に、柱の先端が丸い形になっている鳥居というのは、神仏習合のお寺、こと「明神系」と呼ばれるお寺には、よく見られる特徴なのだそうです。

 

 とはいえ、現代において、こういう形で、神社かお寺か区別がつかないような形のお寺が残っているのは、非常に珍しい事です。

 

 この手の物は、明治維新の時に、ほとんどが消えてしまっていますから…

 

 明治の初め、明治政府によって、それまで武家が中心だった世の中から、天皇を中心とする世の中にするという目的で、神仏分離という政策がありました。

 政府は、神道を国教として確立し、伊勢神宮をその神社の頂点として、社格を設けて全国の神社を整備していったんです。

 だから、皇室の祖先や皇室の忠臣を御祭神とする神社の多くは、明治時代の初頭に作られています。

 

 そしてさらに、明治元年3月の神仏判然令によって、それまでの神仏習合の形の神社やお寺は、その形態を変える事を、余儀なくされました。

 

 「神社かお寺かどっちだか良くわからない場所は、仏像とか梵鐘とか、そういうものを全部廃して、御祭神もちゃんと日本神道の神様の名前にして、きちんとした神社にしましょう。もしくは、お寺にするんだったら、お社とか鳥居とかは破棄して、ちゃんとお寺らしくしましょう」という訳です。

 

 代表的な例だと、京都の八坂神社なんかがそうで、あそこは元々は「祇園社」といって、御祭神も牛頭天王(ゴズテンノウ)という仏様だったのですが、この神仏判然令により、仏教っぽいものは全部取り払われて、御祭神も牛頭天王から素戔嗚(スサノオ)に、変えられてしまいました。

 とはいえ、祇園祭という京都の伝統的なお祭りは、今でもちゃんと残っていますが…

 

 このようにして、明治政府は、皇室神道というものを、特別なものにしていったのです。

 

 ちなみに、元々のこの円政寺があった場所は、今では、多越(たお)神社という、普通の神社になっているみたいです。

 

 

 円政寺の本堂で、しっかりと手を合わせました。

 

 後の初代内閣総理大臣であり、一昔前は千円札の肖像画だった伊藤博文は、この円政寺(この時は法光院)で、11歳の頃から約1年半の間、寺の雑用をしながら、読書や習字にいそしんでいました。

 

 しばらく境内を見ていると、円政寺のご住職の方が出てきてくださって、お寺のあちこちにある物を、丁寧に説明してくださいました。

 

 

 ここが、この円政寺の中で、一番の見所である「金毘羅社(こんぴらしゃ)」…

 

 この金毘羅社は、ここがまだ法光院だった頃からあった、れっきとした神社です。

 

 本来なら、神仏判然令によって、取り壊されてもおかしくない建物ですが、寺の嘆願により、廃社を免れました。

 

 円政寺は、れっきとした御室派の寺なので、御室派のお寺から嘆願されては、さすがの明治政府も手が出せなかったのですね。

 

 京都はんなり日記の仁和寺の記事でも、少しふれましたが、「御室」というのは、天皇の隠居所の事…

 (2019/11/28 ブログ 「龍安寺と仁和寺、京の古刹を巡って」 参照)

 

 御室派の総本山である仁和寺の最初の門跡(もんぜき)は、宇多天皇であり、この幕末の頃の仁和寺の門跡は、仁孝天皇の猶子・純仁親王(じゅんじんしんのう)でした。

 

 のちに、純仁親王は、明治天皇の勅命により還俗し、戊辰戦争の時には、官軍の総大将として、旧幕府軍を掃討しました。

 

 その戊辰戦争に掛かった莫大な費用の大部分を、純仁親王は、御室派の寺院から調達したと言われていますから、明治の新政府も、御室派のお寺には一目置くという訳です。

 

 お寺なのに、正面には鳥居があるし、明らかに神仏判然令に反するにもかかわらず、天皇ゆかりの寺とあっては、そのお社をつぶす訳にもいきませんから、現代まで、そのままの形で残っているのですね。

 

 もしも、法光院のままだったら、時代が時代ですから、取り壊しの憂き目にあっていた可能性は、かなり高かったと思います。

 

 あと、もう一つ、この金毘羅社が取り壊されなかった理由は、天皇の皇女作の額が保管されていた事です。

 この金毘羅社には、江戸時代中期、中御門(なかみかど)天皇の第四皇女・宝鏡寺宮(ほうきょうじのみや)が書した「瑞現山(ずいげざん)」と「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」という額があって、これによって、このお社は、取り壊しを完全に免れました。

 

 これらは、江戸幕府の老中・松平定信が編纂した古美術の目録「集古十種(しゅうこじっしゅ)」にも載っているほどの有名な品で、この2つの額が、円政寺の神仏習合のスタイルを守ってくれたとも言えます。

 

 

 金毘羅社の上を見上げると、巨大な迫力ある赤い天狗のお面があって、度肝を抜かれます。

 

 この天狗のお面を、ものすごく怖がった少年が、なんと、のちに長州藩で騎兵隊を結成し、明治維新のきっかけを作った、あの高杉晋作だったのです。

 

 晋作は、幼少期は病弱で、弱虫だったと伝えられています。

 

 そして、晋作の母は、度胸のある強い男の子にしたいという願いを込めて、嫌がる晋作に毎日、この天狗の面の前に立たせたといいます。

 

 同じように、その近所に住んでいた桂小五郎(のちの木戸孝允)も、幼少期には背負われて、この天狗の面を見に来たそうです。

 

 その晋作や小五郎が、やがてたくましく育って、明治維新の長州藩の原動力になる訳ですから、この天狗の面こそが、日本の夜明けを作ったと言えなくもありませんね(笑)

 

 

 この巨大な鏡は、なんと直径1m30cmもあって、国内で最大級の鏡です。

 

 巨大な鉄の塊(かたまり)そのものですから、太平洋戦争の時の「金属類回収令」で、国に持っていかれてしまったそうです。

    この時代の「庚」は、きっと最高に価値があったに違いない…

 

 でも、平成18年に、京都で競売にかけられているのを、偶然発見して、買い戻したとの事…

 

 ご住職が満面の笑みで、そう語ってくれました。

 

 

 この金毘羅社には、それぞれの場所に十二支の彫刻がされているんです。

 

 木彫りの彫刻は、細かい所までしっかりと彫り込まれて、実に見事なのですが、一つ一つが小さくコンパクトで、二階の屋根に彫られた彫刻は、あまりにも遠すぎて、うまく写真に撮れませんでした。

 

 

 ご住職に案内されて、水木先生と、巨大な石灯篭の前に行きました。

 

 この灯篭は耐震構造になっていて、なんと、灯篭の下にある6つある脚の内、2つの脚は、手でくるくると回す事ができるんです。

 

 早速、その動く脚をさわらせて頂きました。

 本当に、見事なものです。

 

 さらに、ご住職が説明をし始めたのは…

 

 

 なんとこれは、コ、コココ、コナン君(服部平次の口調で…)では、ありませんか(笑)

 

 ご住職は、アニメの取材が来て、名探偵コナンの519話に、この円政寺が登場した話を、得意げに語ってくれました。

    少年探偵団も、大活躍するらしい…

 

 

 この木の馬は、とてもリアルで、いかにも動き出しそうな迫力があります。

 

 まだ少年であった、高杉晋作と伊藤博文は、この木馬の上に乗ったり、頭をなでたりしていたそうです。

 

 高杉晋作と伊藤博文は、晋作の方が2歳年上で、何となく、伊藤俊輔(のちの博文)が、高杉晋作の部下として、使われている関係みたいなイメージがしてしまいますが、この頃は、仲の良い幼友達だったようです。

 

 ちなみに、伊藤博文の「博文」という名前は、まだ若かりし頃に、高杉晋作からつけてもらった名前です。

 

 

 境内の竹に「吉田松陰門下 四天王」と書かれた竹がありました。

 

 久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)とあります。

 

 この中では、高杉晋作が、ずば抜けて知名度がありますが、他の三人も、それに負けずとも劣らない、吉田松陰が認めた勤王の志士です。

 久坂玄瑞と入江九一は、禁門の変により、吉田稔麿は池田屋事件によって、若くして散っていきました。

 

 水木先生と一緒に、維新の志士達が幼少期を過ごしたこの円政寺の境内を、思う存分散策して、また、世界遺産の街道へと戻っていきました。

 

 しばらく、この城下町の街道を歩きながら、歴史情緒あふれる萩を、楽しみたいと思います!!

 

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西日本紀行記 ~出雲・山口への旅~<13>萩・長州藩の学舎を訪ねて20.05.30

2020年5月30日(土)

 

 早いもので、もう5月も終わり…

 

 新型コロナウィルスによる緊急事態宣言も、ようやく解除されて、少しずつ普段生活に戻りつつあります。

 

 もちろん、世界に目をやれば、このウィルスに対して、決してまだまだ油断が許されない状況である事は、変わりありません。

 

 それにしても、世界中の国々が新型コロナにより、立ち直れないほどの大打撃を受けている中、日本という国は、この状況を比較的うまく乗り切っている優秀な国だと思います。

 

 僕は、この緊急事態宣言の時期、かなりの仕事を進める事が、できました。

 

 あと、新しく「Zoom講座」を開催するスキルなんかも、身に着けました。

 

 慣れてくると、Zoomというのは楽しいですね。

 プロジェクターのスクリーンを、画面共有するのはもちろんの事、最近では、画面上のホワイトボードにペンタブレットで文字や絵を描く方法まで、マスターしました。

 

 もちろん僕も、直接鑑定を休業にしたり、講座の日程をキャンセルしたり、予約した大阪講座の会場代が全額無駄になったりと、相当に損失もあるのですが、転んでただでは起きなかったですし、トータルすれば、プラスの方が多くなった気がします。

 

 こうして、せっかく緊急事態宣言が解除されたのですから、第二波には十分に注意しながらも、前に進んで行くしかありませんね。

 

 さて、今日の「西日本紀行記」は、いよいよ第2幕である「山口での旅」のお話です。

 

 新山口駅前の東横インのビジネスホテルに宿泊して、迎えた朝…

 

 山口のプロの鑑定師で、五気調整術協会の代表理事の水木杏香先生が、午前8時に、東横インの玄関に、車で迎えに来てくださいました。

 

 水木先生とは、前回サロン ド シルフィーユで会って以来、半年ぶりぐらいです。

 

 

 水木先生の赤い車に乗って、これから2日間、山口の見所を心ゆくまで観光する予定です。

 

 僕は、山口県に来るのは、実は、生まれて初めてなんです。

 

 だから、山口の事は、右も左も分からないのですが、水木先生が僕が興味を持ちそうな山口の名所をピックアップしてくださって、案内して頂ける事になりました。

 

 観光のスタートは、この新山口から、真北へまっすぐ行った所にある萩市(はぎし)

 

 

 萩と言えば、歴史好きな方なら、誰でも知っている、長州藩の本拠地…

 

 萩にある吉田松陰の松下村塾は、かなり有名ですが、萩は、維新の志士である高杉晋作とか、桂小五郎とか、伊藤博文とか、山縣有朋なんかを輩出した街です。

 

 さて、今回の旅行の行き先ですが、全部、水木先生にお任せです。

    本当、僕は、人任せな人間ですね(笑)

 

 

 最初にたどり着いた場所は、ものすごく古い校舎のような場所…

 

 少し前まで、本当に小学校の校舎だったのですが、小学校は隣の敷地に移転して、この建物は「萩・明倫学舎(はぎ めいりんがくしゃ)」となったのです。

 

 でも、さらに歴史をさかのぼれば、ここは「明倫館(めいりんかん)」と呼ばれる長州藩の藩校…

 

 当時の日本の各藩には、学府と呼ばれる学び舎(まなびや)があって、日本三大学府と呼ばれる、水戸藩の弘道館(こうどうかん)、岡山藩の閑谷黌(しずたにこう)、そして、この明倫館は、中でも、トップレベルの藩校でした。

 

 

 古めかしい明倫館の門があります。

 

 明倫館の出身者の有名所で言えば、幕末の超有名ヒーローである高杉晋作や桂小五郎(のちの木戸孝允)などがいます。

 

 他にも、長州藩ではいつも伊藤博文と共に行動し、維新後は外務大臣や大蔵大臣として、陰ながら日本の経済発展を支えた井上馨(いのうえかおる)や、日露戦争の時、大国ロシアを相手に、陸軍大将として大活躍をした乃木希典(のぎまれすけ)も、この明倫館出身です。

 

 ちなみに、後に叔父から譲り受けた松下村塾を開校する事になる吉田松陰は、9歳の時、なんと、この明倫館の兵学師範をしていたのだとか…

 

 まあ、この場所には、そうそうたるメンバーが集っていた訳ですね。

 

 

 水木先生に案内されて、大きな石碑の前に行きました。

 

 細かい字がいっぱい書いてあります。

 これは、長州藩十三代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)が、新明倫館の開校を記念して建てたもの…

 

 よ~く見ると、碑文の最後の方に、一ヵ所だけ削られている部分があります。

 

 

 「□□□為」と三文字、削られていますが、ここには「幕命而」という文字だったようです。

 

 「幕府の命を奉って…」みたいな意味だと思うのですが、その文言を、学生達が削り取ったのでしょう。

 

 時代は尊王攘夷の真っ只中…

 長州藩と言えば、まさにその急先鋒ですから、無理からぬ所です。

 

 明倫館は、1719年に長州藩五代藩主・毛利吉元(もうりよしもと)が家臣の子弟教育の為に開いた藩校だったのですが、明治維新の頃には、この建物は明倫小学校となり、今から5年前の2014年に、明治維新の幕末ミュージアムとなりました。

 

 という事で、これから、ここに入ってみます。

    とっても楽しみです(^^)

 

 1Fのエントランスの観光インフォメーションセンターから、歴史ある木の階段を上って、2Fの幕末ミュージアムに入ると、そこは天文・地理・医学・化学に分けられ、当時の最先端の学問の資料をそのまま紹介していました。

 

 

 これは、伊能忠敬が使用していた物と同じモデルの「象限儀(しょうげんぎ)」という天体観測の道具です。

 

 他にも、時計の代わりになったり、航海道具になったり、測量に欠かせない道具になったりと、当時は万能の最新機器だったんですね。

 

 今では、ただの骨董品にしか見えませんけど、当時は天体というものと暮らしが、密接に結びついていたという事だと思います。

 

 

 こちらは、日時計…

 

 四柱推命で使う時間は、日時計で算出される視太陽時を使います。

 

 さすがにこれでは、夜の時間は分かりませんけど、当時は、現代のように、細かい時間に汲々(きゅうきゅう)とする事も、なかったのでしょう。

 

 

 地理のコーナーに展示されていた、精度の高い地図が描かれた地球儀…

 

 これ、現代の地球儀の地図と、ほとんど変わらないです。

 

 この時代は、まだ飛行機もなかったし、当然ながら、人工衛星も何にもないのに、さっきのような象限儀を使って、ここまで精密な地図が描けてしまうんですね。

 

 

 それより少しだけ、古い時代の日本地図…

 

 少~しだけ、北海道の形が変だったり、能登半島や下北半島がなかったりと、ツッコミどころが満載ですが、これを伊能忠敬という人が、さっきの象限儀で、精密な日本地図にしていったのですね。

 

この当時の人達が、現代のインターネットのGoogle地図の機能を見たら、腰を抜かすだろうと思います。

 

 我々は、本当に恵まれた時代に生まれてきているのだと、改めて実感しました。

 

 

 これは「三球儀(さんきゅうぎ)」と言って、太陽・月・地球の動きを説明する為の道具だそうです。

 

 手前の黄色い球が地球で、割と正確な世界地図が描かれているのですが、後から、付けたされたものだという事でした。

 

 その周りの小さい球が、月で、メガホンみたいなのが太陽を表しているのだと思います。

 

 なんか、食い入るように見てしまいました。

 

 

 これ、望遠鏡ですね。

 

 一緒にいた水木杏香先生が、「西洋の望遠鏡はいたってシンプルなのに、日本の望遠鏡は、蒔絵が施されていて、見事ですね」とおっしゃっていました。

 

 日本人は昔から、欧米で開発されたものを、ただ真似るだけでなく、洗練されたより優れた物に作り替えていく天才なのだと思います。

 

 

 ここからは、医学の展示コーナー…

 

 この絵、僕、見た事あります。

 

 つい最近「四柱推命講座・上級編」の健康運の所のテキストを作っていた時に、漢方の事を調べようと思って、国会図書館で「類経図翼(るいけいずよく)」という本を読んでいた(というか、見ていた)のですが、その中の絵と全く同じです。

 

 しかも、類経図翼の絵は白黒ですが、この掛け軸の絵はカラーなので、すごく感動しました。

 

 他にも、この医学のコーナーは、たくさんの興味深いものが展示されていました。

 

 その中に、ものすごく精密なつくりの子供の頭蓋骨があったので、なんか怖いなあ… と思っていたら、展示室の方から「それ、モノホンなんです」と声を掛けられて、腰を抜かしました。

 

 当時は、そういったものが平気で、身近に置かれていたのですね。

 

 このミュージアムは、一部の物を除いて全て写真撮影がOKなのですが、さすがにこれは、撮影しようとは思いませんでした(^^;;

 

 

2Fから1Fに階段を使って降りていくと、そこは「幕末動乱の軌跡」のコーナーになっていて、大砲とか銃とか、当時の武器がたくさん展示されていました。

 

 これは、長州藩の毛利の家紋が入った火薬箱と銃…

 

 これが、日本の明治維新の直接的な原動力になったのですね。

 

 

 その後、世界遺産ビジターセンターに行くと、松下村塾の再現コーナーがあって、立体シアターになっていました。

 

 アニメキャラの松下村塾の出身者が、立体シアターでいろいろと語らい合っていて、これを見ると、吉田松陰がいかにこの頃の日本の工業教育に重きを置いていたのかが、分かります。

 

 シアターの近くに、幕末維新の歴史のクイズに三択で答えるATMみたいな機器があって、水木先生から、それをやるように勧められました。

 

 僕は、この幕末維新の歴史は少しは自信があったので、そこそこ答えられるだろうと、自信満々で挑戦してみたのですが…

 

 結果は、惨憺たるものでした。(つまり、ほとんど分からなかった…)

 

 この問題、いくら何でも難しすぎです(笑)

 

 

 水木先生に案内されて、長州ファイブ(長州藩から船でヨーロッパに派遣されて、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した豪傑5人)と一緒に写真撮影しました。

    写真は、左から井上馨、遠藤謹助、野村弥吉、浅野太志、山尾庸三、伊藤博文…

 

 なんか、すっかり絵に溶け込んでますね(^^)

 

 この後も、水木先生と一緒に、萩市から長門市に向かって、山口県の北部の観光が続きます。

 

 時計を見ると、まだお昼前…

 

 明倫学舎を出た後、山口県のすごい所に、たくさん連れて行って頂きました。

 

 初めての山口で、どんな素敵なものに出会えるか、すごくワクワクしています。

 

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